「病院に行け」の暴力と希死念慮の説明

わたしが「トランス女性と女湯・トイレ問題」に関わってから「病院行け」「カウンセリング受けろ」「希死念慮は自分で治療してなんとかしてください」「トラウマは自分で病院行け」「恐怖を盾にとって差別を正当化する」「憎悪の扇動をしている」「水晶の夜やルワンダ大虐殺を起こしたのはお前」みたいにリベラル・左翼・フェミニストに言われました。

ただ、病院に行くにしても、まず、病院の数が少ない、カウンセラーの情報がないので、良いカウンセラーを見つけにくい、病院があったとしても、人気のある所は予約が半年待ち、しかも、先生との相性が悪い場合もある、薬が体質にあわなかったら膨大な時間と負担がかかる、薬が効いたとしても、環境が変わらなければ、一度よくなってもぶり返す、相性が悪い病院だったらすべてやり直し、そのうえ、治療中に働ける人はまれという問題があります。

それで、希死念慮がひどくなって年始年末は最悪でした。死のうかなと思ってそう言ったらいろいろな人に心配をかけてしまった。申し訳ない。

とはいえ、はっきり言っておくと、PTSDや、希死念慮は治りません!

いや、啓蒙のために「治ります」っていうよ。「治療すれば治ります」って。そういう啓蒙は大事だよ。病院行かない人を行かせる効果もあるし、絶望している人に希望を与えるじゃん。めっちゃいい。

でも、治りません。寛解することもあるし、社会復帰することもあるし、症状が軽くなったり、対処法を覚えたり、薬でコントロールができて、症状がマックスで悪い時よりは生きられるようになります。でも、完治というか、普通の人が思うような意味で「全快」はしません。骨折だって治っても、冬になると傷むじゃないですか。人は病気になるたびに、少しずつ壊れていくんですよ。回復しやすい身体的なケガでも、完全に治るかっていうと治らないじゃないですか。腰痛だって、一度治っても、なったら、同じ生活をするとぶり返すから、生活を改善したり、ストレッチしたりして気を使うでしょう?

希死念慮は、「死にたい」と表現しますが「死ぬべきだ」という使命感だったり「死ななければならない」という確信だったり、「死ぬことが正しかったのだ」という清々しい真理のような形をもって、訪れます。必ずしも「つらいことから逃げたいから死ぬ」という形態ばかりではなく、前向きな解決策としての死が、きらきらとわたしを誘いに来ます。

洗濯物にハンカチを入れ忘れたから、わたしはおろかでダメな人間だ、だから死のう、そうしたら、洗濯物がそもそも発生しないから、すべてが解決する。

世界に幸福の総量があるといたら、わたしが死ぬことで喜ぶ人がいるので、わたしが死にさえすれば、その人たちが喜ぶので、世界の幸福総量は増える。あらゆる意味で、死ぬことは正しい。

また、わたしがどうしてもいやだということがあるけれど、その意見は邪魔であり、そして、ほかの人にとってはいやどころか歓迎すべきなので、反対意見を言われることさえ彼らは嫌がるから、発言することをやめて、死ねば、彼らの思い通りの世界が実現するので、死ぬことは正しい。そういうすっきりとした気持ちで死にたいときもあるし、苦しくて苦しみから逃れることを夢見ることもある。

わたしの場合、中学生の時に、子宮内膜症で道端で気絶して救急車で運ばれ点滴を打っていたら、母に胸ぐらをつかまれました。そして、婦人科に出入りするところみられると人生が終わるぞと脅され、人に知られると外聞が悪いといわれて、しかし、放置しておくと痛いうえに出血で死ぬ可能性があると調べたので、高速バスで二時間の病院に通いました。お金は出してもらえなかったので、愛人と暮らす別居している父に、お小遣いと称して手のひらの上から落とされる小銭を拾って交通費と薬代にして、足りない分は親せきからのお年玉で賄うというのを高校卒業までしていました。

そういう人なので、発症したのは16歳の時ですが、精神科に行くと就職で差別されるかもしれない、と言われ、受診できたのは二十歳の時でした。病人に偏見がある場合も受診はできないし、家族に偏見があれば、やはり受診できないように、お金や保険証を隠されます。

だから、病院に行けというのは、暴力なのです。治ることがないのに、言うのは無責任です。風邪とは違います。

わたしは、カウンセリングも、病院にも通って16年ですが、それでも希死念慮があります。彼らが精神疾患にもつ偏見は、差別丸出しですが、それをたしなめる人よりもわたしを「差別者」と言ってののしる数が多かったので、年始年末よりは回復してきたといえども、あらゆる瞬間で、少しのミスで、死にたいと思っています。

双極性障害は、うつ状態の時には全身の痛みと倦怠感、視界が真っ黒に見えるくらいの視力の低下、頭痛、腹痛に悩まされ、躁状態の時には、焦りと切迫感に追い立てられ、また、キレやすくなって暴言を吐きやすいなどの苦しさがあります。そういうものをどんな波があるのか記録して分析して対応策や工夫を考えても、なお、うまくいかない病気です。鬱の時に死にたいと願った気持ちを体が動く躁状態の時期に実現する人は多いのです。

また、ASDであるわたしには、いろいろなこだわりがあり、こだわってしまうこと自体を変えることができないので、こだわりを害のないものにずらす、ということをしています。

精神障害は治らないので、暮らしやすくするために、自他を観察してコントロールする、記録して、パターンを把握するなどの努力をし、医師を信じて薬を飲み、難しい服薬管理をして、ようやく生きていられます。

食に対するこだわりも強く、同じものを半年くらい食べ続けていたり、過食をしていたりもしました。それを工夫によって変えるのに、五年かかりました。

毎日、薬を何種類ものむというのは難しいことです。

死にたがりは自傷するというのも偏見ですし、精神疾患があると理性がないとか、論理的に話せないとか、感情的になる、とか、全部偏見です。差別です。

病気になると、偏見ゆえに孤立し、体力面で就労から遠ざかるので、世間との接点がなくなります。そういう状況下において、「病院に行け」という言葉を罵りとして使う人には一切の知性も、優しさも欠けた、人間とは言えない存在だと思います。医師でさえ、患者が自ら来ない限り診察も診断もできないのに、ネットではびこる素人診断によるお前は病気だという決めつけ、それをする人には、恥じる能力がないだろうので、仕方がないかもしれませんが、わたしはそういう人を、軽蔑します。

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