ケアワークの不均衡

感情を使った行為を繰り返すと疲れる。
感情を人のために使うことをケアワークという。
言語化されていないことを読み取って、元気かな?機嫌はいいかな?と様子を見たり、人の相談に乗ったり、慰めたり、励ましたり、そういう感情面に関わることすべて。
昨日うちではケアワークの不均衡について話し合った。
「わたしにケアワークをしてくれ」「ケアワークをさせないでくれ」というのは、一見わがままだけど、実際には、「顔色をみる」という手間を省いているので、とても親切な行為。
自己主張が激しいという人もいるけど、そうじゃなくて、察してと思ってばかりの人といると疲れるでしょう?
はっきり要求を伝えるというのは、自分のことをモニタリングできている証。
言わないでもやってもらおうと思っている人のほうが甘えている。
もちろん、してほしいといっても、拒否されることもあるし、相手に拒否する権利はある。
それが尊重ということ。
依存というのは、全部相手に何かを押し付けること。
謝ること、判断すること、決断すること、世話をすること、健康管理を任せること。

どうすればいいか、いちいち相談してきて「こうしたらいい」と判断してばっかりは疲れるでしょう。
それはケアワークをさせられているというわけ。
責任まで取らされるなんて、損もいいところ。

決断、判断も、感情労働に代わりはない。状況と結果を判断する。決断に責任を持つ。

たとえば、わたしとパートナーとは一見、彼がしている仕事量のほうが多いけれど、ケアワークを担っているのはわたし。
彼は自己モニタリング力がまだ弱い。
だから、わたしはそれを補う必要がある。気持ちや、感情、体調全般。何を必要としているのか、どうしたら、よくなるのか。

彼はわたしにたいして、それができない。だから、わたしは自分のことを自分でする。

してほしいと頼むときもある。でも、「察して」くれることはまずない。わたしは彼の顔色を見て、判断して、どうしたらいいか、考えるのに。
思いやってもらっているという感覚が、必要なのに。

昨日起きたことは
「毎日相談してくる人がいて困る。ラインがめんどい。しんどい。もういやだ。自分で決めて自分でやってほしい。だからそういったのに、わたしはしつこくできませんよ笑って返事が来てなんも通じてなかった。もう無理だからやだ」
と言ったら、へんな顔をしているので
「どうかした?」
と聞いたら
「僕もいつかいやになられるのかなって」
と言われた。
本人も言わないほうがいいと思ってたから変な顔をしつつ黙っていたらしい。
だけど、変な顔をしていたら、聞くし!聞くことですでにこっちは労働している。
で、「そもそも変な顔をしたのが悪かった」と言われたんだけど、感情を持つな表現するなと言っているわけじゃないので、最初から
「僕のことを嫌にならないでね」と言えばいいのだ。
毎日ラインで相談されるというのは子育て中にしんどい。だからいやだ。自分で判断してほしい。
で、それと一緒に生活しているパートナーが同じわけない。
だから、その後わたしは
「わたしをケアしてよ!」と言ったら「体が動かない」と言われた。
「あのね、ケアしてくれというのがすでに親切で、足もんでほしい、ぎゅっとしてくれっていってるんだよ、それでなんで悩むのさ」と言った。
もう、こういう話し合いもはっきり言って疲れるし面倒だけど家族だからしている。

わたしが、自分を慰めるために、「足をもんでほしい」と具体的に言っているのは超絶親切なことでそれで仲直りしようと言っているのになんか悩んでしてくれないのでわたしは説明までしないといけないので、無限に疲れた。
自分で自分を大事にすることができないと、人のことも大事にできないいい例である。

自分の気持ちをモニタリングできず、表現できないから、他人を粗末にしたり、依存することになる。
自己表現とは自立の一種だ。
黙ってわかってもらえると思うのは甘えだ。

対等というのは、ケアワークのやり取りが同じ分量であること。
だから、子供と大人では対等ではありえない。
まして、子供にケアワークをさせていたら、大人は子供に暴力を振るっていることになる。
男女でも、男性はケアワークの経験が乏しい。自己モニタリング能力も劣っている。
でも、だからといって野放しにしていたら、絶対にできるようにならない。
だから、育ててやる筋合いはないものの、仕方がないから話し合っている。


わたしがくるってしまうのは

わたしの心で何が起きているのか、全然見当もつかない。
思い出すのは、色気づきやがって、塗りたくりやがって、あんたなんてだれもみてない、みっともない、髪を伸ばせば汚らしいと言って断ち切りばさみで切られ、短ければかっぱみたい、スキンケアは一切許されない、鏡を見ていれば、自意識過剰、見ても何も変わらない、雑誌は無駄、お小遣いはお父さんからもらいなさいと言われお父さんに会えば小銭をうえからおとす、お年玉をもらえばだれがお返しをするんだと思っているんだとののしられて、「はやりならば鼻水もきれいっていうもんね」と出かけるときに言われて。
サークル参加したときに具合が悪い時には、わたしの本をもって、母親がサークル参加し、友達に会いに行き、高校の卒業式は、母の友達とご飯を食べることになって、写真館で撮った写真は母が前にいて私が後ろ、母はにこにこしていた。

成人式は「高校の卒業式したんだからいいでしょ」と言われた。
レースのブラウスを買ったら、「意味ない、へん、もったいないから返品しなさい」と言われて、服を買うたびにそれをされたのでつらかった。
そういうことを思い出しながら服を買うから、いつも罪悪感と重圧でいっぱいになりながら、その思い出をはねのけようとしながら買う。
今のがしたら二度と買えない、我慢する日々はもう二度とごめんだそう思って買ってしまう。
隙じゃ無い格好をするのは二度と嫌なんだ。
十五年前のおさがりを中高生と着せられて、みじめな思いをしたのを思い出す。服を着るのが怖かった。
外に出たくないから、家にいると邪魔だと言われて、外に出ても、外に出ていたなと怒鳴られ、家の中で気配を消してじっとしていたら、あんたは頭がおかしいと言われる。
とろい、融通が利かない、あたまでっかち、頭がおかしい、変な子、育てにくい子、かわいげのない子、うるさい子、そういう風に言われたことを服を買うたびに思い出す。
わたしは押しつぶされそうになりながら、それに抗おうとする。そうすると買いすぎてちょうどいい量が分からない。
盗られると思う。
わたしの数少ない買った服は、いつの間にか妹が着ていた。
妹はいつもブランドの服を買い与えられていた。成人式にも振袖を着ていた。
おしゃれだといつも褒められていたのは妹、それに比べてどんくさくて勉強だけの姉、気が利かない、何もできない、運動は苦手で無能で心がない、非情な子、非常識な子、友達がいない子、と言われていた。
受験に合格したら、「喜ぶな」「喜んだらそこで満足して成長が止まる」と言われて喜ぶことも禁止され、けがをしたら「とろいから、ほかの人の迷惑になった」
未知で倒れて、救急車を呼ばれたら「いくらかかると思ってるんだ」と胸ぐらをつかまれる。
病院に連れて行ってほしいと言ったら「私のほうが具合が悪い」「近所で噂になったらどうする」「迷惑なのはこっち」「運転したくない」
骨折をしても、病院に連れて行ってもらえず、骨折させた相手に私が謝らされた。わたしがとろいから。
服を買うということは、そういう背景が、わたしにくっついている。
趣味をするときも、勉強以外のことは無駄だから、やってはいけない、無能な、価値のない、お前がというセリフを振り払いながらするから、とても疲れて、過剰になる。
闘わないと、できない。
だからしんどい。
下着を買ってもらえなかった、みんなと同じようではなかった。
修学旅行の時みんなが新しいパジャマや下着、服を買ってもらうようなことはなかった。
みっともないみっともないといわれて、足の白さを人に言われたら「色気があるでしょ日に当たってないから」と言い、母は、わたしに赤ちゃん言葉でしか話しかけないでいて、成人した誕生日のプレゼントは三歳児対象のおもちゃだったから、わたしは泣いたが「泣くなんて意味が分からない、あんたは感謝の心がない頭がおかしい」と言われた。

わたしが、モノを扱うことや買うことについておかしいのは当然だと思う。
でもその当然をほかの人は知らないから、奇異な人間だと思う。思われてしまう。でも、いちいち、こんな説明はできない。
母には、ふろを覗かれ、あんたは肌が白いね、体が成長したと言われて、着替えを見られ、口にキスをされ、触られ、みじめで、自分の体が自分の者じゃないようだった。月経になったとき、パニックになって泣いたら、怒鳴れなじられ辱められた。
眠っていれば、たたき起こされて、眠っている暇があれば、勉強をしろ、ふらふらになれば、這ってでも学校には行けと言われていた。生理用品を使いすぎると言われて、いくら血が出るのか知らないけど、生理用品だってただじゃないんだからね、いくらかかると思っているんだ、変える頻度を少なくしろと言われて、その通りにしたら、同級生の男子に「なんかにおいする」と言われて死ぬほど恥ずかしかった。
母はそういう人で、わたしはそういう「普通」を生きた。


趣味とレギンス

レギンスをたくさん買ってしまった。
わたしは高校生の時にレースのブラウスを買ったら「ばかばかしい、返しなさい」と言われて、返した。
妹にはダサいとののしられ、おしゃれをしようとすると色気づいたと母親にバカにされた。
事件が起きて母を頼れず、乳の家に身を寄せたが、男物の服ばかりを渡されたり、ほぼ残量なしの、すみに粉が残ったアイシャドーや、マルチのアイシャドウの古いやつを渡されたりした。
ショートパンツを履けば「そういうところだめだ」と言われたり、「あなたのうちに慰謝料を払ったからうちは裕福じゃなかった」と言われたりした。
そういうことを思い出しながら、もらった男物の服を遅くなったが処分しようと思う。

わたしは浪費ばかりしている。パートナーは悲しい顔をする。
彼がわたしを責めることはありえないのだけど、わたしは顔色を窺ってしまう。
母親にしたように。母親にとって正解はなかったけれど、顔色を窺ってわたしがおどおどすると、イライラしながら気持ちがよさそうだった。
だから、わたしは、今でも顔色を窺ってしまう。

ほしいものをリストにして、それを買った。でも、そのあとにレギンスがほしくなってたくさん買ってしまった。
わたしも、レギンスそんなにいらないと買う前にパートナーに話した。でも、迷っていると。
で、買った。
それで、わたしは自分が分からなくなった。

わたしはおしゃれをしたかった。でも、できなくて、自分がみっともないと思い続けてきた。
今遅くなったから、早回しで、取り戻したい。だから、たくさん買ってしまいたい。
そうすることで、消化できたらいいのに。

趣味も少ない。パートナーと比べてしまう。
パートナーは、ピアノも、株も、勉強もする。
わたしは、手芸をするくらい。本を読むことは、具合が悪くてできない。
だからわたしは自分を劣っていると思う。わたしは、なんてだめで気持ちの悪い生き物なのだろう?
自分自身をコントロールすることができない。
わたしは、十二月三十一日から、午前一時から四時に起きて、どうしても眠れず、昼寝もしていないから、体がボロボロになってしまった。
今日は、昼間ふらついて、頭痛と吐き気がして、体に力が入らなくなった。
そして、通販でレギンスを買った。

主治医は、失敗しながら学んで、ま、いっか、で流しなさい、悩んでもその中からは何も出てこないから、と言った。
家事ができるようになったように、何年かかけて、少しずつできるようになるからといった。
わたしにも、人生を取り戻せるだろうか?

いろいろな人がわたしから、感情を奪っていった。
母はわたしに喜ぶなと言った。
そして、成人式を「高校の卒業式をしたからいいよね、もったいないから」と言った。

妹はもちろん振袖を着ていた。

ときどき、息が苦しくなって死にそうになる。空気がなくなったみたいになる。
趣味がない、わけじゃないのに、趣味がないわたしには中身がない空虚な人間でみすぼらしくこの世に存在するだけでこの世界を汚していると感じて、死にたいとも違って消え去りたくなる。何の痕跡も残さずに。


子育てはさみしいの連続

母乳を卒業してしまった。
あの暖かさや、縋り付いてくる感じや、ぼんやりした顔、満足しながら眠っていつの間にか口を開けたまま眠っているのをもう見られないんだなと思うと、胸がざわざわしてしまう。
この子はこの子が必要なことをすでに知っていて、わたしはそれを手助けするだけなんだな。
あっという間に終わってしまうというのは本当で、毎日かみしめるように過ごさないと、どんどん感情があふれてこぼれてしまって二度と会えない。
せつなくてつらくてさみしくていとおしいから離れがたいけれど、巣立てるように、一人で生きていかれるように、最後には私たちを必要としないようにするのが目標だから、育児はさみしい。
それは孤独だからじゃなくて、わが子がいとおしくていとおしくて仕方がないから、成長の一つ一つがきらきらと輝いている、だから、その輝きをみてしまうと、でも、もうそれができなかったころには戻ってくれないから、昨日のあの子にも、生まれたてのあの子にも、過去のあの子にはもう会えない。
あんなに愛したのの、過去のあの子はもういない。
現在のこの子はいて未来のこの子にも会える、それは知っているけれど、あの子には会えない。
笑顔がどんどんうまくなる、声を出して笑ってくれる、あやせばずっと笑ってくれる、泣くこともあまりなくて、必要なことを教えてくれるからそれをしているだけ。
こんなにかわいいのに、見つめているだけで疲れてしまって、わたしは倒れこんでしまう。ときどきつらくなる。
そういうときには人を呼ぶ。密室育児が毒だと思うから、みっともなくても、助けてもらったり疲れたら疲れたからという。
お客さんにも手伝ってもらう。どんどん招待して、どんどん開いた家庭にしたいと思っている。

わたしにはわからないおもちゃの使い方も、赤ちゃんのほうがすでに知っていた、という言い方をされている方がいて本当にそうだと思った。
わたしたちも、子供たちも、同じように賢く愚かで未熟なのだ。
そして、お互いに愛しい。
対等ではなく、でも、尊重し合える。

どうしよう、とてもさみしい。あの子はいるのに、あの昨日までの子はいないんだな。


えらいパパ?&卒乳

赤ちゃんが母乳を吸いたがらなくなって、一週間たつ。
もう、見向きもしない。まだ母乳は出るけれど。
もともと、母乳の出は良いと言われていたのだけど、産後鬱になって、増えてくれなかった。
それでも、四か月、吸ってくれていた。
でも、お正月から吸ってくれなくなった。
すごくさみしい。
あの暖かさ、懸命さ、もう味わえないなんて。

でも、これも、自然な流れだから、受け止めよう。
受け入れることはできないから。

「うんちのおむつ替えるなんて偉いパパね」
と言われて、わたしたちは戸惑った。
おむつを替えるのは正直に言うと楽しい。
健康状態もわかるし、赤ちゃんも喜ぶから。
穏やかな子だとよく言われる。お尻が汚れても泣かないで、「えうえう」と教えてくれる。
穏やかなのはママが穏やかからだよ、と言ってもらえるけど。

それにしても彼が褒められる率はすごい。行くところ行くところで褒められる。
わたしたちは、二人でするのが当たり前だと思っている。だから、困惑する。
わたしの具合が悪いので、むしろ彼にかかる比重のほうが多い。だから、「わたしがダメなのかな」と落ち込んだ。
でも、話を聞いているうちに、どうも、世間の男性が
「おむつ替えは汚いから嫌だ」と言ったり、
ちょっとでもしたら、
「イクメン」といって、威張ったりするらしいのだ。
おむつ替えについては、汚いからという理由らしいけど、その人は、汚いからといって自分の尻を拭かないのか?と思う。
そのほうが汚いと思うんだけど……。
イクママという言葉がないから、イクメンといって威張る理由もわからない。やって当たり前。
もちろん、わたしたちは二人でいるときには、お互いねぎらうようには思っているけど、根本的には、赤ちゃんが無力だから、対赤ちゃんとしてはやって当たり前。大人同士では感謝すれども。

保育園に行かせているから、卒乳はやむを得ないのかなと思う。
去年の暮れに母乳がたくさん出ているから、やれる間にやってね、と言われた言葉が身に染みる。
もっと、頑張ればよかったのかな?
でも、頑張ってわたしがいらいらするよりは、のんびりだらだらしているほうが、赤ちゃんは幸せそう。

夜寝る前に、川の字になって寝ていると、赤ちゃんが、わたしと彼を交互に見て、ずっと頭を振り続ける。
結構なスピードで。そして、にこにこしたり、けたけた笑ったりする。
両方に、二人の顔があることが面白くて、幸せらしいのだ。どっちを向いても、パパとママの顔がある。
わたしたちは、にこにこ見てる。

赤ちゃんは、必ずしも抱かなくても、そばにいて、何かしているだけでもうれしそうだ。
昨日は一時間かけて、服の毛玉を毛玉とりでとっていた。それを赤ちゃんの隣でしていたら、じっと「ママちゃんはすごい」と尊敬のまなざしで見られていた気がした。
赤ちゃんは洗濯物を畳むところを見るのが大好きだ。たぶん、ひらひら動くのが楽しいんだろう。

クリスマスのオーナメントのキラキラの青い球を束ねてつるしたり、ラメの紙をつるしたり、あみぐるみのたこさんをつるしたりすると、引っ張って、ぐりぐり振り回して、青い球をかんかん言わせたり、紙をぶわぶわさせたり、たこさんを吸ったりしている。
一人遊びが上手だ。
いつまで手製のおもちゃで遊んでくれるんだろうなあ。
たいしたことがないものでも、喜んでくれるから、何がうれしいか知恵を絞るのも楽しい。
きらきらして、軽く動いて、音がするものが好きみたい。
お祝いでいただいた、すべすべのタオルにうさぎさんの頭が付いたぬいぐるみが今一番のお気に入りだ。
なめるときの舌触りがいいらしい。
ぬいぐるみそのものだと抱きしめにくいけど、タオルだと、まだ小さい手でも握りしめることができるから、それがいいらしい。
いただいた時は頭だけのぬいぐるみにタオルがついているのはどうやって使うんだろう?と思ったけれど、贈ってくれた人はよく考えてらっしゃったのだな、と感心しきり。

卒乳も切ない。
パパばっかり褒められるのも切ない。
でも、それだけ、ほかの男性がしていない現実を反映しているのだし、卒乳してしまうのも、いろいろな人の手を借りることができるんだと思えるといいな。


躁状態が一週間目

夜中の一時から四時に目が覚めてしまう現象が一週間続き、とてもしんどい。
また、赤ちゃんが母乳を拒否するので、一日一回しか授乳できていない。
もうこのまま卒乳かな。

落ち着かなくて、ほしいものリストを一生懸命作る。
ぼーっとしていたい。でも落ち着かない。
なにかしないといけないと思う。でもなにかやらかしそうでこわい。


服を処分すること

服を買うことについての罪悪感は消えないものの、衝動があるため、買うことはできる。
今度の課題は、処分すること。
処分することにはものすごい葛藤がある。
処分したら、二度と会えない。気に入って買ったので愛着がある。
親に二度と会わないと決めるのはたやすいのに、服とおさらばするのはつらい。

今日、服をもらってもらった。
とてもかわいいスカートで、暖かくて、柔らかくて素敵だった。
でも、二年たつのに一度しかはかなかった。
服もかわいそうだ。
流行からも離れる前に誰かに来てもらったほうがいいと思って手放すことにした。
そのスカートのことはずっと頭にあって、「はかないといけない」「でもはく機会がない」という葛藤で苦しんでいた。
普段はワンピースを着ることが多いので、スカートを穿くことは、特に冬にはあまりないのだ。

服を処分して、すっきりした気持ちと、さみしいという気持ちが入り混じっている。
とても喜んでもらえた。
今はこのことについて考えたいと思っている。
服を処分することって、自分を大事にすることじゃないかと思った。
着ない服を着ないと決断すること。
自分がもっと嬉しい気持ちになる服のために、場所と心のスペースを与えること。
着てくれる人に渡せるなら、それはものを大切にしていると言える。
着たくない服をもったいないからと着るのは自分を粗末にしている。
服のことも雑に扱っている。
服をまとうということは、自分の一部を形作るということだから、そこに不満があると、自分に不満が向かってしまう。
だから、これでよかったんだ、自分を大切にするために服を手放したんだ、着ない服をずっと持っている、というのはストレスだ。
もちろん、痩せたらご褒美に着ようと思うとか、楽しみに持っているならいい。コレクションしたって良いんだ。
でも、着なきゃいけないと思うようなら、自然に着てくれる人に来てもらったほうがいい。

でもさみしい。すごくさみしい。
後悔もしているのが本音だ。
でも、また新しい服と出会える。

細菌はブランド物の中古を買ってきて、またリユース産業に戻すということをしている。
レンタルみたいなものかもしれない。
新品を買うと気分がすごく上がるけれど、気楽に服を試すのもいい。
ブランド品を気楽に買うことはできないけど、良い縫製や生地の経験を積むことができるから、中古で万歳だ。
新品の付加価値というのはどんなものにも絶対的にある。
わたしはそれには価値を見出せないからこれでいい。

服を処分するのは悪いことじゃない。
なんで悪いことだと考えているのか、どこでその価値観が植え付けられたのは考えないようにしたい。
後悔は過去に今の時間を費やすし、焦りは未来を食いつぶす。


欲望のあり方

自分が何を欲しがってるのか、案外わかっていないようで、なにか見ると刺激されて、ほしいという気持ちが喚起される。
そして、頭がくらくらする。
自分が何を欲しがってるのか、それによってどんな満足をえるのか、わからないまま手に入れて、それから変化することで、あとからわかることもある。
わたしは、わかりたい。
だから、ただ、買うんじゃなくて、買う前と買ったあとどう変わるのか知りたい。
そうすることで、わたしは自分の衝動と共存したい。


起業できそうな高校生

高校生に、メルカリがはやっているそうだ。
売るときのコツをおしえてもらった。

商品の下に綺麗な布やセーターを引く。
飾りとしてアクセサリーを添える。
光を調節する。
詳細な記載。
それだけで、中古のスマホケースが新品の半値ですぐに売れるそうだ。

実践したら、微動だにしなかった出品がうごいて、たくさん売れた。

ハンドメイドの筆箱をプレゼントしたら、メルカリで売れると。
売るときのこつは、大量につくっていっぺんに出品すること。
それで、ハンドメイド作家だと認識される。
作品の中から選ぶ楽しみができるので、買ってもらいやすくなる。
作品のキャラや方向性をわかってもらえる。

メルカリを通して、子供たちが、マイクロビジネスで起業してるといっていい。
素晴らしく教育的だ。

ものを買うことも売ることも自分の欲望のありかを知ることになる。


衝動の管理の訓練

ひどくそう状態が激しく、ここ数日夜中の一時から四時まで覚醒してしまって、昼間も眠れないのでくらくらしている。
そう状態になると、罪悪感が強くなるから嫌だ。
衝動を開放したいけれど、解放すると、後悔するから、必死で抑える。
抑えることに全力を使うから疲れる。
綱引きみたいなものだ。両方から力を加えて、わたしの心を引っ張って、動いていないように見えるのは、逆向きの力が拮抗しているからなので、いつか引きちぎれてしまいそうだ。

買い物をしたいと思う。
それで、ほしいものリストを作った。
どうせ、お小遣いはもらったその日に使い切ってしまうけれど、お小遣いをもらう前に、吟味しようと思う。
思い付きで買うよりいい。
ほしいものリストを作ると、心の中でドラマがある。
これはあきらめよう、これはどうしても欲しい。あきらめきれない、だとか。
そうこうしているうちに、調べると、また素敵なものが出てきて、それもまたほしくなる。
そうしたら、その前にほしいとあれだけ思っていたものなのに、魅力が色あせることもある。不思議だ。
わたしは、今、メイクや服やバッグ、靴などファッションに興味があるから、ほしいものも、そればっかりだ。

生活の工夫はしているうちにできるようになった。
引き出しの中も片付けられるようになった。
模様替えするときも動線を考えて、収納まで簡単にアクセスできるようになった。
毎日床も、ガスコンロも拭いている。流しもきれいに磨いている。
前はお皿は洗ってもらっていたけど、食べたらすぐに洗えるようになった。
30分で食事の用意をできるようになった。三品も作れる。
だから、訓練次第で、わたしの衝動ともうまく付き合えるようになると思う。

結果的に買い物をしてしまうことには変わりなくても、その間の経験値が増えるなら、未来につながる。

昨日人に教わったこと。
はちみつポットにお茶葉やインスタントコーヒーを入れると、出しやすく、管理しやすい。
メルカリで商品を売るときには、商品の下にきれいな布やセーターをひいて、できたらアクセサリーなどを添えて、写真写りをよくすること。

出産してから、妊娠前よりも足が小さくなって、24.5の靴がぶかぶかになって23のサイズになった。
足のサイズがこんなに変わるなんてびっくりした。

生活をしていると、いろいろ学べる。
いろいろなことに気付けたほうが、絶対にいい。
同じことを繰り返していると自分が嫌いになる。
だから、苦しくても訓練をして、修行をすることで、苦しさから自由になりたい。