我慢する三年は本当に短いのか?

90年の中の三年は短いという。

確かに、職業人生の三年は短い。四十年間働くとして、三年あれば一つの職業のあらかたは身につくというから、11回は転職できる。大人だから選べる。

でも、例えば病気や子供のころのいじめに苦しんでいたら、その三年は短いとは言えない。

病気やいじめを自分の意思で終わらせることはできないからだ。

ずっと続くかもしれない。そのうえ、苦しみの日々の中では、息継ぎに当たる和やかで心身ともに楽な時間というものが存在しないから、苦痛に塗りつぶされた真っ黒な時間だけが、のしかかってくる。

 

苦しみが楽になったとしても「あの失われた年月の間、ほかの人たちはどれだけ幸せを感じていたのだろう?それを自分は経験することができなかった」という嘆きは尾を引く。

とても、「終わったことだから切り替えよう」とは思えない。

きれいな服を着て、おいしいものを食べて、風の気持ちのいい日に歩き、歓談し、学ぶ、旅をする、そういうことが一切かなわなかった日々のことを思うと、胸がかきむしられる。

自分の意思をねじ伏せられ、支配されていたら、その苦しみは相手にだけではなく、自分にも向かう。どうして、そこから逃げることができなかったのかと。

悪いことに第三者も「逃げればよかったじゃない。自分の意思でしょ?縛られてたわけじゃないんだから逃げようと思ったら逃げられたんだから、本当は逃げたくなかったんでしょ」とまで言われるのだ。

過去を思い悩んでくよくよしていると、その間の時間も失われる。

三年、意図しない苦しみの日々を過ごしたら、それを悔やむ時間も三年以上かかるのだ。そうすると、体が動く自由な時期を失った、楽しめなかった、とまた苦しむ。

だから、たった三年、とは言い難い。

その間に得るはずだったものを身に着けられなかったから、同世代の人よりも遅れを取り、うだつの上がらない人生を送ていて、その遅れやスキルのなさを追いつけないと思うと、とてもつらい。

わたしがそこから少しでも抜ける時間ができるようになったのは、周りの支援があってこそだ。支援があって、努力する気になった。失敗を恐れず、自分の人生を生きるべく、冒険に挑戦した。そういう形で、わたし自身も努力した。

失敗するなんて馬鹿だ、と嘲笑する人はいた。そんなことをしなかったらよかったのに、とも言われた。

でも、人生を早送りしてでも、自分の思う「普通」になりたかった。だから、わたしはたくさんの失敗に突撃した。そして、失敗の仕方を覚えて、穏やかな日々を手に入れた。

過去を悔やんで苦しむ日が亡くなったわけじゃない。でも、そんなとき、その苦しみから逃げる方法をいくつか持てるようになった。

助けを求める相手も増えた。友達はライフステージが進むにつれて、減っている。

でも、また新しい人と出会えてもいる。

Twitterで「友達は季節に咲く花」と言ってくれた人がいた。

長く付き合うことは大切じゃないのだ。その時、助け合える人がいたならばそれはかけがえないことなのだ。

時間が解決するというのは、半分本当だ。でも、その半分は、いかに失敗するかだ。失敗の数が増えると安全な失敗をできる。それが人生経験となり、充実した人生をはぐくむ。失敗の自由が、人生の果実なのだ。

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