【母からの解放(著:信田さよ子】感想~母のなかったことにする力

読んでいると実家にいるときのことを生々しく思い出して何度か叫びそうになりました。社会構造から母娘問題を読み解く本です。今回は具体的な解決方法が載っていました。

 

母は、「なかったことにする力」で世の中を渡ってきた、だから、その力には勝てない。謝ってもらおうとか、理解してもらおうと思えば、距離が縮まってしまう。

そのことを、「わかってもらおうと思うは乞食の心(田中美津)」を引いて説明しておられ、フェミニズムから見た母娘問題の本として、優れています。

虐待と毒母の違いは「虐待は客観的に判断できる指標がある。毒母は母が重いと思う娘の主観的な言葉」という定義づけが改めてされており、「毒母という言葉で、母親が追い詰められてはならない」と明言されていました。

主観的なことは、劣っているという意味ではありません。

力強く、自分に何がありどう感じたか、表現することができるのは、それはそれは大切なことです。すべてのスタートと言ってもいい。

男性は、それを軽んじます。わたしは、主観を大切にします。

気持をなかったことにされてきた娘たちにとって「母が重い」「毒母」という言葉は、発明でした。その言葉を手掛かりにして、自分の気持ちを発信できたからです。

社会の矛盾のしわ寄せとして母娘問題があり、だから、娘の声は社会にとってないものとしてきたほうがありがたい。社会や母、父は、ハッピーな加害者だからです。

彼らは、今のままが幸せです。だから、現状に異を唱える者が邪魔です。なので、その「異」をなかったことにします。そうしたら、丸く収まりますから。

だから、彼らにとって「邪魔」になる言葉は、わたしたちにとって有益なわけです。彼らが邪魔だと言ってきたら、効果があるということです。彼らにとって、痛くもかゆくもない言葉には力がない。

母親と友達になれるか?を基準に考え、もし、できないのならば、その関係は母の意向だけでできあがっている、もし、そこから距離を取りたいのならこうする、という距離の取り方が具体的に書いてあります。

何をされて、自分はどういう影響を受けたのかを明確にし、言葉遣いを改めて他人のように接する。家庭内別居ができるのだから、と、貧困ゆえに実家から出られない人も母親と距離を取る方法も記されていて希望が持てます。

実家を出ればいい、とさんざん言われてきましたが、病気や障害、支配によってエネルギーを確保できず、実家から出られない女性、非正規雇用も三分の二に届こうかというご時世ですから、お金がない女性、いろいろな人がいます。そういう人たちが無視されていないのはとても心強いと感じました。

「なかったことにするスキル」「聞こえないスキル」「自分の矛盾に疑問を持たないスキル」が彼らにはあって、そのため、彼らは自分たちのダブルスタンダードを維持できます。

聞くことができない、理解することができない、のではなくて、彼らは「理解したくない」「聞きたくない」「無視したい」と考えて実行しています。

それを、わたしは今まで「理解できないならわたしの努力が足りないのだ」と解釈してきましたが、そうではなく、彼らは「理解したくないのでそれを実行している」だけなのです。

そして、「理解できても、わからないことにする」ほうが便利なので、そうしています。彼らはしたくてやっているのです。したくないけど仕方がなくというわけじゃなくて、心からそう思っています。

現実を「見られない」んじゃなくて「見ない」「見たくない」んですが、そこを被害者や抑圧される側の人はまさかそんなことはないと思って、「理解したくない」ので、「話せばわかる」と期待しています。その期待は間違っています。彼らは望んでいないし思うとおりに行動しているのです。

 

わたしは、母を「助けたい」「救いたい」と長い間思っていましたが「彼女は好きでそうしている」のだとわかってからはだいぶ楽になりました。愚痴を言うような人生を送りたいと思っているからそうしているのだし、愚痴を言える先があったので幸せだったのです。そして、愚痴を言われるわたしは不幸でした。

わたしは「彼女を愚痴を言わなくて済む環境に暮らせるように変えたい」と思っていました。それが解決方法だと思ったんですね。でも、そうじゃなくて、わたしが変えられるのは「自分が愚痴を聞くことをやめる」という部分だけです。母はそもそも他人です。他人を変えることはできません。母を変えることができるとしたら「コップを外から揺らされたとき中の水が揺れるように」現状が動いた時だけです。愚痴を聞いている間は、コップは揺れません。

母は、言いたくて愚痴を言っているのですから、変えられるわけがないのです。

 

母や、差別者と話していると、こちらは疲れます。でも、あちらは疲れません。あちらは「言葉の遊び」だと思っていることが、こちらには差し迫った現実です。でも、加害者はハッピーなので、現実を知りたくはないのです。知りたくないから知らないのです。ここをわたしはずっと勘違いしていました。知りたいけど能力がないからできないのだと変換していたのですが、素直に受け取れば、できるけどしたくないから知らないでいたいだけなのです。

 

Twitterで見た言葉ですが「人殺しでも犯罪はよくないと言える」のです。だから、差別者や親が、いくら「差別はよくない」「抑圧はよくない」と言っていても、言葉だけだということを覚えておきたいと思います。差別はよくないと言っている分にはいい人だと自分のことを思えますし、まったく疲れません。でも、現実的に行動を改めるのは嫌なので、そういした言動不一致が取れます。

そこで「なかったことにする力」が発動するのです。こちらとしてはなすすべもありません。

引用

p196 女性である前に人間である

私たち女性は骨の髄まで女性なのではありません。男性と同じ人間です。人間というベースに子宮や膨らんだ乳房をはじめとした、女という属性がプラスされているのです。

~略~

いっぽうで男性は、男というより人間だと思っています。

~略~

たとえば女性から、「あなたも性犯罪者と同じ男性ですよね」と質問されたとき、彼らはどういう反応をするでしょう。「ええ? そうですね。同じ男ではありますね」と。冷静に応じる男性は、相当に考え抜いている人です。

多くはその質問をされたことに驚き、「あいつら、人間じゃないですから!」と、声高に性犯罪者の男たちをまず「人間」の分類から外そうとします。人間ではない性犯罪者対人間である自分、という構図にもっていこうとするのです。

男性はどうして、性犯罪者と同じ属性だということを認めることができないのか、常々不思議に思っていました。

そもそも、男性がジェンダー(男らしさ)を意識するのはそういう特殊な時だけで、ふだんはman-humanという壮大な図式の上に乗っかっていて、めったにジェンダーやセクシャリティについて考えなくていいという、とってもハッピーなひとたちなのです。これはとっても不平等なことじゃないでしょうか。

そして、ここに答えが書いてあったので、わたしはショックを受けました。

なぜ、あれほど、自分が男であり、性犯罪者と同じ男という属性を持つことをかたくなに否定するのかというと、彼らは普段自分を男だとわざわざ考えていないので、特殊な時に、性犯罪者という刺激的な言葉を聞いて、「自分は男だ、そして、男という属性は汚されてはならない」と反射的に刺激に対応しているのが分かったからです。あれは特殊な男で自分はそうじゃないと、分けたいのです。

たぶんですけど、「女にも犯罪者はいる」と言われたとき、女性の反応は「ふーん、そうだね、女にもいろいろいるから」って感じでショックは受けないと思うのです。

だから、「男性に性犯罪者がいるよね」と言われたとき「男性差別だ!」「同じように言われたらそっちも傷つくだろう!」と言ってくる人たちが不思議でなりませんでした。

「ハッピー」だから考えないし、考えないからハッピーなので、女性に「考えないほうがいいよ」と言えるわけです。自分が考えてないでハッピーだから。

因果が逆なのに、「女性は考えることでわざわざ不幸になっている」「自分は考えないからハッピーだ」と無意識に思っているのです。

女性が「考えざるを得ない状況」に日常的に

p198

女性は夜道を歩くとき、満員電車に乗るときなど、さまざまなシーンで女であることを意識させられます。それは強制されると言っていいでしょう。絶えず、被害を受けるかもしれないという防衛体制を崩せません。

というわけです。でも、それを男性たちは「理解したくない」から、「どうして女は自意識過剰なんだ」「男を犯罪者扱いするのは男性差別だ」といってくるのです。だから、わたしたちは「どうして理解できないんだろう?」と頭を悩ます必要はありません!理解したくないんだから、何を言っても無駄なんです。

フェミニズムについて、よく誤解されがちですが、敬愛する女性学の研究者が主張しているように「弱者の思想」だと私は考えています。弱者は弱者であることことで尊重される、弱者であるがままに生き延びることができる社会を目指す考えなのです。

と書いてあることに全面的に賛成です。

力の差があるのに、ないかのように扱う、現実を見なかったことにする、「娘と母」「女性と男性」の間にある、厳然とした力の差をなかったことにして、「気にするから存在するんだ」と言ってくる人たちが大勢います。

「気にするほうが差別者」と、言葉を投げられたことともあります。

p199

フェミニズムに触れ、母親も自分と同じ女性であること(共通のジェンダー)を見つめる必要があります。

わたしは、子育てをする中で、悩みます。同じことをするんじゃないかと。具体的に自分がどう育てられたか思い出します。

だからそれを一歩進めて、具体的に母親の謎を解き明かすことで、わたしは、母と自分を分けたいと思います。

c71の著書

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【母からの解放(著:信田さよ子】感想~母のなかったことにする力」への2件のフィードバック

  1. いや、男=人間って図式に甘えてきたのも女でしょ。
    というより利用してきたし、これからも利用するつもり。
    法律上の権利は男並、現実は隠されたより低いハードルを。

    いまだに日本の女の大部分はおばさんになっても、未熟な女の子意識でいようとします。女子だのガールだの若さを表す言葉を使いたがり、責任は男にだけ取らせたがり、世の男は皆マザコンと呼びたがり(この裏に自分たちも同じくマザコンという事実を隠すことで、男を表面上母親に依存させつつ道徳的に虐待しながら、女だけはマザコンの罪から逃れようとする。)
    これら全部、女の未熟でいようとする傾向を表しています。

    そしてそれらは表面上男の罪に着せられます。

    フェミニズムとは女である自分だけが正しくて、全く自己批判しなくていい学問でしょうか?違う。

    常に他者を(つまり男を)批判するだけのサディスティックな学問でしょうか?違う。

    あなたはフェミニズムという名目でアカデミックな権威を装って、エゴイズムを覆い隠してるだけじゃないでしょうか。

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