女らしさの虚構を生きる

わたしたちは、ミソジニーのある世界に生まれて生きてきたので、心にも体にもその価値観が刻まれている。

その背景や、生まれてから積み重ねてきた歴史、人とのかかわり、健康、来歴を無視してはならない。理論を重んじる人は、それを軽んじているので、間違っている。

わたしが、男を恐れているのは、身体に刻まれた痛みが、傷となって、考え方に影響しているからだ。

偏見の必然

偏見や思い込み、レッテル張り、直感は、素早く身を守るために備わっている何かだ。それを理性で調整することで、なるべく人を差別したり、踏みにじったりしないようにしなくてはならない。その必要はある。けれど、今まで男にばかり、暴行されてきた女が、男の姿をおびえないというのは、それが偏見だとしても、適応だ。

ミソジニーという虚構を生きる

ミソジニーというのは虚構である。女というものは、便宜的な区分である。その根拠は体だ。でも、女にまつわるあれこれの分析の根拠はあやふやだ。女とは、男ではないなにか。

それくらいの意味でしかない。男たちは、女とは何かを探ることを重要だとは思わなかったようだ。知性を使う仕事をしている人たちの場は、男が管理してきた。定義は、知性を武器に仕事をする人たちの領域で定まることなので、女の守備範囲とはされてこなかった。

だから、虚構は、現実と相互作用し、時には相補的でもある。

女はだから駄目なんだ、というセリフは虚構だが、女を損なう現実でもある。女という属性を貶めることで、自分をあげるのだという機能を知っていたとしても、傷つくことを防げない。

女のミソジニーは自己否定につながる

繰り返された傷が、自分の否定に向かうこともあるし、男という属性への憎悪に向かうこともある。それは、時には自傷、自殺企図という形で表現される。

わたしたちは、装うという圧力の下で、様々に装ってきた。

装いというのは、社会規範に従属することだ。言い方を変えれば適応だ。

わたしは社会に適応できなかったから、場にふさわしい服装やふるまいを教わったとき、ようやく人間になれたと感じた。

そして、それを誇らしく思った。

きちんとした女になれない

初めてデパートでコスメを買おうとしたとき、何が必要で必要じゃないのかわからず、お金を使うことが不安で泣いてしまった。断るのも難しく、勧められたものを全部買う勇気もなくて、怖くなった。

これではだめだ、社会性が欠けたままではいけないと、人の手を借りて訓練して、転院の前で泣かずに口紅を購入したときの喜び、足が地につかないふわふわした感じ、恐ろしさと喜びで気持ち悪くなった感じを今でも覚えている。

自分で選んだ口紅の名前はロシアンレッドという。口紅にはいろいろな美しい名前がついていて、それはまるで詩のようだ。身に着ける前と、身に付けた後で、人の肌の温度で解けて、ニュアンスを変える。人によって、発色が代わる。そういう美しさをわたしは慈しもうと思った。

それは、ミソジニー的な行為だ。女の記号を身に着けることで、家父長制を補強するのだから。

理屈に合わない感情がわたしを生かす

しかし、わたしは生きていて、今も生きている。生きているときに外部の価値観を吸収して、自分の感覚を養ってきた。生きるというのは、自分の中のミソジニー的な虚構を現実に変えることでもある。それを常に直視していても、それもまた自己否定になる。自己否定をやめたいから、ミソジニーを拒否しているのに、自己否定という結果が同じになる。

生きる上でのこまごまとした喜びを捨てることはできない。理屈上正しいからと言っても、理屈上正しくない、感情というものが、わたしを生かしているから。

わたしは、左翼的なイデオロギーを正しいと思い、それに従って生きてきた。

しかし、左翼はミソジニーを色濃く抱えていた。わたしはイデオロギーを同じくする人にひどく傷つけられた。

生きていることのほうが、イデオロギーよりも大切だ。なぜなら、わたしは生きるために、思想を選んだから。そして、命を懸けるとしても、左翼の暴言のために命を落としたくないと思った。

わかりあえないゆえの労わり

わたしに寄り添ったのは、傷ついた女性たちだった。

彼女たちにはわたしのことがわかる。わたしにも彼女たちのことが分かる。わたしたちは、とても異なる。異なっていることを、お互い知っている。それがわかるということの意味だ。

理解できない。理解できないから、距離を取る。その距離の取るときの静けさ、やさしさがわたしにはわかる。

GIDの女性と、インターネット越しに話をした。

わたしには、ミソジニーがある。そういったら、ひどく感謝された。

彼女は、生まれたとき、男だった。わたしはその経験が示す苦しさを知らない。想像はできても、理解はできないだろう。それと同時に、生まれてから、ずっと女だったという経験を、彼女は理解できない。だから、わたしたちは異なっている。痛みを想像することはできても、分かち合うことはできない。

それで、わたしは、「彼女にはわたしの生がわからないのだ」と胸が痛くなった。だから、不安だったのだ。ミソジニーを抱える孤独を一人で耐えていたのだとわかって、そして、わたしたちは同じミソジニーを生きているのだと、少し、あたたかな気持ちになった。ときどき振り返って、ときどき拒絶して、ときどき見ないふりをして、なんとかやり過ごしているのは同じなんだと。矛盾に片目をつぶって、でも、時には正しいことをしようと奮起することも。

彼女は、きっと、カムアウトすれば孤独でなくなるが、「普通の女性」ではなくなるという引き裂かれた状態だろうから、語るのは苦しいだろう。

矛盾に片目をつぶること

トランスは、ミソジニー的な行動だ。女性への変化は、社会規範による、女の記号を身に着けること。男性への変化は、女性に降りかかるミソジニーから解放されること。

だが、わたしだって、同じことをしている。女の記号を身に着けて、時に喜び、時には煩わしい。虚構は現実に影響力を与えて、わたしを縛り、虚構の価値観に沿えば、わたしは嬉しい。

虚構は、男を暴力へ駆り立てる。男であることは不安だからだ。男は自分ばかりが男に殴られている、自分ばかりが頑張らさせられている、自分ばかりが弱音を吐いてはいけない、自分ばかりが美しいものを身につけてはいけない、と思い、そして、なぜだか、その憎しみを女に向ける。

女子割礼は、女性器全体を切り取る。ときには、ガラスの破片でこそぎ取る。そうして、不浄ではない女にする。女から、快楽の機能を取り去って、産む機械に変貌させる。それは、ふしだらな女を貞淑な女に変える儀式だ。

ペニスを持つものは女性ではない

ガールズディックという言葉を知っていますか?トランス女性のペニスを、巨大なクリトリスと呼んだり、ガールズディックと呼んだりする。ガールズディックという言葉を使う人は、女性の定義を「ペニスがついていても、女性」という風に変えようとしている。それは、社会的混乱を招く。

わたしは、ペニスを持つものは女性ではないと思う。彼らが、もしくは彼女らが、異性装を楽しむのは好きにすればいい。そして、社会的性別役割から一時解放され、そして、男であるうまみを享受するために男に戻ることも好きにすればいい。わたしにはどうせとめることができないから。

でも、彼らはペニスを持つ限り女ではない。

そもそも、彼らは男だから苦しいのだろう。それで、男をやめたいんだろう。だったら、ペニス付きで「トランス女性は女性です」というのはおかしい。女性ならば、女性であることに悩みはしても、男であることに悩まないんだから。

男や、トランス女性の考える女性らしさ

彼らや彼女らの考える「女性」「女性らしさ」というのは、「きらきらしていてちやほやされている美少女」だ。それは、おっさんの考える少女であって、本物の少女ではない。

男が考えている女性らしさが、女性を抑圧し、現実になることはあるけれど、彼らの考える女性らしさ、そのものは間違っている。それはおっさんの考えた女性らしさであって、女性の考えではない。

だが、彼らは、それを本物の美少女だと考え、嫉妬して、少女に近づき、その姿をまね、時には加害して、傷つける。

虚構との距離、スタンスが重要だ

誰もが虚構を生きている。その虚構との距離の取り方、解釈の仕方、スタンスの取り方で、現実での表現方法が変わる。

同じ場面に出くわしても、行動に違いが出るように。同じ自傷の前でも、表現が違う。それが個体固有の個性だ。

それは、人生のあらゆる瞬間の集合が方向づけたものだ。

だから、わたしが、自分の「女らしさ」に相当するものを愛していて、コマーシャルにのせられて、美しいと思える服を買って、流行りの髪形を気にして、ヘアオイルで手入れすることも、間違っているが、同時に、正しい。それがわたしを作ってきた喜びと煩わしさだから。理論的に、それが間違っていると指摘されても、その指摘がわたしの個性をはぎ取るのならば、それをわたしは暴力と呼ぶ。

それは、GIDの人にも同じように思う。彼女たちが、社会の決めた規範に沿った姿でいることや、選択が、彼女たちを安らぎに導くなら、わたしはそうしていてほしい。

わたしたちの抑圧は異なっている

わたしたちは、同じ抑圧を受けていない。男の体から女を模したものになることと、女の体で生まれ育ったこととは違う。わたしたちは、肉体という檻から出られず、思考も自由ではない。

抑圧してくるものの、その一部を愛することと、抑圧してくるものを憎むことも、批判することも、矛盾しながら両立する。

人間は、愛しながら憎みながら嫌いながら離れながら忘れないで、心を迷わせる。

危険だから、阻止したいこと

わたしが危険に思うのは、「被害を語ることを差別だと呼び、被害の語りを黙らせること」「女の定義を変えて、あらゆる女性差別を無効化すること」「女性専用スペースの安心を奪われること」「ペドフィリアに親和的な言説」だ。わたしはそれを許さない。

許さないといっても、無力だから、どうせ押し切られるのだろうとも思う。それでも許さない。わたしは、未来のわたしのためにこれを書く。わたしは許さない。

性的役割、つまりジェンダーロールを疑っていくことと、ジェンダーとは社会的構築物だから、その定義をなくせばジェンダーの意味がなくなる、ということとは、全く違うので、わたしは後者を批判する。

ジェンダーロールは、強力な虚構だから、目に見える形で、現実になっている。そのジェンダーロールをなぞることで生き延びている人を否定したくない。生身の人間や人生を否定したくないことと、ジェンダーロールを疑い、批判することとは、折り合えるのだ。

名乗ることと、扱われることの差

自分が何者だと名乗るのは自由だ。それがなんであれ。ただ、その名乗りを受け入れるのは他者だから、思い通りにはならない。つまり、思った通りに、扱ってくれない。他者はコントロールできない。無理にコントロールするのは暴力だ。

ペニスがあっても女だといえば、内心は他人からはわからないので、判断に使える材料は「トランス女性です」という名乗りだけだ。人類すべて女性になれば、今の経済、行政、立法、司法を牛耳っているのも、全員女だということになる。そうすれば、女性差別なんてものもなくなる。

人類すべてが女性ならば確かに女性差別はなくなる

性自認は確かめようがないから、他者には名乗りのみが重要になる。

ペニスがあっても「トランス女性」を名乗れば、トランス女性になるのなら、人類すべてが女性だといってもいいだろう。

だが、女性の定義を変えて差別をなかったことにしても、女性の体を持つから、扱いに差をつけられ続けた事実は消えない。それなのに、ペニス付きの女性が存在してしまえば、わたしは、自分に起きたことを差別だといえなくなる。女性差別は、わたしの妄想に堕ちる。わたしの身体ゆえに起きたすべてのことは、同じ女性のカテゴリーにいる人には起きないわけだから。同じカテゴリーに属する人たちが、共通の体験をすることで、わたしたちはそれを差別と呼ぶことができていた。でも、できなくなった。

ペニスは巨大なクリトリス、だとか、ジェンダーを越境する打とか、調べていくうちに、そもそも、わたしには、女性というものがわからなくなった。わたしの体は女性だという根拠にはならないらしい。わたしの体が理由になって、あらゆる暴力の対象になったのに。わたしが男だったら、されなかったことがたくさんあった。

でも、今は「女性です」と名乗られても、それが何を示すのかわからない。

女性の定義の変更で、抵抗が奪われた

虚構を表現する言葉を奪えば、虚構に抗うことはでいなくなる。定義がずらされて、言葉がなくなっても、生きている人が、虚構に押しつぶされていることに変わりはない。

ましてわたしに暴言を吐き続け、正しい顔をした男は、わたしのことを知らない。わたしの役割は、彼らが正しいことをしているという快感のために、使い捨てられたティッシュのようだ。

そして、訴えが「お前の妄想だ」と押さえつけられても、苦しみはなくならない。虚構は現実に相互作用し、相補的でもある。押しつぶされれば、黙るか憎む。

トランスジェンダーの女性が受ける差別と、女性が受ける差別は、重なる部分と重ならない部分がある。女性に見えるから受ける差別は女性差別。それ以外は、女性差別ではない。どこまで重なっているか考えることは難しい。認識の壁を超えられないからだ。

だから、女性とトランスジェンダーの女性は一緒に戦えない。権利が衝突するし、何が女性差別なのか、認識に差がある。権利の衝突は、相手の権利を認めているがゆえに起きる。

ミソジニーや、女らしさという規範に反対する立場と、その虚構の中で、現実を生きることとは両立する。

ミソジニーとの距離の取り方

わたしは、女らしさには向かう一方で、ワンピースを買う。初めてMACで口紅を買ったときは緊張から解放されたと同時に、どんなにか嬉しかったかわからない。人から浮かない服装を覚えたときにもうれしかった。

社会に適応するということは、ミソジニーを中心に据えた虚構を習得するということでもある。

それは否定されうる。しかし否定しながら、適応して生きることも両立する。

ミソジニーを中心とした虚構は、例えば「女はイージーモード」「ちやほやされて、きらきらしている女の子」「美少女は自分がかわいいと思って自撮りをする」これらはミソジニーだ。

女の表象を借りて、男の妄想を実現しているだけに過ぎない。現実にはない女らしさを、現実にもってきているだけだ。

VRで美少女になった男は、「美少女の気持ちが分かった」と言ったが、それは勘違いだ。「美少女になったつもりの中年男性の気持ちをわかった」だけだ。姿を借りても美少女にはならない。

それがなぜかというと、生れてきてからずっと味わってきた苦難があれば、美少女だということをただ喜べる女などいないからだ。危険がある。それに対して、怒りをもって立ち向かうか、庇護を求めて立ち振る舞うかの違いがある。後者を「ちやほや」と呼ぶならそれは違う。ちやほやしている男には腕力と悪い目論見があり、少女を目論見を果たすためのオブジェクトとして見る。

こういう人は、ミソジニーと自己を同一化させすぎている。どうしてこれがミソジニーかわからない人もいるだろう。この場合、少女を人間として扱っていない部分が、ミソジニーである。

わたしたちは、ミソジニーと言う虚構を生きている。女は男と体の形が違うから、本当は女も一人一人違うのに、女の記号を背負わせて、その個性を平たく均一化して、「女」という集団にひとまとめにする。そして、それに抵抗するために、「ひとまとめにされた名」を使って、わたしたちは戦ってきた。でも、その「ひとまとめ」の名を突然変えられた。

わたしたちは、バラバラになって、不適切な取り扱いを、個人だけで受け止めなくてはならなくなった。

それはとても不安で、恐ろしい。

人を尊敬するということ

人間だから、自分の思い通りにはならない。

人間だから、理解できない。

何を考えているかわからない相手がいる。それは恐怖だ。

理解できると思うのは傲慢だ。理解しようとするのは誠実さだ。理解できないというのはあきらめだ。

そして、それらを経て、理解できないという事実を見つめることは、人間への尊敬だ。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください