トランス女性が女性なら、女性の権利は減ります

最初に述べておきますが、トランスジェンダーの人を批判しているというより、トランスジェンダリズム、アライ、尻馬に乗っている左翼男性を批判する文章です。

権利は衝突するものです。

衝突するというのはどちらかが間違っているとか正しいとかと関係がなく、相反するものがぶつかると、調整が必要だという意味です。

権利と人権は別のものです。

お金を貸した人と、お金を借りた人にはどちらも権利があります。お金を貸した人はお金を貸した時の約束を守ってもらう権利を持ち、借りた人にはお金を借りる権利を持ちます。逆に、お金を貸した人には、お金を貸すという義務が発生しますし、借りた人には、約束を果たす義務が発生します。こういう約束事を権利と言います。

トランス女性は女性です、というスローガンを掲げる人たちは「すでにいる人を排除するな」と言います。

しかし、そのすでにいる人たちは、グレーゾーンや、あいまいさ、例外を利用して、本来立ち入る権利のない場所に入り、既成事実を作ったから、「すでにいる」のです。

例外を暗黙裡に認めたことで、それをあしがかりにされるのならば、最初から例外を認めない、既成事実を作らせないとなります。

女性の権利が増えれば男性の権利は減ることを男性は知っている

男性が、女性差別をがんとして認めないのは、女性に権利を認めると、パイが減るからです。フェミニストによっては、女性差別を撤廃しても、男性にもメリットがあると説明します。確かにメリットはありますが、デメリットもあります。

女性に参政権を認めると、政治への男性の発言権が弱まります。明治時代のように、女性が男性の持ち物であって人権がない時は、財産はすべて男性のものでした。そのときよりも、今は、男性の権利は制限されているといえます。

しかし、それらは変えていくべきことです。それは、女性も人間だからです。女性は、生殖する性として生まれ、その体の特徴から、女性として扱われます。女性として扱われることの意味は、生まれるときには間引きの対象になり、長じるにあたっては、家事育児の担い手として期待され、教育機会を剥奪され、賃労働の場から不利益な扱いをされるということです。女性と男性の収入を比べると、大卒の女性の収入は、中卒の男性と同じくらいの金額です。

お金がないと、生きていくのが難しくなります。結婚することがセーフティネットとして機能します。しかし、それでは立場が弱いので、女性は家庭の中でよく殺されます。

まったくの自由状態で恋愛をして結婚をするわけでなく、ある取引のような形態での結婚がある、ということです。

女性は教育機会を損失している

例えば、フェミニズムやジェンダーについて研究する男性がいます。

そのポストは、彼の実力だけで得られたものでしょうか?

私が思うに、彼らにはペニスがあったため、教育機会から排除されずに済み、改姓や出産の負担でキャリアが中断することもなく、性的暴力におびえたり、異性に脅迫されたり、という機会が少なかったのではないかと思います。勉強に集中できる環境があったはずですし、アカデミアは男性中心社会です。

「単なる肉塊」に社会的意味づけをしているのは「社会」です。だから、女性も「単なる肉塊」に社会的意味づけをしますたいていは、女性を傷つけ退けるシンボルとして。

地方の大学進学率は、東京と比較して異常なほど低いです。それは、地方には賃労働する場所が限られており、また地域に密着した大学の数が少ないため、子供を大学に行かせるとなると、都会で一人暮らしをさせることが前提だからです。すべての家庭が、すべての子供に、1人暮らしをさせ、学費を払うことができるほど豊かではないのです。

地方の大学進学率の特徴としては、男女を比べると、女性の割合がやはり低いのです。それは、兄弟姉妹の中で、ただ一人を大学に行かせることができるとき、選ばれるのが長男だからです。

家族の中で、長男は、手伝いから免除されている場合が多く、余暇が自由に取れます。

また、地方の女子高校では、カリキュラムに、物理がない学校が多くあります。化学もない場合があります。そして、中学生の時点で、その事実を知っている子供は少ないのです。

だから、中学生の時点で、事実上、多くの女の子たちは、理系の進学の道を断たれます。この事実を、大学で研究している男性たちは、どのくらい知っているだろうか、と思うと、ひやっとした気持ちになります。大学で働いていれば、周りには当然大学生が多いでしょう。そうすると、大学生が「普通」の状況で、そこにたどり着けなかった子供たちの背景をリアルに想像するのは難しいのかもしれません。

「単なる肉塊」のない私たち

「単なる肉塊」のない私たちは、その「肉」がないばかりに、様々なあざけりと、暴力、機会の喪失にさらされ、それを生まれたときからシャワーのように浴びて育ちます。

女性差別に最も詳しいのは、女の体を持つ人々です。女の体を持つ人々を女性と呼びます。それ以外は男性です。

男性にはバリエーションがあります。心身に違和感を持つ人々が、苦しむのは、体と感覚がかみ合わないためです。あえて言えば、男から女に変化するトランスセクシャルが苦しむのは、男性の体を持つからです。

私たちは、女性の苦しみに詳しいです。そして、トランスセクシャルは、トランスセクシャルの苦しみと、元の体、そしてそれが社会的に意味づけられた苦しみについて、詳しいでしょう。

男性は、(女性を差し置いて)女性差別に詳しくなることができない

では、男性の研究者は、女性差別の何に詳しいでしょうか。当事者以上に詳しくなることができるのでしょうか。

構造についても、身近な経験から洞察する力は、当事者のほうが強いでしょう。わたしが、どんなに頑張っても、トランスジェンダーについて、トランスジェンダー当事者よりも詳しくなることがないように。

白人と黒人を使って、差別について説明するのは、今まで避けてきましたが、今はします。

例えば、白人が、黒人差別を研究し、黒人に向かって、トランス黒人(つまり、黒人になりたがっている白人)を受け入れるべきだ、そうでなければ黒人差別への対抗が後退するのだ、と言えば、どれだけグロテスクだか、わかってもらえるでしょうか。

望んでではなくても、差別する側の体を持つ人々が、差別される側に指図するのはおかしいのです。そして、差別とは何かを、説明するのも傲慢です。

差別していると、女性は糾弾されています。

しかし、それが差別だということになるには、誰が、誰に、どんな言動を取れば、どのような理由で差別になるのか、という理屈がなくてはなりません。そうでなければ、ただの暴言だからです。

世間に、社会的合意がない場合なら、それは説明されなくてはなりません。しかし、トランスジェンダーが「誰(どんな集団)」を指しており、「どんなこと」が差別に当たるのかについて、調べることは難しい状況です。

男性と女性のパイの奪い合い

パイの話に戻せば、男性がフェミニズムの研究者である場合、それは、もともと女性のポストだったはずです。白人が、アジア人の役を奪えば、仕事を奪ったと非難されるのと同じように、女性が就くべきポジションに、男性がいれば、それは非難されるべきです。

このとき、この男性研究者には権利があります。そして、女性たちにも権利があります。男性研究者を糾弾する権利です。そして、これは衝突します。衝突した結果、(様々な条件を無視して仮定すると)男性が仕事を失えば、それは、男性の権利が減った、ともいえるでしょう。逆に、女性の糾弾がうまくいかなければ、本来期待できた女性の社会的進出が阻まれます。

女装男性が女性と認められてしまったら

トランスジェンダーには、女装男性からトランスセクシュアルの人々まで含まれます。

トランスセクシャルの人々は、条件さえ満たせば、戸籍を変えられるので、法律的に性別を変えられます。

しかし、それ以外のトランスジェンダーは、法律上、性別を変えることができません。

社会は、法律や慣習、文化、などによって運営されているので、社会が混乱するようなことを防ぐために、よくよく話し合って、法律や慣習を変えるという段階を踏むべきです。社会で人間を使って実験をするのは、人道的に許されないでしょう。

けれど、「男」の体を持っていながら、「女」になれる世の中をトランスジェンダリズムは目指しています。(もちろん、逆もあります)

すべての意味でのトランスジェンダーが、法律的にも「女性」となれば、それは、医療、労働、福祉、など、すべての公共の場で女性とまったく同じように行動できるようになります。それが、法律的にも性別を変えるという意味です。

もしそうなれば、差をつけることは、それこそ差別になるので、できません。

そうしたら、具体的には、スポーツの場で、男性がトランス女性として参加し、勝利しているということが実際に起きています。また、更衣室で、男性の体のトランス女性がいて、女性が立ち去らざるを得なかったような事例もあるようです。

また、雇用について考えてみます。女性とトランス女性の二人がいた場合、トランス女性の体の変え方の度合いが低ければ、後者を採用するでしょう。今の日本では、明らかに、すべての場面で男性のほうが選ばれやすいです。公平ではありません。男性のほうが、労働の場では強いのです。

トランス女性が法的にも女性になったと仮定すると、女性を採用すれば、見た目上、女性をたくさん雇用している会社になります。しかしその実、雇用しているのは男性です。

もし、そうなったら、例えば、男女比を調べる統計の意味がなくなります。

今は、性犯罪を起こすのはほぼ男性ですが、彼らが女装をして性犯罪を起こし、自分は女性だと主張すれば、数字の取り方が変わります。また、刑務所も女性刑務所に送られた事例が海外にすでに存在し、起きてはいけないことが起きました。

権利は減るのです。

性的羞恥心による忌避は、守られるべき権利だ

女性は、異性に体を見られること、触られることを望みません。それは、合意がなければ、尊厳を損なわれる行為だからです。性的羞恥心は、尊重されるべきです。それは権利です。

性的羞恥心は、理屈ではありません。そんなものは我慢しろという人もいるでしょうが、それこそ、心の自由です。

しかし、女性の定義や領域が変わってしまえば、女性から見て男性だと認識できる人間に、意図せず体を見られる可能性があります。

それは、未然に防がないといけません。起きてからでは遅いのです。男性にはわからないかもしれませんが、女性にとって「男性器」を見ること、また男性に個人的なことを見られるのは、それ自体が被害です。怪しい人がいるから通報するのでは、遅いのです。また、トランス女性の概念があれば、「ためらわず」に助けを呼ぶことが難しくなり、被害が甚大になることが予想できます。

権利は減らない、被害は増えないと「思う」では困る

トランス女性を「女性」と認めても、権利は減らないと「思う」と述べた男性がいますが、「思う」では困るのです。どういう風に減らないのか、もし、減った場合どのように責任が取れるのか、はっきりさせてほしいのです。そして、そのうえでわたしはノーを言いたいです。それは、責任を取れば、被害を受けた人の苦しみがなくなるわけではないのです。

トランスジェンダーの範囲

GIDが診断された人数は、2007年までで、7117人だそうです。

トランスジェンダーと呼ばれている人たちの中で、トランスセクシュアルというのは、さらに少数です。

国政調査で、異性装からトランスセクシュアルまで含んだ、トランスジェンダーの数を調べる項目はないので、トランスジェンダー自体の人数はわかりませんでした。

しかし、ある女装愛好家によると、女装愛好家は70万人いるという人もいます。トランスジェンダーは、異性装も含みますから、この説を取れば、トランスセクシュアルの割合は非常に小さいとわかります。

トランスセクシュアルの人たちは、静かに暮らすことを望んでいるそうです。トランスジェンダーとして、声をあげている人たちは、トランスセクシュアルとは別の人なのではないでしょうか。

トランスセクシュアルを除いた、トランスジェンダーは、異性装、手術は望まない(ホルモン治療はする)人々です。

今回は男の体から移行する人々の話をします。

本来、男性から性器を切除しても、それは性器を切除した男性です。

しかし、トランスセクシュアルの人たちの、粘り強い運動によって、社会は、彼らを「彼女たち」と認識するようになりました。彼女たちが、女性に加害をしない、ということを信じられるようになったからです。男性の言う「単なる肉塊」を取り去る、ということに、信頼を寄せたのです。

トランス女性は、男性問題

Erinさんがいうように、男性には女性の専用スペースに、そもそも入る権利がありません。だから、そういう意味では、トランス女性と、女性の権利の衝突ですらないのです。

男性の体をした人たちは、男性のバリエーションです。男性が受け入れるべきです。トランスジェンダーの人々が、安心して、男性のスペースに入れないのなら、それを工夫するべきです。女性が無理に認識を変える余裕はありません。女性には、渡すパイがもともとないのです。

男性には余力があるはずです。余力がないとしても、同じ体を持つ人間として、分かり合う努力ができるはずです。

これは、男性問題なのです。男性は、女性に指図するのは今すぐやめるべきです。

なぜなら、男性がまったく性犯罪をしないのならば、女性は、トイレまでなら共有することを選べるでしょう。それでも、身体的な差や、性的羞恥心はなくせないので、雇用や、労働、介護、福祉、医療、運動の場では、分ける必要があります。

「性犯罪をなくせない状態を維持する」ことと、「性犯罪を怖がるのをやめろ」と女性に言うこととを、男性は両立しています。どちらも、男性が行っています。やめることができるのは男性だけです。

それは、止めることができるはずです。性犯罪を起こすのも、性犯罪を怖がるなと言っているのも、どちらも男性なのですから。女性が、男性に対して、抑止力を期待するのは、それらを男性が引き起こしているからです。また、肉体的な力の不均衡があるからです。

女性にとって、犯罪も、犯罪を恐れることも、逃れることができないものです。なんとか「防ぐ」種類のものです。

しかし「やめる」ことよりも「防ぐ」ことのほうが、はるかに難しいことを、誰でもわかるはずです。しかし、男性たちは、難しいことを女性に求める。

それは、男性の身勝手を示しています。トランス女性が女性になれば、男性の出入りできる領域が増えます。文化面でも。トランスジェンダーとは、異性の文化に越境することです。つまり、領域が増えます。男性の権利が増えます。

トランス女性は、男性の体を持ちます。トランス女性への差別をやめろ、というのは、「男性差別をやめろ」という意味になります。それは、グロテスクな状況です。

男性が、自分たちのパイを何一つ減らさずに、いい人の顔をすることができるのが、トランス女性は女性です、というイデオロギーなのです。

トランスジェンダー問題へのわたしの論点

わたしが一番嫌なのはアライだ。

というのは、わたしもされたことがあるからわかるけれど、彼らは、いつも正義のみこしに担げる弱者を探していて、その弱者の名前で、正義の制裁を他人に加える。そうすることで、自分は、正しいことをしている側だという承認欲求を満たせるのだろう。

庇護と支援は違っている。成人相手に「誰かを守ってやる」というのは、基本的には見下しと侮りが含まれている。支援は本人に対して、環境を整える、本人らしく生きられるようにするということだ。だから、支援を必要としている人がいて、その人がしたいことを必ずしも全部認める必要はない。その人が、自分のしたいことをしていても、その人に害のあることや、周りに害のあることならば、指摘するほうがいい。

けれど、庇護はそうじゃない。支配に近い。被庇護者が「それは嫌だ」と言えば、庇護しているつもりの側は、手のひらを返して、敵認定する。

それが、また起き始めているので、わたしはとてもいたたまれない。トランスジェンダリズムは誰のためのものだろう?今は活動家とアライのためのものに見える。

トランスセクシャルは体の問題を抱えている

トランスセクシャルと、彼らを除くトランスジェンダーとは、異なっている。いわゆる「トランス女性」に限って話をすれば、男→女の変化に見えているけれど、理路が違う。表面上は、同じ性別の移行に見えても、本質的にはトランスセクシャルは「体の問題」をもち、トランスジェンダーは「文化の問題」だ。

今、俎上に上がっているのが、男から女、のパターンなので、そういう前提で話していく。

トランスセクシャルは、身体が男だからつらい。そこが出発点。だから、トランスセクシャルの方々は、「女性」と「自分の体」が違うことを認めているのだろうと思う。だから、苦しいのだろう。

その苦しみを和らげるためには、身体を変えるにしても、感覚の側を変えるにしても、医療の介入が必要だから、「障害」なのだ。障害に悪いイメージを持っている人もいるだろうけれど、「障害」は当人の障壁にはなるけれど、恥じるものでもない。

トランスジェンダリズムは、言葉を変えさえすれば、現実が消失するように考えている。すべてが社会的構築物だから、というのはそういう発想だ。でも、虚構は、現実だ。女という名前の付いた「体」に違う名前がついても、わたしの体に紐づいている意味は消えない。

障害という名前がなくても、どちらにせよ、苦しみは苦しみだ。言葉を言い換えれば、苦しみが消えるわけではない。

それぞれの差異を認めずして、尊重はありえない。

女性と、男性は、身体も、経験も違う。

女性という「集団」の中でも、個人的に得た経験は違うけれど、その集団に加えられている差別は、社会から受けているものだから、共通点がある。そして、差別が加えられる根拠や目印は、女性の体の特徴にある。

そういう意味で、女性と男性は違う。

トランスセクシャルへの尊敬

わたしがシンパシーを感じるのは、トランスセクシャルたちが、「生きることを選んだ」人たちだという点だ。残酷なことを言えば、手術をしても、別の性別の体になれるわけではない。それは変わらない。男性器を取り去っても、男性器のない男性の体であることは変わらない(これを書くのにためらいはあるが、言葉を濁したくない)。その限界に苦しんでるのだとも書いてあった。

しかし、それをわかっていても、苦しみを和らげるために、それを選び、生きることを求めている。

それをとると、からだの意味が変わるので、文化的に女として溶け込むことができる。

男が男であるための象徴的に扱ってるものを取り去るのだから。

また、理解されようと努力している。

身体違和、というのは、身体への感覚をコントロールできないことではないかと、言っていた人がいて、それはよくわかる、と思った。

些細なことで例えれば、ウールのセーターがチクチクして、着ることができない、というのも、それは感覚をコントロールできないと言えるだろ。チクチクする人にとって、これはどうしようもない。

脱ぐしかない。

それと同じように、それをもっと強めていった感覚で、「身体」を脱ぎたいのではないか、と想像している。しかし、セーターは脱げるが、体は脱げない。替わりもない。

自分の例で話せば、わたしは自分の体調と、気分の上下や、衝動をコントロールすることができない。だから、医療の介入を必要とする。それは、生きることをわたしが選んでいるからだ。もちろん、投薬によるコントロールを、不自然だという人はいるけれど、どうせ生きることが不自然なのだから、割り切っている。わたしは、自分の体も、自分のものではないような、浮遊した感覚がある。それは、どうしようもないことだから、受け入れている。それが受け入れられる範囲のことで、コントロールできるからだ。

それで、わからないなりに、トランスセクシャルの人を、そうしてまで生きたいと願っている人をリスペクトする。

だから、女性として生きたいと願うなら、女性として受け入れる。それは、支援で言えば、環境の整備に当たると思う。

(とはいえ、彼女たちは、わたしに知られないようにしているだろうけれど)

文化の越境には、尊敬を必要とする

トランスセクシャルを除く、トランスジェンダーの人たちは、その名前の通り、「性的役割」つまり、文化の越境を望む人たちだと思っている。その人たちを、からかったり、笑ったりは許されないことだし、例えば就労の場で不利になることは、どうしたって是正されなくてはいけない。

ただ、女性たちには、女性たちの歴史と文化があり、そこへの尊重がなければ、到底受け入れることができない。

まず、女性が懸念や恐怖を表明すると、差別者、虐殺者、terf、トラウマがあるなら外出するな、トランスして男になればいい、病院に行けと言ってののしられる。しかし、これは、女性の歴史や文化を尊重すればあってはならないことだ。それにわたしたちは、「男」を名乗っても、女の待遇や境遇から抜けることができない。女の押し付けられた境遇を、 そういう境遇にない人たちが、 表面的に真似られることは苦痛だ。

まず、差別的言動というならば、誰が、誰に、何をしたら、差別になるのか、はっきりさせないといけない。そうでなければ、女性として生きるときに生じる、あらゆる心配事を、話すことができなくなり、委縮してしまうからだ。

例えば、女装男性(女性風の服装をする、男性だと自分を認識している人)に対して、「男」と言えばいいのか、「女」だといえばいいのか、それもまだはっきりしていない(言及しないことが礼儀だけど)。

それがはっきりしなければ、差別的言動を避けることができないし、差別者と言われることは誰もが避けたいことだから、いきなり「差別者」と言われると、女性たちの心配は、語られなくなる。

感情に基づく理屈への尊重を

わたしは、感情を伴わない理論はありえないと思っている。しかし、感情や経験に基づく「話」は軽んじられている。今でいえば、研究者、学者、活動家、左翼男性、たちに。それは、男性的な価値観だ。昔から、論理/感情とされてきたし、それに対応するのは、男/女だ。

理路の恣意性を自覚せよ

だいたいの人が、理屈を考えるとき、無意識にゴール、自分にとって好ましいと思える結論を設定され、それに向かって、論理を形成していく。それをコントロールするには、そのことを認識していないといけない。だけど、女性をterfと呼ぶ人たちは、感情を伴う女性の理屈を、軽く扱う。何を求めているのか、理解していなければ、その願望をコントロールして、真実にたどり着くことができない。

「測定」にすら、主観は入る。こうなってほしいという願望が、何かを「はかる」「観測する」結果に、影響する。それと同じようなことが、思想や理論にも起きているはずだ。

それをコントロールするためには、願望を自覚するしかない。

トランスセクシャルの人たちが求めているのは、医療の介入のように思う。身体に対する認識をコントロールできないことに困っているから、身体か、認識をコントロールするにしても、それは、医療の領域だからなのだと思う。

だから、「脱病理化」と言っている人たちは、体の違和感の問題ではなく「文化の移行」を求めているのだろう。病理として扱わないのなら、移行できるのは文化(性役割、性表現)しか残っていないからだ。

ここからがわたしの本題である。

論点

  • 女性の定義
  • 女性の領域
  • それらを変えたときの現実への影響

わたしは、素人だけれど、現実を生きる生活者だから、形而上の定義が変わり、現実に波及し、生活が変わっていく可能性があることに、口を出す権利がある。

わたしが弱者だと思っているのは、まず子供、病人、障害者、お年寄りである。人を弱者だと考えるのは侮りではない。

弱者を尊重するためには、彼らの弱さを受け入れなくてはならない。

例えばわたしは、ある側面では恵まれているが、ある側面では支援を必要とする。属性と属性を足し合わせても、わたしにはならない。ある側面で弱者だとしても、ある側面ではそうではないかもしれない。

弱い人たちは、意思表示をすることができなかったり、意思表示が受け入れられなかったりする。身体的にも、精神的にも、弱いければ、助けが必要だ。

労働者として、利用者として、誰が女性かはっきりさせないといけない領域は、「女湯」「トイレ」以外にもある。

集団で生活をする施設などがそうだ。

例えば、それこそツイッターで話が出たことだけれど、重度の障害のある子供が、施設に入るとき、その世話をする人は、女性であってほしいと願う親を、誰が差別者だといえるだろう。実際に、意思表示のできない状態の女性が、悲惨な事件の犠牲者になったことはいくらでもある。だから、「女性」が誰を指すのか、はっきりさせないといけない。切実な問題だ。

女性の領域を変えるというのは、あらゆる領域に波及する。

カフェで隣り合った人、会社の同僚というような関係性と、介護する、される、という関係性と、それぞれ考える必要がある。領域を変えてから、何かあっては遅いのだ。あらかじめ考えなくてはいけない。どういう場面に遭遇するのか、なども。

いったん法律的に「女性」と定めた人を、そこから排除するのは、女性の中に序列を求める行為だからだ。

誰を受け入れるか、受け入れないか、は、個人にとって大切な領域だ。ある人が言っていたのだけれど、介護の世界でも、外国人の介護者を受け入れられる人と、言葉が分からないからちょっとごめんなさい、という人とがいるそうだ。でも、その人を差別者と言えるのか、と言えるのか、という問題がある。

プライベートな領域に、公的なものが介入するとき、その内容を選べるということは大切なことで、心までは縛れない。弱っているときにどんな人に体の世話をされたいか、選べなくてはならない。性的羞恥心や、誰に体を観られたくないか、は尊厳の問題だ。裸を異性に見られる、ということは、相手によって、重大な侵害だ。だから、誰が「女性」で「男性」か、が重要になるのだ。

男性として育てられることで見えないもの

男性として子供時代を過ごした人たちは「女子高校」の多くに、カリキュラムに物理がないことを知らないだろう。化学がないことすらある。そうすると、受験科目で物理や化学が必要な大学を受験することができない。だから、理系に女性は少ない。中学生のときから、はじかれてるからだ。

ほかにも、女性が、子供時代に受けた様々な障壁を経験したり、知らなかったりすれば、女性差別を経験したとは言えないだろう。そういう現実を、尊重したうえで、女性の領域を変えようとしているのか、甚だ疑問だ。そして、それらを「認識の問題」とするなら、到底許容しがたい。

言葉を変えても現実(身体)は消えない

「女」というものが、社会的構築物だとしても、虚構だとしても、それは、現実に作用している。現実に作用しているものを言葉一つで変えることはできない。言葉の定義を変えることで、「女」を作り替えることは、文化の収奪である。

文化領域をトランスしたい、越境したい、というならば、女性の選択を尊重すべきだ。女性たちが、女性の役割とされているものを拒否すること、女性文化の抑圧をはねのけたいこと、性的客体とみられることを拒否したいと願ったとき、それを非難するのか、文化のトランスをやめるのか、どちらなんだろうと思う。

女性らしさはとても素晴らしいからやめないで、というのか、女性らしさというわかりやすいものがないなら、女性になる意味がないと思うのか。文化の越境をしたい、と言われたとき、される側のわたしは、こういうことを考える。女性、というものがなんなのか、わたしにはまだわからないから。「生贄」として、選ばれている性だと思っているけれど。

懸念していること

生きている人が、自分の主張を通すために、人が死ぬぞ、と容易に言うこと。

希死念慮を持つ人は、死ねばいいのか、と思ってしまう。

また、それらは、健全な話し合いを育てない。

terfと呼ばれている人たちは、よく言われるように、多くが性暴力サバイバーだ。けれど、彼女たちは、虐殺者、差別者、病院に行け、外出するな、から始まって、ひどいからかい、嘲笑の言葉を投げつけられている。

トランスジェンダー(トランスセクシャルからトランスヴェスタイトまで含む)が不安定な生を生きてることは否定しないけれど、「アライ」「活動家」の人たちは、安易に「terf」と呼ばないでほしい。

というのも、terfは侮蔑語なので、侮蔑語を投げかけた相手は人間扱いされたとは感じない。「議論がしたいなら相手を人として見たところから始めてくれ」という言葉を書く人が、同じ文章で「TERF側」という言葉を使う。これではうまくいかない。

もう一つの懸念は、「正義ならば人をいくら攻撃してもいい」と考えている人たち(具体的にはしばき隊、野間のような人たち、そして左翼男性)が、自分たちの庇護欲と、攻撃欲を満たし、正義の味方だという陶酔に酔うためにしていること。

彼らは、形勢が悪くなったら、いくらでも嘘をついて、歴史を修正して、自分たちは悪くないという顔をして、また新しい、「弱者」を求めて去っていく。「弱者」のためにならいくらでも何をしてもいいと考える人たちだから、みこしにのせるための「弱者」が必要なのだ。彼らは嘘をつき、歴史を書き換える。そして自他共に認めない。

彼ら自身が、あらゆる悪さをしているのに、結局、憎まれるのは、トランスセクシャル、トランスジェンダーの人たちだ。世間の人たちは、トランスジェンダーは、トランスセクシャルのイメージでとらえているから。

一応参考

このツリーに集められるだけの暴言を貼った。
実際にはもっとあった。
これについてはまた改めて書くが、このようなことをなかったことにできない。感情はあるからだ。

人間には穴がある

人間には穴がある。口から肛門につながっている。細胞が組み合わさって、管のような組織をたくさん作っている。人間には穴がある。

性暴力は、社会的構造的問題だ。

それは、性暴力の対象として最も選ばれやすい「女」が、社会的、構造的に、その属性を固定されているからだ。

そして、その属性は、自意識では変えることができない。

身体の特徴に基づくものだからだ。

そして、ジェンダーで、性別を決めるという人たちは、この歴史や現実を無視している。これは、被差別属性の女性の言葉を奪うので、女性蔑視的である。ジェンダーで決まるなら「女はやめたいときにやめられるはず。やめないなら、好きで女をやっているんでしょ」ということになるからだ。でも、実際には、身体的な特徴で、女は女として定められているので、自ら女をやめることは不可能だ。

トランスジェンダーの人口比は、たしか3%程度だが、mtfはさらに半分だとしたら、人口の1.5%くらいだろうか。

そして、女性が人口の半分だとして、その中で、性暴力に一切あったことがないひとはどれだけいるだろう?その人間の人口の半分に当たる人々の恐怖が、無視されていいのだろうか?

これだけ大きな人数の塊が、男性からの性暴力の対象に選ばれやすいとはっきりされているのだから、社会的に対応しなくてはいけない。

トランスジェンダーは人数が少ないからどうでもいいということではない。

わかってほしいのだが、女性は、常にどこか性加害におびえながら暮らしている。

今回の記事では、トランスセクシャルはトランスジェンダーに含めていない。最近、くたばれGID関係でそういう話題が出ていたことと、別に扱ってほしいというトランスセクシャルの声を目にしたので。

トランスセクシャルの女性と、わたしは、身体や、身体にまつわる記憶や経験に、大きく違う点がある。しかし、あえて断っておくけれど、 わたしは彼女たちとともに生きていくことができると願っている。それぞれの違いを消すことなく。

クロスドレッサーも、異性装が好きで、楽しんでいられるなら、それが一番いいと思う。

性暴力について、「個々に対応すればいい」という発言の何が問題か、というと、女性の恐怖が構造的なものであり、性暴力が、社会的な問題であることを気が付かないふりをして、あたかも、個人の差別心が原因で、トランスジェンダーの人が虐げられていると誘導している人がいるからだ。

「純粋な男にも、トランスジェンダーにも、クロスドレッサーにも、それぞれ犯罪者も犯罪者ではない人もそれぞれいるのだから、犯罪者にだけ対応すればいいのに、それをしないのは、差別だ」という人がいる。

けれど、そうじゃない。先にも述べたが、性暴力というのは、社会的構造的な問題なのだ。女という属性が、構造的に固定されているからだ。

だから、個人が、犯罪者に遭ったらそのとき対応したらいいというのは、机上の空論だ。犯罪者は、あらかじめ準備してから獲物にとびかかる。とびかかられたほうは、心の準備すらしていないので、最初に勝負は決まっている。

なので、高井さんのいうように、「逸脱的な行為者」という表現がとても気になる。彼らは、「普通の男性」なのだ。性加害を性加害として認識せず、ゲームのように暴力を振るう男たちは、女性の合意がなくても合意があると思っているし、自分が異常だとも思っていない。周囲も彼らを正常だとみなしている。

加害を目的として外性器を露出する人は、たいてい男性だが、その相手が女性とは限らない。男性用のトイレで、痴漢に遭った男性の話も聞いたことがある。だから、わたしは「穴がある」と指摘した。自分の身に降りかかることとして、恐怖を共有してほしくて。

わたし(コニー)のツイートの意味は、「トイレで外性器をみることはないので、性暴力の恐怖を語るのは差別である」という主張に対して、「そんなことはない、加害は常に起きてきたから、トイレで外性器を観るのはレアケースではなく、それゆえに、心配するなと言われてもまったく根拠を感じない」という意味である。他人事としてしか、性暴力の恐怖を「神のように俯瞰して(ほかの人の言い方を借ります)評論すること」にどんな肯定的な意味があるだろう。

性加害をする人間の性的指向は関係がない。また、男性を襲う男性の数はゲイよりも、ヘテロであることのほうがはっきりと多いというのも常識だと思う。

だから「あなた(人間)にも穴がある」という事実と、わたし自身が「穴があるとみなされたから、穴に突っ込まれた」という経験を結び付けて、「あなたも穴があるとみなされれば、突っ込まれるのだ」と言ったことは、ホモフォビアではない。

というか、穴があり、それに何かを突っ込まれるということから、ホモフォビアを連想されたので、むしろこちらは面食らってしまった。穴に何かを突っ込もうとするのは、普通の男だ。

女性差別は「この人間には穴がある」とみなされて、同時に、見下され、道具にされることだ。穴があり、何かを突っ込めば面白い、うまくいけば、人間が増えて、将来の自分の役に立つから突っ込んでおこう、というもの。それが「女をモノにする」という言葉の意味。慣用句になるほど普遍的な発想だ。

やばいことをすればするほど、男同士で認められ、男である自分の穴に気が付かれることはない、というのがホモソーシャルの仕組みだ。自分の弱みがあることをみせれば、いつ寝首を書かれるかわからないので、女を生贄にすることで、自分の「男」を証明し、連帯を強める。

女同士に連帯がないのは(もしくは連帯が難しいのは)、生贄にするべき何かが存在しないからだ。わたしたちの共通項は、「生贄にされる」ことでしか存在しない。わたしたちは、女である、その一点でしか、共通した部分がない。本当は一人一人、まったく違う。けれど、その差異は差別の前で消える。

そして、同じ種類の体を持つという宿命から、同じ文化を共有しているので、苦痛について、話し合うことができる。

男が、わたしたちの苦痛について話し合うことも、ましてや、聞くことすらできないのは、同じ抑圧を受けていないからだ。それは体が違うから免れている文化だ。

わたしたちのそれぞれの違いは、女という、「妊娠可能な体」に覆われて、均一的な、同一的な、男の作った「女」というジェンダーロールに集約される。まとめられて、消滅させられる。

トランスジェンダリズムは、それぞれの違いを消滅させる。そして、男の作った共同幻想であるジェンダーこそ、本当の女のイメージであると述べる。「ジェンダーが男女を分ける」というのは、共同幻想こそが、本質だという意味だから。

じゃあ、その共通幻想を作ったのは誰か。生贄としてささげられたわたしたちだろうか?わたしの体だろうか?

そうじゃない。生贄としてわたしたちを利用して、自分の男を証明する人たち、それらが作った都合のいいイメージ、それがジェンダーだ。

つまり、ジェンダーによって、女が誰なのか決まるということは、それぞれの身体的、心理的に持つ固有の違いよりも、イメージに覆われた、人形のような何か、それのほうが本物の女だということ。

生まれる前、自我が芽生える前、女は女だからという理由で殺されるので、全世界的に、女性の数は少ない。本来ならもっと生まれているはずだった数よりも少ない。女が差別されるのは、「女という意識」が故じゃなくて、外から見える特徴だという証拠だ。

わたしが「あなたには穴があり、穴があれば突っ込まれる」と言ったとき、とっさに「ホモフォビック」だと返したのは、怖かったからではないのか。自分が男でなくなること。それ自体の恐怖。

もし、女性が、差別されず性暴力を受けなければ、それぞれの能力を伸ばし、夢をかなえることができただろう。

知的な職業に就いている男性は、自分のキャリアやポストが、努力の結果だと思っているかもしれないが、それは下駄を履かされているからだ。

今でさえ、大学が少ない地域の話で言えば、数人の子供がいる場合、東京の大学に通わせられるのがたった一人なら、男子が選ばれる。一方で、もう一つの性は、子供のころから「女の子は理系は苦手だからね」「食べていける職業に就かないとね」と夢を追うことを遮られて、自分らしく暮らすなんてことが程遠い中で、幸せを見つけようともがいている。

男性にも穴があるのだ、穴があれば突っ込まれるのだといわれるだけでも、うろたえてしまうような人が、現実のわたしの話だといっても受け入れることができないのはよくわかったけれど、わたしは苦しんでいる。そして、苦しんでいる人はほかにもいる。語ることで生きながらえて、寄り添うことで人を信じようとしている。

私の体の持つ意味も語ってきた言葉も盗ませはしない

フェミニズムの解釈違いにつかれてしまって、もう、フェミニストを名乗るのもやめようかと思っている。

男女差別に反対なのは変わらないんだけど。

でも、めんどくさいこともある事実婚を実践していて、それでも、本当のフェミニストじゃないとかいろいろ言われるのが、うんざりしてしまった。

本当のフェミニストなんていないと思うんだけど。だって、今の社会に生きている限り価値観からはどうしたって自由になれっこないんだから。時代の子だから。未来にしかフェミニストはいないことになる。それならウーマンリブなのろうと思ったけど、そっちも、わたしが賛同しがたい人々によって、わたしの思っていた意味とは違う活動が行われていたから名乗るのをやめた。何かの属性を名乗ることがそもそも危ういから、この思想に乗ってます、みたいなことも、もう限界なのかもしれない。

わたしが本当のフェミニストじゃないといわれたのは、二つ。

おしゃれをすることと、自分が女だと名乗り、女の体を持つがゆえに押し付けられてきた意味や、盗まれてきた尊厳について語ること。この二つを、差別とののしられた。

どちらも、自分を肯定するためにしてきたこと。わたしのすり減った尊厳も自尊心も、それは、自分の責任だけじゃなくて、社会の責任でもあり、受け入れず戦っていいと示すこと。そのために「女性」という言葉が必要だったし、「女性でいるがゆえに起きたすべてのこと」を語る必要もあった。

だけど、今は「女性」という言葉に「女性」じゃない人を含めないと差別だといわれる。そうしたら、わたしの語る言葉は意味を失う。わたしの経験から紡がれる言葉はまた死ぬ。女性という言葉で表してきた、戦うための概念は違う体を持つ人たちに盗まれて骨抜きにされる。

わたしは、女性だ。それは、この社会がペニスの有無を根拠にして選んだ現実だ。社会が「ペニスの有無」以外で、男女を決めることが可能だという意味では、それは社会的な構築物と言えるだろうけれど、そのほかの要素で、「女性」「男性」を分けている世界に、わたしは住んでいない。だから、わたしはペニスを持たないがゆえに、女性である。

女性は、生殖をするかしないかどうかにかかわらず「生殖可能性」をその体から読み取られる。そして、その可能性を読み取られる時点で、ほかの可能性を摘み取られる。

それは、実際に、生殖を選ぶか、可能かを必要としない。生殖する種類の体かどうかで、選ばれる。そして、わたしは、女性として区分され生きてきたので、女性として味わう様々な屈辱をなめてきた。そして、女性として生きる現実をなぞったうえで、女性として、人間として、いかに生きるかを模索してきた。

自己表現としてのおしゃれが、ネット上の女性の権利的な議論の中で、すっかり人気がなくなってしまっているけど、生きていて楽しいって思うことを排除していく先に、何があるのかわたしにはわからない。セルフケアとしての身だしなみと、社会的に要求されていて、拒否できない身だしなみと、区別できるかというとできないから、全部拒否するみたいになりがちだけど、それでどうなるの???って思う。
わたしは嫌だ。

これを事実婚と結ぶのは、飛びすぎてるかもしれないけど、わたしには同じ問題だ。

から、わたしは自分のアイデンティティを保持するために事実婚をしてきたけど、そういうのも、自分の理想のためにやってきたといえども、なんかもういいかなと思い始めてる。

他人からわかるのは、言動、見た目、そういうことだけだから、言動や見た目で信頼できない人がいたら、そういう人は信頼できないというしかない。

でも、それが差別だと言われて、虐殺の扇動者とののしられて、今もショックから抜けきれないでいる。

わたしが信じて実践してきたものを全部捨てることはできないけど、もうさっぱり手を引くのが賢いのだろうとも思う。

だって、わたしは、男女差別的なことに関心を持たなくても、生きていける素地が整っている。家も仕事もあり、助けてくれる人もいる。生きていける。

性暴力サバイバーとして、発言してきたことで、わたしはすでにある程度回復した。自分のためになり、他人のためになるように願いながら、ブログを書いてきた。だから、ある意味で役割は終わったともいえるし、「トランス女性問題」みたいなことから手を引いて逃げ出してもいい。全然いい。けど、「女性」として生まれて女の体を持つがゆえに加害され盗まれてきた尊厳すべてをかけて語ってきたことを、その言葉自体を、さらに乗っ取る人たちを、許せはしない。女性の体を持つから起きたことそれを語ることすべては、わたしたちのために語られるべきであって、男の体を持つ人々に譲ってはならない。女の体の定義も譲れはしない。それは、死ぬのと同じこと。生まれてきてから常に世界が示してきた身体に伴う意味を、わたしは残さず吸収しているから、今それが奪われたら、わたしは土台を失う。性というアイデンティティの根幹が揺らいでしまったらどんなふうに生きていけるだろう?ただ、宙ぶらりんな存在として、どんな風に歩けるだろう。

わたしの体の持つ意味、そういう意味を語ること、それらを黙れ差別だと罵られて、そしてそのまま黙ってしまえば、わたしの体に押し付けられた意味と戦うための言葉も意思も気持ちも死ぬ。女性という身体ゆえに起きた現実と、戦うために語ってきた言葉を盗まれた。女の体を持つ人たちが、その体のために選んできた言葉を、盗み、自分のために使う人々を許さない。女から奪ったものは、女に返すべきだ。それはわたしたちの言葉である。彼らは彼ら自身の言葉で語るが良い。

脱コルセットへの批判、トランスジェンダリズムの構造との類似

「こんなことを書くとめんどくさいことになるだろうな」と思いながら、いっつもそういうめんどうくさいことを書くのは、自分の魂の自由のためだ。誰のためではない。

誰かのためでもないことを書くために、わたしはサーバを借りて、誰にもお金をもらわないで書いている。また、こんな風に発信せず、何も言わなければ、ひどいことを言われずにも済む。書くことで得られる外から与えられるメリットはない。書くことで得られるのは魂の自由だけだ。

そして、これは書いたらまずいだろう、ということがあれば、それこそが批判するべきことなんだと思う。今日は脱コルセットへの批判を書く。それは、わたしが「脱コルセットを批判するとめんどくさくなるな」と思わせる、それ自体が問題だと思うからだ。

「ほかの人のためにしていることなんですよ」と、誰かが何かをしているとき、その「ほかの人」に含まれるとどうしようもない嫌悪感がある。

脱コル系フェミニストのメッセージは、分裂している

脱コルセットを肯定する人は、「ほかの人がコルセットを脱ぐ自由があると示すために、社会抗議としてするんですよ。化粧やファッションへのコストを削減してほかのことに回せるメリットがあるし」という。それでいて、「やりたい人がやればいいとしか言っていない。押し付けてない」という。「でも、脱コルしていない人は、体制に加担していることを自覚してほしい」とも言う。別々の人が言っていて、それ自体に問題はない。でも、これらのメッセージはそれぞれ矛盾している。しかし、別々な人がいっていたり、言語的な階層、非言語的な階層とことなるメッセージだったりして、矛盾を指摘しにくいようになっている。個人の主張を批判するようには、できない。それは、脱コルセットにはっきりした論理がないからだ。定義や論理がはっきりしないものは、批判できない。

わたしはそれに嫌悪感がある。「ほかの人が楽になるためにしているんだ」って、人を支配する人が良く言うことだ。自覚をしろと突きつけるのは、自省を強いることになる。このやり方も、支配的だ。

「ほかの人にコルセットを脱いでもいいというメッセージを伝えるためにしている、おしつけるわけじゃない、けど、体制への加担していることを自覚してほしい」という分裂したメッセージをまじめに受け取っていくと、心がばらばらになる。

押し付けてないと言いながら、加担への自覚を求める、という行為が、どう作用するか。

脱コルの定義のあいまいさ

脱コルセットの問題なのは、言葉が、ゆるゆると境界線をあいまいにして、「そんなことは言っていない」と言ったり、「わかっていない」と言ったりする人があまりにも多いからだ。

わたしが脱コルと類似だと思う現象は、自然食品のようなものだ。意義は正しくても、実行できる人は少ない。お金持ちしかできない。そして、理念を知っても、できない人は罪悪感を持つ。

クィア理論との類似

脱コルセットはトランスジェンダリズムやクィア理論とも理屈の構造がよく似ている。

クィア理論やトランスジェンダリズムと、脱コルセットは、右手と左手の両極に見えるが、その形は鏡合わせだ。出てきた時期も似通っている。脱コルがでてきたのは、2018年の6月。トランスジェンダリズムによるジェンダーの撹乱、つまり女湯問題が出てきたのは、11月。そして、まず、「リベフェミ」と「ラディフェミ」が分断された。それから、脱コルによって、ラディカルフェミニストが二つに分断された。

前提がおかしければ、結論もおかしくなる。その途中の理屈がいかに整ってても。

脱コルセットという概念は、ぐにゃぐにゃしている。だから、批判できない構造をしている。

権利運動は、具体的な利益か、具体的な批判する相手がいるはずだ。だが、脱コルセットは「家父長制」「社会」というあいまいなものを相手にしているし、具体的な利益はない。「抑圧からの解放」や「化粧品やファッションへかけているコストの削減」が具体的だろうか?

それはよく考えてみる必要がある。

ポルノ批判が主でないラディカルフェミニズムは存在できるのか

フェミニズムは、権利運動だ。そして、ラディカルフェミニズムは、第一義に、ポルノグラフィティへの抗議から始まった。それは、性別としての男女の区別を前提に主張している。

脱コル系ラディカルフェミニズムは、ポルノグラフィティ批判が主ではない。そういうフェミニズムを「ラディカル」と呼んでいいのか。

ポルノグラフィティ批判をしているラディカルフェミニストは、脱コルセットをしていない。それは脱コルセットが生まれたのが、2018年6月だからだ。それ以前から、ラディカルフェミニズムについて、考えている人は、第一義に、ポルノグラフィティ批判をするので、彼女たちには、脱コルは重要ではない。

けれど、脱コルを主張する人は、「脱コルをしていないのにラディフェミとはいえない」というようなことを言う。そして、彼女たちは、ポルノグラフィティ批判を一番に置かない。だったら、ラディフェミには二派に分けられたわけだ。

「ラディフェミ」の分断

そう、これは分断だ。もともとのラディカルフェミニズムについて考えていた人たちは、葛藤する。ポルノグラフィティ批判を優先したいのに、脱コルをしていない、脱コルを否定する、というだけで、「あなたはラディカルフェミニズムではない」と言われるから。

脱コル実践による葛藤

そして、葛藤は、支配を容易にする。

脱コルを批判すると、「そんなことはいっていない」と言われる。このしぐさは、トランスジェンダリズム推進派とよく似ている。

また、脱コルセットをすると、葛藤が生まれる。それは、「装飾」から脱却したときの後遺症なのではなくて、脱コルセット思想の持つ瑕疵なのだ。

脱コルセットは、女の記号をやめることで、抑圧から解放されるという。そして、それは自由を意味しないともいう。これは、矛盾している。抑圧から解放されれば、自由が得られるはずだ。

女の体があるから、女の記号が生まれたはずだ

なぜ、矛盾するかというと、女の記号は、女の体があるから、発生した。差別があるから、女の記号が生まれる。差別は、身体的な特徴により発生した。

逆ではない。女の記号を否定したら、差別はなくなるだろうか?

トランスジェンダリズムが「男女の区別があるから、差別があるのだ」「だから、男女の区別をなくせば、差別がなくなる」という理屈と同じだ。トランスジェンダリズムのこの理屈をおかしいと思う人は多いだろう。脱コルも同じ理屈を採用している。わたしは、脱コルを提唱している人と、トランスジェンダリズムを推奨している人は同じ人か、同じグループの人だと思っている。

「女の記号をやめる」ことで差別はなくならない。女の体は消えないから。差別の根拠になる女の体は存在し続けるから。そして、女の体がまとう布は、必ず、女の記号を発生させる。

差別をなくすためではなく抵抗としての脱コル?

わたしがこう書くと「差別がなくならなくても、抵抗としてしているのだ」という人が出るだろう。「競争の場から降りること自体に意味があるのだ」と。

だが、そもそも、抵抗として、競争から降りる行為として、有効だろうか?

抵抗として有効になるためには、「何に対して、こういうことをしたら抵抗になる」と定義して、そして、その相手や、その定義や抵抗が実際に有効かどうか、考えなくてはならない。

だが、脱コルセットは、「こういうこと」がそもそもあいまいだ。

脱コルセットは女の記号をやめることだというけれど

まず、女の記号とは何か。それは、文化や時代、場所によって変わる。ある程度、共有できるものもある。パンプスや、ヒール、脱毛、化粧、スカート、長い髪など。

だが、ちょっと考えてほしいのだが、ヒジャブ、ブルカ、ビキニ、タンクトップやショートパンツ、スカートはそれぞれ女の記号だ。見た目は逆だ。それなのにこれらが、女の記号になるのは、女が着ているからだ。

ハロウィンも、イースターも、節分も、温泉もそれぞれ奇妙な風習だ。クリスマスも、初詣も、宗教的だ。しかし、他文化からみて、奇妙で問題があっても、それを尊重する原則はあるべきだ。脱コルセットにも、トランスジェンダリズムにも、その点の問題がある。文化への介入は、慎重になるべきだ。

「ヒジャブ、ブルカ、そして、身体を露出した服」をやめられるような、共通した、普遍的な「正しい」脱コルセットができる服装は何だろう?わたしは、正解がないと思う。それらは文化や時代に依存しているからだ。そして、正解がないのは大問題だ。

「これを着たら、正解になる」というものがないので、実行できない。そして、理屈が正しそうに見えるのに、実行できないので、罪悪感が生まれる。罪悪感が生じると、生きるための活力が失われる。これは、正しいことではない。これという正解がないものを実践するときに、必ず葛藤が生まれる。化粧や服装によるコストが減っても、脱コルを考えるときの、精神的なコストは増える。

権力がないから差別される

服装コードへの決定権がないから、女性は抑圧される。逆ではない。抑圧されるのをやめれば、服装コードへの決定権が生まれるわけではない。そもそも、パワー(権力、地位、経済力)があれば、自分たちでいろいろなことが決められる。決められない状況が問題なのなら、権力をよこせというべきだ。脱コルセットは、「やめる」ことで、権力を取り戻せる抵抗運動だろうか?

女性の体が「装飾的」だと男性が決めた。だから、何をまとっても「女性的」と思われる。「装飾的」なことをやめても、「決定権」は手に入らない。

理念が正しくても、実践できない思想の問題

自然食品に関する思想がある。それは、環境への負荷をなくし、安全で健康な食べ物を食べるという理念がある。

だが、これは、結果としてお金持ちしかできない。自然食品は少量しか生産できないので、値段が高く、少量を流通網を使って、遠方まで運ばなくてはならないからだ。これには、流通による環境負荷がかかるからこの時点で矛盾している。

また、自然食品に関する思想に共感しても、お金のない人は、実行できない。罪悪感と焦りだけが生まれる。理屈が正しくても、矛盾があり、また権力がないと、実行できないことは、人を葛藤させる。

女の記号を、最も要求させられるのは、貧しい人だ。資格をもっている、高い社会的地位を持っている人たちは、女の記号をそもそも身に着ける必要が少ない。だから、選ぶことができる。

たとえば、弁護士や、医師は、女の記号を身に着けるべきか、選ぶことができるだろう。

しかし、時給千円以下の接客業や、販売業、小売に携わる女性は、選択することができない。

いわゆる水商売をしている人もそうだろう。

体制へ加担していることの自覚を求めることも問題

脱コルセットは、「体制に加担していることの自覚」を求める。これは、「脱コルセットは正しくても、自分はできない」という葛藤と、「脱コルセット実践者に感謝をするべき」という二つの気持ちを産む。本当はしなくてはならないことができず、できている人に感謝しなくてはいけない、と葛藤すると、自尊心が減る。

結果として、脱コルを知ると、人は不安定になる。

脱コルセットが、自分が工夫して楽な服装を目指すことにとどまるのではなく、「脱いでもいいというメッセージを他人に与え、社会抗議をする」ことである以上、その発信自体に葛藤を生む危険があるなら、それは慎重になるべきだ。脱いでもいいというメッセージを与えられ、そして、それができる人は楽になるが、できない人は、余計苦しむ。「あなたの代わりにしてあげている」というメッセージ自体が、人の自尊心を奪う。

パワーの象徴としてのニュートラルな服装

ジョブスは、どんな場所でも、タートルネックのセーターとジーンズで過ごした。どんな場所、時間でも。これは、権力の象徴だ。彼のように、権力を持たなければ、誰であっても、TPOにあった服装をするしかない。ある意味で、彼のような服装は、「脱コル」の正解と言えるだろう。彼は、男だが、「人として標準」的な服装だから、女性がしたら「脱コル」になる。それこそ、化粧やおしゃれに割くコストを削減して、ほかのことに回すことを選んだ人の服装だから。

だから、ジョブス的な服装は、男女どちらであっても、「ニュートラル」な服装と言えるだろう。しかし、それを選択できるのは、権力を持つ人だけだ。そして、女性は、男性に比べて、権力を持たないので、彼のような服装を選択できない。

彼のような服を着ることはできる。しかし、失うものがある。失うものがある以上、「選択できる」とはいえない。また、ジョブス的な服装は「アメリカ的な文脈」での正解だから、他文化では応用できない。

ニュートラルな服装の文化的文脈上での限界

また、ジョブス的な服装を仮に正解として、それは、アメリカ中心的な価値観であることからは逃れられない。

だから、個別に考えていくしかないが、個別に考えていった結果、たとえば「スカートを穿くことがわたしの脱コル」というのは、許されないそうだ。それは、脱コルセットが、女の記号を排するものだからのようだ。でも、それならば「その正解」を決める人が存在すると、暗示されもする。しかし、その暗示された「正解を決める」権力がある人は、表に出てこない。

これは、ダブルバインドだ。パワー(地位や経済力)がなければ実行不可能なのに、できなければ、体制強化へ加担していると自覚を求められるので、罪悪感と不安に引き裂かれる。

「正解」は明示されないのに、「正解」を定める存在は暗示され、かつ、個別に考えるしかない。これは、抑圧だ。

あさま山荘事件では、こいつは「女らしい」から体制への加担をしている、と「総括(自己批判)」され、女性が殺された。そして、殺されないために、女性は、各自、女性らしさを封印していったが、なにが女性らしいか決めるのは、「権力のある女性」だったので、正解がつねに揺らいでおり、殺されることから絶対に免れる服装やしぐさはなかった。

男が犠牲を払わずに済む「抵抗運動」

脱コルセットは、男に変化することを求めない。これは、男にとって、都合がいい。女性が、変わる。それが「美しさの競技場」から降りることであって、社会への抵抗、批判であっても、男は変わらないで済む。

脱コルセットは本当に男化ではないのか

また、脱コルセットは「男化」ではない、というのは、どういうことか、きちんと考えてみよう。

トランスジェンダリズムの問題で、わたしは「女」の定義についてかなり考えた。それは、女が生殖可能な身体をもつ性別であるがゆえに、差別されてきたこと、また、女はnot男として、定義されていることの二つで定義されるのだと結論を出した。これは、ラディカルフェミニズムの考えを踏まえた結論だ。

女が、not 男であり、脱コルが、「not女」(女性性の拒否)なら、それは男だ。not 男=女、not 女=男、だから。ラディカルフェミニズムは、女と男の二つの性別を前提に、構造を考えてきたものだ。だから、その構造に準拠して考えれば、not女=男が成り立つはずだが、ラディカルフェミニズムであるはずの脱コルは、女の記号の排除を男化だと言われたとき、それを否定する。男化ではないと。

わたしは、やりもしないで脱コルを批判することをまずいと思って、一か月以上、髪を切り、化粧をせず、スカートとパンプスを履くのをやめて過ごした。そして、わかった。

今のわたしには、それをやめられる環境があるということ。環境があるからやめられたということ。今、十代から二十代の女性には、わたしがそのころ過ごしていた時よりも、強い抑圧があるから、それを和らげるために、脱コルは必要なのはよくわかったが、その一方で、脱コルをすればするほど、社会的適応を犠牲にするしかないという実感を得た。

社会的適応としての服装コード

わたしは、発達障碍者として、感覚過敏や社会不適応があり、TPOに沿った服装そのものが理解できず、それゆえにできなかった。それによって、社会になじめないという苦しみを長く持っていた。そのなじめなさには、もちろん、就労機会の損失も伴っていた。

それを、社会的適応をした服装を学んで、直した時、その苦しみは中和された。しかし、脱コル実践によって、その苦しみは、戻ってきた。

裸を含む、あらゆる服装は、社会との接点であり、その接点にどう対峙しているのかを示す。布一枚羽織っているだけでも、その人が、どういう人間なのか、社会的記号を伴って、人にメッセージを送る。服装が自己表現だといわれるのはそういう側面がある。たとえ男でも、高級なスーツを着ていたら、社会的地位がある人だと思われる。身だしなみは雄弁に、その人のありようを物語る。

靴、眼鏡、爪の長さ、そういうものすべてから、人は、その人がどういう人なのか、読み取っていく。また、読み取られていく。どのように読み取られたいかも、逆にある程度コントロールできる。

女が服を着るということ

女の体の上に、社会的号を身に着けて、どういう人間なのか示す。社会的記号の身に着け方で、ある程度、どんな人間なのか、読み取られ方をコントロールできるが、土台にある女の体やそれへの読み取られ方はコントロールできない。

脱コルセットは、それも承知の上で、できることをしていくのだ、という。けれど、それまで培ってきた社会的適応を捨てると、人は葛藤する。それは、個人が楽な服装を工夫する以上のことを、脱コルセットは求めるのだから必然だ。だが、脱コルセットはその葛藤を、「装飾」に求める。ここで「ずらし」が発生している。

脱コルは、6Bも提唱している。6Bとは非恋愛、非セックス、非結婚、非出産、非協力、非消費だそうだ。

脱コルセットも、6Bも検索してもなかなかでてこない。それ自体にも問題があると感じる。

いくつかの軸から、これについて考えることができる。

対:政府、資本主義、社会適応、個人レベルの感情の変化などの軸について考えるべきだろう。

再生産の拒否は、資本主義にまきとられる

政府にとって、また、資本主義にとって、6Bは不都合ではない。だから、これは抵抗にならない。女性が、6Bを実践すると、政府は中絶、出産について考えなくてよくなる。考え、実行すべきことが減るのは、都合が良いといえるだろう。

また、再生産をしない人間は、男と同様に扱えるので、労働者として都合がいい。そういう意味で、6Bは資本主義への加担になる。旧来のフェミニズムは女性の、中絶、出産の権利を求めてきた。しかし、脱コルセットや、6Bはそれらの権利運動を白紙に戻す。

生殖問題を個人問題化させる

あるフェミニストが、6Bを実践したら、その個人としてのフェミニストの関心から、出産や中絶への関心が薄れる。フェミニズムは、「自分の問題」を追求するものだからだ。出産や中絶の権利運動が空洞化する。それは、アンチフェミニズム的だ。

トランスジェンダリズムやクィア理論が、フェミニズムの顔をしながら、結果として、「女性の定義をあいまいにする(トランス女性は女性です。ペニス付きの女性もいます)」ように働いたのと同じだ。

再生産について、政府は熱心ではない。女性の権利を保証すれば、出生率は戻るという正解はすでに示されているのに、それを実行しないことからも、それは明らかだ。そして、6Bはそれに沿うのだ。

出産に関して、社会にはダブルバインドがある。産めというプレッシャーと、出産は迷惑だというプレッシャーがある。やりたい人がやればいいが、その先は自己責任だというプレッシャーもある。

産まないことが、資本主義社会に都合がいいという一面もある。

6Bや脱コル実践によって、社会問題がかえって個人化される

6Bも同じで、やりたい人がやればいい、という。でも、その先は自己責任で負うしかない。それは、脱コルも6Bも「個人で考えること」が前提で、「正解」がないから。産むことが家父長制の加担だというプレッシャーを与える一方で、産みたい人を否定するわけではない、という。それは、矛盾で、ダブルバインドだ。

ダブルバインドとは

ダブルバインドは「おいで」と言いながら「つきとばす」というようなことで、言語と非言語の別階層で違うメッセージを与えるので、矛盾に気が付きにくくするという概念だ。

6Bをして、社会に抵抗しよう、と言いながら、実践を「個人の自由」「自己責任」という。脱コルをしないなら、家父長制に加担していることを自覚して、そのうえで、おしゃれや「装飾」をしたらいい、ということ。これは、フェミニストでありたい人を葛藤をさせる。

仕組まれたフェミニズムの分断

脱コルセットと、トランスジェンダリズムが、ジェンダーロールをかく乱することで、差別をなくすという主張をしていることが相似の関係にあり、同時期に議論されており、トランスジェンダリズムが「リベフェミ」と「ラディフェミ」を分断し、脱コルが「ラディフェミ」を分断したことにより、これは、仕組まれた分断だと考える。

ラディカルフェミニズムが、ポルノ批判が第一義なのに、それをしてる人が脱コルをしていないなら「ラディフェミ」として失格だというメタメッセージを与えていること。

脱コルセットが二つの水準で実行不可能なこと。「正解」がないので実行できない。パワーがなければ、実行できない。女がnot 男として定義される以上、not 女ならば、男化するしかないのに、それを否定していること。また、男化を否定しながら、「男が人間の標準とされているので、女の記号を捨てることで、標準に近づける」ということ。社会の中の標準が、男ならば、その標準に近づくことは、男に近づくのと同義のはずだが、同義ではないということは矛盾している。しかし、「矛盾していない」「そんなことはいっていない」ということ。だから、そこにダブルバインドが生じる。

突如として、2018年に6月に、脱コル提唱者が現れた。脱コルは、フェミニストに、ダブルバインドを強いた。それは、脱コル提唱者が葛藤を利用して、支配したいからだとわたしは考えている。

自分の生活を工夫して、楽にする以上のことを脱コルセットが求めるならば、何が「女性の記号」に当たるのか、明確に議論するべきだ。女の記号が何を示すのか、定義が移動するのに、体制への加担への自覚は求めるのは、暴力だ。

ちんこにこだわってるのは誰?

誰がためにちんちんはあるか

今ちいさいちんちんがキテる!みたいな話は出ないわけですよ。

女の人に関しては、背丈から胸のサイズお尻の形まであらゆる話題が出るのに、男については「背が高い、低い」くらいしか話題に出ない。それは、話題を作っているのは男性だから。

男性は、自分のちんちんが小さいことに悩み、ちんちんを大きくするために努力するけれど、ちんちん補正器具を買うことを人に言うことは少ない(ちんちんを補正する器具は売ってる)。

でも、女性は体形から何から何まで補正するものが売っていて、話題にも出す。そこですごく非対称がある。女性の体は自分のものというより、他者のものである。男の体は、そもそも「誰のため」か問われない。問われるとしたら、徴兵の時。つまり、人を殺すときに男かどうか問われる。

女の体は生殖のためにある

殺すのが男の役割だとしたら、産むのは女の役割だとばかりに、生殖は女に押し付けられてきました。

すごく雑に言うと、女の役割というのは、マイナスをゼロにする仕事。トイレの壁や天井に飛び散った男の尿をきれいにするのは女の仕事だし、料理を作って食べさせるのも、子供を産んで育てるのも。

というのは、何がゼロで何がマイナスか、その目盛りを決めたのが男だから。

金銭を稼ぐのがマイナスをゼロにする役割と規定してもよかった。だって、どうせ消費してなくなるんだから。でも、稼いだ額は、足していって、生涯これだけ稼ぎました、と胸を張れるようにしたわけ。それは、男が物差しと目盛りを決める階級にいるから。だから、育児家事介護は足せない。

わたしのフェミニズムはむなしい

わたしがフェミニズムを知ってから腑に落ちないのは、主婦業を金銭換算したとき。それは三十年前の話だ。

パラダイムシフトというのが流行ったことがあった。人はある枠組みからものを見る。それは偏見だったり思い込みだったり、常識だったりする。その「当然の見方」を変える手段として、フェミニズムは画期的だった。

でも、今、振り返ってみると、それは日本ではうまくいかなかった。女性も大変なんだね、というのは、了解されやすくなったけど、その一方、「女ばっかりずるい」という男が増えたりして……。

当時の女たちは、資本経済中心の、金勘定ばっかりの、心が貧しい男にも理解できるように、かみ砕いて話した結果「主婦業はこんだけ金銭価値がある」ということを示すことができた……、のだけど、それでは、「出産は金銭換算できないから。金銭換算できないから、つまり無価値というより、マイナスでしょ」ということは覆せなかった。

そして、今でも「お前が産んだんだから責任もってミルク代は母親が出せ」とか、「出産はお前がすることなんだから出産に関する費用と子供の生活費は妻の貯金から出せよ」「おむつ使いすぎだからおむつ代節約しろよ」という男が後を絶たなかったのである。命は金銭換算できない。だから、金勘定男たちには、命が理解できなかった。

というよりも、女というカテゴリーは「生殖をする性から搾取する」男たちが勝手に決めたことで成り立っている。だから、生殖はなくてはならないけど、男が関与しなくてもいいように、設計しているんだから知らねーよ、ということである。女は穢れを全部引き受けるのだから、男はゼロをプラスにすることに専念していればよろしい。これが、社会的合意である。

母が育児を放棄すれば、大騒ぎになるが、父がおむつを変えなくても誰も騒がない。しょうがないよねと言われる。ミルク代?おむつ代?それも、母が黙って立て替えて置けばよろしい!そうすれば、誰も困らない(女と子供を除いては)。

その立場では、上記の父は正しいのである。そのために、わざわざ女を女たらしめてきたわけだから。

30年前から比べると、女は賃労働をするようになった。それで、いい面は、離婚ができるようになった、ということ。悪い面は「家事妊娠出産育児介護、それに加えて賃労働」をしてくれる人間は便利だから死ぬまで使い倒す、と状況が社会で起きてしまったこと。

トイレの話は本質

トイレの話は、些末な話ではない。育児も介護も、人間の本質に迫るテーマであるのと同じように、排泄に関わる文化と慣習は、性別において最も重要なテーマだ。人が、一日で一番排泄器、つまり生殖器を使うのはトイレだからだ。

トイレには文化がある。トイレの扉のサイズ、隙間、水を流すボタンの位置、もしくは、取っ手の形、上から水が流れてくるのか、タンクのサイズ、便座の形、トイレットペーパーはダブルなのかシングルなのか、などなどなど。

一番は排尿スタイルだ。洋式トイレでは、女性は座ってする。男性は(たいてい)立ちしょんをする。

そうすると、どうなるのか。

男性の尿は、天井から壁に至るまでびっちりと飛び散る。男性はちんこを振るので、便座の裏から床までしっこが垂れる。掃除したことあります?なくても、見たり、においがわかったりすれば、男性のトイレの使い方はものすごく汚いってわかるはずだけど、男性は「座りしょんなんて」と時には怒り、時には笑う。

洋式トイレで座ってしっこ

洋式トイレで座ってしっこできない理由を今まで聞いたことがあるのだけど

  • ちんちんが便器につく
  • ちんちんは下を向かない
  • ちんちんがいんぽになる
  • ズボンをおろすのがめんどい

の4つだけど、全部否定するね。

うんこのとき、座ってしているよね?つまり、座ってしていても問題ないわけじゃん。あと、ちんちん、便器につくほど大きくない。それに、いんぽになってもらっても、全然かまわない、座ってしっこしたくらいでいんぽにならない。ちんちんには手を添えて下を向かせればいい。じゃなきゃ、うんこのたびにちんこをうんこまみれにしてるってこと?うんこのときに、上記の主張を本当だと認めたら、ちんこはともかく玉はえらいことになるじゃん?

たった、それだけのことなのに男はしっこでトイレを汚し、(たいてい)女が汚れを引き受けて、ひざまずいて掃除をする。

ちんこにこだわっているのは誰か

男は汚し、女はその汚れを引き受ける。

その仕組みがあまりにも便利なので、男たちは変わらなくていられる。変わりたくないし、変わる必要もないし。

それで、女は出産をやめた。これは、女たちの静かなストライキと呼ばれてもいた。結果、若い人間の人口が減った。

しかし、生きている女が「生殖する性別」な以上、進学、就労、賃金、あらゆる場面で差別されるのは順当なこととされ続けた。

女は生殖するから、会社にマイナスを与えるので、賃金は低くていい、学はいらない、とか、女は生殖するから家庭の仕事をさぼるので、怒鳴ったり殴ったりしてもいい、とか。女は生殖するから、ついでに介護も育児もしておけ、とか。それで、社会進出しないようにされていたから、いまだに国会議事堂や大学に女性用のトイレがない、とか。

ちんこむかつく!と女が言い出すとき

そういう風に、女たちは汚いものとちんこの出すものを押し付けられ続けた結果、ちんこを大っ嫌いになった。

ちんこに差別されてきたから”NO!ちんこ”を主張するわけである。

それを見聞きして男は……「悪かったな」と反省するばかりか……

「女ってちんこにこだわっているんだな!つまり、ちんこが大好きだから、ちんこの話をしているんだ!」と解釈した。

わたしからすると、男は、今まで、トイレをめちゃくちゃに汚す自由、いつでもどこでもオナニーする自由、オナニーの道具として女を使う自由、自分の子供を産ませる道具(女)を得る自由、それを維持するために仕事をする自由などなどを得てきた。ちんこ中心主義である。ちんこを満たすために、社会を形成してきたように見える。ちんこ自由主義である。

ちんこに勝ち、ちんこに死ぬ。ちんこ死んでもちんこ中心主義は死なぬ!

ほかのちんこを倒すために、死ぬほどの努力をするのも、自分のちんこ自由を獲得するためだし、死ぬほどの努力の結果、死ぬのも、つまり、ほかのちんことの競争と負けただけである。

そして、インセルのような男たちが、女を呪詛するのも、女を踏みにじっている間は「真の男」という幻想を得られるからだろう。憎しみが、女に向かうのは、「本来は、自分のものになるはずだったモノ」が手に入らないからだ。すっぱい葡萄みたいに。本来は、「ほかのちんこ(自由を享受しているちんこ)」を呪詛したいのだろうが、そのちんこには、すでに負けている。すでに勝者となったちんこを呪詛するには、インセルは弱すぎる。 自分がなりたくて、なれなかったものを憎むよりは、得られなかったものを憎むほうが簡単だ。

NO!ちんこ

女がまともに人間として生きるためには、NOちんこスペースが必要である。ちんこある限り、汚物処理としての役割から、女は自由になれない。

いや、この言い回しでは男を透明化しすぎている。

男は女を自由にしない。穢れをうけいれさせるために、男は何でもする。

男は、ちんこがあるゆえに、「生殖する性」だという役割から逃れた。それを確認するために、ちんこを使い続けた。トイレで、痴漢で、性加害で。それを女に見せつけている間、男というのは自由でいられる。性暴力について、司法はいつも甘い。それは、性暴力が「財産としての女を傷物にした罪」だった明治時代を終えても。司法は男たちに牛耳られており、彼らは、判決を通して、彼らのちんこをむき出しにする。ちんこによる罪は軽い。ちんこを出す必然性は重く判断され、ちんこにより、傷んだ心身は評価されない。今なお女性は人間ではないからだ。男は、理性的な判断でさえ、男だというからだから逃れられない。それは、ちんこごしに世界を観る枠組みがあり、文化があるからだ。ちんこパラダイムだ。

女性カテゴリーをなくすためのちんこありの女性

ちんこごしに世界を見れば、ちんこの入れない「女性専用スペース」というのは、「支配不能な場所」である。それはちんこの負けである。

また、女性は、女性という言葉によって、女性差別と闘ってきた。

女性という言葉自体が、「NOちんこ概念」である。

つまり、女性という概念が、支配不能になっていることに、ちんこ中心主義者は、危機感を感じた。

ちんこパラダイム的には「女性」という言葉にちんこを挿入すれば、ちんこによって女性カテゴリーを無意味にし、真の支配が完了する。だから、ちんこありの女性を彼らは歓迎する。

バトラーを持ち出す学者はバカだ

ポストモダニズムは、キリスト教的な権威について批判するものだったのに、それを権威として持ち出すのは、皮肉である。

そもそも、バトラーを読んでいないだけで、女性の定義を変える議論に参加できないのはバカみたいな話だ。それを主張している人は大バカだ。カテゴリーや語彙がなければ、それを語ることもできないのに、カテゴリーがなくなれば差別がなくなると思っている。

バトラーを読んでいない人も、ほかの分野ではものすごく知恵や知識や知見がある。そういうことはめちゃくちゃ多い。というか当たり前だ。

抑圧については、被抑圧者がもっとも詳しいんだから、女性差別についてもっとも詳しいのは、市井の女性である。男社会であるアカデミアでのし上がった人は、女性差別には詳しくなれない。

バトラーだろうがクィア理論であろうがジェンダー学だろうが、世界のちょーーーーーー狭い世界の話である。

人々が、生活の中で生きていてその中で考えたり感じていることのほうがずっと広い。その広さに気付かない人たちが先導している議論なんて、蟻のおしっこだ。においはついて、あとからうろうろ群はついてくるだろうが、その先に何があるのかなんて、誰も知らない。アリジゴクかもしれない。

ちんこによる加害、支配について、NOを叫ぶ側と、ちんこによって支配している側と、どちらがちんこにこだわっているのか、よく考えたほうがいい。ちんこをどうつかえば、どのように支配できるのか、よく知っているのは、ちんこ脳である。ちんこ、ちんこ、ちんこよ!ちんこは崩壊した。

女性にはちんこがない。わたしはネットの中心で叫ぶけだものになる。朕は、女という概念へのNOちんこを宣言する。

これがたったひとつの冴えたおしっこのやりかただ。TINY chinko!

女らしさの虚構を生きる

わたしたちは、ミソジニーのある世界に生まれて生きてきたので、心にも体にもその価値観が刻まれている。

その背景や、生まれてから積み重ねてきた歴史、人とのかかわり、健康、来歴を無視してはならない。理論を重んじる人は、それを軽んじているので、間違っている。

わたしが、男を恐れているのは、身体に刻まれた痛みが、傷となって、考え方に影響しているからだ。

偏見の必然

偏見や思い込み、レッテル張り、直感は、素早く身を守るために備わっている何かだ。それを理性で調整することで、なるべく人を差別したり、踏みにじったりしないようにしなくてはならない。その必要はある。けれど、今まで男にばかり、暴行されてきた女が、男の姿をおびえないというのは、それが偏見だとしても、適応だ。

ミソジニーという虚構を生きる

ミソジニーというのは虚構である。女というものは、便宜的な区分である。その根拠は、はっきりしていない。それは、男たちが、女とは何かを探ることを重要だとは思わなかったからだ。知性を使う仕事をしている人たちの場は、男が管理してきた。定義は、知性を武器に仕事をする人たちの領域で定まることなので、女の守備範囲とはされてこなかった。

だから、虚構は、現実と相互作用し、時には相補的でもある。

女はだから駄目なんだ、というセリフは虚構だが、女を損なう現実でもある。女という属性を貶めることで、自分をあげるのだという機能を知っていたとしても、傷つくことを防げない。

女のミソジニーは自己否定につながる

繰り返された傷が、自分の否定に向かうこともあるし、男という属性への憎悪に向かうこともある。それは、時には自傷、自殺企図という形で表現される。

わたしたちは、装うという圧力の下で、様々に装ってきた。

装いというのは、社会規範に従属することだ。言い方を変えれば適応だ。

わたしは社会に適応できなかったから、場にふさわしい服装やふるまいを教わったとき、ようやく人間になれたと感じた。

そして、それを誇らしく思った。

きちんとした女になれない

初めてデパートでコスメを買おうとしたとき、何が必要で必要じゃないのかわからず、お金を使うことが不安で泣いてしまった。断るのも難しく、勧められたものを全部買う勇気もなくて、怖くなった。

これではだめだ、社会性が欠けたままではいけないと、人の手を借りて訓練して、転院の前で泣かずに口紅を購入したときの喜び、足が地につかないふわふわした感じ、恐ろしさと喜びで気持ち悪くなった感じを今でも覚えている。

自分で選んだ口紅の名前はロシアンレッドという。口紅にはいろいろな美しい名前がついていて、それはまるで詩のようだ。身に着ける前と、身に付けた後で、人の肌の温度で解けて、ニュアンスを変える。人によって、発色が代わる。そういう美しさをわたしは慈しもうと思った。

それは、ミソジニー的な行為だ。女の記号を身に着けることで、家父長制を補強するのだから。

理屈に合わない感情がわたしを生かす

しかし、わたしは生きていて、今も生きている。生きているときに外部の価値観を吸収して、自分の感覚を養ってきた。生きるというのは、自分の中のミソジニー的な虚構を現実に変えることでもある。それを常に直視していても、それもまた自己否定になる。自己否定をやめたいから、ミソジニーを拒否しているのに、自己否定という結果が同じになる。

生きる上でのこまごまとした喜びを捨てることはできない。理屈上正しいからと言っても、理屈上正しくない、感情というものが、わたしを生かしているから。

わたしは、左翼的なイデオロギーを正しいと思い、それに従って生きてきた。

しかし、左翼はミソジニーを色濃く抱えていた。わたしはイデオロギーを同じくする人にひどく傷つけられた。

生きていることのほうが、イデオロギーよりも大切だ。なぜなら、わたしは生きるために、思想を選んだから。そして、命を懸けるとしても、左翼の暴言のために命を落としたくないと思った。

わかりあえないゆえの労わり

わたしに寄り添ったのは、傷ついた女性たちだった。

彼女たちにはわたしのことがわかる。わたしにも彼女たちのことが分かる。わたしたちは、とても異なる。異なっていることを、お互い知っている。それがわかるということの意味だ。

理解できない。理解できないから、距離を取る。その距離の取るときの静けさ、やさしさがわたしにはわかる。

GIDの女性と、インターネット越しに話をした。

わたしには、ミソジニーがある。そういったら、ひどく感謝された。

彼女は、生まれたとき、男だった。わたしはその経験が示す苦しさを知らない。想像はできても、理解はできないだろう。それと同時に、生まれてから、ずっと女だったという経験を、彼女は理解できない。だから、わたしたちは異なっている。痛みを想像することはできても、分かち合うことはできない。

それで、わたしは、「彼女にはわたしの生がわからないのだ」と胸が痛くなった。だから、不安だったのだ。ミソジニーを抱える孤独を一人で耐えていたのだとわかって、そして、わたしたちは同じミソジニーを生きているのだと、少し、あたたかな気持ちになった。ときどき振り返って、ときどき拒絶して、ときどき見ないふりをして、なんとかやり過ごしているのは同じなんだと。矛盾に片目をつぶって、でも、時には正しいことをしようと奮起することも。

彼女は、きっと、カムアウトすれば孤独でなくなるが、「普通の女性」ではなくなるという引き裂かれた状態だろうから、語るのは苦しいだろう。

矛盾に片目をつぶること

トランスは、ミソジニー的な行動だ。女性への変化は、社会規範による、女の記号を身に着けること。男性への変化は、女性に降りかかるミソジニーから解放されること。

だが、わたしだって、同じことをしている。女の記号を身に着けて、時に喜び、時には煩わしい。虚構は現実に影響力を与えて、わたしを縛り、虚構の価値観に沿えば、わたしは嬉しい。

虚構は、男を暴力へ駆り立てる。男であることは不安だからだ。男は自分ばかりが男に殴られている、自分ばかりが頑張らさせられている、自分ばかりが弱音を吐いてはいけない、自分ばかりが美しいものを身につけてはいけない、と思い、そして、なぜだか、その憎しみを女に向ける。

女子割礼は、女性器全体を切り取る。ときには、ガラスの破片でこそぎ取る。そうして、不浄ではない女にする。女から、快楽の機能を取り去って、産む機械に変貌させる。それは、ふしだらな女を貞淑な女に変える儀式だ。

ペニスを持つものは女性ではない

ガールズディックという言葉を知っていますか?トランス女性のペニスを、巨大なクリトリスと呼んだり、ガールズディックと呼んだりする。ガールズディックという言葉を使う人は、女性の定義を「ペニスがついていても、女性」という風に変えようとしている。それは、社会的混乱を招く。

わたしは、ペニスを持つものは女性ではないと思う。彼らが、もしくは彼女らが、異性装を楽しむのは好きにすればいい。そして、社会的性別役割から一時解放され、そして、男であるうまみを享受するために男に戻ることも好きにすればいい。わたしにはどうせとめることができないから。

でも、彼らはペニスを持つ限り女ではない。

そもそも、彼らは男だから苦しいのだろう。それで、男をやめたいんだろう。だったら、ペニス付きで「トランス女性は女性です」というのはおかしい。女性ならば、女性であることに悩みはしても、男であることに悩まないんだから。

男や、トランス女性の考える女性らしさ

彼らや彼女らの考える「女性」「女性らしさ」というのは、「きらきらしていてちやほやされている美少女」だ。それは、おっさんの考える少女であって、本物の少女ではない。

男が考えている女性らしさが、女性を抑圧し、現実になることはあるけれど、彼らの考える女性らしさ、そのものは間違っている。それはおっさんの考えた女性らしさであって、女性の考えではない。

だが、彼らは、それを本物の美少女だと考え、嫉妬して、少女に近づき、その姿をまね、時には加害して、傷つける。

虚構との距離、スタンスが重要だ

誰もが虚構を生きている。その虚構との距離の取り方、解釈の仕方、スタンスの取り方で、現実での表現方法が変わる。

同じ場面に出くわしても、行動に違いが出るように。同じ自傷の前でも、表現が違う。それが個体固有の個性だ。

それは、人生のあらゆる瞬間の集合が方向づけたものだ。

だから、わたしが、自分の「女らしさ」に相当するものを愛していて、コマーシャルにのせられて、美しいと思える服を買って、流行りの髪形を気にして、ヘアオイルで手入れすることも、間違っているが、同時に、正しい。それがわたしを作ってきた喜びと煩わしさだから。理論的に、それが間違っていると指摘されても、その指摘がわたしの個性をはぎ取るのならば、それをわたしは暴力と呼ぶ。

それは、GIDの人にも同じように思う。彼女たちが、社会の決めた規範に沿った姿でいることや、選択が、彼女たちを安らぎに導くなら、わたしはそうしていてほしい。

わたしたちの抑圧は異なっている

わたしたちは、同じ抑圧を受けていない。男の体から女を模したものになることと、女の体で生まれ育ったこととは違う。わたしたちは、肉体という檻から出られず、思考も自由ではない。

抑圧してくるものの、その一部を愛することと、抑圧してくるものを憎むことも、批判することも、矛盾しながら両立する。

人間は、愛しながら憎みながら嫌いながら離れながら忘れないで、心を迷わせる。

危険だから、阻止したいこと

わたしが危険に思うのは、「被害を語ることを差別だと呼び、被害の語りを黙らせること」「女の定義を変えて、あらゆる女性差別を無効化すること」「女性専用スペースの安心を奪われること」「ペドフィリアに親和的な言説」だ。わたしはそれを許さない。

許さないといっても、無力だから、どうせ押し切られるのだろうとも思う。それでも許さない。わたしは、未来のわたしのためにこれを書く。わたしは許さない。

性的役割、つまりジェンダーロールを疑っていくことと、ジェンダーとは社会的構築物だから、その定義をなくせばジェンダーの意味がなくなる、ということとは、全く違うので、わたしは後者を批判する。

ジェンダーロールは、強力な虚構だから、目に見える形で、現実になっている。そのジェンダーロールをなぞることで生き延びている人を否定したくない。生身の人間や人生を否定したくないことと、ジェンダーロールを疑い、批判することとは、折り合えるのだ。

名乗ることと、扱われることの差

自分が何者だと名乗るのは自由だ。それがなんであれ。ただ、その名乗りを受け入れるのは他者だから、思い通りにはならない。つまり、思った通りに、扱ってくれない。他者はコントロールできない。無理にコントロールするのは暴力だ。

ペニスがあっても女だといえば、内心は他人からはわからないので、判断に使える材料は「トランス女性です」という名乗りだけだ。人類すべて女性になれば、今の経済、行政、立法、司法を牛耳っているのも、全員女だということになる。そうすれば、女性差別なんてものもなくなる。

人類すべてが女性ならば確かに女性差別はなくなる

性自認は確かめようがないから、他者には名乗りのみが重要になる。

ペニスがあっても「トランス女性」を名乗れば、トランス女性になるのなら、人類すべてが女性だといってもいいだろう。

だが、女性の定義を変えて差別をなかったことにしても、女性の体を持つから、扱いに差をつけられ続けた事実は消えない。それなのに、ペニス付きの女性が存在してしまえば、わたしは、自分に起きたことを差別だといえなくなる。女性差別は、わたしの妄想に堕ちる。わたしの身体ゆえに起きたすべてのことは、同じ女性のカテゴリーにいる人には起きないわけだから。同じカテゴリーに属する人たちが、共通の体験をすることで、わたしたちはそれを差別と呼ぶことができていた。でも、できなくなった。

ペニスは巨大なクリトリス、だとか、ジェンダーを越境する打とか、調べていくうちに、そもそも、わたしには、女性というものがわからなくなった。わたしの体は女性だという根拠にはならないらしい。わたしの体が理由になって、あらゆる暴力の対象になったのに。わたしが男だったら、されなかったことがたくさんあった。

でも、今は「女性です」と名乗られても、それが何を示すのかわからない。

女性の定義の変更で、抵抗が奪われた

虚構を表現する言葉を奪えば、虚構に抗うことはでいなくなる。定義がずらされて、言葉がなくなっても、生きている人が、虚構に押しつぶされていることに変わりはない。

ましてわたしに暴言を吐き続け、正しい顔をした男は、わたしのことを知らない。わたしの役割は、彼らが正しいことをしているという快感のために、使い捨てられたティッシュのようだ。

そして、訴えが「お前の妄想だ」と押さえつけられても、苦しみはなくならない。虚構は現実に相互作用し、相補的でもある。押しつぶされれば、黙るか憎む。

トランスジェンダーの女性が受ける差別と、女性が受ける差別は、重なる部分と重ならない部分がある。女性に見えるから受ける差別は女性差別。それ以外は、女性差別ではない。どこまで重なっているか考えることは難しい。認識の壁を超えられないからだ。

だから、女性とトランスジェンダーの女性は一緒に戦えない。権利が衝突するし、何が女性差別なのか、認識に差がある。権利の衝突は、相手の権利を認めているがゆえに起きる。

ミソジニーや、女らしさという規範に反対する立場と、その虚構の中で、現実を生きることとは両立する。

ミソジニーとの距離の取り方

わたしは、女らしさには向かう一方で、ワンピースを買う。初めてMACで口紅を買ったときは緊張から解放されたと同時に、どんなにか嬉しかったかわからない。人から浮かない服装を覚えたときにもうれしかった。

社会に適応するということは、ミソジニーを中心に据えた虚構を習得するということでもある。

それは否定されうる。しかし否定しながら、適応して生きることも両立する。

ミソジニーを中心とした虚構は、例えば「女はイージーモード」「ちやほやされて、きらきらしている女の子」「美少女は自分がかわいいと思って自撮りをする」これらはミソジニーだ。

女の表象を借りて、男の妄想を実現しているだけに過ぎない。現実にはない女らしさを、現実にもってきているだけだ。

VRで美少女になった男は、「美少女の気持ちが分かった」と言ったが、それは勘違いだ。「美少女になったつもりの中年男性の気持ちをわかった」だけだ。姿を借りても美少女にはならない。

それがなぜかというと、生れてきてからずっと味わってきた苦難があれば、美少女だということをただ喜べる女などいないからだ。危険がある。それに対して、怒りをもって立ち向かうか、庇護を求めて立ち振る舞うかの違いがある。後者を「ちやほや」と呼ぶならそれは違う。ちやほやしている男には腕力と悪い目論見があり、少女を目論見を果たすためのオブジェクトとして見る。

こういう人は、ミソジニーと自己を同一化させすぎている。どうしてこれがミソジニーかわからない人もいるだろう。この場合、少女を人間として扱っていない部分が、ミソジニーである。

わたしたちは、ミソジニーと言う虚構を生きている。女は男と体の形が違うから、本当は女も一人一人違うのに、女の記号を背負わせて、その個性を平たく均一化して、「女」という集団にひとまとめにする。そして、それに抵抗するために、「ひとまとめにされた名」を使って、わたしたちは戦ってきた。でも、その「ひとまとめ」の名を突然変えられた。

わたしたちは、バラバラになって、不適切な取り扱いを、個人だけで受け止めなくてはならなくなった。

それはとても不安で、恐ろしい。

人を尊敬するということ

人間だから、自分の思い通りにはならない。

人間だから、理解できない。

何を考えているかわからない相手がいる。それは恐怖だ。

理解できると思うのは傲慢だ。理解しようとするのは誠実さだ。理解できないというのはあきらめだ。

そして、それらを経て、理解できないという事実を見つめることは、人間への尊敬だ。

「病院に行け」の暴力と希死念慮の説明

わたしが「トランス女性と女湯・トイレ問題」に関わってから「病院行け」「カウンセリング受けろ」「希死念慮は自分で治療してなんとかしてください」「トラウマは自分で病院行け」「恐怖を盾にとって差別を正当化する」「憎悪の扇動をしている」「水晶の夜やルワンダ大虐殺を起こしたのはお前」みたいにリベラル・左翼・フェミニストに言われました。

ただ、病院に行くにしても、まず、病院の数が少ない、カウンセラーの情報がないので、良いカウンセラーを見つけにくい、病院があったとしても、人気のある所は予約が半年待ち、しかも、先生との相性が悪い場合もある、薬が体質にあわなかったら膨大な時間と負担がかかる、薬が効いたとしても、環境が変わらなければ、一度よくなってもぶり返す、相性が悪い病院だったらすべてやり直し、そのうえ、治療中に働ける人はまれという問題があります。

それで、希死念慮がひどくなって年始年末は最悪でした。死のうかなと思ってそう言ったらいろいろな人に心配をかけてしまった。申し訳ない。

とはいえ、はっきり言っておくと、PTSDや、希死念慮は治りません!

いや、啓蒙のために「治ります」っていうよ。「治療すれば治ります」って。そういう啓蒙は大事だよ。病院行かない人を行かせる効果もあるし、絶望している人に希望を与えるじゃん。めっちゃいい。

でも、治りません。寛解することもあるし、社会復帰することもあるし、症状が軽くなったり、対処法を覚えたり、薬でコントロールができて、症状がマックスで悪い時よりは生きられるようになります。でも、完治というか、普通の人が思うような意味で「全快」はしません。骨折だって治っても、冬になると傷むじゃないですか。人は病気になるたびに、少しずつ壊れていくんですよ。回復しやすい身体的なケガでも、完全に治るかっていうと治らないじゃないですか。腰痛だって、一度治っても、なったら、同じ生活をするとぶり返すから、生活を改善したり、ストレッチしたりして気を使うでしょう?

希死念慮は、「死にたい」と表現しますが「死ぬべきだ」という使命感だったり「死ななければならない」という確信だったり、「死ぬことが正しかったのだ」という清々しい真理のような形をもって、訪れます。必ずしも「つらいことから逃げたいから死ぬ」という形態ばかりではなく、前向きな解決策としての死が、きらきらとわたしを誘いに来ます。

洗濯物にハンカチを入れ忘れたから、わたしはおろかでダメな人間だ、だから死のう、そうしたら、洗濯物がそもそも発生しないから、すべてが解決する。

世界に幸福の総量があるといたら、わたしが死ぬことで喜ぶ人がいるので、わたしが死にさえすれば、その人たちが喜ぶので、世界の幸福総量は増える。あらゆる意味で、死ぬことは正しい。

また、わたしがどうしてもいやだということがあるけれど、その意見は邪魔であり、そして、ほかの人にとってはいやどころか歓迎すべきなので、反対意見を言われることさえ彼らは嫌がるから、発言することをやめて、死ねば、彼らの思い通りの世界が実現するので、死ぬことは正しい。そういうすっきりとした気持ちで死にたいときもあるし、苦しくて苦しみから逃れることを夢見ることもある。

わたしの場合、中学生の時に、子宮内膜症で道端で気絶して救急車で運ばれ点滴を打っていたら、母に胸ぐらをつかまれました。そして、婦人科に出入りするところみられると人生が終わるぞと脅され、人に知られると外聞が悪いといわれて、しかし、放置しておくと痛いうえに出血で死ぬ可能性があると調べたので、高速バスで二時間の病院に通いました。お金は出してもらえなかったので、愛人と暮らす別居している父に、お小遣いと称して手のひらの上から落とされる小銭を拾って交通費と薬代にして、足りない分は親せきからのお年玉で賄うというのを高校卒業までしていました。

そういう人なので、発症したのは16歳の時ですが、精神科に行くと就職で差別されるかもしれない、と言われ、受診できたのは二十歳の時でした。病人に偏見がある場合も受診はできないし、家族に偏見があれば、やはり受診できないように、お金や保険証を隠されます。

だから、病院に行けというのは、暴力なのです。治ることがないのに、言うのは無責任です。風邪とは違います。

わたしは、カウンセリングも、病院にも通って16年ですが、それでも希死念慮があります。彼らが精神疾患にもつ偏見は、差別丸出しですが、それをたしなめる人よりもわたしを「差別者」と言ってののしる数が多かったので、年始年末よりは回復してきたといえども、あらゆる瞬間で、少しのミスで、死にたいと思っています。

双極性障害は、うつ状態の時には全身の痛みと倦怠感、視界が真っ黒に見えるくらいの視力の低下、頭痛、腹痛に悩まされ、躁状態の時には、焦りと切迫感に追い立てられ、また、キレやすくなって暴言を吐きやすいなどの苦しさがあります。そういうものをどんな波があるのか記録して分析して対応策や工夫を考えても、なお、うまくいかない病気です。鬱の時に死にたいと願った気持ちを体が動く躁状態の時期に実現する人は多いのです。

また、ASDであるわたしには、いろいろなこだわりがあり、こだわってしまうこと自体を変えることができないので、こだわりを害のないものにずらす、ということをしています。

精神障害は治らないので、暮らしやすくするために、自他を観察してコントロールする、記録して、パターンを把握するなどの努力をし、医師を信じて薬を飲み、難しい服薬管理をして、ようやく生きていられます。

食に対するこだわりも強く、同じものを半年くらい食べ続けていたり、過食をしていたりもしました。それを工夫によって変えるのに、五年かかりました。

毎日、薬を何種類ものむというのは難しいことです。

死にたがりは自傷するというのも偏見ですし、精神疾患があると理性がないとか、論理的に話せないとか、感情的になる、とか、全部偏見です。差別です。

病気になると、偏見ゆえに孤立し、体力面で就労から遠ざかるので、世間との接点がなくなります。そういう状況下において、「病院に行け」という言葉を罵りとして使う人には一切の知性も、優しさも欠けた、人間とは言えない存在だと思います。医師でさえ、患者が自ら来ない限り診察も診断もできないのに、ネットではびこる素人診断によるお前は病気だという決めつけ、それをする人には、恥じる能力がないだろうので、仕方がないかもしれませんが、わたしはそういう人を、軽蔑します。

病院に行ってきた

今日はだらだら日記みたいなことを書きます。

今日は病院に行ってきた。一日がかりだからすごく疲れる。

十五年通っていたクリニックが高齢のために占めてしまったんで、転院した。これがまあ負担で、それだけで九月からずっと落ち込んでいて具合が悪くて、朝起きて、保育園の送りに行ったあとは、お迎えまで横になっているしかできてなくて。

近頃希死念慮が頻繁だ

人はどうせ死ぬんだという気がしていて、一日五回は死にたいなと思う。その一回が五秒の時もあるし一時間続くときもある。一分を六十回やったら一時間死ななかったことになる。それを八時間すると一日が終わるみたいに乗り越えてた。

今は、死にたい気持ちが強いので、気分の波を減らす薬を新しくためしているところで、200ミリを目標に、一か月25ミリずつの増加で八か月かけてならして言っているところ。

薬は体に悪いかもしれないけど、病気のほうが体に悪い。死んじゃう。

自然に逆らうのはよくないという人がいるけど、自然って、崩壊つまりエントロピーと、自己保存に向かうエネルギーとあるけど、どっちのことを言ってるんだろう。

自然てなんだろう?死ぬことかな

それでいったら、自然に逆らわないのは、死ぬのが一番いいし。自己保存だったら、薬とか飲んでエントロピーに逆らわないといけないし。生き物はエントロピーに逆らって自分の体を維持しようという訴求がある物体のことだと思うんだよね。

生きることは不自然だから、みんな死ぬのが自然だよ。

とか思いつつ、先生と話していたんだけど、一日五回死にたいのに生きているのはえらい、がんばっている、ということと、「こだわり」が強いのによく工夫しているってこと。

こだわりを観察してコントロールする

前は、性的なものにこだわりがあり、依存していたんだけど、それはけっこう苦しかったんで、だんだんこだわりを害のないものにずらしていくのが良いと思っている。例えばお茶の葉っぱにこだわる、とか、そういうこだわりは害が少ないから。

わたしは、まず、性的なこだわりから、洋服へのこだわりに移行して、一時期は借金もあり、その後食べることにこだわりが出て太り、今はやせて、ブログとか正義感とか、そういうのにこだわっている。お皿しまうのも、思った場所にないとキレて泣いてしまうだけじゃなくて伴侶に当たってしまうのはよくない。

わたしは、ASDグレーですか黒ですかときいたら、スペクトラムだからねえ。と言われた。

同じくらいの重さのこだわりがあったとしても、こだわりの対象が害がなかったり、生まれ持ったどうしようもない性格が好かれやすかったり、嫌われやすかったり、という障害以外の性質が困り度を左右するし、困っている度合いが高いほど治療の対象になる、と言われた。

それでいうと、c71さんは、こだわりが強いけど、昔よりもうまく工夫してずらしているし、話してて面白いと思われるような人としての愛されやすさがあるから、そういう意味では同じ重さの人よりも得をしているよね。ということだった。

確かに、と思った。現実で、わたしのことを憎悪する人はそこそこいるんだけど、そういう人たちは、ほかの人にもあまり人気がない。孤立してたりするし。嫌われるのは嫌だけど嫌われて損する人から嫌われること、あんまないな。

死にたいってことは、死にそうってことで症状が重いってこと

で、死にたいというのは、一番重いってことで、病気で言うと、死んじゃうのが症状が最悪だってことだから、そこに焦点を置いて治療をして、薬で波をなくして、死にたいの気持ちをもって、躁に転移したとき、うっかり自殺しちゃうことを防ぎたい目的ですと言われた。意識してないけど、死にたいと思う回数がめっちゃ多いもんな。あまりにも当たり前だったから言語化もできてなかったけど、一時間に一度の頻度で死にたいもん。

わたしが死んだらみんな喜ぶだろうし、伴侶は貯金もできるし、丸く収まるし、苦しみも終わるし、めでたいじゃん。としか思えない瞬間が一時間に一度のペースで来る。

温泉もトイレもいけないから引きこもりが加速してしまった

年末から症状が悪い。ツイッターでの議論のせいで、週二回いっていた温泉もいけなくなった。この辺は温泉文化で、出勤前に朝湯に毎日入りに行く人とか、昼間温泉でずっと過ごしてて、温泉でコミュニティを形成している高齢者の人とか、そういう人が多いところ。温泉に入って、友達と休憩室でみかん食べて、また温泉入って、みたいなことが日常なんだよね。毎日温泉行く人も多い。長患いで湯治に来る人もいるし。湯治ってね、結構修行みたいなんだよ。コンロと水道だけある宿泊施設に泊まって一か月温泉にひたすら入るみたいな人もいる。

だから、そういうお年寄りとか、子供とか、若くても具合が悪いから湯治している人とか、そういう人が、裸でいるとき、異性が入ってきて、通報することを思い出して、通報できて(スマホ持ってない人もいるし)、誰か人がくるまで身を守り、トラウマにならないように、待ってられるかって想像すると、無理だよなと思うんだよね。大丈夫です、って言っている人は自分は大丈夫なのはともかく、その場にいる人も同じだと思ってるのかな。世界線が違うのかもしれないなと思う。わからん。

それで、外でトイレいけないなってなって、外出するのが結構難しい。前は、温泉入ってゲーセン、ご飯食べて帰る、ってパターンで外出できてたんだけど、それができなくなったから、外出の理由がないんだよね。

正義感が強くても、日常では片目をつぶってみることで無用な摩擦を避けるという工夫

まあ、それはともかくとして、治療に話を戻すと、正義感の強さは、人との摩擦になることに気付いたので、片目で見て、立ち入らない、干渉しない、自分に影響するときにだけ対応するみたいにしました、って言ったら、「どこでそれ覚えたの?」と言われた。「自分で気づきました」って言ったらほめられた。

「ネット依存でちょっと困ってて、Twitterとかで疲れるから、ブログだと人の悪意もコントロールできるんで、サーバーも自分で借りて独自ドメインでやってるので、それで若干ましになりました」「ネットで自他をよく観察して、コントロールできてるって言われてうれしかったです」「とはいえ、ツイートは一二と五回くらいだったり、しない日もあります」「同じ障害の人と知り合ったり、話したりできるから、楽しいことも多いし、お互いの工夫とかも話せるから」みたいに言った。

「SNSも道具だからね。SNSだと悪意が飛んできやすいからそこをコントロールできたらいいんだけど難しいよね。でも、ブログに切り替えたのはいい工夫だと思うよ」と言ってもらった。

本当は、精神障害二級で出産したときの減薬の状況とか、その間した工夫とか書いたら役に立つよなと思いだした。女性の障害者でそういうの書いている人少なくて、情報がないんだよね。そういう経験談みたいなので、元気づけられて、子供が産めたらいいと思うし。

今は睡眠障害がちょっと出てて、先生に言うのも忘れてたけど早朝覚醒になってて、四時ごろに起きるのが続いているので、やっぱり調子は悪い。

そのあと心理療法でカウンセラーと初めて話した。伴侶が元家族にDVされて十年物置に監禁されてて、39キロにやせて、水とかも一日に飲んでいい量が決まってて、それは、トイレに行く回数が増えるとか、汗で服が汚れるからだったり、名前は自分の親とのつながりだから、名字だけじゃなくて下の名前も偽名を使わされていたとか、元妻の借金を払うので必死だったとかそういう話をした。彼も障害があるし。で、わたしが一日五回は死にたいと思うといったら、それは苦しいですね見たいな話をした。結構疲れて体ががくがくになった。泣きそうになったし。

ネットのもめごと

あ、そうだ、ラディカルフェミニズム、やっぱり、わたしには賛同できない点があるなと思ったんだった。

あるラディカルフェミニストに、「子連れ様」と言われたんだよね。夫の権威があるんだから、弱者じゃないんだとか言ってて。まあ、そうだよね、わたしは体制の維持になるのが嫌で、婚姻届けを出してはいないけど、伴侶が男だというのはまあそうだよ。

で、子供を産み育てるというのは、ケアをする属性としての、現実を強化しているから反体制としてはまずいっていうか、体制的だよねと言うのも理屈上導き出せるよね。

もちろんラディカルフェミニストの総意じゃないし、彼女はかなり変わっているのは確かだと思うんだけど、でも、ラディカルフェミニズムから論理的に導き出せるのも事実やなと思った。

だけど、産んだし産みたかったししょうがないじゃん。権利でしょ。妊娠出産に関することって女の人の権利じゃん。反体制を貫くために子供は産まないとかあってもいいよ、でも、産んだ人に「子連れ様」って侮蔑を向けていいわけない。人として最低だと思うし。論理的にわたしの書いたものを、それこそブログとかで書いて批判すればいいのに、それをする人ってめちゃ少ない。説得力と魅力があれば読んでもらえるよ。

女は子供を産む、それを否定したら、結局「女は子供を産むから駄目なんだ」といってる人たちと同じになってしまって、ああ、これもわたしのためのフェミニズムじゃなかったんだよねと思った。わたしは石投げてると思われてるんだろうな。リベラルト、ラディカルフェミニズム問わず。わたしどっちでもないし。どちらかというとラディカルに近いのかなと思ってたけど、人と人とのつながりというか、営みを否定するのって無理だなって。わたしにはミソジニーがあります!!!!!ミソジニーのある世界で育ったんだから、感性も価値観もミソジニーがないわけないよ。でも、自覚してない人よりはましだよ!!!!って思っている。子供を産むのはミソジニーなのか?

なら、何のための体制批判なのか?その間、個人的な、属人的な幸せを築けないなら、わたしには意味がない。わたしはわたしのために正義感を発動しているし、わたしが幸せになりたいから、フェミニズム的なものに親和的なだけだから。でも、わたしの幸せよりイデオロギーが優先されることはない。というか、どんなイデオロギーであっても、わたしの幸せを邪魔する思想は許さない。

お互いを相互監視してたら、それこそあさま山荘事件の再現じゃんと思うし、ラディカルフェミニズム文脈からの「子連れ様」発言にその萌芽を感じる。あさま山荘事件って、女らしさを出したら殺されるんだよね。「女らしさ」は体制的であり運動をつぶすものだからって理由で総括されて殺された事件です。

と、いうのは、わたしが死にやすい障害なんだよね。わたしの障害は、寿命が短い。たぶん、自殺して死んじゃうんだと思うけど。障害の症状自体が、身体にすごく負担をかけるし。不眠、精神的な不安定さ、ってメンタルだけじゃなくて体の痛みとして現れるから、これって体に悪いよなと思う。薬の害なんて、それほどじゃない。病気の症状のほうが悪い。だから、天稟にかけて薬を飲むんだけど、薬は体に悪いといってくるバカもいる。薬飲まないで自殺したらそっちのほうが体に悪いんだけどな。

よくわかったんだけど、イデオロギーは、あてにならない。

理論的にはわかるけど、温泉入れなくなって、性犯罪者ぽいな?と思ってもその人の辞任によっては犯罪にならないし、子供を産むことは、男の後ろ盾を得ることで権力側に立つことなんだったら、もう死んだほうがましじゃんみたいに感情が流れていく。わたし死にたくはないんだけど。死にたいのは病気のせいで思わされていることだし。

そういうの、女性の解放のための理論のはずなのに、今の私を生きにくくする。それに、独身女性でも、親が元気だとか、義理の親がいないだとか、介護しなくて済むとか自分が健康だとかそういうのは、ある意味で、結婚している人よりも楽じゃないかな。頭蓋骨われるまでDVされたりしないで済むとか。

別に死をちらつかせて脅す意図はなくて、でも、だんだん死にたくなって、そのほうが良くない?わたしは死にたくないけど、なんか死んじゃうかもとも思うんだよね。

イデオロギーよりも、それより人柄でつながって、優しい人とわかり合ってたほうがいいな。それがリベラルフェミニストでも、ラディカルフェミニストでも、右翼でも。イデオロギー的に一致している人たちの暴言に心が折れた。どんなイデオロギーであっても、違っていても、それを超えて励ましてくれる人のほうがいい。全然。それはわたしの選択だからそれでいい。誰に何を言われても決めた。

トランスジェンダーでも、女でも男でも、違いはあっても。それって、生まれ育った来歴があってそのうえでの属性だから、イデオロギー以外で分かり合えるほうがわたしには今大切だなと思った。じゃないと死んじゃうしうっかり。でも、こういうこというと悲しませちゃうから本当はダメだけど。死なないように頑張ります。

クィア理論を実践するとき

わたしたちは救われない。

女はいつも後回しだからだ。

人類は女と男の二種類にわけた。その二種類を前提にして、社会や医療が成り立っている。

病気をはじめとした困りごとがある場合、対応は二種類に分かれる。自分を変えるか、社会を変えるかだ。

GIDは体を変化させる。トランスジェンダーは、社会的役割をトランス(越境)させる行為なので、社会の変化を求める。

それ自体に、良いも悪いもないが、他者を巻き込む以上、その他者がトランスジェンダーの思い通りに動くとは限らない。変えられる側に含まれるわたしは、社会をそのように変えることを望まない。

社会は人と人とのつながりでできている

机上の空論としての理論に、論理的誤謬がないとしても、さまざまな変数、理論を考えた人の発想を超えた考慮不可能な意図せぬ要素が増える「社会」では理論通りにはいかない。

わたしは、無知蒙昧な民衆の一人だと自分を理解している。無力で、影響力もない。

わたしは、学者を正しいことを正しく知るために研究をしているのだとどこかで思っていた。彼らの蓄積が世の中を豊かにしている。わたしの疑問は、彼らがすでに解決しているか、解決の糸口やヒントを、書籍か何かに書き記してくれており、わたしはそれを読んで目からうろこを落としたり、新しい世界を知ったりして、自分なりに豊かな精神世界を目指していく、わからないことばかりの広大な海に、岸を示す灯台守のようなものだと思っていた。

学者たちが、彼らの占有する言語空間で練り上げたいろいろな理論は、きっとまっすぐに正しいのだろうと思う。

ただ、論理的、手続き的に正しいとしても、その全体が正しいとは限らない。http://rokujo.org/2019/01/12/1589/ で公衆トイレ論文が信用ならないと判明したみたいに。

生活の中で生じるやむを得なさ

社会は人と人とが作っている。それぞれに権利があり、それぞれが衝突する。

生活すること、生きることは、やむを得なさの連続を蓄積したものである。好んで選んだものだけではなく、ただしかたなく受け入れてきたものが、しんしんと体に積もって、記憶して、そして、わたしの感性や、新しい選択を作り出し、人生を導く。

世界はあらゆるやむを得なさに満ちている。生活と理論は、小島剛さんの言葉を借りれば、田んぼと米の関係だ。どんなにすばらしい理論があっても、社会という田んぼを無視すれば、その米は実らない。

理論的には、正しくても、それを社会に持ち込めば、社会にはは悪党だっている。それを織り込まなければ、社会に理論は適用できない。しても、悪い結果になる。

悪を前提に社会設計すべき

わたしたちは、世の中に悪党もいて、無自覚に悪をなす人もいるのだと心得て、社会を構築し、参加していなくてはならないし、そういう風に前もって考えておくべきだ。悪を織り込みながら生きていくべきなのだ。そのためには、予防が大事だ。何か起きた、そのあとに対処したというのは、誰かが損なわれたあとだということだから。未然に防ぐ方法を考えなくてはならない。

社会は、人と人のつながりでできている。フレイバーさんのインタビューを読んだら、社会的接着剤ということが書いてあった。人と人とのつながりが大事なのだと。今のフェミニズムは資本主義に巻き取られて、市場の言葉で語られていると。

「主婦の仕事を賃金で換算することもそうなんだろう」と読んでいて気が付いた。金銭に換算するまでもなく、女がしてきたことは、大切なことなのは明らかだ。金銭で換算するのは、金銭でしか物事の重要性を把握できない男に理解できるよう、わかりやすくしたものだとしても、今度は女がその説明に巻き取られ、金銭に換算できないものは、価値がないと考えるようになってしまった。地域でのコミュニティの維持や、妊娠や出産、愛情、思いやり、そういったものたちを。

わたしは、人を尊重するということを、片目をつぶって見ることだと思っている。自分の価値観と違う人が、それぞれの信念と内心をもって、自由に表現し行動することを、干渉せず、放っておいて、ただ困っていればお互いに助け合い、自分の領域に立ち入れば排除する。これを尊重だと思っている。

わたしにはわたしの社会がある。わたしにも自由があり、守るものがある。

権利の衝突は悪ではない

わたしの権利と他者の権利が衝突すれば、わたしは戦う。ときには、言葉で。行動で。人の手を借りるときもある。それが誠意というものだと思っている。衝突も、人と誠実に向き合うことの一つだ。なあなあに流せることと流せないことがある。自分の境界をきっちり引くことが大切だ。自分を守るときに、領域の線引きをできない人は、自分の主張を通すときにも、他人の線引きを不誠実に超えるだろう。なあなあにしろと押し通すだろう。それが強者だったら、弱者の負担にも気づかず、自分が何をしたか、その罪にも気づかず、自分はいいことをしたくらいに思っている。

今は、誠意とか正義だとかが、埃をかぶった遺物だと感じることも多いけれど、わたしはそういう遺物でできている。

誰を守るか考えることも、発言も、選択である

発言するという行為は、選択だ。選択する限り、誰を守り、誰を守らないか、決めざるをえない。

発言を恐れて、黙っていても、選択からは逃れられない。ほかの人の選択によって、そのまま、誰かが失われていくだけだからだ。それよりは、わたしは自分の責任でだれを守るか決めていたい。わたしは、自分の選別の残酷を丸のみする。それは、選別を含むという意味で、差別もいえるかもしれない。

わたしは、意思決定能力が弱い人や、身体的に弱い人、精神的に弱い人、体の力が衰えた人、幼い人、そういう人を守りたい。

わたしに守れるものはとても少ない。全部を両腕に抱えることができない。だから、優先して守るものと、守れないものがある。本当は誰だってそうなはずだ。

すべての人にやさしくしたくても、すべての人にやさしくできない。

権利の衝突が起き、どちらも悪くないが、どちらかの保護しかできない場合には、選ばなくてはならない。

犯罪者に出くわしてからでは遅いので予防が大事だ

トランスジェンダーが女性専用スペースに入りたいという主張では、わたしはトランスジェンダーではなく、ほかの弱い人、高齢者や子供を選ぶ。

一度犯罪に遭ってからでは遅い。予防が大事なのだ。完全になくせなくても、減らすという姿勢がほしい。

もちろん、犯罪に遭ってからも、治療はできる。でも、その間の時間は永久に戻らない。そして、治療して治ったとしても、それは完全に元に戻ったことを意味しない。少し弱くなっても、現実に帰っていけるという意味でしかない。

わたしの正しさは、誰かにとっての間違いや不快だ。誰かの正しさは、わたしの不快だ。そういう場合もあるのは重々承知である。

他者を尊重することの意味

違いをそのまま受け入れるとは、違いをそのままにして、少しだけ解像度を低くして、ぼんやりと人付き合いをすることでもある。違いに立ち入らないことだ。変えようとしないことだ。それは時には暴力だから。理解しようとして、できなかったとしたら、そのまま飲み込むべきだ。自分の物差しで測って、それが違ってしまったら、それは丸のみの理解よりも悪い。それが現実的な人付き合いで、一つ違うからと言ってバッサリ切っていくことはできない。

正義も大事だ。争いを避けるために、見て見ぬふりをすること、目をそらすことも必要だ。……弱い人が犠牲にならない限りでは。

わたしは片目をつぶりながら、それでいて、必要な時には直視して、正義を行う人でありたい。

女の記号を身に着けるのはミソジニー的な行為である

ただの単なる人間を、「女」という姿に区別するために、記号が必要だと、「男」が考えたから、「女らしさ」は存在する。manにwoをつけるとwomanになる。woは一説によると、wifeらしい。もともと女という意味でwifeという言葉があったそうだ。女というのは誰かの妻だったのだ。イブとアダムがそうだったように。

男の姿に、いろいろ加えていくと、女になる。それは、女を欠けたものだという発想である。

女を男と区別しなくてはならないという発想が、女に装飾を加えさせる。だから、女の記号を身に着けることは、女嫌いなのだ。女をそのまま認めず、徴をつけておくことで、管理可能性を高めるという意味で。

いろいろな理論がある。たとえば、韓国系ラディカルフェミニストは、とても正しさに厳密だ。若い人が支持していて、わたしはわかくないので、正しさに耐えられない。だから、やむを得ず、正しさに耐えられない自分と、正しさによって割り切っていくまぶしさを薄目で見ている。

若い人の抑圧を取り去るための理論として、素晴らしいものだと思う。重要だと思うからなんども言及している。これから必要なものだと思う。

ただ、いかんせん、わたしはそれより長く生きているため、引きずっているものが多くて、突きつけられることが厳しすぎる。そして、わたしは自分がしんどいものを避けたい。

クィア理論も、バトラーの講演会に感動したから、哀惜可能性についてなど、素晴らしい概念はたくさんある。だが、乗れない部分もある。

わたしは女の記号が記号に過ぎないとわかっていて、化粧をしてきた。髪を整え、肌を整え、先のとがった靴を履いた。それはごまかしである以上に適応でもあった。言い訳に過ぎなくても必要なことだった。

女の記号を身に着けること自体、ミソジニーが原因だ。つまり、極端に言えば、トランス行為には、ミソジニーがある。わたしたち女はそれらの記号から解放されたがっている。しかし、生まれたとき男だった人が、女になることを目指すには、女の記号を身に着ける必要がある。

それがなぜ必要か。あるがままの体で、自分の思った通りの人間でいるためには、本来、後付けの記号はいらないはずだ。それがトランスジェンダーであれ、女性であれ。

規範のない世界ならば、いかなる表現も「女らしさ」「男らしさ」にはならないはずだ。でも、今は規範のある世の中なので、女の記号を示すものを身に着ければ、それは「女らしさ」の枷となる。

そしてトランス行為は、どちらの性に向かうのだとしても、女か男の記号を模したものを目指すことで、そうでなければ、日常に紛れ込めない。わたしも、日常に紛れ込むために、自分を装っている。わたしがしていることも、ミソジナスな行為であることは間違いない。しかし、社会的信用を得るためには、外見をそれに合わせることが必要だし、自分の中にある社会を模したものの判定を受けるので、自分自身の外見を、ミソジニーに合わせて変えていく必要がある。何度も繰り返すが、わたしの住んでいる世界はミソジニーを前提とした世界だからだ。

わたしが装うそれ自体、わたしのミソジニーが、わたしに向かった行為だ。女である自分を女として管理する行為は、自己否定に機能する。女であるためには、あるがままの自分ではいられないからだ。

社会性を保つために必要なこと

だが、ミソジニーのある世界で、社会性を保つ一環として、装いは必要なことでもある。

わたしは、自己卑下や自己嫌悪をする。これも、女である自分を罰する行為だ。自分がバカで愚かでどうしようもないから死にたいと思う。それも、自分の中のミソジニーが、自分を罰しているんだと思っている。

自分の自信を喪失すること、これも自分のミソジニーの結果だ。

今ある世界で培った感覚からは逃れることができない

どういうものを美しいと感じるのか。感触、におい、音、そういうものも、ミソジニーが大いにある世界で暮らしながら育まれたので、そういう感覚自体にもミソジニーが紛れ込んでいるだろう。身体的な感覚すら、ミソジニーからは逃れられない。

だから、わたしはトランス行為をする人を一方的に断罪はできない。彼女たちだって、気が付いているから。何一つ装飾をしないでいても、女に見えるかというと難しい人もいるだろう。それは、彼女たちの体が男だから突きつけてくる事実である。

わたしの女という体にも、同じように、突きつけてくる事実があって、それはどうやっても男と同様には扱われず、女枠から一定以上はみ出せば暴力の対象になるだろうということだ。

欺瞞をそのままにしておく意味

だから、わたしはわたし自身の欺瞞や矛盾に片目をつぶって、存在することが分かっていても、自分自身をそのまま受け入れようと思う。それは、他者に対しても同じだ。

他人が、いかに行動して、いかに表現していようと、それがわたしの権利、わたしの社会を傷つけない限り、わたしは彼らを放っておく。ただ、わたしの権利と衝突したときにはその限りではないだけだ。

内心がどうであれ、自由であること、それ自体は尊重しても、こちらにとってもその内心に合わせない自由があり、キャパシティ的な問題もある。

ただ、これも社会の問題だから、人と人とのつながりがあり、そうしたとき、相手への気持ちがあれば、内心を尊重して、内心通りに取り扱うこともできる。

権利と接し方の問題

トランスジェンダーも、異性装の人も、権利がある。わたしはそれを認めている。尊重したいと思っている。存在しているのだから、認めるも何もない。ただ、わたしは、女性専用スペースを彼らとわけたい。そこに不一致がある。

彼らの、性暴力被害の防止や、被害後のケアの足りなさ、就労や、心無い言葉の投げつけ、そういったものについて、心を痛めるのは本当だ。どうにかならないものかと思う。

しかし、トランスジェンダーの女性が、セーフスペースに入ってきたら、それが不特定多数のいる場所ならば、全員が足並みをそろえて、彼女を怖がらないでいるのは無理なのだ。

GIDは体の性別を変えている人だから、たいていの人は受け入れられるだろう。

GIDにとって、性自認は重要ではない。

(追記:トランスジェンダーとGIDでは、性自認の意味が異なります。GID にとって、性自認とは、手術の要件に足る精神と身体の不一致です。手術をすることが優先だそうです。そういう意味では性自認がどうよりも身体の不一致を早くなんとか治療したいという気持ちが強いそうです。それで、GIDは性自認が重要ではないと書きました。体の問題が優先するので。


GID とトランスジェンダーの性自認とは異なります。GID にとっては、身体の問題が優先するので、性自認はトランスジェンダーより大事ではないそうです。ただし、手術の用件足り得る精神と身体の不一致はトランスジェンダーより強いので、その意味では、性自認が重要という言い方もできるでしょう)

身体を暮らしやすい形に変えることが大切らしい。だから、彼女たちを怖がる人はうんと少ないだろう。体の形が似ていれば、脅威を感じにくいからだ。

彼女たち、彼らに必要なのは、手術を行う要件としての精神状態だから、性自認を必要とするTG(トランスジェンダー)とは、概念が全く異なる。

でも、トランスジェンダーは、社会的性別を変えたい人たちだから、身体を変えることはGIDほど重要ではなく、社会からの取り扱いを変えることを求める。だから、トランス女性の体の形が、女性に近いとは限らない。だから、女性専用スペースに入りたいという願いには応じられない場合がある。トランスジェンダーの女性が、男性から、被害を受け、苦しんでいるのは、こちらにも痛い。むごい。憤りを感じる。

(なぜ男はそういう男を非難しないか、とも思う。なぜ、女性が受け入れていないことばかり、男は攻め立てるんだろう。自分が属している集団の暴力性について、どれだけ反省しているのだろう。女性よりも、1000倍以上は、性犯罪を起こす集団に属しているのに)

トランスジェンダーの言葉の広さ

トランスジェンダーとは、性自認が男性女性問わず、内心がどうであれ、ジェンダー(社会的性別の役割)を超えていく人たちなので、その役割のどれをどう負いたいかによって体の改変の度合いを変える。トランスジェンダーの主張は、こちらの対応、社会を変えろという主張だから、変わるのはわたしたちでもある。TGにTV(異性装。性自認は男)が含まれるので、そういう解釈になる。トランスジェンダーが、異性装を含むほど大きな概念だから、トランスジェンダーの中には、男に見えたり男の記号を背負ったりしている人がいるはずだ。

また、トランスジェンダーの中には、女性を性的にみる精神のままトランスして女性的になった(オートガネイフィリア:性的対象としての女性を好きすぎて女性になる人)人や、男の記号を持ったままの人とがいる。そうすると、それらの人と、性犯罪をもくろむ人と、区別はつかない。女性専用スペースにそうした人が来たら、わたしはそれを怖がる。

恐怖を感じること自体、被害なのだと認めてほしい

怖がること自体でダメージを負う。ダメージを負ってから対処するのでは遅い。もし、性犯罪者があらわれたら、通報すればいいという人は、ダメージを軽く見ていると思う。実際問題、性犯罪者ではないかと思えば、恐怖はあるし、恐怖があれば、声も出ないし、体も動かない。相手にも事情があるのかなと考えもするから、そもそも性犯罪者か確信も持てない。混乱すると、頭も真っ白になり、体の力が抜けてしまい、判断力はなくなる。訓練によって叫ぶことができるかどうかぐらいだ。

わたしが襲われたとき、叫べて、そのうえ、住民たちや、近くの通りを歩いていた人が来てくれたから、命は助かった。これはありえないほど運が良かった。普通は、怖くて出てこれない。また自分には関係ないと思うだろうから、厄介ごとに関わりたくないと思ったかもしれない。

声は出せても、相手のことを攻撃するようなことはできなかった。手に力が入らなかった。足もぐにゃぐにゃになった。殴られて首を絞められて腕の神経が切れた。それでも、最初は空気を吸うこともできず、口をパクパクさせるのが精いっぱいで、叫ぶことを思い出すのに五秒ぐらいかかったと思う。叫ぶのも、叫んだことで、犯人を刺激して刺されて死ぬかもしれないなと思い躊躇した。なにしろ、異常な行動をすでにとっているのだろうから、相手が最悪の行動をとらないと信頼できるわけがない。攻撃してこないと思う、それ自体、相手を信頼しているってことだ。でも、痴漢もそうだが、触るだとかつけるだとか、そういう異常な行動をしている以上、何一つ信頼できない。

男性には想像ができない「性犯罪の被害」の重さ

男性にとって、自分の目の前に、裸の男がおり、性器を見せている状態を想像しても、単に滑稽な光景にしか思われないかもしれない。

でも、わたしにとって、それは、ヒグマに遭うのと同じか、それ以上恐ろしいことだ。その人は、言葉や常識が通じない。社会性があれば、普通しないことを、している以上、彼には言葉も抗議も通じないのだろうと、まず判断する。

そして、社会性のない、普通なら考えられない行動をする人間が性器を見せる以上、抵抗したらそれ以上のことをされるのだろうと思う。人は、恐怖に陥ると声も出ないし、体の力も抜けてしまう。考えられなくもなる。性器を見せる男がいたら通報しろとたやすく言う人もいるが、それはもう被害が発生した後だ。被害があってからでは遅いのだ。異性に性器を見せることは加害なのだ。

犯罪者に対しても、信頼の問題が出る。犯罪はしても、これはしないだろうと信じられたら、抵抗できる。

犯罪でさえ、人と人とのつながりの問題だ。

日本のジェンダー系の学者

正しく見える理論を実践するときには、必ず考慮していなかった要素があとからでてくる。例えば、「公衆トイレ論文」だって、データ処理の手続きや、体裁は正しかった。それと同じような意味合いで、要素を考慮していない理論には現実に反映させる意味がない。

そして、その要素が、弱者に関してのもので、実践の結果弱者の健康と安全を害するならば、それはあとから訂正していけばいいものではない。取り返しがつかない。弱者は簡単なことで、命や健康や、普通の生活を失い、時には元に戻れない。

しかし、学者は、自分たちの理論が無謬のようにふるまって、違う視点から指摘されるとひどくおかしな行動をする。まるで焦っているみたいに。理論は理論として正しくても、違う分野からしたらおかしいことはよくある。また、生活の場に理論を落としていくという作業は、それこそ、様々な分野からの意見が立ち上がることに他ならないのに。

そして、女という感じは、祈っている様子を表しているのだという。

言われてみれば、わたしは祈ってばかりだ。もう、悪くならないで済むように、健康であるように、家族が平和に暮らせるように。

排除が目的なのではない。だが、わたしは、自分の属性の集団を守りたい。理論を社会に適用するには早すぎる。なぜそんなに急ぐのか。そこが恐ろしい。