なぜ語ることが人生にとって大切なのか
暴力や犯罪被害を回復するために大切なことは、自分の人生や体験を自分自身で、物語ることで、再構築し、位置づけを自分で決めることだ。そうすることで、人生の支配を取り戻せる。
このツリーが面白くて、読んでいたのだけど、「つじつま合わせのために語りなおす作業が人生を支配する」とまとめられると思う。
これは、「人生は解釈次第」と違うなと思った。人生は解釈次第というのは人生の主体性を奪う言葉だ。でも、このツイートのツリーは、人生の主体を取り戻すことを誘っている。物語ることで、誰が人生の主人公か、明らかにするのだ。
自分で自分の人生を支配する感覚、自分の人生は自分のものだ、と主張するためには、自分の人生を物語ることが必須なのだ。
暴力は人生の主体性を奪う
「お前はこういう人間なんだから」「こうするのが幸せなんだよ」「いう通りにしなさい」と言われる状態は、常に不幸だ。なぜかというとそれは、物語る主体を奪われているからだ。
暴力がつらいのは、人生をコントロールする感覚、自分の体をコントロールする感覚を失ってしまうからだ。
それを取り戻すのは、「物語りし直す」行為が必要で、それが人生を再構築するということなのだと思った。人生はやり直しができないから、暴力によって、人生の軌道が大きく狂わせられると、それで、人生が終わってしまったと感じて、絶望する。けれど、物語ることで、「絶望」の部分は、自分でコントロールしなおすことができる。
「人生は解釈次第だ」とするなら、自分が予期しなかった犯罪のことを「あれも自分のためには必要だった」と考えなくてはならない。でも、それは、自分の主体性を取り戻すことと真逆の行為だ。どんなに嫌だったことでも、コントローラブルでなかったことをも肯定するのは、支配や暴力をを受け入れることと同じだ。殴られてありがとうございますというのと同じ。殴られることで自分はよい人間になりましたと感謝するのと同じ。
人生の主体を取り戻すのに必要な行為
犯罪を受けてから都の無償のカウンセリングを受けたのだけど、そのときに、包丁で刺されてから、包丁を使えなくて生活が不便だった人が、包丁を使えるようになるまでを語るという番組をみた。犯罪に遭って、それを思い出すことを避けるうちに、生活ができなくなるのは、あなただけじゃないんだ、という前提を伝えるとともに、いずれ、犯罪の記憶を思い出すトリガーに触れても、大丈夫になるときが来るよ、という希望を与えてくれた。
物語ることで回復していく
回復は、自分が犯罪を受けたというショックを分解して、語ることで行われる。
わたしがこうして語ることも、誰にも知られずに死ぬのは耐えられないからだ。自分の被害経験が、誰かの訳に立つ、それが社会正義の貢献になると信じられることが、よりどころになっている。人と人とのつながりを信じたいのだ。あの悲惨な経験が無駄で意味がないものだと黙ること。
語ることは「あなたはよく生きてくれた」と言ってくれる人がいると信じることでもある。
「あなたはおろかだから暴力を受けたのだ」といわれることもある。「自分のせいだろう」とも。
だから、一番最初に語るときが一番恐ろしい。少しずつ楽になっていく。一回目が一番恐ろしい。
カウンセリングが大事なのは、この一度目を受け止めて支えてくれるからだ。カウンセラーに、安心して話せるというのは、「あなたはよく生きてくれた」と言ってくれるということでもある。一度、受け入れられると、ほかの人に「自分のせいでしょ」と言われても、人を信じることができる。
語ることで、傷を深める場合もあるけれど、語ることで、自分の体験を、自分に取り戻す作用がある。
暴力は、「体験」を奪い去る
暴力は、自分の体験を奪う。
通常時の体験は、たとえ、偶発的に起きたことだったり、人に何かされることであっても、基本的には、「その経験をしている間、自分には、行動の自由があった」ということが前提だ。そうすることで、「できごと」を自分がどう処理したのか、という部分を認識する。それが経験なり、体験だ。
一方、暴力は、時間、場所、身体、精神の自由を奪わう。「どうすることもできなかった」という感覚は、ずっと続く。
暴力を支配しなおす
それを、語ることで、自分の手にする。受けた暴力を支配可能にする。「人生を物語る」行為は、暴力を、今も続いているものではなくて過去のものにする作業だ。
暴力を受けると、それは、過去のことにはならず、ずっと続くものになる。暴力は、現在を脅かす。わたしの場合、暴力を受けてから、失職したり、人間関係が崩壊したりした。それが暴力という過去が、現在を脅かすという具体的な例である。
そうしたことを、暴力の影響だと認めることが大事である。自業自得、自分のせいだとか、暴力のせいにするのは甘えだとか思っているうちは、社会復帰できない。自分の責任から切り離して、相手に暴力の結果の責任があったのだと、それを問い直す。わたしの回復の過程である。
これは、ちょっと不思議なことだと思われるかもしれない。相手のせいにすることよりも、自分のせいだと思っているほうが、自分の人生の経験を支配することになるんじゃないかと。
ただ、経験上、自分のせいだと思っているのは、自分の能力を万能だと考えていることの裏表だ。
どうにもならないことがあったと認めることが、自分を責めることから解放する。自分に責任がなかった、あれはひどい出来事だった、と物語り、責任がないのに苦しい、と言えることが大事なのだ。
「自己責任」は、社会の責任放棄
話は脱線するけれど、「自己責任」という言葉は、たいてい、何かの被害に遭った人に向けられることが多い。それは、つまり、他人が被害者に責任を擦り付けているのだ。本当は、被害者にそもそも暴力が振るわれないように、社会が守らない行けなかったのに、自分たちにその責任がないと思いたいから、被害者に責任を押し付けること。自分が悪いと思いたくないから、責任を押し付けること。社会が、責任を放棄する。「自己責任」と言っている側が、自らの責任から逃れようとしているのだ。自己責任の主体は、実は社会にあるのに、それをあたかも被害者のものだと押し付けている。言葉が矛盾している。
そして、自己責任は、被害者の物語ることや回復を阻害する。
本来、社会には、人が、安全に暮らせることを保証する機能がある。人の自由を守るために社会がある。暴力が起きるというのは、社会がその責任を果たせなかったということだ。
「自己責任」や、「自衛」という言葉を被害者に向けるのがなぜダメかとまとめると、回復のために自ら物語るという行為を阻害するから。また、社会には、暴力から人を守る責任があるのに、その責任を自分たちで負いたくないばかりに、被害者のせいだ、とすることで、責任逃れをしているから。
自己責任という言葉の主体はどこにあるのか
自己責任という言葉の主体は、被害者にはなく、傍観者や社会にある。自己責任という言葉は不思議な言葉だ。傍観者が、自分たちの社会に責任があると認めたくないから、人のせいにするための言葉なのに、「自己」という言葉がついている。被害者は、自己責任という言葉を受け取ったとき、その言葉を自分で支配することができない。常に押し付けられる言葉なのだ。「自衛」もそうだ。「自分が気を付ければよかったのに」という言葉だから、責任の主体が、被害者にはない。
自己責任や自衛という言葉が、被害者に投げつけられたとき、その言葉は、被害者の人生を回復させない。むしろ妨げになる。「暴力を受けたのは自分が悪いせいなのだ、もっとこうすればよかったのに」と考えさせることは、被害者の意識を過去にフォーカスさせるだけだ。過去を観ている時間は、現在を失わせる。だから、「自己責任」も「自衛」も、被害者に現在を生きることに貢献しない。過去に生きさせる言葉だ。過去に生きている間、被害者は人生の主体になれない。
人生を再構築するために、物語る行為では、やはり、夜と霧のフランクリンを思い出す。
今思うと、彼は、この本を書くことで、自分の経験と、社会との接点を取り戻したのだと思う。暴力にさらされると、人生のコントロールを失い、社会との接点を失う。誰にも見てもらえていない、知られていないまま死ぬのだという感覚は、自分を生きるに値しないと思わせる。自分は生きていても死んでいてもどうでもいい存在だ、だから暴力を振るわれるのだ、とわたしは思ったし、そう思うことで、暴力を生き抜いた。でも、暴力後の世界で、その感覚は、人生を生きることを難しくする。
自分が自分であるという感覚を取り戻す作業
自分は役に立つのだ、という感覚は、自分の誇りを取り戻す。この人生は社会にとって意義があるのなら、わたしは人生を生きるに値するのだ、人生自体にも価値があるのだと思える。物語るというのは、加害者によって切断された、人と人とのつながりや、社会との接点を取り戻す作業である。「世界に受け入れられている感覚」を取り戻す作業だ。社会が果たすはずだった責任を問い直すことでもある。
暴力を受けたとき、社会を信じられなくなるのは、社会が「自由」の責任を果たさなかったからだ。それを生々しく実感するので、人を信じられなくなる。自分の傷が、いつもそれを思い出させる。
戦士としての物語
「人生は解釈次第」というのは、加害者にとって都合のいい言葉なのだ。人生は解釈次第で、悪かったこともよかったことに代わってしまえば、被害者自身が、加害者を、その罪から、覆い隠してしまう。物語ることは、「加害者に罪がある」ということを示す作業である。あれは悪い出来事であり、それは加害者が悪いのであり、自分はそうした体験を潜り抜けた戦士である。そう確認すること。
戦士は傷を負い、今は治癒のために苦しみながら休息をしているが、また、闘いのために立ち上がる時が来ると考えること。それは、暴力をなかったことにするわけでもなく、希望を未来につなげる考え方である。
自分の言葉で物語直し、人にそれを話したり伝えたりすることで、一度ほどかれた信頼の糸をつなぎなおすことができる。
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