ジュディス・バトラー「非暴力・哀惜と個人主義批判」12/11明治大学の講演会まとめ、感想

12月11日の明治大学での講演会に行きました。

個人的な話をすると、自分は前日に38度の熱があり、一歳の子供を預け、地方から新幹線で一時間半移動してたどり着きました。

地方だと、ただでさえ情報が来ない、知から切断されている状況で、母親になってから、まともに本を読むこともできず、名前を呼んでもらうこともレアみたいな状況です。あと、障害を持っているので、講演会で触れられた「サポートされる」強度の強い人間です。

という前提を持った人間が聴いたので、そういう単語を多めに拾い、自分なりに解釈しやすいという影響があります。障害とは関係なく、知識や頭の回転の素早さや処理能力などの、能力的に理解できず、話をきく上で、理解の解像度が低く、また、情報量が多すぎて、処理落ちしている面もあるので、その辺をご了承ください。つまり「バトラー先生はこんなこと言ってなかった」というのもあると思います。理解できなくて勘違いしている部分もあります。

特に、個人主義批判の辺は全然わかってないです。

バトラー先生の講演はだいたい三つに分かれていました。

最初、ホッブスやマルクス、ルソーの指す「人間の自然状態」がフィクションでありファンタジーとしても、そのファンタジーを読み解くことで、それが排除しているものを映し出すという部分でした。たぶん、そのフィクションを前提にして理論が組まれているから?

次に、哀惜可能性と個人。

最後にグローバルの義務を問う。イマジナリーの地平を超えるという部分がありました。

下記はバトラー先生がおっしゃったことを、記憶した限度でまとめたものです。

1.イマジナリーな社会の定義について解釈することで見えること

ホッブスをはじめとしたルソー、マルクスが定義する自然状態の人間は、ロビンクルーソーのような、最初から大人で、しかも男です。独立しており、1人で立っており、必要なものを自分で充足できる大人です。従属する必要がありません。

人に支えられて立ったこともなく、口に食べ物を運んでもらう必要もなく、毛布を掛けられたこともなく、そして、毛布を掛ける必要もない人間です。

そこから排除されていると示唆されているのは、「サポートする」「ケアする」「依存する」人間です。

生まれてから大人になるまでの過程が排除されています。そこに関わったはずの人も示唆されていますが、見えません。

ケアする人間が示唆されていても、見えない、定義不可能な存在です。

(最近、自分で悩んでいることがあり、それは女というものを定義しようとしてもできないのはこのせいか、と自分で納得した。定義不可能な領域に追いやられるものに名前を付けると女になるんだからそりゃ、女から見て定義できないよね、そもそも、定義不可能な領域に追いやられているわけだから)

しかし、自然状態の人間が、一歩社会を求めると、自然と女を求め、何かを欲望し、時には紛争を起こします。

でも、独立可能で自分が必要なものを充足できる人が、なぜ、突然紛争を起こすのでしょうか?異性愛的な仕組みが前提とされた考え方です(ここのところ、なぜ異性愛的な仕組みが前提とされているか説明は合ったけどよくわからなかった。ちょっと脳が止まってて、脳みそに入ってこなかった)。

頭に入っていないなりにまとめると、つまり、わたしの解釈がかなり入っているけれど、「男が女を求めて、ケアを女に丸投げするから→これは、バトラー先生は、女性という言葉をたぶん使っていなくて、隠蔽された存在に丸投げして、見えなくしている、ということを言っていて、ケアを見えなくするためには、異性愛的に女=隠蔽された存在を求めざるを得ない、その考え方自体が異性愛的だ」と言っていたと思います。

人間が、そもそも依存性が高く、依存するから社会が存在する前提で考えると、紛争は、社会的な行動です。

二人の人間がいて、依存しあうために二人の社会を構成していた時に、片方が、弱って(病気になったとして)、依存度が高まったときに、それを放っておくことはできない。なぜなら、依存度が高まっていても、それを放っておいたら、社会自体の強度が下がってしまうから。だから、例えば遠い国の誰かが困っていても、自分には関係がない、という風に考えるのは間違っています。

依存性が高い者同士が支え合う仕組みを前提にすると、持たざるものを得ようと欲求し、紛争によってそれを充足させることが説明可能になります。

依存性が高まると、集団を形成します。一人が依存性が強まると、集団自体の依存度が高まり、それを回避するために、それぞれが助け合います。

(障害者支援で、「依存先を増やすことが大切」みたいに言われるけど、そもそも、社会の成り立ちが、依存性が高いものの希求により成り立つなら、納得がいくと思う)

社会は、独立した人間が作っているのではなく、独立していない、依存した人間が作っています。独立していないから、ほしいものができて、ほしいのができるから、紛争が起きます。だから、紛争は社会性の発露なのです。

サポートを受けない人間はいません。食べること、飲むこと、移動すること、呼吸することさえ、サポートに依存しています。

一つの国が、安全な呼吸可能な空気を作ろうとしても、それは不可能なので、すべての国が、安全な空気を維持しようとして、はじめて、呼吸ができます。

車止め、道に歩道があること、信号、それもサポートです。歩道があるから、人は、目的地に行けます。それは、必ずしも、障害のある人のためにあるわけじゃなく、すべての人がサポートを受けるのです。

2.哀惜可能性と個人化

暴力を政府が持っています。民衆の暴力を暴力と定義するのは政府です。しかし、「一撃」だけが暴力ではなく、制度が、順序立てて、人を裁く仕組みそのものが暴力であり、民衆の「暴力」を暴力と名付けて、政府の暴力を隠ぺいすること自体が暴力なのです。

命は大事だと言われますが、すべての命が大切なのではありません。

命が大切だという時、大切ではない命があり、その大切ではない命は隠蔽されています。

補足:その命が大切だと定義する側、される側で命の大事さがことなり、その結果、暴力によって、命が消されるかどうかが判断され、殺されたものは記憶もされません。具体的には欧米で言えば、自国の国民は大事だが、移民は排除する、有色人種は排除する、というような意味でした。それが隠蔽です。命については、生きとし生けるものすべての命で人間だけについて、話されてはいませんでした。そして、命の大事さの偏りを「哀惜可能性」によってバトラー先生は説明していきます。

そこで、「哀惜可能性があるかどうか、その分布が、嘆かれる命かどうか」が、失われた命、生きるべきだった命と認識されます。死んでも哀しまれる人があり、死んだことを認識されもしない人もいます。

補足:哀惜可能性を判断する側、される側で、まず、命の大切さの非対称性があり、さらに、される側にも、哀惜されやすい命、哀惜されにくい命があります。哀惜可能性が低い命は、失われても哀しまれない命です。それは暴力にさらされやすいということです。哀惜可能性を判断する側はそれを暴力だと認識せず、悲嘆しないので、たやすく失われます。 かなり自信がないので傍線を引きます

補足:ナチスドイツの話で彼らは戦後十分に哀しめたのか、という話をされていました。

その分布自体が、暴力です。

(日本人で女で地方に住んでいるとめっちゃ哀惜可能性低いなと思いました)

人間は、生まれてから、個人化していきます。

(たしかに、出産するまで子供は一心同体で、その後、少しずつ母から離れる過程を成長と呼び、成長は、子供の個人化する過程であり、保育は、その支援作業だと思った)

その個人化が強まったときに、社会での依存性や哀惜可能性について、かんがえられなくなります。

自分と似ない、人間や、すべての命について哀惜可能性を強め、分布の偏りをなくしたときに、非暴力が実現できるでしょう。

植民地支配について、植民地の依存性を高めて、植民地支配された人々のもともと持っていた力を弱めることで、支配しているのだが、「依存性が高いから支配して助ける」ような言い訳で、正当化してきた過去があったことへの批判もありました。

そして、そのようなことが、今も哀惜可能性の分布という形で行われています。哀惜可能性が低い命を作ることで、そうした人々を支配し、時に、殺すのですが、殺して、失われた命をことをそもそも認識しません。死んだ後も哀しまれない命です。

それを平等性という観点からも批判していました。

補足:暴力は哀惜可能性の分布の偏りによっておきます。

補足:哀惜可能性から、平等性の達成について考えていくことができます。

3.グローバリズムへの義務への問い

グローバルリズムへの義務への問いについて語ると、理想的すぎるという人がいるけれど、今の暴力に満ちた世界でそれでいいのというとそれは嫌だとみんなが言います。

世界中で、難民を押し返す、移民を拒否する、排外主義。これらは、条約などの約束を破ることが行われています。

グローバル化を、ポスト国家主権と考えるか、国家主権の強化のもとに条約などの締結に至るのか二つの考え方を持つが、前者を取ったとき、それを実践するときには、約束を守るということが大切になる。今は、約束を守っていない現実があります。広島、長崎、平和を持続していること。持続すること自体が大切。それは、悲惨なジェノサイドを記憶し、忘れないでいる人がいるため、守られてきていることだと。

グローバル化の義務は、相互依存性を前提とした社会、あの人は関係がない、あの国は関係がないというのではなく、依存可能性が高い人々が集まった集団だから、そこの脆弱性を助け合うことで、社会を強めていくことです。(ちょっと難しくてこうとしか理解できなかったけど、違うことを言っていた可能性はだいぶあります)

具体的に実践するのは、まず、約束を守ることが大切。約束を破るから、押し寄せたボートになる難民を、ボートごと押し返すということが起こります。本当は、その人たちにも通過する権利があるのにも関わらずです。

国家はイマジナリーでありフィクションなので、それを超えていくことができる。その一つとして、条約の締結などがあげられます。国家を超えることで、哀惜性の分布が平等になっていく、そこから漏れる人がいなくなる(というような意味のことをおっしゃっていた気がするが自信がないです)。

みんなは、現実になりすぎています。イマジナリーの地平線を超えるためには、考えることが、現実を、次の段階に連れて行くでしょう。

質疑応答

印象に残った質問(というか、理解できた部分だけ)

DVを受けている女性が夫から逃げるときに、ネットから逃れることになるが、その点はどうなるのか。

→社会のほかのネットに吸収される、それは、フェミニズムの運動であったり、社会の仕組みであったり、それがあるといいとは思うけれど、ほかの社会のネットに移行することが望ましい。

(わたしは、この質問はかなり嫌だった。それは、DVを受けた女性として、その女性の主体性を無視したうえで言っているように感じたから)

トラウマになることを組織内で受けたときにどう考えるか?

→トラウマを得る原因になったことから、また、報復していくと、暴力の連鎖が起きるから、調停が必要と考える。具体的な事例を抽象化された質問かと思うが、これくらいしか言えない。

4.質問したかったこと

いい講演会だったので、様々な疑問がわたしの中で起きました。

わたしが質問しようとしたのは以下のこと。

研究者の人がどうしてもしたい質問があると思って遠慮したけど聞けばよかったが、最後の二人目くらいのタイミングで手をあげたので、質問できなかったのは悲しいです。

バカみたいな質問だと思ったけど、日本人(非白人)の女性で、しかも、障害があり、子供もいる母という存在。質問の時には所属も名乗れと言われたけど、どこにも属していない。そのような人間に、何ができ、何を考えることができるのかをききたかったのです。

名乗ることができない人間から、質問ができるのだろうという恐れがある。だから、質問ができなかったわけだけれど、ジェンダー学の講演で、さらに、質問すらおびえてできない存在に、では何ができないのか。なかったことにされているけれど。だから、「質問できない恐れ」自体が、大切な気がしました。そもそも、わたしのような立場の人間が、バトラー講演会に行って、一日自分の知りたいことを知るために使えることがレアなので、自分の存在を考えることからも排除されているんじゃないかと。

母親として、何かを言いたい、主張しているわけじゃない。

母親は、社会の中に居場所がないので、どのような意味があって、どのような文脈でとらえられているのか。

地方にいて、人や知のアクセスから切断されがちである。声も出しにくい存在である。

まさに、相互依存が必要だが、相互依存から弾かれる存在。知へのアクセスを遮断され、隠蔽され、貧富の差もあり、そうした人間が、よりよい社会を作るために、助け合う社会を作るために、できることはあるのだろうか?あるとしたら、それは何か。無力感に囚われ、自分の名前さえ失っている存在に、できることはあるのかということを聞きたかったのです。

というのは、「サポート」という言葉からわたしが真っ先に連想するのは母親なのですが、そこから、隠蔽されやすい人間として「クィアスタディーズ」に向かっていき、LGBTQ(という言い回しじゃなかったけど思い出せない)や中でもレズビアンについて話が進んでいったので。

わたしがもちろん無知なんだと思いますが、母親を社会の中で定義している言葉は上野千鶴子先生の「再生産」という言葉だけなんですけど、「再生産」には、どうも借りてきた上着のサイズが合わないという感じの違和感があります。

というのは、母親ではない、非当事者が男性的な価値観、男性的な都合のよさによって、スポットライトを「出産と育児」だけにフォーカスしているからです。母親には、「出産と育児」以外にも人生があって、それを奪われた、過去を剥奪された存在という意味もあると思うからです。そこの剥ぎ取られた存在、という部分が出てこなくて、「役に立っている部分」だけ、注目されている感じがするので、「再生産」には違和感を覚えます。

それは、アカデミシャンに、母親かつジェンダーを研究する人が少ないからなのか?と思うとしたら、まさに、隠蔽された中の隠蔽されて、気が付かない領域にいるのが母親なんじゃないかと。無謬のない成人男性じゃないものを、隠蔽された、定義可能性の外にはじき出された存在、という風に呼ぶのは、実感があり、女として生きることはまさにそうだなと思うのですが、そんな風に、実感できる言葉で「母親」というものを考察されたものがあるなら知りたいなと思います。

わたしは、例えば、「隠蔽された存在の中でも、さらに、隠蔽され、人生を剥奪され、名前を喪失し、産み育てる機関としてのみ存在を認識され、期待されながら、さらにケアもなかったことにされる存在」と呼ぶかもしれません。

Twitterでは「子が初めて接する人間」という風におっしゃってくださった人もいました。

母親というのは個人の経験に依存するものが多く、定義が難しいのかもしれません。

とはいえ、「依存性の高さは必ずしも搾取を意味しない」ともバトラー先生は講演中におっしゃっていた(と思う)から、なにかあるのかもしれない。ちょっとわかりません。

母親として、社会の意味を問い直した時、言葉がないので、世界から隠蔽され、過去からも切り離された、「母親」という言葉を表す言葉、再定義しなおす言葉がほしい。

サポートするものが隠蔽された、ということが発見されたのに、ジェンダー学は、母親を注目して研究するのではなく、なぜクィアスタディーズに向かっていったのか、考えると、そこには、母親かつジェンダー研究者の少なさが想起される。

母親としての生、母親として生きる経験を、社会での意味を、位置づけを問い直した時に、母親ってどういうことになるんだろう?

めっちゃ素朴な疑問で恥ずかしいんですけど、こぼれているのだとしたら、自分で研究したい。

ミーハー的な部分

ミーハー的な部分を満足させることを言うと、バトラー先生は、登壇する際、猫背で、背を丸め足元を確認するように、うつむくように歩いていました。登壇され、話すときには、顔をまっすぐ上げ、身振り手振りが明確で、低く穏やかな声で、聞き取りやすい英語を話されていました。

服装は白っぽいジャケットに、緑色の柄のあるレーヨンかシルクの柔らかいシャツを合わせていました。

ケアの話をしているときに、水差しから水を汲んで飲んだ時に、同じように生きているんだと感動しました。動いて、話す姿を見ることがわたしにとって一番重要だったかもしれません。険しい顔をされたり、時にはユーモアを交え、微笑んだりしたとき、その迫力にスーパースターだと興奮しました。意外と小柄で、目が合ったような気がして、どきどきしました。知の最先端にいる人と同じ空気吸ってる!

シルバーの髪を、何度もかきあげ、前髪をくしゃくしゃにしながら、手を広げたり、手を振って話されていました。

ほかの方の感想

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