高学歴とは何か

コメントでc71の出た大学は偏差値も大したことがないし、学士はありふれているから、あなたは高学歴とは言えないはずだ、それなのに、それを名乗るのはなぜなのか、という気持ちが悪く、失礼なことを言われた。

真面目に答えると、確かに明治大学は、早慶、東大よりは劣る。マンモス大だから入る人も珍しくない。東大も、国際ランキングでは相当低いから、日本の大学を出た時点で、レベルは低いといえるだろう。
信州大学は、旧帝大ではない。
個人的には、講師陣のレベルが高くてよかったと思っている。
明治大学も、先生たちの個人的な思想や、経験を踏まえた授業が多く、エキサイティングだった。得るものは大きかった。
水俣病の弁護士を、九州にまで行って、手弁当で裁判をし、現地の人に信用されるまで同じものを食べ、郊外で企業を訴えるための理論を構築し、因果関係を証明した先生の話が民法総論だった。

わたしは子供のころから、世の中を、もっと女性と子供が住みやすいものに変えたいと思っていた。
だから、明治大学の法学部に入り、ジェンダーと法律を勉強し、世の中を変えることをしたかった。
結局は、今、自分の身の幅のこと、歩みは自分の歩幅の分だけだ、ということが分かってきたのだけれど、人生はまだ長いから、法律家になる以外の道で、何かできることはないかといつも探している。ブログもその一環だ。
誰の役に立たないと病気が邪魔をして、悲観的になることがほとんどだけれど、そういうつもりでやっている。

高学歴の話だが、日本で受けられる最高教育、高等教育が「大学」だからだ。わたしは、偏差値で決めるよりもその人が勉強したいと思い、大学に行き、何か得ることを一番尊重したいと思っている。
高学歴というと変札の高い大学に行くことを指すだけだと思っている人も多いが、実は、そうではない定義も存在している。
わたしはそちらを取っている。
勉強がどうしても手につかない、低学力の生徒が、「大人の話をわかって、商売をしたいから、世の中のことを知りたい」と大学進学をするまでに成長した、ということを何度も経験すると、どのレベルの大学に入るのか、ということは、あまり気にならなくなる。
それよりも、大志のほうが大切だ。
日本の大学の講師のレベルは高い。人が余っているからだ。
偏差値が低いと、周りの学生が、勉強好きではない可能性が高いから、環境が悪い場合も多いけれど、わたしが知っている教育機関としての大学は、みんな勉強したがっている学生には親身になってくれた。

また、偏差値的にはたいしたことがない大学かもしれないが、わたしは、ダブルライセンサーだ。学士を二つ持っている人は、まだそれほど多くない。しかも、法学部と工学部を両方というのは、畑違いで、単位を取るのにもずいぶん苦労した。
工学も、技術を通して、世の中の仕組みを変える学問だから、法学部を選んだ理由と同じ理由で選んだ。
誤解している人が多いけれど、今の大学は、遊んで卒業できる場所ではない。遊園地だとか、遊びに行くようなものだとか、いう人は、今を知らない人たちだ。単位を取得するのが簡単に見える授業でも、相性で難しい人にとっては難しい。卒業は簡単じゃない。
信州大学では、一割から三割が留年していた。

成績優秀だと自称するのがおかしいとも、言われたので、反論すると、わたしはどちらの大学でも学費免除か、給付奨学金を得ていた。それらを得るためには、それなりの成績が必要だから、成績優秀だといっている。その努力をないことにしたくないし、わたしが優秀じゃなかったら、ほかの人はどうなるのか、謙遜するとかえって、悪い、という気持ちだ。

世の中は変えられなかった。エリートにもならなかった。同窓会で鼻で笑われたこともある。
でも、塾講師は報われる仕事だ。
女の子は、生きることが、不利だ。
生まれたときから、男と女は育てられ方が違う。
高校選び一つ見ても、男の子には一つ上の高校をチャレンジさせる家庭が多く、女の子には無理せず、確実に入れる高校で、トップを狙って推薦を取るような進路を望む家庭が多い。
それをすると、入れる大学の選択肢が減る。推薦はよいように思えるけれど「自分が入りたい大学」を探すために、少しだが、制約がかかる。なんでも選べる、というのと、推薦がある大学の中から行きたいものを選ぶ、というのでは少し変わる。

わたしが就職しようとしたとき、女だからという理由で露骨に断られたことが何度もある。
女の子にできる仕事がうちにはないんだよね。ご両親はそろっているの?結婚する予定はあるんでしょう?子供を産んだら休むだろうけれど、産休を与える余裕はないし、前例もないから、みんな一度やめてからパートで戻る慣例だよ。
そういうことはすべて、違法だが、現実でもある。そんな会社に入らなければいい。それはもちろんだけれど、男性と女性の選択肢の多さを比べると、制約が多いことをわかってもらえるだろうか?

もし、女が子供を産まなかったら、働き手も、消費者も育たない。男には子供を産めない。
産めないからと言って優遇される。おかしいと思う。

女の子たちは中学生のころから、具体的な夢を持つ。今は看護師、薬剤師、保健師、助産師、そういった、技術職が人気だ。
裏を返すとそうでなければ、独り立ちして食べていくことが難しい。
学力は、労働環境とも、給与面でも密接に関係する。学力があれば、選べる。死を選ばないようにする知恵を、わたしは塾講師という仕事を通して、育てたい。

わたしを高学歴だと呼ぶ人、呼ばない人、それぞれの立場があるだろう。
わたしにも、後悔はたくさんある。
できることが少なく、力及ばないことも多い。
子供を身ごもってから、社会活動ができず、主治医に相談したら、「子供を産むことほど社会活動になることはないよ。人を一人社会に増やすのだから」と言われてほっとした。

高学歴が、人生を保証するわけじゃない。
でも、学力は、選択肢を増やせる。それを利用するかどうかは本人の問題だ。
勉強を通して、頭の使い方や鍛え方を学ぶことはよいことだ。
頭を使わず、考えないことは、楽かもしれないが、大きな損だ。
その損にも気づけないほど、阿呆な人もいるけれど、なるべく関わりたくない。
そうはいっても、社会の中にいる限り、関わらざるを得ない場合もあるから、その辺は工夫するしかない。それも知恵だ。

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わたしたちの子供が自閉症でなかったら

六帖さんが家に来て、一年がたった。
彼の実家で、ご両親に会った。
会う前は熱や蕁麻疹が出て、行くのをやめようと彼は言ってくれたけれど、なんとか会いに行った。

彼には両親との記憶があまりないらしい。だから、どういう人なのか、全然わからなかったけれど、ご両親の話を聞いたら、どんな子供時代だったのか少しわかった。
家の事情で苦労したお母さん、ハンサムなお父さんは、仕事を妻の家の事情に振り回されながらも受け入れて、飄々としていた。
遺伝子とは不思議なもので、六帖さんと親御さんはとても良く似ていた。美男美女のカップルに生まれた子供なのに、六帖さんはハンサムとは言えないのが、不思議だとからかった。

彼と知り合い、一年の間に、わたしは身ごもった。経過は順調で、ようやくベビー用品を調べ始めた。
予期せぬ出費が多く、驚くことが多い。子供に拘束される人生が始まる。不安がある。
子育て経験者は、「しょうがない」という。「海外に出ていきたいという気持ちがないわけじゃないけれど、寿命もある。公開がない人生だったとは言えないけれど、たくさんの後悔の中に埋もれている」という。
「つらいことも多いけど、発見も多いよ」という。子育ての話は夫婦仲が円満な、子煩悩の父がいる家の人に聞かないと、悲観的な気持ちになることを知った。
どんな時代でも、子育てをする父は、するし、しない人はしないのだ。
夫が子育てをしていた家庭の妻は、子育てを楽しいものだと語る。自分の人生を犠牲にした一面と同時に、豊かになる一面を語る。これはきれいごとじゃなく、そう。
子供を早く持った人たちは、もう、子供から手を放して、自分の人生をもう一度生き始めている。
そのタイミングで、わたしは、子供を育て始める。
いつ、産めばよかったのかと今更思うけれど、今のタイミングしかなかった。

わたしたちは、自閉症カップルだから、生まれる子供も自閉症のつもりで話していた。
運動をさせよう、集団の強要はさせないようにして、でも、慣れるような機会は与えよう、体の使い方がとにかく苦手なはずだから、アウトドアもしよう、など。

わたしたちは、自閉症の人の気持ちの流れはなんとなくわかるけれど、定型の人の気持ちはわかりにくい。わかるつもりでも、本当にはわからない。もちろん自閉症同士でもわかるとはいえないのだけれど。
定型の人が人の気持ちがわかる人、というとき、本当のところを答え合わせするわけにはいかないのに、どうして、わかるといえるのか、そこが疑問に思うわたしだ。

わたしたちの不安は、子供が、自閉症ではなかったらどうしよう、ということだ。
わたしたちは、自閉症の世界で生きているから、定型の子が生まれたら「異質」と感じる可能性がある。
彼、彼女が必要としている感情的なコミュニケートを与えられるか、難しい。
その場合は、定型の人の力をより借りるように、注力しないといけないだろう。わたしたちにはないものは、与えることができないから。

自閉症が暮らしにくいのは、世の中に自閉症の人間が十分の一しかいないからだ。
わたしたちの家庭ではそれが逆転する。
わたしたちの家庭で、定型発達の子が生まれたら、少数派になるわけだ。理解者になる努力は、どちらにしてもするものの、難易度が上がる気はしている。自分の経験から、類推することが難しいからだ。

自閉症の療育は、社会に混ざるために、自分を変えることを要請される。
そう理解している。
人数が逆転していたら、療育は必要がない。
療育で自閉症は治らない。社会のルールを理解することで、ふるまい方を覚えられる。そうして、二次障害を防ぐものだと理解している。
だから、療育を焦る必要はないと思っている。もちろん低年齢の時にすれば、それだけ二次障害を防ぎやすくはなるだろうが、そのことで、親が負担に感じるのだったら、遅らせて構わないものだと思っている。

遺伝子を混ぜ合わせても、出来上がった子供は他人だから、わたしと特徴が似ている部分があっても、理解不能な部分も多いだろう。自閉症だったら、わかることも多いかもしれない。だから、心のどこかで、自閉症であることを望んでいた。でも、もちろん、そうじゃない可能性もある。
そうじゃなかったとき、わたしは、どれだけのことができるだろう。

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生徒さんの贈り物

今日、午前中は世界中の人から嫌われていると感じて、泣いていた。
処方されているソラナックスを飲んで、ヘルパーさんと話した時も、昔のつらいことを思い出してしまって、泣いてしまった。

夕方、一番最初に教えた生徒さんが、大学に入学が決まったということで、一緒にお茶をすることになった。
とてもいい子で、手に職をつけて、お父さんと経済の話や、政治の話をできるようになるために、大学に行きたいといった子だ。

わたしが教えていた時は、成績が悪く、全教科合わせても100点行くか行かないかだった。
一生懸命やっても、どうしてもできないのだ。頭が悪いわけじゃないのに。

年数を重ねていくうち、そういう子は、とても多いということがわかった。
頑張っても、頭が悪くなくても、どうしても伸び悩む生徒さんはいる。

わたしは、成績優秀でない人生を知らなかったから、そういう子たちが、どういう人生を歩むのかイメージがなかった。

でも、教えていくうちに、そういう生徒さんとかかわるうち、大事なのは、成績じゃなく、人間性だということがわかるようになった。

成績が同じくらいでも、人間性で、人生の明暗が分かれるところを何度も見た。
自分の人生を見据えて、何がしたいのか、どうやって行きたいのか、先のことを考えすぎず、「今」何がしたいのか、じっくり考えることができる生徒さんは、高校でどんどん花開いていく。

今日、会った生徒さんも、なんと推薦で大学入学を決めた。
人の後ろに隠れるような子だったのに、高校では、役職について、人を引っ張ることもしていた。

なんと誇らしいのだろう。

わたしは高学歴ワープアもいいところだから、成績優秀な学生時代を送ったからと言って、人生がばら色じゃない場合もあると知っている。
成績も大事だけれど、それよりも、どう生きたいのか、何をしたいのか、そのために何をすべきなのか、考えることができる子が、どんどん伸びていくことを、その子には教えてもらった。

その子はうまくいかなくても、人のせいにせず、「自分が努力しなかったから当たり前」と言い、落ち込まない。
努力して、それでもうまくいかなかったら、落ち込むけれど、と言っていた。
努力していなくても、周りを見て、ねたむ人をたくさん見てきたから、そういう姿勢が当たり前じゃないことを知っている。
年齢にかかわらず、人間として完成している人はしているし、していない人はしていない。

そういう大事なことを学んだ。

塾講師とは悲しいもので、どんなに生徒を大好きになっても、時が来たら、お別れだ。
思い出してもらうこともない。二度と会えない。

そんな中で、思い出してもらえたこと、わたしにあえて、うれしいといってもらったことが、どんなにわたしの励みになっただろう。

その子は「二人とも、会えて嬉しいと思えるのはいいですよね」と言ってくれた。
「先生が、生徒のことを大好きだと気持ちをかけてくれるから、わたしも先生のこと大好きなんですよ」と言ってくれた。
本当に暖かいプレゼントをもらった。また、頑張れる。

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お風呂の時間だけが救い

風邪と食中毒が一緒になったみたいなつわりがずっと続いていて、もう、とっくに終わってもいいはずなのに、まだある。

食事は少しずつ食べられるようになってきた。絶食の後はヨーグルトにはちみつをかけたものが比較的食べやすい。
味付けが濃いものや脂っこいものも、楽なときは食べられる。薄味のものは食べにくい。
味覚が変わっているから、味がよくわからない。すっぱいものはおいしい。ほかに食べられない。

お風呂に入浴剤を入れて入った後は比較的楽なので、お風呂の時間が唯一の救い。
人と会わないので、とにかくさみしい。世界中から嫌われているという妄想がある。

減薬をしているので、躁鬱が悪化し、振り回されていて、つわりのせいもあるけれど、外出もままならない。
一歩外に出れば、人間らしく振る舞えるのだけど、なかなかそのパワーがでない。

家の中では、独り言がひどい。意味のない単語を延々という。節をつけて言ったりもする。
一緒に住んでいるのがほかの人だったら耐えられないと思う。

仕事の面でも、ずっと休んでいて、個人的に迷惑をかけているお客さんも多い。
仕事をできないのもつらい。

去年までは働きすぎていたと思う。五年前と比べて、躁鬱の切り替わる時期が短くなった。具体的には一週間周期だったのが、三日周期になった。
働きすぎないようにしながら、食い扶持を確保するのは難しい。
体もうまく言うことをきかない。薬の副作用で太ってしまったのもずいぶんと悲しい。
一日中そのことが頭を離れない。

社会から隔絶されていると悪いことばかりを考える。かといって社会と接続していても、つらいことは多い。
どうすればいいのかわからなくて、ぐるぐる考えてしまう。

きっと子供もも、なんらかの困難を抱えている子が生まれるだろうから、何ができるか、考えている。

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ギフテッドであろうとなかろうと生きにくい発達障害

あれから約1年、50円東大生と発達障害の数学少年が再会しました。
この記事のブコメに才能があることについて、嫉妬している発達障碍者の人がいた。
結構しんどい話やなーと思う。

わたし自身は、ギフテッドかどうか知らないけれど、小学三年生のころには、古典を読んでいた。清少納言や、紫式部。ひらがなで書いてあったから読めたのだ。下に注釈があったし。翻訳されたものならシェイクスピアや、海外の昔話、童話やその類似性を分析した本を読んでいた。
株や法律、保険金、そういったものの本も読んでいた。小学生の時には一日に一、二冊、休日には五冊から十冊読んでいた。
だから、国語は得意だった。国語が得意だとほかの科目もできる。特に社会は雑学を知っていればある程度できる。
高校受験の時には、答え方を覚えていないとできないから勉強は必要だった。

でも、わたしは二次障害で体を壊し、学校に行けなくなった。

適応できなかった。

目につく才能だったから、ほめられることも多かったけれど、謗られることも多く、仲間外れや、いじめも受けた。
何足靴を買い替えたかわからない。片方の靴を隠されて見つけられても、もう片方は燃やされていた。一緒に探すふりをした子が犯人だった。その子は、泣いて、もういいから帰る、といったわたしを、見つかるまで探そうよ、と言いながら、わたしの反応を見るために最後まで残っていた。

わたしは社会性がなく、うまくいかないことがあると、教室の中で机を放り投げて暴れたこともあった。筆箱をおもちゃにされて、投げた男の子をナイフをもって追いかけた。教師に、ナイフをもって追いかけたことを怒られた。ランドセルをぼこぼこに踏まれて、家に帰ったら物を大事にしないと怒られた。そういうことに、納得がいかなかった。

中学時代の時は体がしんどくてたまらなかった。勉強だけしていればいいと許してもらえれば楽だった。
満点でも許してもらえない親の元で、勉強をする時間を求められて、いつもドアを開けることを命令され、ランダムに見張られては怒鳴られる家庭で、落ち着いていられる時間もなかった。

学校でも家でも、居場所がなくて、いつも死ぬ場所を探していた。

多少優れた点があっても、社会とうまくいかなかったら、生きていくのはつらいことだ。
社会とうまくいっていても、やっぱりつらいものはつらいだろう。社会とうまくいっているから、かえってつらいこともあるだろう。

わたしの躁うつ病は二次障害なんじゃないかなと思っている。

働き始めてからもいろいろと困難はあった。働くということがあまりよくわからなくて躓くこともあった。
幸い、勉強が得意だということを生かして、塾の仕事につけたからよかったけれど、働きやすい業界かというと、そういうわけでもない。
今は、パートナーに養ってもらったり、生活の面で補ってもらっているから、ずいぶん楽になったとはいえ、彼もわたしと同じ発達障害だ。
彼もやはり、勉強が得意だったものの、成人後は、かなりの地獄を見ている。

わたしたちにあるものが才能と呼べるほどのものかはわからない。多少優れている点はある。そこを隠しても、謙遜だと思われることはなく、むしろ、悪いように取られるので、わたしは優れている点がある、ということにしている。どちらにしても、憎まれる。優れた点や変わった点があると、それをもっているだけで、憎まれる。隠すことはできない。隠しても、それはそれで憎まれる。

他人からどう見られるのかを多少想像することはできても、たとえば、嫉妬の概念のない私には、うらやましいところまでは理解できても、嫉妬ということの全容は理解できない。できないものに対策はできない。わたしにない感情は、わたしには理解できない。
そういうところで、衝突はよくある。

自分を隠せば隠すほど、もっと難しくなる。かといってむき出しのままでも難しい。どちらにしても難しい。正直でいることのほうが、単純だから対処しやすい、というだけで、自分を隠さないでいる。でも、やっぱり、いろいろな人がいるから、絶対の正解とは言えない。

正解を探してしまうのが、わたしの特徴でもあるけれど。

適応しようとして、適応障害になったこともあった。体が動かせなくなった。過呼吸もひどかった。

才能だけを見る。そうすると、きっと羨ましい。才能がない。そう思えば、自分には何にもないと感じる。
わたしは、自分の才能を、「なんの役にも立たない。お金にならない。社会では役に立たない。価値がない。そんなものは才能とは言えない」と言われたことがある。わたしはその人の言うことを聞いてしまい、時間を無駄にした。
才能があると目立つ。目立つとつぶされる。
才能がなくて、何もないと嘆くこともある。自分のできることに何の価値も感じられなくなると、自分にはどんな意味での才能もないのだと、思い、心細くなる。わたしは何もなさないで、何もせず、死ぬのかと思うと、さみしくなる。

何を才能と呼ぶのか、評価する人がいてこそ才能だと認識できるのだと思うけれど、もし、才能があったとしても、生きていくことは難しい。
才能がないとしても、生きていくのは難しい。
才能があるといわれてたけれど、期待ゆえに、ゴムを引っ張り続けると、ちぎれるように、ちぎれてしまったわたしも、やっぱりいる。
何もかももなくして、わたしには、才能どころか能力もない、価値もないと、泣いているわたしもいる。

どちらも楽じゃない。
両方のわたしがいる。

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どんなに有名な人でも消える

ブログを久しぶりにかいてみたら随分気が楽になった。
例え誰からも嫌われていてもいいじゃないか。
わたしはわたしのしたいようにしているのだから。

わたしは全然有名な人間ではない。立派でもない。
つまらない人間だ。
これから何か為したいとは思っているけれど、なかなか実現しない。
でもいいんだ。

どんなに有名になったとしても、風向きひとつで敵と味方は変わり、表舞台から去ればすぐに忘れ去られる。

わたしはそもそも忘れ去られるどころか、知られていない。

言葉は空をさ迷う。どこにも届かないで消えるとしても、書きたいから書いてる。自分を支えるために書いてる。それだけでよかったのだということ。

書いているうちに思考が広がって、ネガティブにしか捉えられなかったことも、違う方に考えられる。
それは書くことの魔法だ。

わたしは魔法を使いたくて、言葉を使って、自分を少しでも違う角度から見るために書いているのだった。

それは有名になるためでもすごいですねと誉められるためでもなくて、自分のためだ。
欲を出せばきりがないから、もちろん認められたり、誉められたりしたい気持ちはある。

そもそも原点に立ち返れば、言葉を使って遊び、言葉から生まれる幻影をいつも追いたいから、わたしは書いてきたのだった。

自分に正直に、嘘をつかずに、誰に理解されなくても、理解されても、なにも変わらずにいたいから、続けたいのだ。

名声を追い求めても、それはいつか消える。
なにもかも消えるのだとしたら、わたしはわたしの芯のようなもののために書くのだ。

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旅行にいってきた

旅行にいってきた。
六帖さんとはあまり旅行しないまま妊娠してしまったので、急いで二人きりの生活を満喫しようと思って、旅行にいってきた。

旅行はすごく楽しくて美味しい空気と水を満喫してきた。
一番の贅沢。

ホテルでゆっくりして、フレンチを食べた。
とても広い部屋で、八畳間の和室と洋室に別れていて、アミニティも充実していてとてもくつろいだ。

夕食はフレンチのフルコースで、オードブルのホタテの燻製や海老が美味しかった。マスのコンフィを食べた時点でだいぶ満腹になった。
子牛のフィレはしっとりしていて柔らかくてジューシーだった。
デザートはマカロンとバニラアイスクリームと生チョコをイチゴのソースにつけたやつだった。

ノンアルコールの白ワインというのがあり、それを飲んだ。
ブドウジュースと少し違うみたいだ。

朝は散歩をした。
空気が木の香りで満たされていて、風が吹く度に凍えそうになった。
それでも日当たりのよいところを歩くと暑いくらいだった。
山が砂糖菓子みたいに白かった。
二人で歩いて楽しかった。

毎日日記を書きたいのだけど、ネガティブになってしまっていて、誰からも嫌われてるし、誰も読みたいと思っていないのだと思うので、気持ちがくじけてしまっていた。

でも、最初書き始めたときは、なにも期待しないで、書いていたのだからもとに戻ればよいのだ。

つわりは収まる様子を見せない。だんだん体力も落ちてきて、気持ちも弱っている。

旅行中はつわりも軽かったのだけど、帰る途中から悪くなって、家についたとたんにだいぶ吐いてしまった。

妊娠中の記録をもっとつけるつもりだったのに、あまり書けない。

自分のからだの変化が恐ろしくて、太ることがやはり怖い。食べていないので痩せてしまった。
でもそれにほっとするような、気持ちもある。

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無気力と逃避

しばらくブログを書かなかった。

体調が悪かった。

吐いてばかりいて、肉体的につらいせいか、何もかも徒労のように感じて、何かすることに意味はないと思うようになった。

死にたいとGoogleで検索窓に打ち込むようになった。

生きていてもいつか死ぬのだから早い方がよい。
その方が楽だ。

六帖さんにわたしが死んだらどうする?という話ばかりするようになった。

なにも成し遂げないまま老いて死ぬ。未来に希望を感じず、悲観的になって、今辛いのだから消えたいと思った。

それは今でも続いていることなのだが、わたしはいつもよりしに至る可能性が高くなっていても、たぶんわたしは死を選ばない。
それもわかっているのだが、しんどい。

ブログも面倒になって止めようかと思ったのだが、やっぱり止めたくないようだ。
ブログがわたしの役に立つことも他人の役に立つこともない。無駄だ。徒労だ。
でも、わたしはやっぱり続けてしまうようだ。

他人に影響力もなく、書いていることになんの意味もなくても、続けているのは、なぜかわからない。

家族を増やすことには失敗した。
成人と付き合うのはなかなか難しい。
見る目がなかったとずいぶん思ったが、おそらく相性が悪かったのだろう。
わたしはストレスを体で感じてから、それから認識するようで、体調を崩さないと、受けているストレスにあまり気づかない。
とにかく、あの計画はうまくいかなかった。
がっくりした。
がっくりしすぎて、一週間寝込んだ。

子供はまだ流産していない。生きてる。
よかった。
町中で子供を見ると不思議な気持ちになる。
あんな小さいものがやってくるのだ。

怖くてたまらない。

挫折しながら生きるしかないのだと何度となく思ってきたものの、失敗や努力が徒労に終わったときに、また同じように挫折も失敗もあるのだ、と思い直して、仕切り直すのは疲れる。
やるしかないのだと思えど、しんどいものはしんどい。

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DV被害者への誤解

なんかもう、誰も読まないと思うし、わたしもやる気ないけど、昨日の不毛なやりとりを書いとく。
何が不毛化って言うと、言葉が通じなかったから。
曲解、って言われたから何かと思ったけど「意図とは違う」という意味だったらしい。
なにそれ。
あと、定型の人って言葉遣い丁寧にしただけで怒っていること伝わらなくなるのね。なんか、いい加減ね。
そんで、「理屈上こういう風に読めますけど」という話も、「書いてないことを読むな」と言われてどうすれば、ってなった。
意図じゃなくても、読めるんだからそうじゃん、ってこっちはなるけど、「理屈上こうつながる」というのも拒否されると話し合う意味がないね。
理屈が通じないけど日本語話せる人にあまり会ったことなかったから、完全に無駄な時間を過ごしたよ。

全部、貼り付けて、切り取るなという相手側からの要望があったので、張るね。超絶読みにくくなるし、わたしもやりたくないけど。

社会って人と助け合うためにあるから、これじゃだめなんだよね。

殴られている人がいても、ほっとけ、って話だから。本人が、家族や身内に殴られても暴力にならないと思ってたら暴力にならないんだから、わざわざ教えることもないという風に読めるけど、殴られているうちに死ぬからね。
死ぬけど、って何度も言ったけどわからなかったらしい。


この人、加害者は、別、って言ってるんだけど、自分の発言の加害者性は最後まで自覚されなかった。
それについては、後で書くね。
また、前回のブログで書いたけど「暴力を自覚しない人はうらやましい」というのは、加害者の加害行為や暴力を正当化し肯定する行為なんだけどね。

なんで、加害者には自覚させて、被害者には自覚させないか謎なんだけどさ。逃げられなかったら死ぬじゃん。

伝えるの難しいし、本人も被害者だと自覚することには非常な困難を伴う。価値観を破壊されるから。でも、辛抱強く介入しないといけないんだよ。それが、社会の役割だから。


んでもって、昨日期のリプライが来たのね。傷ついたのもあるけど、怒ってたんだよ。そこがまず事実誤認なんだけどさあ。ちょうど近い思想ってのが、カズレーサーが「自分が不幸だと思ってるから不幸なんで不幸だと思うのをやめたら幸福」というやつなんだけど、カズレーサーもこういう場合についていってるわけじゃないのわかるから、引用されてびっくりだよね。

この人の曲解というのは、確認したところ「愚か」という言葉は使っていない、というのと、前述した「使ってない言葉を使われた」ということらしい。
でも、暴力のさなかにいてそれを自覚できないで愛だと思える人はうらやましいというのは、最後まで認めていたんだよね。
それって、人を殺す思想だし実際わたし、死にそうだけど。そういう、自分の発言についての責任を取るという発想がない人だったから、対話したのが無駄だったと後からどんどんわかっていって、わたしは確認に終始することになる。

この人は「誤認」と「適応」という言葉を特殊に解釈していて、誤認、というのは「暴力を暴力だと一切感じていない場合」、適応というのは「つらいけど、生き延びるために自分の気持ちにふたをしてつらいと一瞬でも思った状態」ということらしいんだけど。
この二つは分けられないんだよね。殴られたら普通痛いし。
暴言吐かれたら心は痛む。
洗脳下でも感情はあるんだ、ということを何度もお伝えしたんだけど、伝わらなかった。

たとえ、暴力だと認識していないで、暴力を愛の結果だと思っていたとしても、痛いんだから、「誤認」という言葉自体が矛盾しているというか、成立しないというか、ありえないんだけど。これって、現実の話で、形而上学的に遊んでいるわけじゃないんだけど、言葉の定義にこだわる人だったなあ…。

殴られたら痛いから、愛だと思ってても、つらいよ。
だから、ありえないよ、誤認なんて。

相当な誤解、って何だろうと思ったら、「愚か」という単語と「意図していない意味を読み取った」ということらしいんだけど、「どういう風に言葉が作用するか」まで考えたら、曲解でもなんでもなく、意図は組んでいたんだけどさ、わたしも。でも、まさか曲解、って言葉をこういう風に使うとは予測しなかった。
単に、自分の言ってることと違う、って意味で使う人いるんだな。
こっちは、論理的にこう読み取れるし、それは有害ですという話をしていたんだけどね。

これ、ずっと言われるんだけど、うちの六帖さんもそうだけど、物置に監禁されて、体重が三十キロ台になっても、愛されているから、って思って辛抱していたんだよね。そんで、まあ、逃げてからだけど暴力だよって私が教えなかったら、たぶん彼は死んでたと思う。
それをさ、必要性がないっていうの無責任じゃない?傷つくし怒るよ。
愛されている証拠だと思っても体重がそれだけ減って食べ物を与えられてなかったら死ぬから。
でも、ダテさんにとっては幸せなんだね。どうぞ、そういう目に合ってほしい、と思うけれど、でも、本人は「自分はそういう人に近づかないのでわからない」ときっぱり言ってるんだよね。
そして、今、この会話をしている最中に、どんどん、わたしに対して、すり寄るような態度をとるんだけど、これも適応だよね。
でも、適応をしていることに自分では気づかないらしい。自分に同じことが起きていても自覚できないんだから、DVに遭う素質はだいぶあると感じたけどね。

今答えましたよね、って言われてもさ、「うらやましいということ自体が、暴力の肯定になることはご理解されていますか?」という質問には答えてないんだよ。
なんで答えないのかなって思うと最悪な結論が導き出せて鬱になった。

理屈が理解できないんだよね。
言葉を置き換える、という概念もないから、「上から目線の支援」を「パターナリズム」と言い換えても、「使ってない言葉を使わないでください!」になってしまう。

加害者のしていることを受け入れている被害者をうらやましいと心底思っていたら、さっさと加害者を探して、自分もそういう目に遭ってたら幸せになれると思うのだけど、そうしないわけじゃない?だから、うらやましいというのは、本心じゃないんだよね。
だから、わたしは、これ、バカにしていると思ってるんだけど。被害者を。人間扱いしてない。感情も心も知性もあるんだよ。
それでも、人間関係も自尊心も財産も体も、価値観も破壊されているから、従うしか生き延びる方法がないわけ。
それを幸せですね、って言われたら、バカにされてると思うじゃない?
でも、バカにはしてないんだって。
どういうこっちゃ。自分はしたくないけど、幸せでうらやましいってあさましいと思うんだけど。

どう考えても、暴力受けていたら幸せじゃないし、うらやましくないじゃない?
それをうらやましいというのは、加害性がある行為なんだよ。

しかも、わたし、わざわざ当事者ですって名乗ったわけで。その意味も全く理解してないで、それを当事者にぶつける暴力を自覚しないまま、言葉の暴力になることを理解しないまま、続けるわけよ。

責任感が全くない。

これが、誤認と、適応、で意味違うというんだけど、当事者的にはそれ、わけられないよ、机上の空論だよ、分ける意味ねえし、有害だ。
現実なんだよ。暴力に遭っている人がこれを見ると、どういう気持ちになるか、さっぱりわからず書いているわけ。
誤認と適応の差なんてどうでもいい。誤認していてもきついものはきついし、それを感じる時点で死ぬから、感じないようにするし、適応だって同じだろうが。
適応はうらやましくないけど、誤認はうらやましい、って、人の命を何だと思ってるんだろう。たとえば、この人の言うように、完全に誤認状態の人がいたとしたら、その人は、さらに命の危険が迫っていて、より、緊急度が高いのに、そっちのほうがうらやましい。人なのか、人はこういう残虐なことを言えるのか、と思ったけど、自覚もないやねんな。


つらかったらうらやましくない、つらさを感じなかったらうらやましいって残酷だとしか言いようがない。
このへんで、だいぶ心がけずれて、しんどくなってた。

というか、つらかったほうが逃げやすいんだと思うんだけど。つらさを感じないでそのまま死ぬほうがいいってことになるんだけど。それもわからないねんな。

これ、意味不明だったんやけど、この人の言う一般論は「誰かを代表してモノを言うこと」であって「公共性の高い話題」については話していないつもりだから、DV被害者については語ってない、個人の話をしている、ってことらしいんだけど、個人についての話だったらより悪いんだよね。
だって、個人で生きている人を見捨てるだけじゃなくて、うらやましい、「わからないことがうらやましい」ってことになるんだから、人の尊厳とは、ってなった。

知識がないねんな…。だからわからないなら、話さないで放っておいてくれ、と書いたんだけど。
最初から認識が間違っていたらうらやましい、ってひどい。一度暴力だと気づいたらうらやましくない。
あと、適応、って言葉はこういう風に使わない。意識しようとしまいと、適応はある。ダテさんが、わたしにしていたように。

彼女、意識せず、わたしに適応しようとしてた。


使ってない言葉、ってなんかと思ったけど、使ってない言葉使ったら、議論してないという独自ルールがでてきて、困った。
読めるようにしか読まないし、意図と違うように読まれたくなければ、意図通りに読まれるように書く責任が、特に人の命に係わる場面では必要になると思う。だから、無責任だなと思った。

心が傷ついたらもうだめ、って意味不明化と思うんだけど、彼女は心が傷ついていない限り、何されていても幸せでうらやましいって発想だから……。何一つ伝わってない徒労。

暴力だと気が付いたら幸せじゃない。

って、読めるんだけど、そういうのにも、無頓着やね。

突然人のせいにしてるんだけど、この中のこれが、って話しているから、個別ケースじゃなく、一般性の高い話題にシフトしているんですよ、と指摘したものの通ぜず。

これが、さっきの「一般論とは代表してモノを言うこと」という独自の言葉の定義ですわ。これを読むまで意味が分からなかったのは当たり前だなと思ったけど、こういうひともいるねんな。はあ。

自分が意見を言うことに関しては、一般的な話題ではないとの主張である。


突然本筋でないところで謝ってきた。意味不明。
ここ、怒ってるわけじゃないんだけど。これが、処世術というやつなのかな…。よけいむかついたんだけどさ。

殴られている人は不幸だし、不幸な人をうらやましいというのは、普通馬鹿にして言う言葉だけど。暴力を暴力だと思わず本気で愛と思えるのうらやましいなら、やればいいじゃん。やりたくないなら、本心じゃないし、結局馬鹿にしているじゃん。分断してるじゃん。

暴力受けている時点でしんどいから。幸せに勘違いしている人はほっとけって、ほんと、冷たいし人の命を何だと思ってるんだと思う。
それに、気が付かない被害者と気が付いた被害者で分けるのは、被害者によって、支援の有無を変える思想だから、分断であり、有害だけど。

理解した瞬間しんどくなっても、死ぬよりはいいじゃん。

死ねっていうわけ?というのは、本当にそういう意味だった模様。
愛だと信じて暴力受け続けてたら寿命の前に死にますけど、って言ったら、それは考えてなかったんだって。
考えろや。としか思えぬ。

やるだけやったと思うのは勝手だけど、徒労だった。
まあ、不毛な対話でした。
今後は、気を付けます。
読んだ人、心が広くて素晴らしい。
わたし自身もよくやった。

とにかく、もう、この会話してから、鬱がひどい。生きていることに意味も価値もないという気分がぐるぐるしている。
こういう言説に出会うと消耗するね。

触らなければいいという人もいるだろうし、ほかにもっとわかる人に届けるようにしたほうがいいという人もいるけど、わたし当事者で感情もあるから、すべていい感じには振る舞えないんだよ。結果的にきずついてぐだぐだになったとしてもね。バカだから。

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参考に私が送ったリプライのせとくね。

超暇人向け。

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服を着る

服を着る、というのは表明だ。

自分が何者であるかということを示す。

パーソナルデザインで、客観的にみて、一番似合う服の選び方を学んだ。

それは必ずしも、わたしの好みと一致するわけではなかった。

しかし、扉が開いたと感じた。

コンプレックスをむき出しにされたと感じた。

隠したいのなら、自分で選べばよい、そうじゃないから、サービスを受けたのだ、と思い直した。

 

おしゃれは楽しいものだと長い間思えなかったのは自分に自信がなかったからだ。そんな自分をいい加減やめたかった。

 

鏡に写った自分は見慣れなかった。

知らないブランドの店をいくつも回っていくうちに、自分にふさわしいと思っていたものはちがったのだと感じ始めた。

 

布や縫製のよい服は、わたしの体を優しく包む。そういうことを知らなかった。店員は敵じゃなかった。

 

微笑んで、この服素敵ですね、と会話をすればいろいろなことを話してくれた。

 

 

そういうことも知らなかった。

 

 

様々な布や様々なパターン、色使い、質感、バランス、組合わせ。

 

 

それは冒険で戦いで、生きている感じがした。誰もわたしを見てないとしても、わたしがわたしを見ていた。

 

コンプレックスの部分だけを取り出してみていたのは、わたしだった。

 

わたしはコンプレックスから自分を許したくなった。

 

だから、服を着たい。

自分を好きになる、美しくみえる、今の不格好な自分を労る、服を着たい。

きれいで美しくて居心地のよいもの、色を塗った爪先や、ブレスレット、悲しくて辛いときに慰めてくれるものが、物質でもなんでもいいのだから、服だけを除外するのはやめたい。

 

 

自由になるために、学ぶのだから、服だって、やっぱりそうなのだ。

 

わたしは女の形をして、わたしでもあって、誰に何を思われても、やはりわたしで、どこにも逃げられない。

だから、逃げるのをやめて、堂々と、わたしでありたい。

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