改名させることは支配の象徴

夫婦別姓を求めている人に、「結婚しなければいいのに」「名前なんて単なる記号でしょ、なにがつらいのかわからない」「愛がそこまでないなら結婚する必要がない」という人がいるので、自分の考えを書いてみる。

まず、結婚すると、便利なことがたくさんついてくる。パートナーの手術の同意書が書ける。家族として扱われる。税金も違う。相続もできる。子供の親権を二人で持つことができる。もちろん、ロマンティックでもある。それが満たされるのは大きい。社会的な信用が全く違う。

名前は記号に過ぎないが、すべての情報と紐づいている

名前なんて単なる記号という人もいる。しかし、その人の個人的な歴史は、その記号に紐づいている。だから、記号が消滅すれば、その人の功績や、積み上げてきた信用が全部失われる。名前というのは、育てるもので、もともと単なる音だったものも、使われていくうちに、意味を持ってくる。名前にイメージが付く。それを自分もフィードバックする。

例えば、木村拓哉、という名前を見たら、たいていの場合、イメージするのはただ一人でしょう。同姓同名の人がいたら苦労するだろうな、と察しもつく。それが、単なる記号が意味のあるものになるということ。

もし、名前が単なる記号で意味がないのだとしたら、「イチロー」という名前に経済的付加価値が付くこともないし、商標登録もできないはず。でも、現実にはこの名前一つとっても、経済的な価値があるし、「イチロー」は商標登録をはじめとした、いろいろな法的な保護をされている。名前には価値がある。

苗字ならば違うかと言えば、そうではなくて、それまでの育った家族との歴史がつまっているし、公的な場ではほとんど苗字で呼ばれるから、公的な場で呼ばれたという経験の積み上げから成り立っているアイデンティティが傷つく。それで、名前を変えると、喪失感に苦しむ人が出てくる。

家格が低ければ名前を変える理由になるか

「たいした家じゃないのに」という人もいるだろうが、たいした家だろうとなかろうと、苗字とアイデンティティと紐づいているということは肯定されるべきだ。そもそも、家に格があるという考え自体が差別的だし、家の格が低いほうが譲るべきだという考えはさらに差別的だ。

愛の有無を試すなかれ

「そこまでの愛がないなら、結婚しなければいい。愛があれば変えられるはずだ」というのも、実際に名前を変えて、「愛を試される」のは女性ばかりだ。愛の有無を試される性に、偏りがあるのだから、それは差別である。ある属性に不利益が、構造的な問題で生じることを差別というからだ。
法律で一つの姓にしないと決められており、変えるのがほとんど女性だということを、社会が公認しているのだから、それは構造的な問題である。

合意の下で、自由意思で決定されているから問題がない?

合意の下で、自ら名前を変えたがっている人ばかりだという人もいるかもしれないが、自由意思であれば、女性のほとんどが改名するように偏るのは、理由があると考えるべきだろう。女性のアイデンティティが軽んじられてなければ、この偏りは生じないはずだ。

改名と支配の関係

植民地支配するときに、たいていの支配者は、自分たちの母国語の名前に改名させる。
被支配者は名前を呼ばれるたび、自分たちは支配されているのだ、だから、自らの名前を失ったのだ、と屈辱とともに実感するだろう。そうしたことは、気力を奪う。

改名は、支配を見せつける効果がある。支配される側だということを思い知らせる。

対等なはずの二人の間の不均等な力関係

対等な二人がするはずの結婚で、常に支配関係が発生する夫婦同姓の強制は、以上の理由で間違っている。

夫婦同姓の強制は、家父長制そのものである。男の家を守るということと、女の名前を変えさせることは、ほぼイコールで結ばれている。名前を変えるとたいてい「嫁」と呼ばれる。実際には、現在の法律では、相手の家の戸籍に入ることがないので「嫁」という概念はない。それなのに「嫁」という言葉は今も使われている。つまり、夫婦同姓が、結果的に、意識の上の家意識を存続させているのは間違いがないので、夫婦同姓は、事実上の家制度の維持に他ならない。

家制度はもうないから夫婦同姓の強制もやめるべきだ

結婚は、新しい戸籍を作る行為だ。家制度はもうない。だから、夫婦同姓を強制する意味もない。だから、夫婦別姓を制度として認めるべきだ。

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