わたしを嫌いなわたし

わたしは自分のことが嫌いだ。嫌いなときと、まあまあ許せるときと、まだらだ。

まず顔が嫌い、声が嫌い、足音がうるさい、姿勢が悪い、生理痛が重い、メンタルが不安定で、突拍子もないことをして迷惑をかける、長電話のくせがあって、死なないけど元気に働けない程度の病気をいくつか持っていて、人といると疲れる、ダサい、センスがない、能力がない、天才じゃない、美しくなく愚かで、協調性もなく、気が利かない。

自分がアンジェリーナ・ジョリーじゃないって真剣に悩んで、整形手術について一か月くらい検索していたことがあった。同じ人間だってことくらいしか共通点がないのに。自分が平凡でなんの才能もないのがつらかった。なんの才能も能力もない。

ようするに、自分が、貧しく、美しくなく、白人ではない、ということに気が付いた。わたしにとって、そのときの「美しい女性としての完成品」が、アンジェリーナ・ジョリーだったのだろう。だから、自分がアンジーではないんだということに落ち込めたのだろう。

人に笑い話として話して、「才能も能力もないなんて、そんなことないよ」、と優しく声をかけてもらった。でもそれもつらかった。そういう優しい人に恵まれているのに納得しない自分が、せっかくのやさしさや思いやり、善意を受け取れない嫌な奴だと感じて、また落ち込む。

いかにしてわたしは自分を嫌うようになったか

十二歳の時、自分の体が変わり始めた。わたしは、大人への変化が恐ろしくて、男でも女でもない透明な生き物になりたいと願った。

それまでは自分を好きかどうか考えたことがなかった。自分を嫌っていじめる人はいるけれど、だからといって、自分が自分を嫌ってはいなかった。理不尽は理不尽だとわかって、拒否する力があった。居心地が悪いと思うことはよくあった。人と違っていると思うこともあった。

現実から逃げるようにして勉強をして、勉強していたら誰からも怒鳴りつけられないし、みじめなことも忘れられたし、勉強で知った世界は広いしで、勉強しているのはまあよかった。人よりもちょっと優れている感じもある。本当はいろいろとまずい現実が押し寄せていたけど子供だったから何もできなかった。無力だった。でも勉強に対して、自分は無力じゃなかった。自分が何かできるという感覚が育った。だから勉強したのはよかったと思う。人生の軸が勉強になっちゃったのはまずかったと思う。勉強以外には、人生がつらすぎて、自分の体の一部を削り取りでもしないと、自分が生き物だということが嫌すぎた。身体感覚を手放していくうち、生きている実感が得られなくなった。ふわふわしていて、それはそれで快適だった。薄いベールのような膜を通してしか、現実が感じられなくなった。でも、そうしたら、危険を察知する能力が著しく下がって、事件に巻き込まれやすくなった。それと同時に、病気が自分の体が自分のものだと、苦痛を通して嫌というほど教えてくれた。痛みからは逃げられない。

ここぞ、というところで体の不調や、家族関係、友人関係で躓くから、進路が思ったようにいかなかった。そのせいで、人生がうまくいかないんだと思っていた。いつも今よりちょっと前の分岐点のことをずっと考えてた。いつも今よりもちょっと前のことを後悔していた。あのとき、こうしていたら、あれには会わなくて済んだんじゃないかと、いつも過去のことを思いめぐらし、あのとき、もっとこうしていたら、今の自分はもっと成功して、幸せだっただろう、という妄想に没頭するようになり、今、生きているはずの時間を失っていって、過去を思う時間の長さに、現在、できることがあったはずの時間がなくなった。

そして、わたしは、自分のことを本当に嫌いになった。

自分を嫌いになったわたしは、現実が、薄いベールを通したくらい、遠い存在になってしまったので、常にぼんやりとしていたので、自分の体が自分ではないようだった。いつも、夢の中にいるみたいだった。痛い時に現実だと気づいた。

ぼんやりとして、浮遊しているような感覚で生きていたので、危険に対してのセンサーが鈍くなった。危険に気が付かなくなった。

世界への信頼を失うということ

働き始めて、残業帰りの夜道で、肉体的にひどく傷つけられた。それは、自分が女だったから振るわれた暴力だったのは、その時点からはっきりしていた。退院してからが地獄だった。誰もが、どの瞬間でも、自分に暴力を振るえる、それが可能なんだとわかった。それが真実。誰もが暴力を振るうことが可能。そしてそれは気のせいではない。勘違いでもない。実際に、自分は暴力を振るわれたのだから、誰もが暴力を振るうものだと考えて生きるのが正しい。

あらゆる瞬間に、自衛するのが正しい。つまり、外出したら、いつでも殺されるもしれない。家の中にいても、誰かが窓ガラスを割って入ってくるとも限らない。そうじゃないという保証はない。

それを基準に行動したら、普通の生活ができなくなった。それを基準にしないという選択肢はない。体が勝手に怖がるのだから。

エスカレーターに乗ると後ろの人が刺すんじゃないかと思う。エレベーターに乗ると、ひどく殴られて首を絞められるんじゃないかと思う。人とすれ違うと呼吸が浅くなり、震える。

犯罪に遭うと、世界への信頼が傷ついて、外に出られなくるので、働くこともできなくなり、生存ができなくなる。自分が悪いのだと責めているうちに、人に何も話せなくなる。自分の状況を隠すようになる。

わたしは仕事をやめた。三十社受けて、ようやく入社できた会社だった。先輩や上司もいい人たちだった。悔しかった。

「外を歩くことすらできないなんて、人間失格じゃないの?」と思い始めたら止まらなくなって、自分が恥ずかしくなって一生隠れて過ごしたいと思った。

犯人は、暴力を振るいやすい女を物色してから、犯行に及んだのだと言っていた。わたしは、狙われるような、自信のない歩き方をしていたから、狙われたのだと思った。暴力を振るわれたのは自分が悪いんだと思った。

「わたしが嫌いなわたし」は普遍性のあるテーマなのではないか

たびたび、「自分を好きになろう」というテーマが女世界で流行る。ということは、裏を返せば、わたしと同じような人がいっぱいいるってことだ。幸せになれるんだとみんな信じたい。

何かを始めようとすれば、「ワナビー」「意識高い系」「目立ちたがり」「自分大好き女」「自己陶酔」「だから言ったじゃん」「自己承認欲求すごすぎ」「自慢」と言われる。それは、わたしだけじゃなく、弱い属性の人たちはみんな言われる。特に女性は、家庭的で金銭が絡まない趣味ならば見逃されるが、たとえばハンドメイドでも、お金を取って販売しようとすると、それだけでもトラブルのもとになる。女性ブロガーが、バッシングを受けるのはよく見る。同じ内容を書いている男性が賞賛される場面も見る。

自分のしたいことをするのは、恥ずかしいことのように、年齢や容姿、写真、表現物、すべてを、女性はあげつらわれる。自分を生きることを恥ずかしいことだと思わされてきたから、わたしは、自分の人生を、自分の責任で生きられなかった。自分のしたいようにできない。そのことと、誰かのせいにしながら生きる、という責任感のなさは、裏表なのだ。

「自分のために生きたらいけないのか?」この問いの答えは出ている。自分を生きるべきだと、様々な人が言っている。でも、実行できない。

女が嫌う女、というテーマが、何度も繰り返されるのは、女に枷をはめることを娯楽として消費されているからだ。女自身も、それを「面白いもの」だと思い込まされている。わかり切っているのに、進んでいけにえになりたい人なんていない。

愛の名のもとにすべてを投げうたない女は欠陥品

「愛のためにすべてを捨てられないんだったら、それは、それまでの愛だったんだよ」

そういう風に言われたことがある。それを聞いて、ショックだった。自分は薄情で、人間味のない、愛のない人間だと言われたのも同然だった。冷静に考えれば、そういう風に言った人が悪いと思う。だけど、それを言っている人が、住処を保証してくれる人だったら、どんな言葉でも鵜呑みにするしか選択肢がない。

一人で生きていけない状況というのがある。そして、たいていの女には、一人で生きていけない状況になる瞬間がある。そういう風に女たちは、人生を準備されている。娘として、妻として、母としてい生きている間、女はどこにも逃げられない。逃げられない時に、モラルハラスメントや、DV、家庭内のいじめは起きる。

わたしたちは、女は、娘、妻、母になる可能性を持っている、ただそれだけの理由で、自分自身を生きられない。実際に、妻になるか、母になるかは関係がない。女に産まれたかどうかが、分岐点なのだ。

自分を嫌うのは、女に生まれた罰なのだ

自分のことを後回しにすることを徹底的にしつけられるのは、女に生まれたらしかたのない、逃れられない義務のようだ。

娘として親をケアすること、いずれ母親になって子供をケアすること、妻として夫をケアすること。そのためには、自分を慈しむことは邪魔になる。

だから、自分を嫌いになるように、わたしたちは仕向けられているのだ。

女たちが背負いさえすれば、丸く収まる。背負うのをやめると女が言い出せば、社会は崩壊する。そうさせないために、社会は、女をあらかじめ罰する。

自分を嫌いでいることの価値

わたしが自分を嫌いな理由を考えると、それは、「ちゃんとしていない」に集約される。「ちゃんとしていない」の内容を考えてみれば、ほとんどは、女性の性的役割分担に相当するものが多い。

女は、生まれた瞬間から、妻となり夫をケアし、母になることを期待され、娘として介護することを要請される。女は、ケア要員として生まれて、自らのケアを禁じられたまま死ぬ。母親になってから、病院にすら簡単にはいけないという声をどれだけ聞いてきただろう。

それが背負わされた、社会的な幻想だということも知っているのに、わたしはそれを内面化している。内面化しているが、そのおかしさに気付いてもいるので、性的役割分担を実行しきれていない。

性的役割分担を実行したくないという自分と、完ぺきになるまで実行すべきだという自分が戦って、結果として、わたしは自分を嫌いになる。実行すれば、みじめになる。実行できなければ、内面化した基準に満たないと、自分が自分に半端だとののしりたくなる。社会の一員になり切れていないと感じる。

自己肯定感があれば、人をケアするだけに生きられないだろう。それは、性的役割分担にとって、悪なのだ。

性的役割分担の内面化に気が付き、それに疑問を持つ一方で、社会の善き一員として、平穏に過ごしたいとも思っている。

はっきり言ってしまえば、わたしは今も「ちゃんとした育ちのいい女性」としてほめられたいのだ。その矛盾が、自己否定や、自分を責めることに向かう。

それで、わたしは自分を嫌いになるしかない。

わたしがわたしを嫌いなのは、理由がある。

自分を嫌うという、この混乱には、価値がある。この混乱は、わたしの戦いの第一歩であり、証なのだ。

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