誰がためにちんちんはあるか
今ちいさいちんちんがキテる!みたいな話は出ないわけですよ。
女の人に関しては、背丈から胸のサイズお尻の形まであらゆる話題が出るのに、男については「背が高い、低い」くらいしか話題に出ない。それは、話題を作っているのは男性だから。
男性は、自分のちんちんが小さいことに悩み、ちんちんを大きくするために努力するけれど、ちんちん補正器具を買うことを人に言うことは少ない(ちんちんを補正する器具は売ってる)。
でも、女性は体形から何から何まで補正するものが売っていて、話題にも出す。そこですごく非対称がある。女性の体は自分のものというより、他者のものである。男の体は、そもそも「誰のため」か問われない。問われるとしたら、徴兵の時。つまり、人を殺すときに男かどうか問われる。
女の体は生殖のためにある
殺すのが男の役割だとしたら、産むのは女の役割だとばかりに、生殖は女に押し付けられてきました。
すごく雑に言うと、女の役割というのは、マイナスをゼロにする仕事。トイレの壁や天井に飛び散った男の尿をきれいにするのは女の仕事だし、料理を作って食べさせるのも、子供を産んで育てるのも。
というのは、何がゼロで何がマイナスか、その目盛りを決めたのが男だから。
金銭を稼ぐのがマイナスをゼロにする役割と規定してもよかった。だって、どうせ消費してなくなるんだから。でも、稼いだ額は、足していって、生涯これだけ稼ぎました、と胸を張れるようにしたわけ。それは、男が物差しと目盛りを決める階級にいるから。だから、育児家事介護は足せない。
わたしのフェミニズムはむなしい
わたしがフェミニズムを知ってから腑に落ちないのは、主婦業を金銭換算したとき。それは三十年前の話だ。
パラダイムシフトというのが流行ったことがあった。人はある枠組みからものを見る。それは偏見だったり思い込みだったり、常識だったりする。その「当然の見方」を変える手段として、フェミニズムは画期的だった。
でも、今、振り返ってみると、それは日本ではうまくいかなかった。女性も大変なんだね、というのは、了解されやすくなったけど、その一方、「女ばっかりずるい」という男が増えたりして……。
当時の女たちは、資本経済中心の、金勘定ばっかりの、心が貧しい男にも理解できるように、かみ砕いて話した結果「主婦業はこんだけ金銭価値がある」ということを示すことができた……、のだけど、それでは、「出産は金銭換算できないから。金銭換算できないから、つまり無価値というより、マイナスでしょ」ということは覆せなかった。
そして、今でも「お前が産んだんだから責任もってミルク代は母親が出せ」とか、「出産はお前がすることなんだから出産に関する費用と子供の生活費は妻の貯金から出せよ」「おむつ使いすぎだからおむつ代節約しろよ」という男が後を絶たなかったのである。命は金銭換算できない。だから、金勘定男たちには、命が理解できなかった。
というよりも、女というカテゴリーは「生殖をする性から搾取する」男たちが勝手に決めたことで成り立っている。だから、生殖はなくてはならないけど、男が関与しなくてもいいように、設計しているんだから知らねーよ、ということである。女は穢れを全部引き受けるのだから、男はゼロをプラスにすることに専念していればよろしい。これが、社会的合意である。
母が育児を放棄すれば、大騒ぎになるが、父がおむつを変えなくても誰も騒がない。しょうがないよねと言われる。ミルク代?おむつ代?それも、母が黙って立て替えて置けばよろしい!そうすれば、誰も困らない(女と子供を除いては)。
その立場では、上記の父は正しいのである。そのために、わざわざ女を女たらしめてきたわけだから。
30年前から比べると、女は賃労働をするようになった。それで、いい面は、離婚ができるようになった、ということ。悪い面は「家事妊娠出産育児介護、それに加えて賃労働」をしてくれる人間は便利だから死ぬまで使い倒す、と状況が社会で起きてしまったこと。
トイレの話は本質
トイレの話は、些末な話ではない。育児も介護も、人間の本質に迫るテーマであるのと同じように、排泄に関わる文化と慣習は、性別において最も重要なテーマだ。人が、一日で一番排泄器、つまり生殖器を使うのはトイレだからだ。
トイレには文化がある。トイレの扉のサイズ、隙間、水を流すボタンの位置、もしくは、取っ手の形、上から水が流れてくるのか、タンクのサイズ、便座の形、トイレットペーパーはダブルなのかシングルなのか、などなどなど。
一番は排尿スタイルだ。洋式トイレでは、女性は座ってする。男性は(たいてい)立ちしょんをする。
そうすると、どうなるのか。
男性の尿は、天井から壁に至るまでびっちりと飛び散る。男性はちんこを振るので、便座の裏から床までしっこが垂れる。掃除したことあります?なくても、見たり、においがわかったりすれば、男性のトイレの使い方はものすごく汚いってわかるはずだけど、男性は「座りしょんなんて」と時には怒り、時には笑う。
洋式トイレで座ってしっこ
洋式トイレで座ってしっこできない理由を今まで聞いたことがあるのだけど
- ちんちんが便器につく
- ちんちんは下を向かない
- ちんちんがいんぽになる
- ズボンをおろすのがめんどい
の4つだけど、全部否定するね。
うんこのとき、座ってしているよね?つまり、座ってしていても問題ないわけじゃん。あと、ちんちん、便器につくほど大きくない。それに、いんぽになってもらっても、全然かまわない、座ってしっこしたくらいでいんぽにならない。ちんちんには手を添えて下を向かせればいい。じゃなきゃ、うんこのたびにちんこをうんこまみれにしてるってこと?うんこのときに、上記の主張を本当だと認めたら、ちんこはともかく玉はえらいことになるじゃん?
たった、それだけのことなのに男はしっこでトイレを汚し、(たいてい)女が汚れを引き受けて、ひざまずいて掃除をする。
ちんこにこだわっているのは誰か
男は汚し、女はその汚れを引き受ける。
その仕組みがあまりにも便利なので、男たちは変わらなくていられる。変わりたくないし、変わる必要もないし。
それで、女は出産をやめた。これは、女たちの静かなストライキと呼ばれてもいた。結果、若い人間の人口が減った。
しかし、生きている女が「生殖する性別」な以上、進学、就労、賃金、あらゆる場面で差別されるのは順当なこととされ続けた。
女は生殖するから、会社にマイナスを与えるので、賃金は低くていい、学はいらない、とか、女は生殖するから家庭の仕事をさぼるので、怒鳴ったり殴ったりしてもいい、とか。女は生殖するから、ついでに介護も育児もしておけ、とか。それで、社会進出しないようにされていたから、いまだに国会議事堂や大学に女性用のトイレがない、とか。
ちんこむかつく!と女が言い出すとき
そういう風に、女たちは汚いものとちんこの出すものを押し付けられ続けた結果、ちんこを大っ嫌いになった。
ちんこに差別されてきたから”NO!ちんこ”を主張するわけである。
それを見聞きして男は……「悪かったな」と反省するばかりか……
「女ってちんこにこだわっているんだな!つまり、ちんこが大好きだから、ちんこの話をしているんだ!」と解釈した。
わたしからすると、男は、今まで、トイレをめちゃくちゃに汚す自由、いつでもどこでもオナニーする自由、オナニーの道具として女を使う自由、自分の子供を産ませる道具(女)を得る自由、それを維持するために仕事をする自由などなどを得てきた。ちんこ中心主義である。ちんこを満たすために、社会を形成してきたように見える。ちんこ自由主義である。
ちんこに勝ち、ちんこに死ぬ。ちんこ死んでもちんこ中心主義は死なぬ!
ほかのちんこを倒すために、死ぬほどの努力をするのも、自分のちんこ自由を獲得するためだし、死ぬほどの努力の結果、死ぬのも、つまり、ほかのちんことの競争と負けただけである。
そして、インセルのような男たちが、女を呪詛するのも、女を踏みにじっている間は「真の男」という幻想を得られるからだろう。憎しみが、女に向かうのは、「本来は、自分のものになるはずだったモノ」が手に入らないからだ。すっぱい葡萄みたいに。本来は、「ほかのちんこ(自由を享受しているちんこ)」を呪詛したいのだろうが、そのちんこには、すでに負けている。すでに勝者となったちんこを呪詛するには、インセルは弱すぎる。 自分がなりたくて、なれなかったものを憎むよりは、得られなかったものを憎むほうが簡単だ。
NO!ちんこ
女がまともに人間として生きるためには、NOちんこスペースが必要である。ちんこある限り、汚物処理としての役割から、女は自由になれない。
いや、この言い回しでは男を透明化しすぎている。
男は女を自由にしない。穢れをうけいれさせるために、男は何でもする。
男は、ちんこがあるゆえに、「生殖する性」だという役割から逃れた。それを確認するために、ちんこを使い続けた。トイレで、痴漢で、性加害で。それを女に見せつけている間、男というのは自由でいられる。性暴力について、司法はいつも甘い。それは、性暴力が「財産としての女を傷物にした罪」だった明治時代を終えても。司法は男たちに牛耳られており、彼らは、判決を通して、彼らのちんこをむき出しにする。ちんこによる罪は軽い。ちんこを出す必然性は重く判断され、ちんこにより、傷んだ心身は評価されない。今なお女性は人間ではないからだ。男は、理性的な判断でさえ、男だというからだから逃れられない。それは、ちんこごしに世界を観る枠組みがあり、文化があるからだ。ちんこパラダイムだ。
女性カテゴリーをなくすためのちんこありの女性
ちんこごしに世界を見れば、ちんこの入れない「女性専用スペース」というのは、「支配不能な場所」である。それはちんこの負けである。
また、女性は、女性という言葉によって、女性差別と闘ってきた。
女性という言葉自体が、「NOちんこ概念」である。
つまり、女性という概念が、支配不能になっていることに、ちんこ中心主義者は、危機感を感じた。
ちんこパラダイム的には「女性」という言葉にちんこを挿入すれば、ちんこによって女性カテゴリーを無意味にし、真の支配が完了する。だから、ちんこありの女性を彼らは歓迎する。
バトラーを持ち出す学者はバカだ
ポストモダニズムは、キリスト教的な権威について批判するものだったのに、それを権威として持ち出すのは、皮肉である。
そもそも、バトラーを読んでいないだけで、女性の定義を変える議論に参加できないのはバカみたいな話だ。それを主張している人は大バカだ。カテゴリーや語彙がなければ、それを語ることもできないのに、カテゴリーがなくなれば差別がなくなると思っている。
バトラーを読んでいない人も、ほかの分野ではものすごく知恵や知識や知見がある。そういうことはめちゃくちゃ多い。というか当たり前だ。
抑圧については、被抑圧者がもっとも詳しいんだから、女性差別についてもっとも詳しいのは、市井の女性である。男社会であるアカデミアでのし上がった人は、女性差別には詳しくなれない。
バトラーだろうがクィア理論であろうがジェンダー学だろうが、世界のちょーーーーーー狭い世界の話である。
人々が、生活の中で生きていてその中で考えたり感じていることのほうがずっと広い。その広さに気付かない人たちが先導している議論なんて、蟻のおしっこだ。においはついて、あとからうろうろ群はついてくるだろうが、その先に何があるのかなんて、誰も知らない。アリジゴクかもしれない。
ちんこによる加害、支配について、NOを叫ぶ側と、ちんこによって支配している側と、どちらがちんこにこだわっているのか、よく考えたほうがいい。ちんこをどうつかえば、どのように支配できるのか、よく知っているのは、ちんこ脳である。ちんこ、ちんこ、ちんこよ!ちんこは崩壊した。
女性にはちんこがない。わたしはネットの中心で叫ぶけだものになる。朕は、女という概念へのNOちんこを宣言する。
これがたったひとつの冴えたおしっこのやりかただ。TINY chinko!
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