わたしは、今日、日曜日から五日間熱と咳がひどくて体力がなかった。
毎日メイバランスを飲んでいる。食欲もない。
今一人で子を見ていた。
今は子が寝ているのでブログを書ける。
普段、子育ては連れ合いとの二人でしている。
だから、かわいい、愛している、いとおしいという気持ちだけで接することができている。
離乳食にも、想像より、苦労しなくて済んだ。こぼしても拭けばいい。食べてもらえなくて悔しいと思うほど、丁寧な食べ物を作ってもいない。それは、最初から方針として決めた。わたしと子が苦しまなくていいように、楽なやり方をしようと思った。だから、最初からドライのおかゆにお湯を注いで、ドロドロ期を過ごした。離乳食も終盤の今は、親の食べるものを細かくして分けるスタイルだ。それほど苦労しないように、苦心してきた。
それでも、今日は、とてもきつかった。
めまいはするのに、子は泣く。だっこしてくれと泣く。でも、だっこする体力がない。どんどん大きな声を出す。大好きなのに、こちらもパニックになる。子がパソコンのキーボードをたたいて、機内モードにしてしまって、普通の手順では治せなくなってしまった。
トイレにも行きたくなった。トイレに行ったら、まず間違いなく、子は火のついたようにもっと泣くだろう。子を泣かせてもいいからトイレに行こうと思うけれど、精神的に追い詰められていて、泣き声がしんどい。さらに泣くことを踏まえると、トイレに行くのもためらってしまう。
子は眠いのだ、わかっていた。でも、子が叫んでいるうちに自分の何かが壊れて、無理なの!と叫んでしまった。叫んでも伝わるわけない。多少、意思の疎通はできるくらい、子も成長したけど、わたしが無理だから静かにするなんて、できない年齢だ。わかっている。でも、叫んでしまった。
自分で嫌になりつつ、叫んで、子も叫んだ。だっこしてほしいのだ、慰めてほしいのだ、お母さんが叫んでいるからびっくりした、だから、落ち着かせてほしいのだ。それはよくわかっている。でも、一人になりたい。
お医者さんには、短時間、三十分くらい、別の部屋に親が逃げて、クールダウンをすることを勧められてもいる。そうすればいいとわかっている。でも、決断できなかった。
そうこうするうちに、子は、わたしの体によじ登って、泣きながら眠った。泣き始めてからたぶん全部で十分くらいだった。
でも、わたしは自分が怖かった。自分が何かするんじゃないかと怖かった。
何もしなくて済んでほっとしている。
母親という役割を休むことは必要だ。
24時間母として、子の要求をすべて満たすことができたら最高だ。
それを求める人は完璧主義だ。
求めることはできる。でも、実行することはできない。なぜなら私は完ぺきじゃない人間だから。
完ぺきじゃない人間だったら、産むな、という人もいる。そうした人たちは、人に対して厳しい。子供に対して優しい。反出生主義の人たちは、子供の負担が大きすぎるから、子供を産むなという。この世に生まれてもいいことがないのに産むのは子供への暴力だという。そういう人たちは正しい。その通りだと思う。でも、厳しい。
人は欲望に沿って生きる。わたしは、子を育てたいという欲求を持ち、それを果たした。
屑と結婚したい人がいないように、悪い親になりたい人もいない。
みんな素敵な人だと思って結婚し、相手の豹変や変わらなさ、相性の悪さに幻滅しながら離婚するのだ。離婚をして、自分を知る。何が自分にとって嫌なのか知ることで、自分の輪郭を理解することができる。
やってみないとわからない。屑と結婚しても、大人だから、離婚をすることができるが、子を産んでからやっぱりやめることはできない。そこはかなり違うから、ずいぶん悩んだ。
悪い親になりたいわけじゃない。誰だって、みんな、いい親になりたいと願いながら悪い親になる。だから、わたしもそうなるかもしれない。
でも、連れ合いがとてもいい人間だったので、きっとバランスが取れると踏み切った。
わたしは子供を産んでよかった。子のことがとても好きだ。一緒にいると幸せだそんな気持ちにさせてくれて、感謝している。子が一人で生きていくために必要な助力を惜しまないつもりだ。仲良くしていきたい。
でも、子供と一緒に叫ぶ日もある。
わたしは、社会で生きている。社会は、助け合うために存在している。家族も小さい社会で、子供とわたしは助け合って生きている。
子供を産むべきじゃないという人は、社会とのかかわり方をどう思っているのだろうか?
わたしは完ぺきじゃない。わたし以外の人も完ぺきじゃない。だからこそ、社会を必要とする。そして、社会を形成する。社会も私を必要とする。
そうした流れの中に子供がいる。子供は社会を必要とし、社会も子供を必要とする。
一人で生きていくことはできない。完ぺきな人間にもなれない。
だから、産むなという人もいる。
でも、母親という役割を休みながら育てるという選択肢がそれほど悪いとは思えない。
誰でも、いくつもの役割をもって生きているはずだ。
その役割にうんざりしたら、どの役割でも休んでいい。
ほっとできる場所や、ほっとできる関係に退行すること、負担の大きい役割を休むことも必要だ。
子供がわたしを傷つけることもある。わたしが子供を傷つけることもある。
たぶん、わたしが子供を傷つけてしまうことのほうが多いだろう。それは、どれだけ注意していたとしても、構造的に、権力関係が子と私の間に存在する限り、どうしようもないことだ。
だから、それは「あるものだ」という前提で過ごさなくてはならない。「ある」ものだとして、対策を練ることが必要だ。世界は一かゼロではできていない。アナログだ。だから、対策の一つとして、役割を脱ぐことをする。子も、いつか、子としての役割を脱いでくれたらいいと思う。大人になって、わたしと二度と会いたくないと思うかもしれないが、そうしたとき、一人で生きていけるように、手助けをしたい。わたしが今日は母の役割を脱いだから、子にもそうしてほしい。母の役割を休むことで、それより悪い事態を防げた。
完ぺき主義の人には気に入らないかもしれない。でも、わたしはその人たちのために生きていない。子も。連れ合いも。ほかの人も。
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