反差別は共感を必要としない

“わかってほしいは乞食の心”という田中美津さんの言葉を読んで、その言っていることも分からないのに、感電したようだった。そのあと、ゆっくりと意味が立ち上ってきた。

「わかってほしい」と懇願すること。媚びること。その時点でまだ力の差が解消されていないということ。
わかってほしいための努力を一方がし続けるということ。
相手は、ずっと「いや、お前の説明ではわからない」「説明が不十分だ」「根拠は」「わからない」そういい続ければいい。
いくら丁寧に言葉を紡いでも、わからないのだ。わかりたくないのだ。わかりたくないから、永遠にわからないのだ、相手は。
なぜなら、この社会は、彼らにとって都合がいいものだから、手放したくないものばかりで、その手放したくないものは、被差別者が踏みにじられた上に成り立っているから。

わたしを駆り立てているものは怒りだ。

それは、“クソオス”と発言する人はフェミニストか。
このブログを読んだからだ。

社会制度の優位性に乗っていることに無自覚な《男性》を罵っても、性別としての差別をしたことにならない。
女性が男性を罵っても、社会制度を作り運営しているのが男性である以上、女性は男性を差別できない。
だから、クソオスといいながら、性差別に反対することは矛盾しない。権力差があるから。

共感は時として、反差別の邪魔になる。
「ああ、それ、おれもあったよ。よくあることだよね」「それって、あなたが親しみやすい・魅力的・思わせぶり、だからじゃない?」
「油断していたから悪いんじゃない?」
「もっと気を付ければよかったのにね」
「どうして騙されたの?」
「どうして逃げなかったの?」
「どうして、その男を選んだの?」
「どうして、その道をその時間に歩いてしまったの?」
全部、わたしが言われたことのあるセリフだ。
女性ならば、一回くらい、自分が言われたことはなくても、耳にしたことはあるんじゃないか。
被害に遭った人が「どうして」とかけられる言葉。
被害者は、被害に遭ったという自覚がないままの時でも、「どうして」「なぜ」の前に、おろおろして立ち尽くし、自分を責めていく。

わたしは、初めて、十歳の時に痴漢に遭った。電車に乗っていたらからだを擦りつけられた。
道を歩いていて、殴られ首を絞められ、羽交い絞めにされた。
セックスをしてくれ、お金を払うから、と言って、未成年のころ、付きまとわれた。
ストーキングされた。
レイプされた。
お金を盗られた。
脅迫された。
監禁された。
面接に出かけたら、女だから、この会社でできる仕事はない、と言われた。
結婚したら、仕事はどうするんですか、と聞かれた。
妊婦の時、男連れで、昼間に道を歩いていたら、わざと足をかけられそうになって警察に駆け込んだ。

そうした相手は全部男だったが、「男が社会を作っている」くらいのことを言うだけでも「たまたま」「偶然」「思い込みすぎ」と言われる。

全部の男がそうじゃないことをわかってほしいんです、と男たちは言う。
「男だって、そういう目に遭う可能性はある」と男たちは言う。

だったら、「その通り」の男たちに、何か言ってくれ、と思う。
彼らには、「その通り」な男たちが見えない。
そして、自分は「そうじゃない男だ」と思い込んでいる。
女が犯罪を起こす割合と、男が犯罪を起こす割合。
犯罪のほとんどは男が起こしている。

丁寧な言葉を使う余裕を持てと人は言う。

余裕。
例えば性別差別について、賃金格差が、正社員同士で比較しても、女の賃金は男の半分ほどももらえない現状で、生活を脅かされたまま持つ余裕とは何なのか。
年収一千万円を超す人間の男女の割合のいびつさを知っていて、そう言えるのだとしたら、無神経だ。
シャドウワークと言われているものすべて、ほとんどを女性が担っている、それに費やす労力自体がハンデなのに、「そのハンデがあるから、男性と同じ賃金は上げられない」と言われる理不尽さを肌で感じていてもか。
人が一人生きるのにかかるお金は変わらないだろうに、わたしたちは、「違う」といわれて生きてきた。

社会制度を決定する場に女性は本当に限られた人数しかおらず、その人たちも男たちから足を引っ張られている。
政治家でも「家庭との両立は?」と聞かれるのは女だけだ。
いちいち「美しすぎるなんとか」と容姿をとりだたされる。それも女ばかり。

へりくだり恭順の姿勢を見せ、腹を出すのが余裕ならば、そんな余裕はいらない。
あなたの脅威にはなりませんよと、常に言って、相手の機嫌を取るようなことはしない。

わたしが、ひどい目に合うのは、女だからだ。高校生の時に、進路で悩んでいるときに「女は出産するから、会社がとるメリットはないよね」と男性の同級生が言ったのは、「どんなに勉強しても、男にはかなわない」と男性教師が言ったのは、わたしが女だからだ。
出席名簿が、混合になる前、男子から先に名が呼ばれ、女が後回しにされた。「そんなこと、合理的な区別だから、差別じゃない」そう言われて、女は片づけをし、男は外に遊びに行った。

女とは何か。
まんこがあることか。子宮があることか。卵巣があることか。子を産めることか。心が女ということで、女か。男を愛せば、自他ともに女と認めていれば、女か。

わたしは、腹を裂き、子宮から赤子を取り出し、今も文字通り乳飲み子を抱えながら、この記事を書いている。
女というなら、わたしはまごうことなく女だろう。
そう、わたしは女という名をもつ。
誰もがわたしを女と呼ぶだろう。母親と呼ばれ、妻と呼ばれ、誰かの娘と呼ばれる。そして、わたしは役割の中に本当の名を失っていく。

わたしは、自分が女だということで不利益を感じて、知ったときからずっと怒っている。
女が立ち働き、男が飲み、くだをまく正月に。
子供だからと、反応を面白がって、嫌がってもくすぐり続けるおっさんに。

わたしは、ずっと最初から怒っていた。
だから、自分のために学んだ。本を読んだ。
怖いと言われても、変わっているといわれても、生意気だと言われても、絶対に怒っていた。
わたしは、今だって怒っている。
怒らないと伝わらない。
高校生の時に「女を雇ってもメリットがない」と男性に言われて、わたしは丁寧に抗弁した。
しかし、まったく通じなかった。
そこに問題があるとは思われなかった。「合理的でしょ。女が出産して育てて、それで世の中回っているのだから」と。
穏やかに言っても、強く言っても、どうせ通じないのならば、自分で自分の表現を自分の好きなように、コントロールするほうがどれほどましか。それは、自分の軸となる。
それでも「まし」という程度にしかならない。

わたしは、自分の怒りを理解するために、生きるために、生きるための武器を磨くために、防具をそろえるために、フェミニズムを学んだ。なじめないフェミニズム、なじめるフェミニズム、いろいろなフェミニズムがあった。
わたしの胸を打ったのは、素朴なウーマンリブだった。学問ではなく、声の言葉をまとめて、戦った女たち。

わたしは興味を持っていただくために、へりくだって、声をあげたくない。
いつだって、自分本位、自分のためだけに、戦いたいと願ってきた。その願いがどれだけ反故になっても。

それが自分を尊重するということだからだ。
わたしは、自分を尊重する。
わたしは、わたしの怒りを尊重する。
わたしの怒りの期限、「いつまで怒っているの?もう忘れたら」という言葉に耳を貸さない。
わたしの怒りはわたしのものだ。わたしの言葉はわたしのものだ。
「もっとスマートな方法があるんじゃない?人を集めるような」そういうものは必要ない。

フェミニズムは、他のひとに共感されるためにある訳じゃない。
反差別は共感を必要としない。
尊重されるために、お情けはいらない。
当然あるべきものを取り返すだけだ。
堂々としていたい。
共感されるためにどうこうとは、下に虐げられたことを受け入れる恭順の姿勢だ。わたしは絶対嫌だ。

わたしは怒っている理由も、その怒りの期限も、行く末も、表現方法も、全部自分でコントロールする。
それが、自分を尊重するということだから。
他のひとに伝えるためにフェミニズムをやってない。
全部全部自分のため。
媚びてなんとかなるものか。
媚びなくてはならないことが怒りなのだ。

反差別は、「おまえが認識していないで済んでいる問題があると認め、理解しろ」ということから始まる。
そこには、共感は必要ない。
共感とは、自分が理解できる、つまり、自分の立場を破壊しない「被差別者」を選別するためのもの。
怒りは、社会を変革する力だ。
自分たちがメリットを享受しているものを、壊すことを恐れるものは、「共感したい」という。
共感できるものを探す。
そして、社会を変革しないで済む範囲でだけ、差別をなくしました、という表現をする。
でもそれだけだ。
それがマジョリティにとって安全だからだ。
自分たちの既得権益を失わないまま、人道的なふりができるから。

怒り、悲しみ、非生産的だと言われ続けてきた、感情的、生々しい、生理的なもの。
反差別に、理屈は必要か?
人が生きるために、心、体、思考、感情、何か一つ欠けてもならない。
生々しい、実際に生きている、血の流れるこの体が、あるということ。それだけが必要だ。たとえ殺されたとしても。
殺されるということが大げさだと言われようと、殺されかかりながら生きながらえてきた、それがわたし。
殺される危険と生きること、そのほかの合わなくて良いことに遭うということが差別。

反差別に共感は必要ない。

ベシー占い 占い承ります。


こんにちは赤ちゃん

予定日、一週間超え、四十時間の陣痛の末、帝王切開で赤ちゃんが生まれました。
よく頑張ってくれた!

陣痛中は、赤ちゃんも苦しいんだって。

こんな幸せで、かわいいものを見られて、世話もできて、素晴らしい。

痛み止めが切れたときに、おセンチになって、「母親に会わせなくては」と思ったけど、痛み止めが効いてからは、「なんで、気も合わないしひどいことした人に気を使わないといけないねん、自業自得やんか。そもそも、赤ちゃん見たいかどうかもわからんし」と現実に戻ったので痛み止めは偉大。
医学、科学、万歳。

ところで、

君はいい子
という文章があって、何度読んでも泣いてしまう。

最後は、お母さんが振り絞った最後の気力によって、道が開かれていくのだけれど……。
このお母さんのほかにも無数のお母さんがいるんだろうな、と思う。

親の技量にすべてがゆだねられるのではなく、社会の仕組みが、大切だ。

相談しやすい、相談するのが当たり前、というような、家庭を閉ざさない社会的な工夫が本当に必要だ。

今度、わたしのところには、助産師さんが家庭訪問してくれる。
もしも、予約して、わたしが行くというシステムだったら、あきらめているかもしれない。
でも、来てくれたら、家の状態もわかってもらえるし、リラックスしやすい。
一度話したら、また、話しやすい。
行政とつながる工夫をしていくことって、本当に大切。
これだけで、全部解決とはいかないし、あのお母さんも、学校を通して、社会とつながっていたけど、警察に電話をするまで、助けが来なかった。
だから、いろいろな人と関わることが大切だけど、困難な子を持つ人ほど、その余裕がない。
家庭は閉ざされたら地獄になる。

わたしは、幸い、ASDと双極性障害のおかげで、普段から福祉に慣れている。でも、みんなが身近に、そういうものを利用できたらもっといいなと思う。

赤ちゃんを、死なせないで育てるのが目標です。

ベシー占い 占い承ります。


社会のルールが平等じゃない

わたしは、女性が男性と同じように働くべきだとは思ってない。

なぜかというと、この社会は男のルールでできているから、女性には最初から不利だ。
それを「男女は不平等だ」という言い方をする人もいる。現実を見ろとか、現実を教えろという人もいる。
現実を追認するのと、現実に対応しながら、変革を試みるのは違っていると思っていて、わたしはできるならば後者でありたい。

女性が、男性と同じように働くには「頑張る」必要がある。
その時点で、同じ土俵に立てていない。見えない天井も壁もある。女性の下で働きたくないだとか、女性には出世の道がないだとか。ベンチャー企業に勤めた女性がいるのだけど、彼女は同じように働いている同期の男性と、二年で給料に差がついていたといっていた。

それもそうだし、女性には、出産に関わるコストがかかる。働く前から「あなたはいずれ出産しますよね?」と言われる。
出産するしないに関わらず、月経があり、月経は人によって、動けないくらい体調不良を招く。それがもともとない人間と同じようには働けない。
だから「男のほうが優れている」という風な結論を導き出す人も多い。
人類が滅亡しようとなんだろうと、どうでもいいんだけど、「人手」というものは、どこかの女性が十歳前後から血を流しながら体の準備をして、四十週吐きながら体の中で育成して、死にそうになりながら、産みだした誰かなのだけど、そこのところは見ない人がいますよね。フリーライダー。

だから、わたしは男性と同じように働くことはしないし、あきらめてもいる。

男のルールの社会は、たくさん人が死ぬし、人が生まれにくくなるし、育ちにくくなる。それはおかしいんじゃないの?と思う。

つわりがひどい間、「この間、普通、産休取れないんだよね、耐えられない人は、仕事をやめるしかなく、そして、出産を機にやめた人は、ほとんど、パートにしかなれないんだよね」という暗澹たる気持ちになった。母親がしんどい時、父親になる人の睾丸が同期して腫れ上がるとかになればいいのにね。

ベシー占い 占い承ります。


偽医学にご用心

薬は体に悪いという人がいる。
しかし、病気は健康に悪い。
当たり前だ。
薬で病気の症状が軽減できたら、その分、楽に休むことができる。
根本的な治療にこだわる人がいる。
たとえば、わたしはアトピーで皮膚がボロボロだ。
ステロイドを適切に使えば、亜鉛軟膏を使えば、傷は早く治る。そうすると、感染症から身を守れる。
生活の質も上がる。でも、それを許せない人もいる。

皮膚がボロボロで傷だらけで、バリアーの役を果たせず、痛みやかゆみがあるなら、それを取り除くのが先だ。
体質は変わるかどうかわからない。

でも、根本的に体質を変えろと言ってくる人がいる。
健康的な人には信じられないかもしれないが、根治しにくい病気を持っていると、ハイエナのように、新興宗教やマルチに勧誘される。最初はただで渡される。良いでしょ、薬や病院に頼ると、体の力が失われるの、根本的に治さないと。
一時的に悪くなっても、それは好転反応。幸せになりたいよね?

うちの母は、自然なものにこだわって、洗濯も粉石けんに変えた。そのせいで、洗濯物にはカビが生え、アレルギーは悪化した。
一人暮らしになってから、精神的にも肉体的にも、ずっと楽になった。
アレルギー物質を除去するために、一日エアコンをつけ、空気の出入りを減らし、乾燥機をかけ、ハウスダストを減らすためにこまめな掃除をする。それが自分でコントロールできるのは素晴らしい。

サプリも漢方も、副作用がないと勧めてくる人がいる。
副作用があるかないか、それは、調べてないから、わからない。わからないから、ないってことになってる。そういうことだと思う。
普通、効用のあるものには、副作用があるものがほとんどだ。それが普通だ。効き目のほうが、副作用より、益があるから、使える。
副作用があるとわかっているものは、医者がコントロールできるということだ。

漢方外来に行ったら、牛乳をやめて、肉食もやめろと言われた。
藁にもすがる思いで行ったので、しばらく気になった。
でも、アレルゲンでないものを除去する理由はないと結論した。
もし、牛乳をやめて、アトピーが治るなら、もう、そういう調査や研究が行われているだろうし、でも、そういう発表を聞いたことがない。
その人は、日本人は肉も牛乳も食べてこなかったから、体質に合わない、だから、肌が鮫肌になる、と主張してきた。
でも、縄文時代に、日本人は肉を食べていたはずだし、平安時代には牛乳があった。言っていることが無茶苦茶だ。
ようするに、根拠がない。思い込みだ。
食べたことがないものだから駄目なのだったら、お茶もだめだろうし、コーヒーもだめだろうし。
牛乳や肉は、栄養が豊富だ。それを捨てるメリットが「一年後にアトピーが良くなるかもしれない」ということだけだ。
その間悪くなったとしても「好転反応だ」と言われる可能性もある。
責任を取ってもらえない。痛いのもかゆいのも自分だ。

関係ないことなのに、母親と仲良くしろ、どうして、距離を置いているのだ、と言われたこともドクハラだと思った。

そんなことまで、どうして言われないといけないのか。
精神疾患や、自閉症だということも伝えた。摂食障害があることも伝えた。なのに、それらは考慮されなかった。

以前、中国に東洋医学を学びに、留学した西洋医学の医者にかかっていたことがある。
その医者は、「あれもだめ、これもだめ、と言っていたら、食べるものがなくなっちゃう。水も飲めなくなる。だから、バランスよく、いろいろなものを食べて、一つのものを食べることのリスクを減らすことが大事」ということを言ってくれた。
わたしは、そのころ、ほかの漢方薬局に「医食同源。あれを食べるのは体を冷やす。これは炎症を強める」など言われて、食べるのが怖くなっていた。

新聞広告の「この病気にはこれがきく」みたいに書かれている病気になると、いろいろな人が、寄ってくる。
そういう病気は、治りにくい。だから、カモになる。
医者にかかっていると治らないと、その人たちは言ってくる。
でも、耳を貸したら、いけない。
もし、効き目があるなら、標準医療になっているはず。
そこまで、医療は人が悪くない。医者は基本的には、人を助けたいと思っているはず。
相性の悪い医者だったら、逃げる。
元気なうちに、相性のいい医者を探しておく。
弱っていると逃げられない。

注 漢方もサプリも、医者に相談しながら使ってます。
使いようで効き目がないわけじゃないので、うまくつきあいたいですね。
基本は標準医療がいいと思います。
個人的な考えで、医者じゃないので、わたしのいうことも鵜呑みにしないでほしいです。

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菅野完さんの性暴力疑惑に関わる話

わたしをゴヒエツコさんが利用し、世論をコントロールし、菅野さんを社会的に抹殺する計画を実行させるように、教唆した経緯

下記の記事には、いかに、ゴヒエツコさんたちとのグループチャットがあります。
ゴヒエツコさんと、その支援者とのグループチャット

去年、ゴヒエツコさんに、依頼されて、週刊金曜日の記事のスクショを張った記事を書いてから一年たつ。
彼女の言うことを鵜呑みにして、彼女の望む記事を書き、世論を操作した。
その後、彼女は、性暴力サバイバーのわたしの心情を利用して使い捨てにしたことが分かり、わたしは、怒った。
それで、ことの顛末を明らかにし、菅野さんに謝った。

ゴヒエツコさんに、嫌がらせをされ、はてなを去ることになり、わたしは、もっていた影響力を失った。
わたしは、以前のように、たくさんの人に届ける言葉の力がない。

著作権を無視したととられ、その面での信頼も失った。
背後関係を調べず、言われるままに書いた記事のせいで、裁判に、悪い影響を与えた。
菅野さんに謝ったり、ツイッターでフォローしたりしたことで、「性暴力をした男とかかわっている」と見られて、その面でも信頼を失ったと思う。
今はTwitterのフォローも外した。

わたしは、彼が性暴力加害者かどうかわからない。
一年間、対話して、彼はわたしにとって、悪い人じゃない、ということを感じただけだ。
謝罪を受け入れてくれ、自分の思うことを語ってくれた。
彼は右翼だ。でも、反差別でもある。そのへんの話も伺うことができた。
わたしにとっては、天皇制を支持することと、反差別は矛盾と感じられたから、その整合性について、彼の思うことは勉強になった。
正直、左翼の「反差別」と言っていることの中に、「女性差別」についての問題意識が入っていなかったり、反差別というだけで、実際に何をしているのか不明瞭な人々に不信感も持っていたころだったから、そのあたりの話ができて面白かった。

ゴヒエツコさんは、わたしにこう言った。

自己評価低いからこそ、あんな素晴らしい文章が書けるのではないでしょうか?自己肯定感溢れまくってる私には到底無理です。

この言葉はわたしの心を折った。

わたしは、こう答えた。

“いろいろな被害を受けて自己評価低いと分析してるのでそれを素晴らしいといわらると、傷つけられたことが素晴らしいになってしまうので、
そうするとなんのためにがんばったのかわからなくなります

ゴヒエツコさんは、苦しむわたしに関係なく、終始軽い調子であった。
わたしの訴えを無視して、ゴヒエツコさんは結局、わたしとの対話を拒否した。
だから、彼女の考えていることはまったくわからない。
ただ、裁判の結果を、世論をコントロールして、変えることはおかしいと思ったし、もし、そうしたかったとしても、自分は隠れて、他人である性暴力サバイバーを利用して、使ったことは、間違っている。

週刊金曜日の書いた記事の名前が「うんこ.pdf」だったこと、菅野氏を週刊金曜日が「うんこ」と呼んでいたことは、メディアとして、間違っていると思う。

わたしは、性暴力サバイバーとして、ほかの性暴力被害者が、困っていると聞いたら、できることをしてあげたいと思った。
それで、自分に無理をさせすぎた。
わたしの判断は間違っていた。

とはいえ、わたしは、この事件について、何も知ることはできない。
一年たった。
わたしは、これで、疲れてしまった。

何があったのか、わたしには知ることができない。何が本当で、何が嘘かもわからない。
以前、裁判をしたことがあるから、裁判は、本当のことを明らかにする場ではないことを、もう、知っている。あれは、お互いの利害調整の場であって、真実を明らかにする場ではない。
だから、わたしは、判決が出ても、なにもわからない。
争いがないのは「菅野氏が抱き着いた」ということだ。
ほかのことは、なかったということだ。
抱き着いたことも性暴力だとは思う。
だけど……。わたしに起きたことを考えると、ゴヒエツコさんは、わたしにもっと配慮してくれてもよかったと思う。
それぐらいで、というつもりはない。
でも、彼女を支えようとしたわたしは、レイプと、暴行と、軟禁の被害者だったのだ。
PTSDとフラッシュバックに苦しみながら、彼女と関わり、そして、ぶつりと対話を切られた。

本当は、関わるべきじゃなかった。
でも、向こうからトラブルはやってきた。
そして、トラブルを大きくしてしまった。反省している。
むやみに、関わってはいけないと学んだ。

でも、また、性暴力被害者が現れたら?
わたしはどうするだろうか。
きっと、できることをしたいと思うだろう。話を聞くだけでも。
ただ、慎重にはなるだろう。
それでも、できることを探すだろう。

無力だなと思う。

追記:
今日、判決が出たようだ。

これをいうことで、わたしの立場は全くよくならない。
また、わたしは、人の信頼を失うだろう。
きっと、不愉快に思われるだろう。ブロックもされるだろう。
でも、わたしには、これを書く理由がある。わたしは、ゴヒエツコ氏に、わたしの弱いところを利用された。

ゴヒエツコ氏は、わたしを利用し、わたしを傷つけた加害者だ。
わたしは、そのころ、元DV夫にまた裁判を起こされ、会社でパワハラを受け、ほかにもう一つトラブルを抱えていた。
実家との関係が急激に悪化していた。
精神科に通い、カウンセリングを受けていた。記事を書いた時もフラッシュバックや乖離、別人格も出てきた。
それを彼女は承知で、わたしを利用した。
人倫にもとる。

言っちゃうと、わたしの性被害を利用したゴヒエツコ氏は、わたしにセカンドレイプをしたわけだ。
わたしが、苦しむのを承知して、わたしの経験を利用して、わたしの具合を悪くさせ、そして、とんずらしたから。
その彼女が、セカンドレイプされたくない、と言っているのは、わたしから見ると、どうかと思う。

人は、情報をコントロールされると、行動をコントロールされる。
わたしもそうだ。
だから、これを読むあなたも、慎重になってほしい。
情報を流すもの、メディアには、何か意図がある。そういうこともある。

さらに追記:

【復元】菅野完氏の「性的暴行」を報じた『週刊金曜日』のステマ疑惑 #週刊金曜日 #中島岳志
ここに詳細がありますが、

(一人だと危険そうであれば複数人)に最初ツイートをお願いし、フェミの方たち同士で根回しをして頂き、スクショを各自のツイートで使って頂けないか
その第一波を受け、第二波の方々に拡散のご協力を頂く
後追い記事で、複数媒体が動ける体制を整えてくれており、金曜日も第二弾、第三弾と続ける予定です。

 さらにゴヒエツコ @etsugohi とゆかいな仲間たちとその失礼には、計画の「第一波」に協力する具体的な人物名も。

その第一波を受け、第二波の方々に拡散のご協力を頂くのが見え方として自然かと思います。第一波に濁山さんも入ってます。中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方にご協力頂く予定です。

ここに挙げられた人たちは、人に頼まれて、世論をコントロールするために、意見をいう人たちです。

特にいとうせいこうさん、X氏と結婚したといううわさがあります。

ツイッターで見ただけだから、本当かは知らないけど。

『週刊金曜日』、記事の信憑性が怪しくなってきた
ここには、ゴヒエツコ氏が嘘をついていて、それに基づいて書かれた週刊金曜日の記事の信ぴょう性は怪しいのではないか、それとも週刊金曜日が、嘘をついているかという取材に基づいた検証が載っています。

三浦弁護士の記事
菅野完氏の民事訴訟についてのお知らせ

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やだなと思うことからちょっとだけ気をそらす

人と関わる仕事は、自分のペースでしにくいし、割も合わないと思うことがあるんだけど、そうして知り合って、長く続く付き合いになることもあるから、投資でするつもりで、「やだなー」と思う気持ちをそらすことができる。

別に本当に後で役に立たなくてもいいんだけど、今、この場で、やだなーと思う気持ちをそらせればそれでいい、という場面は多い。

死にたいと思う気持ちを解決しなくても、そらしているうちに、時間がたてば、忘れるみたいなもので。
解決しなきゃ、と思うと、集中してしまうから、問題が重くなる。
それよりも、気をそらして、問題に関わらないようにしながら、ほかのことをやるテクニックもだいぶ必要だ。

教える仕事は、人を育てる仕事でもある。
昨日、わたしは、有名にもならないし、歴史にも名を遺すことなく死ぬんだろうな、と思った後、でも、普通の人生を送れ得るから、わたしとしては、だいぶいいんじゃない?と思えてうれしかった。
人を育てるといっても、わたしが関わった子たちは、みんな、きっと歴史に名を遺すことなく、有名にもならず、一生を送ることになる人たちがほとんどだろう。
でも、わたしが伝えたことで、人生がちょっとでも彩られたり、困ったときに頼る先を増やせていたりしていたらいいと思う。

中高生というのは、どんなに社交的でも、勉強ができても、やっぱりきつい時代だなと思う。
生徒に、高校生に戻りたいか聞かれると、絶対ヤダ、あれは二回もしたくない、それで今の人生がもっと良くなるとしてもヤダ、というと、彼らはちょっとほっとした顔をする。

別に、やだなという気持ちを共感しあったところで、問題は解決しないことのほうが多いんだけど、お互いにあれはヤダ、とか言っている間に、気持ちがそれて、別のことができるようになる。
それは、とっても生産的だ。問題を解決しなければならぬ!と思って時間を無駄にするほうがよっぽど馬鹿らしい。
別に生鮮的である必要もないしね。

子供を産む以上に生産する仕事はないと思うけど、男社会の中では、子供を産むことでその間仕事ができないというのは、生産的じゃない!って価値観がある。
ばかばかしい。
そんな人為的なもので、精神を引き裂かれるなんて、まっぴらだ。

もっともわかりやすい問題でも、こんなの、解決なんてしなくていい、と思う。
産みたいから産むし、生産的かどうかなんて知るかと思うし、国のために産むわけじゃないし、子供のためでもなく、わたしのエゴで産む。それでいいし、それ以外のことも、わたしのエゴ。エゴを満たして幸せになるんだ。

男社会の問題が解決する前に、わたしはたぶん寿命が来る。
その間に少しでも、男社会はばかばかしい、ってのを周知したい。

男のルールでできた試合場で命がけで戦うのはバカだ、でも、現実的にはお金も稼がないといけないしそうすると男社会のルールもわかってないといけないね、というののバランスはとらないといけないから、女の子にも男の子にも、子供たちにはサバイバルの方法を伝えたい。

問題に近づきながら、核心に踏み込みながら、でも、飲み込まれないで、気をそらしながら、自分の生活とのバランスをとって、わたしのルールで生きていきたいよ。

男から降りました、って言っても、単に、稼ぐだけの人生をやめただけだったり、お前全然ジェンダーロールから降りてないじゃねえか、ってこともたくさんあって、いらいらもする。
ロジカルシンキング男なんか、本当にくそだ。前提の知識が間違っているのを、ロジカルに結びつけても、間違った結論しか導き出さないのに、俺は賢い、とのたまうのを見ると、言葉が通じねえ、と無力感にさいなまれる。

自分の子供を、「人材」なんて呼ばれて、使い捨てにされる未来を幻視すると、めまいがする。そんなことのために、爆発しそうな腹を抱えて、つわりを耐えているわけじゃねえ。

行き詰まっているのに、既得権益があると、文句を言いつつ降りられない。
でも、やっぱり、変わらないといけないね。
時間は動いているし、人間は増えたり減ったりしているから。

まともに、世界のつらさを見てしまうと、生きていることもできなくなってしまうから、ちょっとだけ、のぞき見ながら、目をそらしながら、気をそらしながら、でも、真ん中の部分は間違えないように、心の中を点検しながら生きていかないとなと思う。

たいていのことはばかばかしい。
ばかばかしいことが本質だ。
ばかばかしいことに振り回されて、消耗して、死にそうになる。
死なないように生きていきたい、そう思う、生きていきたい動機がまだ見えないけど。

ベシー占い 占い承ります。


気分障害は厄介だ、突然死にたくなる

今日はとても楽しかった。
楽しい気分でいた。お香を焚こうと思ってライターに手を伸ばしたら、「死にたい」という気分になった。
それは、まったく何の脈絡もなかった。
こういうときは「死にたい気分」とわたしの人格は切り離せる。
あんまり脈絡がないから、わかりやすい。
でも、何か出来事があり、動揺している隙に、忍び寄る感情に対して無防備な場合があり、そういうときには、気分と自分を切り離すのに苦労する。
さっきは、突然の死にたさ、悲しみに押し流されることはなくて、そういう人がやってきたから、追い返すこともできないけど、入ればいい、でも相手はしない、という対応ができた。

いつもそうだといいんだけどね。

気分障害というのは、そういう病気で、厄介だ。
自分で自分をコントロールできない。気分がやってきて、わたしをめちゃくちゃにする。
気分の力は強い。気分がわたしをどうにかしている間、自分が人形になったような気がする。
でも、乖離するのも、危険が多いから、気分をごまかしながら、自分のしたいこと、本当の気持ちを探ることを続けないといけない。
気分障害がなかったら、こんなことしなくてもすむから、楽だろうな、と思うけれど、気分障害じゃない人は、楽だということも気が付かないだろう。だって、困ってないからね。

ベシー占い 占い承ります。


お金の支配

父が出て行ったあと、婚姻費用も養育費ももらっていたから、金銭的には困っていなかったはずだが、お金に関して常に重苦しい気持ちでいた。

母は家にいて、わたしたちを監視するような子育てに没頭していた。
そのころあった新興宗教やコミューンの名前とほとんど遭遇していた。だから、今でも、自然食品とか、健康のために何とかというのは、苦手意識がある。新興宗教に入ることもなかったし、コミューンに入ることも、運良くなかったけれど、それによる被害はあった。

自分たちに愛情のない人が払っているお金で暮らすというのは、精神的につらいもので、物理的な制約はなくとも、一緒に暮らしていた時から気分屋だった人の気分を損ねたらどうなるのかと思うと、たまに会うことも矯正のように感じられ、逆らうこともできなかった。いわゆる面会交流のようなものだと思うが、会った後には、じんましんと高熱が出て、三日は学校を休んだ。
ストレスで自律神経もおかしくなったし、学校で倒れることもよくあった。
でも、拒否すると、暮らしていけないのではないかと思ってできなかった。

そういう経験をすれば、早く働きたいと思うものだと思うが、わたしは働くのが遅かった。
お金がどこからか、何もしなくても、入ってくるという生活をしていたので、お金のというものが人を支配することは知っていても、自分で稼いだら自由になるのだ、ということに結びつかなかった。

働こうと思ったのは、知り合いのおじさんが「親が死んだら、食っていけなくなるだろう」と言ってくれたおかげで、それでようやくお金と自分が結びついた。

働いてお金をもらうということを見て学ばないとわからないタイプだったようだった。
それからは、働くことに必死だった。

自分でお金を使うとほしいものが手に入るという単純さにひかれて買い物をしまくった。
依存症になってしまった。
今もまだそういう傾向がある。
自分で自分をコントロールできないというのは、恐ろしいものだ。
自分の意思で止められない、かといって、人に言われた言葉でどうすることもできない。
具体的な支援が必要だった。そして、支援とつながった。

家族ではない、行政に支えられるというのは、なんと気楽なのだろう。
愛という名の支配に、顔色を窺って、奴隷にならなくて済むのだ。

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加齢の変化の美しさ

若いころ、わたしは、野山の美しさはわかっても、年取った人の美しさに鈍かったような気がする。

老犬を介護して、くさくてよれよれでも、今日も生きてくれたとうれしかった日々、祖父を介護して、ポータブルトイレの臭さを紛らわせるために線香に火をつけた日々、そういうことが、積み重なって、少しずつ、見えてきたものがあると思う。

わたしは、よく昔のことを、自動的に思い出す。思い出そうと思うから思い出すんじゃなくて、ふと、日常に映像が紛れ込む。
それによって、苦しかったりうれしかったりする。
祖母と一緒にまんじゅうを作ったときのことを思い出すとうれしい、原家族のことを思い出すと苦しい。

わたしは、比喩ではなくて、傷だらけだ。年も取ったし、太った。
ちょっと前まで、常に自分を醜いと思う心と戦っていた。
今も、たいていは戦っているのだけど、ふと、いや、でも、傷だらけで、シミだらけで、太っていて、年も取ったけど、美しいのでは?と思うことがある。

以前は太っている人を見ると、太っているなあ、とただ思っていたけれど、人を知ると、この人の笑顔は素晴らしいな、とか、動き方がきれいだな、とか、そういうほうに目が行くようになった。

若くてきれいな子供をたくさん見る職業だからか、若くてきれいな子供は素晴らしい、でも、それをずっと維持するために生きるのはばかばかしい、まるでロリコンだ、という風に思うようになった。
年を取れば、傷もつくし、肌も衰えるし、体も変わる。
でも、それが美しくなくて、醜いのかというとそうじゃないと思う。
化粧も髪も完ぺきにしている美しさもある、でも、完ぺきじゃなくてもほどほどに自分を慈しんでいる美しさもある。

美しいと感じるものの幅が増えて、種類が増えた。
そういう目で、自分を改めてみると、そう、悪くはない、むしろ、よい部分もあるんじゃないか……、と精神的に余裕があるときは思える。
具合が悪い時は思えない。そういうバロメーターみたいに思う。

そろそろ、赤ちゃんに会いたいから、早く出ておいで、と声をかけると、動いて返事をしてくれるかのようだけど、まだまだ、出てきてくれないようだ。
もう少しおなかにいたいという強い意志を感じる。

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わたしの住んでいる街、長野

たいていの人にはどうでもいいと思うのだけど、わたしが住んでいるのは長野市だ。

長野市は、長野オリンピック以降、借金の返済に追われ、全国でも有数な高い税金を誇っている。もちろん、今でもそうだ。
ひいひい言いながら、税金を払っている。
その代わり、福祉と教育には、お金をかけていた。
今は、少子高齢化、というよりも、人口減に悩んでいる。
やっと、借金返済のめどが立ってきたのに、人口減のため、公共サービスの継続が難しくなるのだ。
手始めに、水道料金が値上がりする。水道には、管理や設備投資がいるのだ。

ところが、出生率は、平成十七年から、増加し続けていて、平成27年の今年は、なんと出生率が1.55にまで上がった。
わたしも今年産むが、長野市の手当ては、たいしたもので、妊娠の間には、ほとんどお金がかからなかった。すべてが補助金で済んだといっても過言ではない。
出産費用も、ほとんどが、補助金でカバーされるので、自費で払う金額は少ない。
優待もたくさんある。保育所にかかる金額も、少ない。保育所も、たくさんある。
民進党と、共産党が強い土地柄でもある。保守的ではない。
共稼ぎがほとんどなので、ゼロ歳児保育をするといっても、何か言ってくる人もほとんどいない。

福祉の充実ぶりは、驚嘆に値する。国保で障碍者だと、医療費が、ほとんどただになる。月に、500円払えばいい。
それは、長野市独自でしている制度だ。他県にはないことに驚いた。
市役所も、とても、親切で、総合案内のお姉さんに、「こういうことで困っている」というと、適切なところまで案内してくれる。そして、一回座れば、次から次へと、職員さんがやってきて、手続きと説明をしてくれる。
わたしたちが、移動する必要がないのだ。
障害福祉課は、非常に親切だ。どういうサービスが受けられるか、どうやって生活を立て直すか、教えてくれる。
ほかの自治体では、自分で調べて、こういうのをお願いしますといわないと、存在も教えてもらえなかったような制度も、向こうから教えてくれ、手続きを進めてくれる。

この前、タクシーに乗ったら、女性の運転手さんが、「うちは、事実婚なんだけど、事実婚届けがあって、それを出すといいわよ」と教えてくれた。
ネットでググっても出てこないが、今度、聞いてみようと思う。

十年前、長野市は、ゴーストタウン化した。しかし、今は、だいぶ活気が増えてきた。

映画館も三つあり、そのうちの一つは会社ができてから120年続いている。
本屋さんも、数は減ったが、まだある。それぞれ個性を売り出している。
松本市には、ブックカフェの文化が盛んだそうだ。

週末には、音楽フェスがよく行われている。ジャズ、ロック、邦楽、伝統的なお囃子など。
公共の場所で、ビアガーデンが行われる。
外でちょっと遊んだり、飲んだり、食べたりする場所がまだある。
東京では、空気を吸うのにも、座るのにもお金がかかる感じだったけれど、ベンチがそこらへんにあるので、座って、のんびり山を眺めたり、花を見たりすることができる。
夕方には、定時で帰る人たちでいっぱいだ。街中を歩くのも楽しい。
ただし、夜は早くて、十時には居酒屋は閉店する。土日も休みだ。

地域医療も盛んで、田舎でも総合病院が頑張っている。佐久総合病院というところが、戦後から、地域医療に力を入れてきた歴史がある。有名な医師に、若月先生という方がいる。

生活指導を医師や、保健師さんが一生懸命行っているから、寿命も長い。ぴんぴんころり地蔵、というのがある。その名前を聞くと、他県の人はぎょっとするようだが、長野の人は、そこにお参りする。長生きはしても、ぴんぴんしていて、ころっと死ねるのが理想なのだ。

昔、姨捨ということがあった。姨捨山という地名の場所がある。実際に行くと、少し恐ろしい感じのするところだ。
長野は貧しかった。長野が変わったのは、生糸産業で、日本の三分の一の海外輸出のお金を稼げるようになってからだ。
今では、教育県ではないと自嘲的に語られるけれど、やっぱり、教育をさせようとする意欲はまだまだ高いと感じる。
進学率は、そんなに高くはないけれど、一人一人の学力が高いと感じることが多い。

長野県には、在日韓国人がたくさん住んでいる。それは、戦中に、地下防空壕を作るために、たくさんの人たちを連れてきたからだ。
天皇家を住まわせ、首都機能を地下に移動させる計画があった。
たくさんの人が使役され、死んでいった。
そういう歴史もある。
今でも、レタスなどに関して、人身売買が行われているという現実もある。

観光地として有名だが、観光地というのは、景気に左右される。
景気が良ければ、お客さんが来るが、悪くなれば来なくなるし、飽きられるということもある。
最近は、外国からのお客さんが多い。
地獄谷のサルの写真が、全世界で有名になったために、アジアからも、北欧からも、本当に世界中から人が来る。この前、道を聞かれて、どこから来たのか尋ねたら、ポーランドだと言われて、本当に驚いた。
ムスリムの人も、よく見るようになった。
おやきが有名だが、外国の人には、食べにくいということで、おやきをつぶして、クレープにして、提供したら、当たったらしい。

観光地に住むわたしとしては、観光立国という方針は危うく感じる。

長野は、生糸産業の流れを継いで、精密機械や、パソコン、素子を作る流れがある。
有名なところでは、信州大学の繊維学部だ。
繊維学部という名前だが、やっていることは、素材の開発だ。
そこが、技術を引っ張ってくれているので、まだ、工業系の産業がある。
だから、賃金は、東京に比べると非常に安いが、まだ、働くところはある。
(最低賃金が笑っちゃうほど安い)

野菜も果物もおいしい。
気候は、冬は確かに寒いが、降水量が通年を通して少ないので、いつも晴れている。冬も晴れている。夏はそれなりに暑いが、湿度が少ない。冬も、風がないので、気温の割には暖かい。雪の量は、山国なので、住む場所によってだいぶ違う。

以前、ナガノパープルというブドウが、他県のデパートで、四倍以上の値段で売られていて驚いた。
夏は、スイカも、ブドウも、桃も、桃系の果物も豊富でおいしい。
山だから、日照時間が少ない。それが本当に欠点だと感じる。海もないので、わたしは旅行先にはリゾート、ビーチばかりを選んでしまう。わざわざ寒いところや陸地に行きたくない。

街づくり、政治は、生活と密接している。
ここに住んでいると本当にそう思う。
田中知事について、いろいろと批判があったが、彼が来てからずっと役所関係のサービスのレベルが上がった。
公僕、という意識が根付いたんだと思う。
人口減は深刻な問題だが、首都圏の数値よりも、長野市のほうがずっとましなのだ。
それは、市政や県政が、ずっとその問題に向き合ってきたからだと思う。

だいたいの人は、しがらみで、住む場所を選ぶのだと思う。
わたしもそうだ。
でも、長野市は、住めば不満はいろいろとあるけれど、やっぱり住みやすい。
教育と福祉、自立支援に力を入れていることと、市報が配られて、市議会で問題になっていることが「市議会だより」にまとめられて、誰が何をしているかが、透明だということも、とても好きなポイントだ。
図書館も充実していて、フリーで勉強できるスペースが、そこかしこにあるのも、いいと思う。

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