クィア理論を実践するとき

わたしたちは救われない。

女はいつも後回しだからだ。

人類は女と男の二種類にわけた。その二種類を前提にして、社会や医療が成り立っている。

病気をはじめとした困りごとがある場合、対応は二種類に分かれる。自分を変えるか、社会を変えるかだ。

GIDやトランスセクシャルは体を変化させる。トランスジェンダーは、社会的役割をトランス(越境)させる行為なので、社会の変化を求める。

それ自体に、良いも悪いもないが、他者を巻き込む以上、その他者がトランスジェンダーの思い通りに動くとは限らない。変えられる側に含まれるわたしは、社会をそのように変えることを望まない。

社会は人と人とのつながりでできている

机上の空論としての理論に、論理的誤謬がないとしても、さまざまな変数、理論を考えた人の発想を超えた考慮不可能な意図せぬ要素が増える「社会」では理論通りにはいかない。

わたしは、無知蒙昧な民衆の一人だと自分を理解している。無力で、影響力もない。

わたしは、学者を正しいことを正しく知るために研究をしているのだとどこかで思っていた。彼らの蓄積が世の中を豊かにしている。わたしの疑問は、彼らがすでに解決しているか、解決の糸口やヒントを、書籍か何かに書き記してくれており、わたしはそれを読んで目からうろこを落としたり、新しい世界を知ったりして、自分なりに豊かな精神世界を目指していく、わからないことばかりの広大な海に、岸を示す灯台守のようなものだと思っていた。

学者たちが、彼らの占有する言語空間で練り上げたいろいろな理論は、きっとまっすぐに正しいのだろうと思う。

ただ、論理的、手続き的に正しいとしても、その全体が正しいとは限らない。http://rokujo.org/2019/01/12/1589/ で公衆トイレ論文が信用ならないと判明したみたいに。

生活の中で生じるやむを得なさ

社会は人と人とが作っている。それぞれに権利があり、それぞれが衝突する。

生活すること、生きることは、やむを得なさの連続を蓄積したものである。好んで選んだものだけではなく、ただしかたなく受け入れてきたものが、しんしんと体に積もって、記憶して、そして、わたしの感性や、新しい選択を作り出し、人生を導く。

世界はあらゆるやむを得なさに満ちている。生活と理論は、小島剛さんの言葉を借りれば、田んぼと米の関係だ。どんなにすばらしい理論があっても、社会という田んぼを無視すれば、その米は実らない。

理論的には、正しくても、それを社会に持ち込めば、社会にはは悪党だっている。それを織り込まなければ、社会に理論は適用できない。しても、悪い結果になる。

悪を前提に社会設計すべき

わたしたちは、世の中に悪党もいて、無自覚に悪をなす人もいるのだと心得て、社会を構築し、参加していなくてはならないし、そういう風に前もって考えておくべきだ。悪を織り込みながら生きていくべきなのだ。そのためには、予防が大事だ。何か起きた、そのあとに対処したというのは、誰かが損なわれたあとだということだから。未然に防ぐ方法を考えなくてはならない。

社会は、人と人のつながりでできている。フレイバーさんのインタビューを読んだら、社会的接着剤ということが書いてあった。人と人とのつながりが大事なのだと。今のフェミニズムは資本主義に巻き取られて、市場の言葉で語られていると。

「主婦の仕事を賃金で換算することもそうなんだろう」と読んでいて気が付いた。金銭に換算するまでもなく、女がしてきたことは、大切なことなのは明らかだ。金銭で換算するのは、金銭でしか物事の重要性を把握できない男に理解できるよう、わかりやすくしたものだとしても、今度は女がその説明に巻き取られ、金銭に換算できないものは、価値がないと考えるようになってしまった。地域でのコミュニティの維持や、妊娠や出産、愛情、思いやり、そういったものたちを。

わたしは、人を尊重するということを、片目をつぶって見ることだと思っている。自分の価値観と違う人が、それぞれの信念と内心をもって、自由に表現し行動することを、干渉せず、放っておいて、ただ困っていればお互いに助け合い、自分の領域に立ち入れば排除する。これを尊重だと思っている。

わたしにはわたしの社会がある。わたしにも自由があり、守るものがある。

権利の衝突は悪ではない

わたしの権利と他者の権利が衝突すれば、わたしは戦う。ときには、言葉で。行動で。人の手を借りるときもある。それが誠意というものだと思っている。衝突も、人と誠実に向き合うことの一つだ。なあなあに流せることと流せないことがある。自分の境界をきっちり引くことが大切だ。自分を守るときに、領域の線引きをできない人は、自分の主張を通すときにも、他人の線引きを不誠実に超えるだろう。なあなあにしろと押し通すだろう。それが強者だったら、弱者の負担にも気づかず、自分が何をしたか、その罪にも気づかず、自分はいいことをしたくらいに思っている。

今は、誠意とか正義だとかが、埃をかぶった遺物だと感じることも多いけれど、わたしはそういう遺物でできている。

誰を守るか考えることも、発言も、選択である

発言するという行為は、選択だ。選択する限り、誰を守り、誰を守らないか、決めざるをえない。

発言を恐れて、黙っていても、選択からは逃れられない。ほかの人の選択によって、そのまま、誰かが失われていくだけだからだ。それよりは、わたしは自分の責任でだれを守るか決めていたい。わたしは、自分の選別の残酷を丸のみする。それは、選別を含むという意味で、差別もいえるかもしれない。

わたしは、意思決定能力が弱い人や、身体的に弱い人、精神的に弱い人、体の力が衰えた人、幼い人、そういう人を守りたい。

わたしに守れるものはとても少ない。全部を両腕に抱えることができない。だから、優先して守るものと、守れないものがある。本当は誰だってそうなはずだ。

すべての人にやさしくしたくても、すべての人にやさしくできない。

権利の衝突が起き、どちらも悪くないが、どちらかの保護しかできない場合には、選ばなくてはならない。

犯罪者に出くわしてからでは遅いので予防が大事だ

トランスジェンダーが女性専用スペースに入りたいという主張では、わたしはトランスジェンダーではなく、ほかの弱い人、高齢者や子供を選ぶ。

一度犯罪に遭ってからでは遅い。予防が大事なのだ。完全になくせなくても、減らすという姿勢がほしい。

もちろん、犯罪に遭ってからも、治療はできる。でも、その間の時間は永久に戻らない。そして、治療して治ったとしても、それは完全に元に戻ったことを意味しない。少し弱くなっても、現実に帰っていけるという意味でしかない。

わたしの正しさは、誰かにとっての間違いや不快だ。誰かの正しさは、わたしの不快だ。そういう場合もあるのは重々承知である。

他者を尊重することの意味

違いをそのまま受け入れるとは、違いをそのままにして、少しだけ解像度を低くして、ぼんやりと人付き合いをすることでもある。違いに立ち入らないことだ。変えようとしないことだ。それは時には暴力だから。理解しようとして、できなかったとしたら、そのまま飲み込むべきだ。自分の物差しで測って、それが違ってしまったら、それは丸のみの理解よりも悪い。それが現実的な人付き合いで、一つ違うからと言ってバッサリ切っていくことはできない。

正義も大事だ。争いを避けるために、見て見ぬふりをすること、目をそらすことも必要だ。……弱い人が犠牲にならない限りでは。

わたしは片目をつぶりながら、それでいて、必要な時には直視して、正義を行う人でありたい。

女の記号を身に着けるのはミソジニー的な行為である

ただの単なる人間を、「女」という姿に区別するために、記号が必要だと、「男」が考えたから、「女らしさ」は存在する。manにwoをつけるとwomanになる。woは一説によると、wifeらしい。もともと女という意味でwifeという言葉があったそうだ。女というのは誰かの妻だったのだ。イブとアダムがそうだったように。

男の姿に、いろいろ加えていくと、女になる。それは、女を欠けたものだという発想である。

女を男と区別しなくてはならないという発想が、女に装飾を加えさせる。だから、女の記号を身に着けることは、女嫌いなのだ。女をそのまま認めず、徴をつけておくことで、管理可能性を高めるという意味で。

いろいろな理論がある。たとえば、韓国系ラディカルフェミニストは、とても正しさに厳密だ。若い人が支持していて、わたしはわかくないので、正しさに耐えられない。だから、やむを得ず、正しさに耐えられない自分と、正しさによって割り切っていくまぶしさを薄目で見ている。

若い人の抑圧を取り去るための理論として、素晴らしいものだと思う。重要だと思うからなんども言及している。これから必要なものだと思う。

ただ、いかんせん、わたしはそれより長く生きているため、引きずっているものが多くて、突きつけられることが厳しすぎる。そして、わたしは自分がしんどいものを避けたい。

クィア理論も、バトラーの講演会に感動したから、哀惜可能性についてなど、素晴らしい概念はたくさんある。だが、乗れない部分もある。

わたしは女の記号が記号に過ぎないとわかっていて、化粧をしてきた。髪を整え、肌を整え、先のとがった靴を履いた。それはごまかしである以上に適応でもあった。言い訳に過ぎなくても必要なことだった。

女の記号を身に着けること自体、ミソジニーが原因だ。つまり、極端に言えば、トランス行為には、ミソジニーがある。わたしたち女はそれらの記号から解放されたがっている。しかし、生まれたとき男だった人が、女になることを目指すには、女の記号を身に着ける必要がある。

それがなぜ必要か。あるがままの体で、自分の思った通りの人間でいるためには、本来、後付けの記号はいらないはずだ。それがトランスジェンダーであれ、女性であれ。

規範のない世界ならば、いかなる表現も「女らしさ」「男らしさ」にはならないはずだ。でも、今は規範のある世の中なので、女の記号を示すものを身に着ければ、それは「女らしさ」の枷となる。

そしてトランス行為は、どちらの性に向かうのだとしても、女か男の記号を模したものを目指すことで、そうでなければ、日常に紛れ込めない。わたしも、日常に紛れ込むために、自分を装っている。わたしがしていることも、ミソジナスな行為であることは間違いない。しかし、社会的信用を得るためには、外見をそれに合わせることが必要だし、自分の中にある社会を模したものの判定を受けるので、自分自身の外見を、ミソジニーに合わせて変えていく必要がある。何度も繰り返すが、わたしの住んでいる世界はミソジニーを前提とした世界だからだ。

わたしが装うそれ自体、わたしのミソジニーが、わたしに向かった行為だ。女である自分を女として管理する行為は、自己否定に機能する。女であるためには、あるがままの自分ではいられないからだ。

社会性を保つために必要なこと

だが、ミソジニーのある世界で、社会性を保つ一環として、装いは必要なことでもある。

わたしは、自己卑下や自己嫌悪をする。これも、女である自分を罰する行為だ。自分がバカで愚かでどうしようもないから死にたいと思う。それも、自分の中のミソジニーが、自分を罰しているんだと思っている。

自分の自信を喪失すること、これも自分のミソジニーの結果だ。

今ある世界で培った感覚からは逃れることができない

どういうものを美しいと感じるのか。感触、におい、音、そういうものも、ミソジニーが大いにある世界で暮らしながら育まれたので、そういう感覚自体にもミソジニーが紛れ込んでいるだろう。身体的な感覚すら、ミソジニーからは逃れられない。

だから、わたしはトランス行為をする人を一方的に断罪はできない。彼女たちだって、気が付いているから。何一つ装飾をしないでいても、女に見えるかというと難しい人もいるだろう。それは、彼女たちの体が男だから突きつけてくる事実である。

わたしの女という体にも、同じように、突きつけてくる事実があって、それはどうやっても男と同様には扱われず、女枠から一定以上はみ出せば暴力の対象になるだろうということだ。

欺瞞をそのままにしておく意味

だから、わたしはわたし自身の欺瞞や矛盾に片目をつぶって、存在することが分かっていても、自分自身をそのまま受け入れようと思う。それは、他者に対しても同じだ。

他人が、いかに行動して、いかに表現していようと、それがわたしの権利、わたしの社会を傷つけない限り、わたしは彼らを放っておく。ただ、わたしの権利と衝突したときにはその限りではないだけだ。

内心がどうであれ、自由であること、それ自体は尊重しても、こちらにとってもその内心に合わせない自由があり、キャパシティ的な問題もある。

ただ、これも社会の問題だから、人と人とのつながりがあり、そうしたとき、相手への気持ちがあれば、内心を尊重して、内心通りに取り扱うこともできる。

権利と接し方の問題

トランスジェンダーも、異性装の人も、権利がある。わたしはそれを認めている。尊重したいと思っている。存在しているのだから、認めるも何もない。ただ、わたしは、女性専用スペースを彼らとわけたい。そこに不一致がある。

彼らの、性暴力被害の防止や、被害後のケアの足りなさ、就労や、心無い言葉の投げつけ、そういったものについて、心を痛めるのは本当だ。どうにかならないものかと思う。

しかし、トランスジェンダーの女性が、セーフスペースに入ってきたら、それが不特定多数のいる場所ならば、全員が足並みをそろえて、彼女を怖がらないでいるのは無理なのだ。

GIDは体の性別を変えている人だから、たいていの人は受け入れられるだろう。

GIDにとって、性自認は重要ではない。

(追記:トランスジェンダーとGIDでは、性自認の意味が異なります。GID にとって、性自認とは、手術の要件に足る精神と身体の不一致です。手術をすることが優先だそうです。そういう意味では性自認がどうよりも身体の不一致を早くなんとか治療したいという気持ちが強いそうです。それで、GIDは性自認が重要ではないと書きました。体の問題が優先するので。


GID とトランスジェンダーの性自認とは異なります。GID にとっては、身体の問題が優先するので、性自認はトランスジェンダーより大事ではないそうです。ただし、手術の用件足り得る精神と身体の不一致はトランスジェンダーより強いので、その意味では、性自認が重要という言い方もできるでしょう)

身体を暮らしやすい形に変えることが大切らしい。だから、彼女たちを怖がる人はうんと少ないだろう。体の形が似ていれば、脅威を感じにくいからだ。

彼女たち、彼らに必要なのは、手術を行う要件としての精神状態だから、性自認を必要とするTG(トランスジェンダー)とは、概念が全く異なる。

でも、トランスジェンダーは、社会的性別を変えたい人たちだから、身体を変えることはGIDほど重要ではなく、社会からの取り扱いを変えることを求める。だから、トランス女性の体の形が、女性に近いとは限らない。だから、女性専用スペースに入りたいという願いには応じられない場合がある。トランスジェンダーの女性が、男性から、被害を受け、苦しんでいるのは、こちらにも痛い。むごい。憤りを感じる。

(なぜ男はそういう男を非難しないか、とも思う。なぜ、女性が受け入れていないことばかり、男は攻め立てるんだろう。自分が属している集団の暴力性について、どれだけ反省しているのだろう。女性よりも、1000倍以上は、性犯罪を起こす集団に属しているのに)

トランスジェンダーの言葉の広さ

トランスジェンダーとは、性自認が男性女性問わず、内心がどうであれ、ジェンダー(社会的性別の役割)を超えていく人たちなので、その役割のどれをどう負いたいかによって体の改変の度合いを変える。トランスジェンダーの主張は、こちらの対応、社会を変えろという主張だから、変わるのはわたしたちでもある。TGにTV(異性装。性自認は男)が含まれるので、そういう解釈になる。トランスジェンダーが、異性装を含むほど大きな概念だから、トランスジェンダーの中には、男に見えたり男の記号を背負ったりしている人がいるはずだ。

また、トランスジェンダーの中には、女性を性的にみる精神のままトランスして女性的になった(オートガネイフィリア:性的対象としての女性を好きすぎて女性になる人)人や、男の記号を持ったままの人とがいる。そうすると、それらの人と、性犯罪をもくろむ人と、区別はつかない。女性専用スペースにそうした人が来たら、わたしはそれを怖がる。

恐怖を感じること自体、被害なのだと認めてほしい

怖がること自体でダメージを負う。ダメージを負ってから対処するのでは遅い。もし、性犯罪者があらわれたら、通報すればいいという人は、ダメージを軽く見ていると思う。実際問題、性犯罪者ではないかと思えば、恐怖はあるし、恐怖があれば、声も出ないし、体も動かない。相手にも事情があるのかなと考えもするから、そもそも性犯罪者か確信も持てない。混乱すると、頭も真っ白になり、体の力が抜けてしまい、判断力はなくなる。訓練によって叫ぶことができるかどうかぐらいだ。

わたしが襲われたとき、叫べて、そのうえ、住民たちや、近くの通りを歩いていた人が来てくれたから、命は助かった。これはありえないほど運が良かった。普通は、怖くて出てこれない。また自分には関係ないと思うだろうから、厄介ごとに関わりたくないと思ったかもしれない。

声は出せても、相手のことを攻撃するようなことはできなかった。手に力が入らなかった。足もぐにゃぐにゃになった。殴られて首を絞められて腕の神経が切れた。それでも、最初は空気を吸うこともできず、口をパクパクさせるのが精いっぱいで、叫ぶことを思い出すのに五秒ぐらいかかったと思う。叫ぶのも、叫んだことで、犯人を刺激して刺されて死ぬかもしれないなと思い躊躇した。なにしろ、異常な行動をすでにとっているのだろうから、相手が最悪の行動をとらないと信頼できるわけがない。攻撃してこないと思う、それ自体、相手を信頼しているってことだ。でも、痴漢もそうだが、触るだとかつけるだとか、そういう異常な行動をしている以上、何一つ信頼できない。

男性には想像ができない「性犯罪の被害」の重さ

男性にとって、自分の目の前に、裸の男がおり、性器を見せている状態を想像しても、単に滑稽な光景にしか思われないかもしれない。

でも、わたしにとって、それは、ヒグマに遭うのと同じか、それ以上恐ろしいことだ。その人は、言葉や常識が通じない。社会性があれば、普通しないことを、している以上、彼には言葉も抗議も通じないのだろうと、まず判断する。

そして、社会性のない、普通なら考えられない行動をする人間が性器を見せる以上、抵抗したらそれ以上のことをされるのだろうと思う。人は、恐怖に陥ると声も出ないし、体の力も抜けてしまう。考えられなくもなる。性器を見せる男がいたら通報しろとたやすく言う人もいるが、それはもう被害が発生した後だ。被害があってからでは遅いのだ。異性に性器を見せることは加害なのだ。

犯罪者に対しても、信頼の問題が出る。犯罪はしても、これはしないだろうと信じられたら、抵抗できる。

犯罪でさえ、人と人とのつながりの問題だ。

日本のジェンダー系の学者

正しく見える理論を実践するときには、必ず考慮していなかった要素があとからでてくる。例えば、「公衆トイレ論文」だって、データ処理の手続きや、体裁は正しかった。それと同じような意味合いで、要素を考慮していない理論には現実に反映させる意味がない。

そして、その要素が、弱者に関してのもので、実践の結果弱者の健康と安全を害するならば、それはあとから訂正していけばいいものではない。取り返しがつかない。弱者は簡単なことで、命や健康や、普通の生活を失い、時には元に戻れない。

しかし、学者は、自分たちの理論が無謬のようにふるまって、違う視点から指摘されるとひどくおかしな行動をする。まるで焦っているみたいに。理論は理論として正しくても、違う分野からしたらおかしいことはよくある。また、生活の場に理論を落としていくという作業は、それこそ、様々な分野からの意見が立ち上がることに他ならないのに。

twitter.com
Twitter / ?
https://twitter.com/gyorui3/status/1085348921222656000

そして、女という感じは、祈っている様子を表しているのだという。

言われてみれば、わたしは祈ってばかりだ。もう、悪くならないで済むように、健康であるように、家族が平和に暮らせるように。

排除が目的なのではない。だが、わたしは、自分の属性の集団を守りたい。理論を社会に適用するには早すぎる。なぜそんなに急ぐのか。そこが恐ろしい。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください