買い物依存と捨てられない問題

わたしは本当に「モノ」に執着する。

購入に至るときの心境

ほしいものがなくても、ネットを見ていれば、何か物欲を刺激する広告や情報、写真、記事などがあるものなので、毎日「ほしいもの」を探しいる。何がほしいのかまだわかってなくても、ネットサーフィンする。そのうちに「ほしいもの」がみつかって、抽象的な「何かほしいもの」ではなく「これがほしい」になる。

商品を何度も見ているうちに買ってもないのに自分のモノだって錯覚する。執着が募って、もう、自分のモノに等しいんだから、これを手に入れられなかったら、わたしは欠けた人間として生きていかなくちゃならない。そんなのはいやだ。そう思って、自分が満たされた人間になるために買おうとする。でも、お金は減る。減るのはわかっているからすごく葛藤する。これ買おうかな、どうしようかな、本当に必要なのかな、という風に。

決済するときには、その逡巡から解放される。すっきり!やった!わたしはわたしになった。わたしはわたしのほしいものを手に入れられる。そういう能力があるんだ!だから、わたしのところに、「これ」は来たのだし、わたしは「これ」の分、より良く生きられるようになった。ちゃんと、わたしは、人生を楽しんでいる。ほしいものをほしいってわかっているんだ!そういう気持ちになる。

でも、それはすぐ終わる。

嬉しい気持ちの一方で、後ろめたく、罪悪感がある。支払いへの恐怖とは別に、「いらないものを買ってしまった」「間違ったものを買ってしまった」という疑念がぬぐえない。本当に欲しくなったから買ったのに、本当に欲しいかどうか我慢すればよかったんじゃないかと、頭の中がいっぱいになる。

「すっきり」はやっぱり一時的なものだ。

すぐに次の何かがほしくなる。

「これが手に入ったらわたしは今度こそ幸せになるに違いない」「この素敵なものが家の中にあったら、どれだけうっとりとした気持ちで生活できるだろう」「わたしにはこれが欠けていたの。だから、満ち足りなかった」「今度こそこれが正解」

「でも、これよりいいものがあるかもしれない。損したくない。同じ値段で優れた性能のものを買いたい」「見ていたら少し高い値段を出せばもっといいものが買える」「なんて素敵なの?」「これもこれも素敵」「選ぶことなんてできない」「これで最後」「でも、前もそう思って買い物をしたけど、結局今も買い物している」

処分したものを懐かしんで落ち込む

五年前に捨てたワンピースのことをいまだに思って落ち込むし、一年前に処分したブーツのことを検索するし、一週間前に処分したショルダーバッグについても悲しむ。

どんなに小さな装飾品でも、それが積み重なれば段ボール箱ひとつになって、それが増えたら一部屋埋まるのまではあっという間だから、人が生きていくスペースを確保するためには処分するのは当たり前で理屈に沿っているんだけど、一度自分の一部になったものを捨てるのがつらいの。一度、手に入れたものは体の一部になる。捨てるときには体を切り離すみたいな気がする。

c71の著書

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