千田先生の「発達障害発言」関連についての考えたこと

ツイートを読んでからずっと苦しかった。
千田先生の言葉で、わたしは、また自分の頭がおかしいんじゃないかと思った。
わたしは、文化の外にいて、文化摩擦を起こす異物で、理解していないうちに、自覚していないうちに、人にモラハラをして傷つけているのかと思った。

でも、やっぱり、そうじゃないから、同じように苦しんでいる人、主に、自分のために書こうと思う。


研究者がこういう風に言うと、ただでさえ、話がうまく進まないとき「アスペ」とののしられる現状に、裏付けがされてしまう。
多数者、マジョリティに合わせろ、というのは、とても乱暴だ。
端的に言って差別だ。


わたしのパートナーは、前の結婚の時に、「アスペ野郎にカサンドラ症候群になるまで追い詰められた」とののしられていた。カサンドラ症候群とされている人たちのパートナーが、全員発達障害だとも思わない。
定型発達の人が、ただ単に、くずなモラハラ野郎なだけなのに、「発達障害」ということにされている例はあるはずだ。
多いんじゃないかとも思う。


こういうことをするのは、ASDの特徴ではない。
わたしも、パートナーも、自分の理論を押し付けたりはしない。どちらかというと、自分が間違っていると思って、混乱してしまう。
そして、壊れて病気になる。


ストーカー行為をするのも、モラハラをするのも、発達障害の男性がするとは限らないけれど、これを読むと、わたしには、ストーカー、モラハラは発達障害の特徴と結びついていると読めてしまった。
だから、とても苦しい。


この部分は、本当に読んでいてしんどかった。
これは、わたしの読解が間違っていなかったら、千田先生が話したがっていないのに、話そうとしている、「相手が話したがっていない時には対話が成り立たない」という暗黙の了解を理解できていない、ということらしいのだけど、わたしの解釈だと、「差別に対する抗議」に対して、それを援用してしまえば、抗議自体が成り立たないと思う。
そして、その抗議の仕方を「発達障害だから」不適切、だという風にしてしまえば、わたしたちは口をふさがれてしまう。

発達障害はこうだ、という偏見に抗議したいのに、発達障害だからコミュニケーションがおかしい、よって、この対話は無効だ、とされてしまうなら。

大多数に合わせるほうがお得なら、あらゆる差別はそうだろう。
千田先生は、「家庭内では、発達障害の夫のほうが力を持つから、一般社会でのマイノリティ性は関係がない」というけれど、それは必ずしもそうじゃない。
定型発達の人と、自閉症の人が密室にいたとき、自閉症を追い詰めるのはたやすい。
自己コントロールを失わせるだけで、一人の時間を奪うだけで、感覚花瓶をないことにして扱うだけで、わたしたちは容易に狂う。


これも、発達障害は関係なく、ただ思いやりのないモラハラ野郎なんじゃないかと思う。
そのモラハラ野郎が、本当に発達障害なんだろうか?
発達障害で、なおかつ、心の優しい人はたくさんいる。例外がたくさんある以上、このような言い回しは避けてほしい。
なぜなら、差別を助長するから。

アスペルガーあるある、と書いてあるけれど、わたしは、アスペルガーにこういう特徴があると、寡聞にも知らない。
聞いたことがない。本当にこれはアスペルガー(ASD)の特徴なの?

これは、「優れているところがあるなら、生存を認めてやろう」ではないのかしら。
優れたところがなくても、生存は認められなくてはならない。

そして、たいていの発達障碍者は言語的弱者だと思う。
(わたしは言語的には強いけれど、支配されやすいので、家庭内では、言い負かされ、気持ちを踏みにじられる)
文化摩擦については、わたしも本当に疲れている。

今、現在、千田先生のツイッターというコミュニケーションによる、文化摩擦に消耗している。言語的強者である千田先生に、弱らされている。
じゃあ、これは攻撃なんだろうか……。揚げ足を取るつもりではなくて、これが、本心ならば、たいていの人は、千田先生よりも言葉がうまくないので、千田先生が、こうした偏見を助長する発言をすることは、マイノリティに対する攻撃になるわけです。


時と場合によるけれど、この場合、差別的な意図にとれる発言に、回答しないのはそっちのほうがおかしいと思う。
そして、それって変ですよ、と言語化することがそんなにもたいへんなら、わたしたちが定型に合わせることがどれだけ大変かわかってほしい。
裏を返せば、「それって変ですよ」と言語化する以上のことをわたしたちは常にしているので。


これは、いつも、自分の気持ちを踏みにじられ続けてきたから、相手を説得するために、使う場合も多い。
少なくともわたしの場合はそう。
「心がない」と言われて育ったから、「それはいやだ」で済む話を「それはいやだ」だけで伝わると思えないから、いろいろな権威を持ち出さざるを得ない。

ただでさえ、アスペと言われる。
そして、反論すると「アスペだから空気読まずに反論する」と言われる(丁寧に書かれていますが、そういう意味にとれました)。

定型に合わせたほうが得と言われても「それって変ですよ」と千田先生が言うことがたいへんなように、それ以上にそれが難しいから障害です。
そして、ずっと定型に合わせようとして、二次障害になった人、命を落とした人がたくさんいます。
わたしもその一人で、双極性障害をはじめとして、適応障害、パニック障害の治療を今も受けています。
だから、簡単に「合わせたら得」と言わないでほしい。
できるのなら、障害じゃないのだから。

それに、自分が「それって変ですよ」ということで、発達障碍者に合わせることがたいへんだとわかるのなら、逆のことも想像してほしいです。


これって、本当に残酷で、わたしは気分が悪くなった。
「お前は発達障害だからわからないかもしれないが、これが常識である」というメッセージは、わたしを打ちのめした。
そして、これが通れば、わたしが抗議したいことがあっても、「発達障害だからいろいろな意見が流せない」ということになってしまい、わたしの苦痛は無効化される。

このツイートが一番悪質だと思った。

批判されたら、スペクトラムだからと言うことも。気に入らない人にラベルを付けているだけに見える。

「暗黙の了解で、対話は、相手が話してもいいと思う時だけ成立する」のなら、抗議者が語れる機会は永久に来ない。
だったら、その「暗黙の了解」の正当性を疑うことが重要だと思う。
その「暗黙の了解」は、本当に、存在するものなのか、そして、その了解によって起きている不利益がないのかどうか、考える機会になるから。

わたしがほかの人と違うのはわかります。
でも、どう違うのか、わからない。必死で、疲れきるまで、「文化」のパターンを覚え、それにそうようにしていて、疲れ切って、わたしは双極性障害になりました。
覚えれば得、という言葉を言える立場との断絶がある。大多数に合わせられれば、得なんだろう、でもできないんだよ。

知らないからやらないのではなくて、知っていても、できないから、障害なのです。
子供のころから、「違う」といじめられてきて、「わたしはほかの人と違う」といえば「違わない」「自意識過剰」と言われて、出口がなかった。
どれだけ、「普通」になろうとしても、頑張れば頑張るほど「差異」が明らかになり、「自分勝手」「自分のことしか考えていない」と言われ続けてきた。

あっさり、ものすごく違えば、「そういう人」と認識されるけれど「ちょっと違う」と攻撃対象になる。
その絶望と一緒に、ときどき死にたいと願いながら、なんとか生きているときに「大多数の文化を知っていたほうが得」「文化の違い」と言われてしまうと、本当にしんどい。削れる。ただの文化の差で、わたしは死にたいほど追い詰められているのか。文化の差なら、定型の人はわたしたちを尊重してくれるのか。

そして、「発達障碍者」と言われている人は、定型の人にとって都合の悪い行動をとっている人を「この行動や性質は発達障害だろう」という風に箱にしまって、言っている気がする。
わたしは違うといっても「自覚していないだけ」「自覚していないのが証拠」と言われてしまう。
これは、言われたことがないとわからないかもしれないけれど、本当に残酷な言い方だ。
話しても話しても、伝わらなくて、水中の中で、空気がないのに、呼吸をしようとしてあえぐような、溺れて水の中に沈んで行ってしまうような気持に似ている。

わたしからすると、「定型発達だ」ということを自覚していないのは「定型発達のほう」です。
でも、違う、おかしい、というと「おかしいと思うのがおかしい証拠、普通ではない証拠、自覚がないのが病気の証拠」といわれてしまう。
わたしの価値観は、狂っているのかとずっと悩んできた。

これを書くのは、千田先生のツイートを読んで、自分の頭が狂っているのじゃないかと、苦しんでいる仲間のためです。


例外が多いのならば、発達障害の名前をラベルとして使わないでほしい。
医学的に定義がなく、スペクトラムだから、例外もあるのなら、発達障害を出すことで、差別が助長される危険のほうが大きい。

千田先生の一連のツイートを、たぶん全部読んだのだが、「発達障害者はしゃべるな」ということに集約される。
暗黙の了解が分からない、っていうのは、そういうことだと思う。
こんなことを言われたら、抗議できない。

千田先生の言う、アスペルガーや発達障害の特徴としてあげられるもののほとんどを、わたしは聞いたこともない。
知らない。
見たこともなければ、会ったこともないです。
わたしは、ASD診断を受け、それをオープンにしているい人と交流してきたけど、本当に見たことがない。
本当にそうなのか疑問です。
(あるあるというなら、発達障害をオープンにしている人にたくさん会わないといけない。もし、「この人はそうかも」と思ったとしても、診断はとても難しく多岐にわたっていて、何時間もかかるものだから、決めつけて言うしかないけれど、その決めつけ自体が差別であり偏見だから)

たぶん、千田先生が、嫌な人にあったときに「この人はきっと発達障害なんだろうな」という納得をしてきたのだろうと思います。(それ自体が差別ですが)

ということなので、リプライを送ることはしない。

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人の性暴力被害を利用するな

菅野氏の裁判で、ゴヒエツコ氏側が出した声明がある。
わたしは、それにすごくむかついている。
菅野完氏から受けた性的被害に対して損害賠償を認めた東京地裁判決(8/8言渡) 及び同判決に関する被告側の態度についての声明

>>本件ブログには、事実でないことや被告の一方的な解釈によることがあたかも事実であるかのように多数記載されており、被告にとって都合の悪い事実には触れられておらず、非公開で行われている裁判所での和解協議の経緯が、不必要に詳細にしかも不正確に記述されている。

事実でないことが書いてあれば、具体的に書けばいい。
こっちの声明こそが、あいまいなことを書いている。
何がどう不正確か書けないのではないのか。

被告代理人が本件ブログをインターネット上に掲載したことで原告の個人情報や事実無根の情報がネット上で拡散される事態となり、原告は精神的苦痛を受け、再び体調を崩し、被害が拡大している。

個人情報や事実無根の情報というのは、具体的には、わたしのこのブログを指すのだと思うが、事実無根ではない。
ゴヒエツコ氏がした加害、つまりわたしの被害をなかったことにすることが、本当に許せない。
性暴力被害者というが、ゴヒエツコ氏が、わたしや、ほかの性暴力被害者にした行為は許されるものではない。
自分のしたわたしへの精神的暴力を棚に上げて、菅野氏は加害者だと言い募るのは、矛盾している態度だ。

くじけそうになったとき私に勇気をくれた詩織さんと同じように、この結果が、黙らされている誰かに勇気を与えられると信じたいです。

一番腹が立ったのは、この部分だ。
ゴヒエツコ氏は、どこも詩織さんと一緒じゃない。
自分で何もせず、わたしにブログ記事を書かせ、そして、わたしに加害したことを問いただせば、逃亡して、知らない顔をしたばかりか、この声明で、わたしをさらに踏みにじった。
詩織さんが、自分以外の性暴力被害者を利用したり、踏みにじったりしただろうか。
詩織さんの名前を出すことは、本質的には、わたしという性暴力被害者の経験から出た言葉を利用した行為と同じだ。
おぞましい。

原告は「言論制約のために裁判を起こして」などいない。

ゴヒエツコ氏本人は、わたしに「社会的制裁をしたい」「社会的に滅殺したい」と言ってきたけどね。

少しでも性暴力について声を上げられる社会になることを願います。

絶対におかしいだろう。
もし、そう思うのなら、わたしに菅野完氏を誹謗中傷した記事を書かせ、その責任を全部取らせて、わたしを言葉で傷つけて、対話をしなかった行為を反省しろ。わたしの口をふさいだのはゴヒエツコ、あなたじゃないか。

菅野完氏の講演会に、電話をして中止させる人たちも同様だ。
ゴヒエツコ氏の被害を利用しているんじゃないのか。
自分が遭ったわけじゃない被害を利用しているんじゃないか。
いいことをしているつもりかもしれないが、最低だ。

わたしは、性暴力に遭った。加害者のことは憎いが、だからといって、わたしが何をしても許されるとは思っていない。
まして、ゴヒエツコ氏は、わたしや、わたし以外の性暴力被害者を踏みにじって、自分だけが傷ついているような声明を出した。
こんなことは許されない。そして、彼女のために動いている人や、菅野氏の講演会を中止するために動いている人たちも同罪だ。

性暴力被害者を利用するな。

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性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで

まず、言いたいことは、性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで、話したいと願ったときか、もしくは、治療上必要な時、安全な場面で、本人が納得したうえでということです。

もしも、性暴力被害者ではない人が、性暴力について語るならば、そのひどい実態はすでに語られたものを調べて知るべきで、被害者に語ってくれと呼びかけるべきじゃないです。それは、それ自体がすでに暴力です。
ほかにも、いろいろな側面で語ることができますから、性暴力被害を防ぐために、男性ができることを話し合うとか、もし、加害を見つけたらどういって阻止するか、男性同士の意識改革をどう進めるかとか、そういうトピックスを選んで話してほしいです。
そういう関わり方ができるはずです。模索してほしいです。

ツイッターの、狭い範囲のことですが、性被害について、カジュアルに語ろうという動きがあるようです。
それは、性暴力被害者、当事者からあったわけじゃなくて、ある男性が言い始めたようです。

わたしは、そのツイート群を見ているうちに、だんだん具合が悪くなってきました。
最初は気づかなかったのですけれど、夜にひどいフラッシュバックが起きました。

語り合おう、と言われると、自動的に、「ああいうこともあった」「こういうこともあった」「もし話すならば、こういうことを話すのだろうか」「ほかの人はこういことを経験したのか」そういうことを想起します。

自分で、よし、考えようと決意して考えるわけじゃなくて、自動的に頭の中を映像や音や生々しい感触とともに、どんどん思い出していきます。そうすると、いつの間にか、感情の渦が巻き込まれます。

この、フェミニズムの真ん中という言葉がとても大事なことです。
性暴力をなくそう、そのために男性に関心を持ってもらう……。
このことは全然間違いじゃないです。
だって、性暴力加害者の99.7%は男性だから、そもそも、男性の問題です。
わたしは、被害者ですが、お金を出して本を買って読んで言葉を得て、こういう風に時間や感情を使って、文章を書いて、人に伝えようとしています。
でも、加害者の性別の人たちは、別にお金を出して勉強もしないし、知ろうとしないし、無関心です。
そして、女の人が言っても「嘘」「おおげさ」「盛っている」と思っている男性が多いです。
だから、男性が声を出して「語ろう!」というと、やはり、厳しい批判を浴びることにはなります。だって、本来は男性が負担すべき事柄なのに、被害者が勉強して語ってきたことを、なかったことのように扱って、男性が言い始めて、ようやく「そんなひどいのか」ってわかってもらうなんて、わたしの気持ちとしては、不条理を感じます。

性暴力加害者の99.7%が男性なのに「男が性暴力を振るう」という表現を使うと「男という主語が大きい」「犯罪を犯さない男もいる」と言われて非難されてきました。
だから、いちいち「制度上の男」という言い方をして、但し書きをつけて、注意しながら書いてきました。
でも、同じことを男性がすると、ほめられ、多少の言い方は見過ごされ、そして、雑に性被害について語り、自分の被害でもないのに、他人の被害を集めて、男性同士で話し合うっていう状況です。

わたしが言いたいのは、被害者は、それに協力する必要がないということです。
わたしは、男性同士が話し合うことについて、邪魔しません。
でも、性被害について、新たに、被害者に語ろうと呼びかけることはやめてほしいと思います。
すでに、いろいろな人が、わたしを含めて、語ってきました。
ネット上でも、書籍でも、性暴力についてたくさんの人が語っています。

勇気があるとか尊敬するとか言われたくて書いているわけじゃなくて、身を切るように、自分がこういう目に遭ったということをなかったことにしたくない一心で、書いてきたわけです。
人に「語ろう」と労力を再び差し出させるようなことをするのは、非常に権力的な行為です。
自分が労力を割こうとするのではなくて、他人の労力を借りるということに、すでに暴力性が存在しています。
また、性被害を思い出させることについて、配慮が欠けています。
クローズな、安全な場所をつくることは、最低限必要です。

男性が、興味を持ったことをありがたいと思う人がいるのは、それはそれで当然だと思いますが、批判が生じるのが当たり前だということも、またわかってほしいと思います。
(わたしも電子書籍で書きました。下記リンクはアフィリエイトです)

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訓練することで見えてくるもの

保育園に見学に行きました。
そこで、四歳くらいの子供の絵を見ました。
遠足に行った時のことを描いた絵だとわかりました。
「バス」「おべんとう」「人がいて」「楽しい」ということが表現されていました。
これは、物事を記憶して、抽象化して、時間ごとに起きたことを切り離せて、しかも、それを平面に表現して、並べることができ、思ったように線画できるという能力がある、と判断できる材料になります。

それで、わたしは「上手だねえ」「すごいねえ」といえます。
わたしがこのようなものの見方をするのは、普段、中高生に勉強を教えているからです。
彼らに、何ができて何ができないのか、あるできなさには、どういう困難があるのか、そういうことを考えながら見ます。
知識がないのか、知識を得る手段がないのか、発育がそれに伴っていないのか、知識を生かす前提がないのか、字を読むことに困難があるか、あるとしたら、目が見えにくいか、字を認識しにくいか、手がうまく動くか、動いたとして、たとえば筆算をそろえて書くことの意義を理解できているか、できていたうえでやれないのか、そういうことを細かく見ていきます。

わたしは基本的にケアレスミスというのは存在しないと思っています。だいたいは、本質的なミスです。
文末まで読む習慣がないとか、文末の意味を理解して、覚えておくことができないか、そういうことで間違えているだとか、そういうことを考えるために「ケアレスミス」という思い込みがあると、その子が何に困っているか、どういう対応をすればいいかが見えなくなるからです。
ケアレスミスは本人がぼーっとしているから起きるというニュアンスがあります。
ボーっとしているとしたら、注意できるようにするために、具体的にどんなことを手伝えばいいのか、そういうことを本来は考えないといけませんが、そこまで考える人はまれな気がします。
だいたいは「気を付けないとだめでしょ!」のようなことを言って終わります。

なんの解決にもならない。

勉強一つとっても、その子の困りごとを解決するために手伝う、そういう姿勢が必要です。
そういう姿勢でいると、見えてくることがあって、その子供の、人格的な側面や、情緒的な成長や、人柄が、非常に影響してくることや、一つの表れを、細かく分解しながら考えていき、どう手伝えばいいのか、考えていくことが大事だということが分かってきます。

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わたしたちは人工的に「自然」を作り上げている

わたしが赤ちゃんを産み、育てる過程でわかったことは、人間のふるまいのうち、本能に起因するものは非常に少ない、ということです。

生まれたばかりの赤ちゃんは目も見えません。
なにもかもぼやけていて、境界がない。
わたしたちが物を見るときには、その輪郭線を抽出して、あたかもそこに「線」があるように認識してみます。
光を目が受け取って、処理するときに「明るいところと暗いところの差が激しいところ」に物体と物体の切れ目があるように予想できるようになるまでには、光をただ目で受けるための機関があるだけじゃなくて、脳が発達しないとだめなんです。

赤ちゃんは、自分の体をまだ知りません。わたしの子は、二か月たった今、ようやく、自分には手があるようだ、ということに気づいたところです。
生まれたばかりの赤ちゃんには、いくつか反射があります。手を握ると握り返してくれるとか、口に乳首を入れると吸い付くとか、そういう反射があります。
でも、今でさえ、自分から乳首を離したら、口の中から乳首が消える、という因果関係もわかりません。泣いて怒ります。自分から乳首を「うえっ」と出したくせに、ないと怒ります。自分がのけぞったり、手でつっぱると、乳首が口の中に入りようもない、ということもまだわからないのです。

これはとても興味深いことで、わたしたちが「当たり前」だと思っていることは、かなり分解して考えられた結果だということです。
吸い付いている乳首から口を離したら乳首がなくなる、というのは、「自然」ですが、それを理解するかどうかは「自然」じゃないわけです。乳首から口を離す、そうすると口の中から乳首がなくなる、泣く、これは因果関係を理解するという行為です。
これはもう思考の範囲だから、「人工」的なことであって、本能ではないのです。
「本能」と言われること、「生物学的に自然」と言われることはたいてい嘘です。
生物学的に自然と言っても、生物の種類によってその振る舞いは全く別です。本能として、生まれたときから持っている能力というのは、人間の場合、自発呼吸、眠る、口に何か入ったら吸う、足を曲げる、握り返す、泣く、くらいです。
指をしゃぶるという行為すら、時間をかけて、発見し、練習し、学習して、獲得することなんです。

唯一「自然に」行われることは、人間は、「発育することに前向き」だということくらいです。
成長していくことだけは、自然に進んでいきます。それが早かったり遅かったり、刺激を与えることで、よりスムーズに進むようにすることはありますが(つまり、この時点で人工的な部分が紛れ込んでいます)、発育していきたい、という欲求だけは、もともと備わっているようなのです。
ただ、それも、「学習」によって、進んでいくようです。

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて
この記事が面白かったのですが、ようは「自然発生的に」「欲望するということ」はなにか、という問いだと思いました。
わたしが見る限り、自然発生的に欲望していることは、「成長する」「発育する」ということだけです。
発育した結果、「何かに欲望を持つ」ことになるわけだから、その何かが選ばれる過程は、わたしの「親」という立場からすると、「自然発生的」欲望じゃないです。
わたしが、例えば「異性愛」が普通だと教えたとしても、それに対する反応が、「それをそのまま受け入れる」としても、「自分はどうやら違うようだ」と思うことだとか、「自分も異性愛というやつらしい」と思うかどうかは、わたしは操作できないです。
ただ、「それが普通」ということは言えます。でも、それはすでに恣意的なわけです。つまり、人工的だということ。
そもそも「この人は女だ」「この人は男だ」と判断すること自体が、かなり雑です。
二つの分けるということは、ある特徴のある生物群を抽象化するという過程をどうしたって経ないといけないわけですが、それも「思考」なわけです。まず、五感で感じて、それを人だとか動物だとか生物だとかそういう風に認識して、それからさらに、その特徴を抽出して、今まで得てきた情報のデータベースに照らし合わせて「この人は女/男」だという答えを出すわけです。
でも、それを答え合わせするわけじゃないし、答え合わせしたところで「正解」かどうかもわからないわけです。

異性愛という概念が成り立つ前提には「女と男というものがあるらしい」「自分と同じ性別というものがあるらしい」ということが了承されていないといけないのですが、そもそも「同じ性別」というのが上記の記事でもあるように、すでに怪しいのです。
自分がこの人は女だ、と判断した人が、「女」であると確実に言えない。
外性器が女かもしれない、内性器が女かもしれない、染色体が女かもしれない、自意識が女かもしれない、どの段階で女かどうか判断するか?
わたしたちには、それが難しいから、記号的に「こういうふるまいをするから」「こういう体つきだから」「こういう衣服を着ているから」と文化的に判断します。誰が女か男かを決めること自体が、文化に依存します。日本だと外性器が女か男かで決めることが多いです。外性器が女だったら女らしい振る舞いをして女らしい服装をします。
だから、男性はおおむねスカートを穿かないし、女性は上半身裸で過ごさない。それをすると、「文化的な秩序」が壊れて、当たり前として了解している約束事がぐらぐらして、人は不安になるのでしょう。
毎回毎回、「当たり前」について疑ってかかるのは、大変疲れることです。

自分が女か男かもはっきりしない状況で、自分が好きだと思った相手が女か男かわからない状況だと、「異性愛」という概念が発生しようもありません。だから、「自然に」異性愛になるわけじゃないのかなと思います。

親として、子供を育てていて、本能的に育てられる部分はほとんどありません。
せいぜい、産んだ後母乳をやると、子宮が収縮しやすい、赤ちゃんを抱くと胸がきゅーんとする(たぶんホルモンが出る)くらいで、かわいがって育てるとか、抱くとか、乳をやるとか、そういうことは学習してできるようになったことばかりです。

わたしは生まれつき備わっていることって、体の機能的な部分と、「成長したい」という方向性くらいだと思いました。
自分の体は自分のものであり、自分が大切にしていい、自分がコントロールできるという感覚だって、当たり前に最初から備わっているわけじゃなくて、周囲と本人の協力によって、育てていくものです。

わたしは、小学三年生くらいまで、いつか、ちんちんが生えてくるんだと思っていました。
心配なようであり、楽しみなようで、いつかな、と思っていました。
生まれつきちんちんが生えている子と、それ以降の行いによってちんちんが生えてきて女の子から男の子になる人間がいるんだと信じていたんです。
でもわたしにちんちんが生えてくることもなく、わたしは、ヘテロセクシュアル、シスジェンダーの女性に育ちました。

生まれつき「こうだから」じゃあ認めてあげよう、というのはそういうことで、おかしいと思います。
最初から最後まで変わらない人のほうが珍しいと思います。
人は揺らぎながら成長して、疑問に思うことを確かめることで、「自分」というものを確立していきます。
それは赤ちゃんの時から、少なくとも、わたしが今この年になるまでは、そうだったみたいです。

本能的に行われることがそもそもわずかなので、欲望に至っては、ほとんどが、知識や情報によるもので、それに対する反応は様々だけれども、それが個性と呼ばれることじゃないかなと思います。

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綺麗なもので心にシップをしたい

綺麗なもの、かわいいもの、美しいものを手に入れると、自分もきれいでかわいくて美しいものになれる気がする。
それは、気のせいだから、次から次へと消費の対象はうつる。目まぐるしく。
一回も袖を通さずに廃棄される服、化粧品、気まぐれに選ばれるアクセサリー。
自分の体のコントロールを奪われたことで、わたしは、自分の体や心のコントロールを失ってしまった。
コントロールを失うと、自分の体が自分のものだ、という当たり前の感覚がなくなる。
必然的に自尊心もなくなる。
一度、ひどい目に遭うと、ずっとひどい目に遭い続ける。そういう連鎖がある。
それは、わたしだけに起こったことじゃない。保育園で、年中の友達が、近所のお兄さんにお菓子と引き換えに体を触られると言っていた。でも、お母さんにそのことは言えないとも言っていた。そんな年齢から、わたしたちは、体も心も傷つけられ、幸せだとか安心だとか守られているという感覚を失ってしまった。
当たり前に得るものなのに。失うというよりも初めからなかった。

だから、わたしは、美しいもの綺麗なものかわいいものがほしい、それは、わたしがコントロールできるものだから。
買う、手に入れる、保存する、手入れをする、捨てる、無残に扱う、全部わたしの思うままだ。
普通に生きているだけで、娯楽にもSNSにも、心にやすりをかけられるような一言、言葉、情報があふれている。
歩けば、店に入れば、女という体は、人を、つまり日本において人と扱われるのは男だけだ、その男が、欲情するための媒介として、女の体が存在し、女は、あらゆる苦痛を、「快楽」に読み替える神経を持つものだというプロパガンダがふりまかれている。
針で刺されても、棒を突っ込まれ、こすられ、水攻めにされ、窒息され、拘束され、縛られ、殴られ、でも、女は、女という体さえ持っていたら、それらの苦痛は快楽になるのだと、そういう嘘が蔓延している。それをおかしいと言えば、「お前は気がくるっている」と言われる。

そして、あふれるそれらの加害性の高い情報を食べて、彼らは安心する、自分たちが持つ加害欲は、責められることもない「ただの性欲」なのだと肯定され、また、加害欲が再学習されていく。そして、わたしは無気力と無力を再学習する。

わたしの身に起きたひどいことは、勝手に起きたわけじゃなくて、男がわたしにしたことだ。
そして、わたしは学校に行けなくなった。だって、学校にはそいつがいたから。
わたしは、大学に行くのも苦痛だった。だって、男の大きな声がするから。
授業中にパニックになったときにも、教員にののしられた。「相手の子は何もしてないのにかわいそうでしょう」
その人は、セクハラ対策委員だった。比較文化論を研究していた。

わたしは、誰にも何もしていないが、わたしが行ける場所は限られている。学習するにも、体力も精神力もいるが、わたしは集中することができない。なぜなら、集中していると「あのこと」がいつでも浮かび上がってくるかもしれないからだ。
それが浮かび上がってきたら、わたしの体も心も「あのこと」に乗っ取られて、時間も「あのとき」に戻ってしまう。わたしは、現実を喪失している。

精神が不安定だから「メンヘラ」「きちがい」「頭がおかしい人」と言われる。
だって、それを言う人たちはわたしの過去なんて知らないのだから。
不安定で迷惑をかけるわたしの背景など、当然知ったことはない。だって、彼らは加害者ではない。そんなのは当たり前だと言い聞かせ、わたしはにっこりしながら早く死にたいと願う。ああ、そうだね、わたしは醜い、肉塊だ。

心臓がバクバクして呼吸が苦しくなる。空気がうまく吸えない。空気がなくなってしまったようだ。

早く忘れたらいいね、命があってよかったね、魅力的だということだからよかったね、自慢?
あなたがだらしないから目をつけられてそういう目に遭うんだよ、何度もそういう目に遭うってことは自衛する気がないか、もしかして望んでいるんじゃないの?

わたしは、わたしの体を一つ一つ切り落としたい。
あのことに触れた部分を一つ一つ切り落としたい。そうして、残った部分がきれいならば、その部分だけで生きなおしたいと願うのだけれど、そんなことができるはずもない。

わたしは、わたしが不安定になったのは当たり前だと思っている。
でも、仕方がないよね、と許されて、存在するくらいならば、消えてしまいたい。
わたしが「いてもいい」と許可を与えることができるあなたは、どうして、当たり前のように、わたしよりも「えらい」わけ?
どうして、許可を与え許すことができる立場に、あなたは当たり前に立てるの、そしてわたしはいつでも下の立場にいなければならないの?あのことがあっただけで。たまたま、あのことに出会わなかったあなたが。

がらくたを集めるようにしか、今日を生きることができない。
明日も生きられるのかわからない。
昨日生きていられたことはもう忘れてしまいたい。
心にやすりがかけられてしまうから、だから、心にシップをしたい。

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男尊女卑に染まると、成績が伸び悩む

統計やデータを必要とする人は、読まないでください。
わたしは、データも大事だけど、現場の感じていることも、貴重な情報だと思うので書きます。
聞き取りやフィールドワークも研究になるのだから、データデータという人はちょっと滑稽にも感じるのだけれどそれはおいておいて。

スマホを手にした男子高校生は、男尊女卑に染まります。
スマホを持つまで、ネットを見る時間が長くなるまでは普通の子だったのが、ネットの記事を読みだすと、お母さんをバカにし、目上の女性をバカにし、年下や同級生もバカにするようになります。
すると、周りから人がいなくなります。
そして、「理解されない」という恨みを抱き、「理解しないほうが悪い」と思考が転換していきます。
そうすると、ますます、ネットの男尊女卑にすがるようになる。
男尊女卑というのは、妄想です。
男というだけで、素晴らしくすぐれている、という妄想です。
だから、それに染まると、まったく努力をしなくなる。
しなくても、自分は男だから、で止まってしまうようです。
それに、努力はすればするほど、いかに自分が卑小な存在か突きつけられるようになりますからね。
一度、男尊女卑の甘い蜜を吸うと、その「卑小な存在だ」「何もできない存在だ」ということに耐えられなくなるみたいです。

ネットに、コンビニに、本屋に、ポルノ的なイラストや、ポルノそのもの、性暴力があると、何が悪いか、というと、自分が女性に性的嫌がらせをしても、「許される」と思い込んでしまうという弊害があります。
男子高校生が、「女性の裸に近い姿のイラスト、ポーズは煽情的」なものを見せてきて「どう思う?」と聞いてきました。
それは、性的嫌がらせです。だから、わたしは、その子と話すことが嫌になりました。
でも、彼は、そういうことをしても、いいと思っているからそうしたわけです。
だって、性的嫌がらせをしても、女の子は赤面したりキャーというだけで許す、という物語があふれているからです。
環境的にも、ポルノはたくさん売られています。だから、そういうものを、女性も見慣れているし、見せていいんだと、彼は勘違いしたんだと思います。
だけど、そういうことをしていると、人に嫌われます。当たり前だけど。
人に嫌われると、適切な助言をしてもらえなくなります。男尊女卑があるから、わたしの勉強に関する助言も聞かないです。

それどころか、わたしに「母親たるもの」というような説教をしてきます。

そういうことをするのは、彼女がいる子もです。モテないからそうなるとは限らないのです。

全体的に女の子は、教えれば、成績が伸びます。やる気もある、努力もする、伸びないわけがありません。
でも彼女らがしっかりしているのは「女の子だから」と抑圧されてきた結果だから、それはそれで、わたしはひっかかりを感じています。

「女の子は浪人を許さない」「女の子だから、そんなに上を目指さなくていい」「そもそも教育は必要ない」という保護者はまだまだ大勢います。だから、女の子は「子供時代のリミット」を常に目の前にぶら下げられているため、しっかりせざるを得ないのだと思います。だから、女の子は、能力が高くなりがちです。

男の子でも、勉強ができる場合があって、それは二通りです。
教育熱心な家庭であるか、お父さんがお母さんを尊重する家庭であるか、どちらかです。
でも、本当にそういう男の子は少ないです。なかなか根深い問題です。

男尊女卑というのは、男と女が世の中に二通りだけ存在しており、男というだけで偉い、と妄想する、妄想の中でもきわめて雑な妄想です。
客観性がないのだから、もちろん、学業も伸び悩むのも当たり前かもしれません。
男尊女卑の染まることで、その人の能力が限定されてしまうのだとしたら、差別者自身も、不幸せなことだと思います。
差別される側は言うまでもなく。
(ただし、差別が存在して、世の中を動かしているので、下駄を履かされている男性が、能力が低くてもそれなりの地位に就けるという現実もあります。その現実自体が、男性の能力を制限する過程を再生産しているともいえます)

ベシー占い 占い承ります。


あらゆる場面で差別はいけない

トランス女性を、その身体的特徴がゆえに、また、性的対象がゆえに、彼女は女ではないという議論を見た。
不勉強もあるだろうし、文脈も把握していないが、どちらにしろ、それは最悪な行為だ。

トランス女性が、差別をしたり、悪いことをしたなら、批判するべきだろう。

しかし、戸籍を理由にするなら、それは、性に関して公権力が介入していることに無批判なことを、むしろわたしは批判したい。
身体的な理由だったり、性器をオペしていないという理由だったりするなら、その言説は暴力だ。
それは、本人にもどうしようもないことだし、オペをするかどうかは本人が選ぶことだ。
その結果を、わたしたちはどうこう言えない。
わたしたちは、体に危険や負担や痛みを持つことを強いる権利はもちろんないのだ。
もし、強いるようなことを言えば、それは相手の命を軽んじる暴力だ。

わたしが、女に生まれ女の体を持ち女という自意識を持つのは、運がよかったからで、努力をしたからじゃない。
なのに、トランスにそれを強いるのはおかしい。努力せよとなぜ言えるのか。

トランス女性やトランス男性が、性的規範を取り入れることに前向きだったり、ミソジニックだったりするのはみたことがある。
それはもちろん批判するべきだ。でも、それは彼らがトランスだからじゃない。
差別がいけないことだからだ。

たとえば、未手術のトランス女性が女湯に入ってきたら、わたしはびっくりしてしまうかもしれない。場合によっては恐怖を覚え、パニックになるかもしれない。
でも、それは、そのことで、また考えて解決していかないといけないことだ。みんなで話し合うことが大事だ。

トランスに生まれただけで、温泉に入ってはいけない、というのは変だからだ。
(かといって、ほかの人の気持ちをないがしろにしていいということでもない。同じ理由で、トランスの気持ちをないがしろにしていいというわけでもない)

今は、フェミニストと名乗るのは流行っていないようだ。
偽のフェミニストか、本物のフェミニストか、ああだこうだ言われることがいやだという理由も見た。
正しさを自分ばかり要求されるのが嫌だという理由も見た。

誰が何を名乗ろうと、自由だ。
でも、ミサンドリストを名乗ろうと、フェミニストを名乗ろうと、ツイレディを名乗ろうと、差別をしてもいいという理由にはならない。
どんな人でも差別をしてはいけない。
それが前提だ。

ミソジニストが差別をしても、野放しにされているように、見えるのは確かだ。
でも、彼らは、悪いことをしている。
彼らが悪いことをしているからと言って、ほかの人、ミソジニストに差別されている側の人間が、ほかの属性の人間を差別していい理由にはならない。

わたしは、自閉傾向を理由として、または、それを知らない人に(親に)、人の心がないといわれる。
でも、彼らは、それを言って、わたしを傷つけている。
わたしが、彼らの思うように従わないから、彼らは「人の心がない」という。
人の心はある。場合によっては、思いやることもできる、優しいこともできる。

自閉傾向があると、相手がカサンドラ症候群になるという人もいる。
そういう人もいるのだろうけれど、わたしたちは、つまり、ASDは学ぶことができる。
相手の言うことを聞いて、顔や声や動きを観察して、相手の気持ちを推し量ることはできるようになる。
わたしも、パートナーも、自閉傾向が強い発達障害だが、わたしたちはお互い思いやって生活できている。
笑う、泣く、怒る、全部、ある。相手が悲しんでいたら抱きしめる、話を聞く、温かい飲み物を入れる。
赤ちゃんが何を要求しているのか、観察して、泣く前に対処することもできる。
手をあげたら、おなかがすいているサイン、ぴ、ぴ、と言ったら、おむつ替えのサイン、えーい、といったら、うんちのサイン、などちゃんとわかる。
定型発達(おそらく)の人はそういうことには気づかなかったと言っていたから、定型発達の人だけが、気を遣えたり、空気を読めたり、人の感情が分かるわけではないようだ。

わたしの思うに、察するという能力は、「権力者の意をくみ、その通りに動ける」ことを意味していると思うので、わたしにとっては、それは定型発達の長所ではなく欠点だと思う。

話が反れたが、貧困、片親家庭、低学歴、障害、病気、体の特徴、国籍、人種、全部、差別の対象になる。そして、差別をしてはいけないということには変わりない。その前提を忘れた人は、悪い行動をとってしまう。悪い行動は批判される。

そんなシンプルな話なのに、女性差別と闘う人が、「窮屈だ」というのは滑稽にうつる。
それは、女性差別をしている人も、批判されて「窮屈だ」と思っているだろうし、セクマイ差別をしている人、最近ではとんねるずで笑っていた人たちも、窮屈な世の中だと言っていた。
差別をする側が窮屈になるように、わたしは動きたい。そして、窮屈だった人たちが、息をしやすいようにしたい。

わたしも、この前「頭のおかしい人」という言い方をした。妊婦にけりを入れる男について形容したのだが、反省して、倫理観の欠如した人に言い換えようと思う。そして、これもいつか、批判される日が来るかもしれない。
そうしたら、わたしは、少しずつバージョンアップしたい。

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出産を経て毒親には一生会わなくていいという確信を得た

出産直前、親にされた仕打ちを思い出して、のたうち回って、号泣して過呼吸になった。
自分が、子供に同じことをしないか同じ気持ちにならないか心配で、うつ状態にもなった。

産んでわかったのは、赤ちゃんは信じられないほどかわいいということ。
そして、弱いということ。
弱いから、わたしに愛されなければ、死んでしまう。だからか、わたしが「かわいい」と思うような行動をしてくれる。
モロー反応、新生児微笑は、親が子供を育てやすくする。そのための本能だと思う。
それがわかっていても、もちろん、かわいい。
嗅覚で、わたしを判断するから、ねぐずりがひどいとき、わたしの布団で添い寝すると安心して眠る。
抱っこも好きだし、わたしが歌うと喜んでにこにこしたり、おしゃべりしてくれる。
ほかの大人と夢中になって話すと、こっちを見て、というように、服を引っ張って、うにゃうにゃ言い、反応しないと眉をしかめ、返事をするとにっこりする。
柔らかくて暖かくていいにおいがする。

こんなに、弱くて、小さな存在を、どうして、いじめるんだろうか。
そのいじめる理由があったとしても、それは許されない。

わたしは今でも親にされたいじめ、虐待を思いだせる。忘れたとしても、パートナーが覚えていて、証人になってくれる。
子供を会わせないのはかわいそうかもと思ったことが、出産直後の夜に、看護士が痛み止めを意地悪でなぜか出さなかった(医者は出すように指示を出していたのに、従わなかった)ときにあった。たぶん、いじめられて、気持ちが弱ったんだろう。
そのときも、手紙を書いて、わたしは会わないで、外でパートナーに赤ちゃんを連れて行ってもらって、そこで面会するというストーリーを考えた。会うのはそういう時でも無理だった。
会うことを考えると、身体症状が出る。それほどのいじめをしたのは、彼らで、だから、会えないのは彼らの自業自得。彼らは、したことをしていないという。記憶をすり替えることができるみたいだ。

子供は小さくて弱くてかわいいから、絶対にいじめてはいけない。いじめる気持ちも全然わからない。わかりたくもない。
彼らは異常者。
悩んでいる人に言いたいのは、赤ちゃんや子供をいじめる人に、どんな理由があっても、許す理由にはならないから、一生会わなくていいよ、ってこと。
子供を産んでから確信が持てた。あいつらは屑だ。

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セクシャルマイノリティについて、思うこと

わたしがセクシャルマイノリティについて、初めて認識したのは、「クィア」という言葉であった。
クィアジャパンという雑誌があることを、上野千鶴子先生の論文で知った。
だから、「クィア」な人がいるんだなと思った。
新井さんの漫画、「性別がない」では、ひげを生やした女、ちんこのある女、女になったり男になったりする体の持ち主がいることを知った。


そして、ずいぶん年月が経ってから、トランスという言葉や、セクシャルマイノリティ、アセクシャルという言葉を知った。
ゲイという言い方をしたほうがいいことや、レズビアンときちんというべきだということも知った。

クィアジャパンの著者は、たとえ、偏見がある記述でも、「論文」に「ゲイ」が取り上げられたことをうれしく思ったと書いていた。存在を肯定され、公に認知されたと。(そういう時代だったということ。ないものと扱われているような時代背景だったから。今では当然状況が違う)

わたしが、独学で勉強したのはもう十年以上前のことだが、そのころ、フェミニストと呼ばれる人たちは、熱心に「クィア」な人と関わろうとしていたように思う。
「比較文化」を研究している先生に、ゲイ男性を紹介され、話したことや、迫害されてきた人種の人と話せたことはいい経験になった。その先生とは袂を分かつことになるが。

だから、わたしは、ネットで、セクシャルマイノリティの人の発言を見るまでは、フェミニズムと、セクシャルマイノリティは、親和性が高いと信じていた。ジェンダーの問題と、セクシャリティは、とても近いところにあるから。

だけれど、トランス女性、トランス男性が「性的規範」に非常に忠実な人も多いこと、ゲイカップルや、レズビアンカップルが結婚の権利を求めている人もいることを知って、わたしはがっかりしてしまった。
それらは、わたしの打ち壊すべき課題だったから。
戸籍制度も、性的規範も、女性差別の温床だ。

シスヘテロが、何も苦労しなくても、結婚できるのに、そうじゃない人にはそれができないのは、不公平だという意見を見ても、もやもやしていた。しスジェンダー、ヘテロには、結婚を求めるなとは言わないのにという意見だった。
わたしの知っている限り、フェミニストたちは、結婚をボイコットする人たちもいたし、結婚制度に反対をしている人もいたから、それは事実誤認だと思った。だから、もやもやした。

わたし自身は、事実婚を選んだ。それで、わかったのだけど、異性愛の場合は、今までいろいろな人が戦ってきてくれたおかげで、どこにいっても、事実婚だということを話しても、夫婦として扱ってくれる。帝王切開の時のサインも、無事、姓の違うパートナーが書いた。姓が違うことについて、誰も事情を聴かなかった。
事情を聴かれたのは、福祉の支援をしてくれる役所の人くらいだ。それで、ようやく、わたしは、「家族」を作るうえでの自分の特権性に気づいた。同性愛者は、きっと、こんなにすんなり、家族扱いされないから、結婚という形を求めるんだということに気づいた。

また、トランス女性やトランス男性が、性的規範を強く身に着ける理由もわかった。
ツイッターで、トランス女性に「おっさん」と言った人がいたのだ。こんなひどいことをどうしていう人がいるのかと思った。
本物の女性かどうか、わたしは、判断されない。女らしくないとののしられたり嫌がらせされたりすることはあるが、女か自体は疑われない。それは、誰が見ても女だからだ。
でも、男の体を持っている人は、本物の女かどうか、振舞いから採点されてしまう。
だから、「真の女」の基準を探してその通りにふるまうとしたら、規範が必要になるんではないかと思った。

また、トランス女性は、たぶん、成長する間に、「女性ならではの嫌な思い」にはあっていない。
女の児童として暮らしているときの、あらゆる差別を、実際に受けていない。
(最初に性被害を聞いたのは、年中の時。近所のお兄さんが侵しをくれる代わりに触ると言っていた子がいた)
もちろん、セクシャルマイノリティとしての差別は受けていたと思うが、わたしの経験とは異なるものだろう。
そういうことに思い当たった。

ゲイは、男性だから、男社会の恩恵を受けている。
だから、女性差別についてはもっとぴんと来ないだろう。

そういう意味で、セクシャルマイノリティだからと言って、フェミニストであるとか、フェミニズムについて詳しいとは限らないのだ、ということがわかった。あえていうと、ミソジニーのセクシャルマイノリティもいるのだろうと。

それは、フェミニズムの本を通して、セクシャルマイノリティという存在を知ったわたしにとって、衝撃だった。

でも、考えてみれば、セクシャルマジョリティの多くは、女性嫌悪であり、女性差別者である。

わたしの知る限り、フェミニストたちは、セクシャルマイノリティのことを考えることで、フェミニズムについての考えも深めてきた歴史がある。
(もちろん、その過程で、いろいろいいことも悪いこともあったと思う。前述した上野千鶴子先生の論文にもゲイへの偏見があった)

だからといって、彼らがフェミニストであることを求められないし、必要以上に彼らに期待しないこと、つまり、セクシャルマジョリティへの同じくらいの失望で済ませるべきだ、と思った。
だって、わたしは、フェミニストだが、セクシャルマイノリティに対して、関心もあるし、学びたいと思っているが、一生、きっとわからないこともあって、間違い続けるだろうから。
わたし自身も、クィアと言っていい部分がないわけじゃない。でも、わたしがわかっているのは、わたしのことだけだ。
わたしのことだって、全部わかっているわけじゃない。

フェミニストでも、セクシャルマイノリティに対して、暴言を吐いたり、差別いたりする人がいる。

だったら、セクシャルマイノリティに、女性差別する人がいても、当たり前だろう。

それがいいと思っているわけじゃない。

差別は悪いことだから。

どうして、こういう危うい記事を書いたかというと、自戒のためであり、わたしの途中経過を記したかったから。
こういう属性の人は、こういうことをしないはず、思わないはず、詳しいはず、という思い込みは、道を誤る。
だから、思い込まずに、行動したり、話したり、したいな、と思った。
(わたしは、小学四年生まで、いつかちんこが生えてくると信じてずっと待っていた)

健常者にも、障害者にも、セクシャルマイノリティにも、セクシャルマジョリティにも、フェミニストにも、いろいろな人がいて、いろいろ間違っているということがありうるということ。

わたし自身も間違える。
ただ、正しい、正しくないで分けること自体が「ノーマルかどうか」を分けた差別構造と同じになってしまうから、それだけは気を付けたい。差別をしない、排除をしない、してしまったときは改める。
差別をしていた人が改めたとき、それを文章にして公開することを責める風潮があるけど、わたしはそれに反対。
その文章で傷つく人もいるのはわかるけど、変わった人をわたしは歓迎したい。チャラにはしない。

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