病院に行ってきた

今日はだらだら日記みたいなことを書きます。

今日は病院に行ってきた。一日がかりだからすごく疲れる。

十五年通っていたクリニックが高齢のために占めてしまったんで、転院した。これがまあ負担で、それだけで九月からずっと落ち込んでいて具合が悪くて、朝起きて、保育園の送りに行ったあとは、お迎えまで横になっているしかできてなくて。

近頃希死念慮が頻繁だ

人はどうせ死ぬんだという気がしていて、一日五回は死にたいなと思う。その一回が五秒の時もあるし一時間続くときもある。一分を六十回やったら一時間死ななかったことになる。それを八時間すると一日が終わるみたいに乗り越えてた。

今は、死にたい気持ちが強いので、気分の波を減らす薬を新しくためしているところで、200ミリを目標に、一か月25ミリずつの増加で八か月かけてならして言っているところ。

薬は体に悪いかもしれないけど、病気のほうが体に悪い。死んじゃう。

自然に逆らうのはよくないという人がいるけど、自然って、崩壊つまりエントロピーと、自己保存に向かうエネルギーとあるけど、どっちのことを言ってるんだろう。

自然てなんだろう?死ぬことかな

それでいったら、自然に逆らわないのは、死ぬのが一番いいし。自己保存だったら、薬とか飲んでエントロピーに逆らわないといけないし。生き物はエントロピーに逆らって自分の体を維持しようという訴求がある物体のことだと思うんだよね。

生きることは不自然だから、みんな死ぬのが自然だよ。

とか思いつつ、先生と話していたんだけど、一日五回死にたいのに生きているのはえらい、がんばっている、ということと、「こだわり」が強いのによく工夫しているってこと。

こだわりを観察してコントロールする

前は、性的なものにこだわりがあり、依存していたんだけど、それはけっこう苦しかったんで、だんだんこだわりを害のないものにずらしていくのが良いと思っている。例えばお茶の葉っぱにこだわる、とか、そういうこだわりは害が少ないから。

わたしは、まず、性的なこだわりから、洋服へのこだわりに移行して、一時期は借金もあり、その後食べることにこだわりが出て太り、今はやせて、ブログとか正義感とか、そういうのにこだわっている。お皿しまうのも、思った場所にないとキレて泣いてしまうだけじゃなくて伴侶に当たってしまうのはよくない。

わたしは、ASDグレーですか黒ですかときいたら、スペクトラムだからねえ。と言われた。

同じくらいの重さのこだわりがあったとしても、こだわりの対象が害がなかったり、生まれ持ったどうしようもない性格が好かれやすかったり、嫌われやすかったり、という障害以外の性質が困り度を左右するし、困っている度合いが高いほど治療の対象になる、と言われた。

それでいうと、c71さんは、こだわりが強いけど、昔よりもうまく工夫してずらしているし、話してて面白いと思われるような人としての愛されやすさがあるから、そういう意味では同じ重さの人よりも得をしているよね。ということだった。

確かに、と思った。現実で、わたしのことを憎悪する人はそこそこいるんだけど、そういう人たちは、ほかの人にもあまり人気がない。孤立してたりするし。嫌われるのは嫌だけど嫌われて損する人から嫌われること、あんまないな。

死にたいってことは、死にそうってことで症状が重いってこと

で、死にたいというのは、一番重いってことで、病気で言うと、死んじゃうのが症状が最悪だってことだから、そこに焦点を置いて治療をして、薬で波をなくして、死にたいの気持ちをもって、躁に転移したとき、うっかり自殺しちゃうことを防ぎたい目的ですと言われた。意識してないけど、死にたいと思う回数がめっちゃ多いもんな。あまりにも当たり前だったから言語化もできてなかったけど、一時間に一度の頻度で死にたいもん。

わたしが死んだらみんな喜ぶだろうし、伴侶は貯金もできるし、丸く収まるし、苦しみも終わるし、めでたいじゃん。としか思えない瞬間が一時間に一度のペースで来る。

温泉もトイレもいけないから引きこもりが加速してしまった

年末から症状が悪い。ツイッターでの議論のせいで、週二回いっていた温泉もいけなくなった。この辺は温泉文化で、出勤前に朝湯に毎日入りに行く人とか、昼間温泉でずっと過ごしてて、温泉でコミュニティを形成している高齢者の人とか、そういう人が多いところ。温泉に入って、友達と休憩室でみかん食べて、また温泉入って、みたいなことが日常なんだよね。毎日温泉行く人も多い。長患いで湯治に来る人もいるし。湯治ってね、結構修行みたいなんだよ。コンロと水道だけある宿泊施設に泊まって一か月温泉にひたすら入るみたいな人もいる。

だから、そういうお年寄りとか、子供とか、若くても具合が悪いから湯治している人とか、そういう人が、裸でいるとき、異性が入ってきて、通報することを思い出して、通報できて(スマホ持ってない人もいるし)、誰か人がくるまで身を守り、トラウマにならないように、待ってられるかって想像すると、無理だよなと思うんだよね。大丈夫です、って言っている人は自分は大丈夫なのはともかく、その場にいる人も同じだと思ってるのかな。世界線が違うのかもしれないなと思う。わからん。

それで、外でトイレいけないなってなって、外出するのが結構難しい。前は、温泉入ってゲーセン、ご飯食べて帰る、ってパターンで外出できてたんだけど、それができなくなったから、外出の理由がないんだよね。

正義感が強くても、日常では片目をつぶってみることで無用な摩擦を避けるという工夫

まあ、それはともかくとして、治療に話を戻すと、正義感の強さは、人との摩擦になることに気付いたので、片目で見て、立ち入らない、干渉しない、自分に影響するときにだけ対応するみたいにしました、って言ったら、「どこでそれ覚えたの?」と言われた。「自分で気づきました」って言ったらほめられた。

「ネット依存でちょっと困ってて、Twitterとかで疲れるから、ブログだと人の悪意もコントロールできるんで、サーバーも自分で借りて独自ドメインでやってるので、それで若干ましになりました」「ネットで自他をよく観察して、コントロールできてるって言われてうれしかったです」「とはいえ、ツイートは一二と五回くらいだったり、しない日もあります」「同じ障害の人と知り合ったり、話したりできるから、楽しいことも多いし、お互いの工夫とかも話せるから」みたいに言った。

「SNSも道具だからね。SNSだと悪意が飛んできやすいからそこをコントロールできたらいいんだけど難しいよね。でも、ブログに切り替えたのはいい工夫だと思うよ」と言ってもらった。

本当は、精神障害二級で出産したときの減薬の状況とか、その間した工夫とか書いたら役に立つよなと思いだした。女性の障害者でそういうの書いている人少なくて、情報がないんだよね。そういう経験談みたいなので、元気づけられて、子供が産めたらいいと思うし。

今は睡眠障害がちょっと出てて、先生に言うのも忘れてたけど早朝覚醒になってて、四時ごろに起きるのが続いているので、やっぱり調子は悪い。

そのあと心理療法でカウンセラーと初めて話した。伴侶が元家族にDVされて十年物置に監禁されてて、39キロにやせて、水とかも一日に飲んでいい量が決まってて、それは、トイレに行く回数が増えるとか、汗で服が汚れるからだったり、名前は自分の親とのつながりだから、名字だけじゃなくて下の名前も偽名を使わされていたとか、元妻の借金を払うので必死だったとかそういう話をした。彼も障害があるし。で、わたしが一日五回は死にたいと思うといったら、それは苦しいですね見たいな話をした。結構疲れて体ががくがくになった。泣きそうになったし。

ネットのもめごと

あ、そうだ、ラディカルフェミニズム、やっぱり、わたしには賛同できない点があるなと思ったんだった。

あるラディカルフェミニストに、「子連れ様」と言われたんだよね。夫の権威があるんだから、弱者じゃないんだとか言ってて。まあ、そうだよね、わたしは体制の維持になるのが嫌で、婚姻届けを出してはいないけど、伴侶が男だというのはまあそうだよ。

で、子供を産み育てるというのは、ケアをする属性としての、現実を強化しているから反体制としてはまずいっていうか、体制的だよねと言うのも理屈上導き出せるよね。

もちろんラディカルフェミニストの総意じゃないし、彼女はかなり変わっているのは確かだと思うんだけど、でも、ラディカルフェミニズムから論理的に導き出せるのも事実やなと思った。

だけど、産んだし産みたかったししょうがないじゃん。権利でしょ。妊娠出産に関することって女の人の権利じゃん。反体制を貫くために子供は産まないとかあってもいいよ、でも、産んだ人に「子連れ様」って侮蔑を向けていいわけない。人として最低だと思うし。論理的にわたしの書いたものを、それこそブログとかで書いて批判すればいいのに、それをする人ってめちゃ少ない。説得力と魅力があれば読んでもらえるよ。

女は子供を産む、それを否定したら、結局「女は子供を産むから駄目なんだ」といってる人たちと同じになってしまって、ああ、これもわたしのためのフェミニズムじゃなかったんだよねと思った。わたしは石投げてると思われてるんだろうな。リベラルト、ラディカルフェミニズム問わず。わたしどっちでもないし。どちらかというとラディカルに近いのかなと思ってたけど、人と人とのつながりというか、営みを否定するのって無理だなって。わたしにはミソジニーがあります!!!!!ミソジニーのある世界で育ったんだから、感性も価値観もミソジニーがないわけないよ。でも、自覚してない人よりはましだよ!!!!って思っている。子供を産むのはミソジニーなのか?

なら、何のための体制批判なのか?その間、個人的な、属人的な幸せを築けないなら、わたしには意味がない。わたしはわたしのために正義感を発動しているし、わたしが幸せになりたいから、フェミニズム的なものに親和的なだけだから。でも、わたしの幸せよりイデオロギーが優先されることはない。というか、どんなイデオロギーであっても、わたしの幸せを邪魔する思想は許さない。

お互いを相互監視してたら、それこそあさま山荘事件の再現じゃんと思うし、ラディカルフェミニズム文脈からの「子連れ様」発言にその萌芽を感じる。あさま山荘事件って、女らしさを出したら殺されるんだよね。「女らしさ」は体制的であり運動をつぶすものだからって理由で総括されて殺された事件です。

と、いうのは、わたしが死にやすい障害なんだよね。わたしの障害は、寿命が短い。たぶん、自殺して死んじゃうんだと思うけど。障害の症状自体が、身体にすごく負担をかけるし。不眠、精神的な不安定さ、ってメンタルだけじゃなくて体の痛みとして現れるから、これって体に悪いよなと思う。薬の害なんて、それほどじゃない。病気の症状のほうが悪い。だから、天稟にかけて薬を飲むんだけど、薬は体に悪いといってくるバカもいる。薬飲まないで自殺したらそっちのほうが体に悪いんだけどな。

よくわかったんだけど、イデオロギーは、あてにならない。

理論的にはわかるけど、温泉入れなくなって、性犯罪者ぽいな?と思ってもその人の辞任によっては犯罪にならないし、子供を産むことは、男の後ろ盾を得ることで権力側に立つことなんだったら、もう死んだほうがましじゃんみたいに感情が流れていく。わたし死にたくはないんだけど。死にたいのは病気のせいで思わされていることだし。

そういうの、女性の解放のための理論のはずなのに、今の私を生きにくくする。それに、独身女性でも、親が元気だとか、義理の親がいないだとか、介護しなくて済むとか自分が健康だとかそういうのは、ある意味で、結婚している人よりも楽じゃないかな。頭蓋骨われるまでDVされたりしないで済むとか。

別に死をちらつかせて脅す意図はなくて、でも、だんだん死にたくなって、そのほうが良くない?わたしは死にたくないけど、なんか死んじゃうかもとも思うんだよね。

イデオロギーよりも、それより人柄でつながって、優しい人とわかり合ってたほうがいいな。それがリベラルフェミニストでも、ラディカルフェミニストでも、右翼でも。イデオロギー的に一致している人たちの暴言に心が折れた。どんなイデオロギーであっても、違っていても、それを超えて励ましてくれる人のほうがいい。全然。それはわたしの選択だからそれでいい。誰に何を言われても決めた。

トランスジェンダーでも、女でも男でも、違いはあっても。それって、生まれ育った来歴があってそのうえでの属性だから、イデオロギー以外で分かり合えるほうがわたしには今大切だなと思った。じゃないと死んじゃうしうっかり。でも、こういうこというと悲しませちゃうから本当はダメだけど。死なないように頑張ります。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください