【母からの解放(著:信田さよ子】感想~母のなかったことにする力

読んでいると実家にいるときのことを生々しく思い出して何度か叫びそうになりました。社会構造から母娘問題を読み解く本です。今回は具体的な解決方法が載っていました。

 

母は、「なかったことにする力」で世の中を渡ってきた、だから、その力には勝てない。謝ってもらおうとか、理解してもらおうと思えば、距離が縮まってしまう。

そのことを、「わかってもらおうと思うは乞食の心(田中美津)」を引いて説明しておられ、フェミニズムから見た母娘問題の本として、優れています。

虐待と毒母の違いは「虐待は客観的に判断できる指標がある。毒母は母が重いと思う娘の主観的な言葉」という定義づけが改めてされており、「毒母という言葉で、母親が追い詰められてはならない」と明言されていました。

主観的なことは、劣っているという意味ではありません。

力強く、自分に何がありどう感じたか、表現することができるのは、それはそれは大切なことです。すべてのスタートと言ってもいい。

男性は、それを軽んじます。わたしは、主観を大切にします。

気持をなかったことにされてきた娘たちにとって「母が重い」「毒母」という言葉は、発明でした。その言葉を手掛かりにして、自分の気持ちを発信できたからです。

社会の矛盾のしわ寄せとして母娘問題があり、だから、娘の声は社会にとってないものとしてきたほうがありがたい。社会や母、父は、ハッピーな加害者だからです。

彼らは、今のままが幸せです。だから、現状に異を唱える者が邪魔です。なので、その「異」をなかったことにします。そうしたら、丸く収まりますから。

だから、彼らにとって「邪魔」になる言葉は、わたしたちにとって有益なわけです。彼らが邪魔だと言ってきたら、効果があるということです。彼らにとって、痛くもかゆくもない言葉には力がない。

母親と友達になれるか?を基準に考え、もし、できないのならば、その関係は母の意向だけでできあがっている、もし、そこから距離を取りたいのならこうする、という距離の取り方が具体的に書いてあります。

何をされて、自分はどういう影響を受けたのかを明確にし、言葉遣いを改めて他人のように接する。家庭内別居ができるのだから、と、貧困ゆえに実家から出られない人も母親と距離を取る方法も記されていて希望が持てます。

実家を出ればいい、とさんざん言われてきましたが、病気や障害、支配によってエネルギーを確保できず、実家から出られない女性、非正規雇用も三分の二に届こうかというご時世ですから、お金がない女性、いろいろな人がいます。そういう人たちが無視されていないのはとても心強いと感じました。

「なかったことにするスキル」「聞こえないスキル」「自分の矛盾に疑問を持たないスキル」が彼らにはあって、そのため、彼らは自分たちのダブルスタンダードを維持できます。

聞くことができない、理解することができない、のではなくて、彼らは「理解したくない」「聞きたくない」「無視したい」と考えて実行しています。

それを、わたしは今まで「理解できないならわたしの努力が足りないのだ」と解釈してきましたが、そうではなく、彼らは「理解したくないのでそれを実行している」だけなのです。

そして、「理解できても、わからないことにする」ほうが便利なので、そうしています。彼らはしたくてやっているのです。したくないけど仕方がなくというわけじゃなくて、心からそう思っています。

現実を「見られない」んじゃなくて「見ない」「見たくない」んですが、そこを被害者や抑圧される側の人はまさかそんなことはないと思って、「理解したくない」ので、「話せばわかる」と期待しています。その期待は間違っています。彼らは望んでいないし思うとおりに行動しているのです。

 

わたしは、母を「助けたい」「救いたい」と長い間思っていましたが「彼女は好きでそうしている」のだとわかってからはだいぶ楽になりました。愚痴を言うような人生を送りたいと思っているからそうしているのだし、愚痴を言える先があったので幸せだったのです。そして、愚痴を言われるわたしは不幸でした。

わたしは「彼女を愚痴を言わなくて済む環境に暮らせるように変えたい」と思っていました。それが解決方法だと思ったんですね。でも、そうじゃなくて、わたしが変えられるのは「自分が愚痴を聞くことをやめる」という部分だけです。母はそもそも他人です。他人を変えることはできません。母を変えることができるとしたら「コップを外から揺らされたとき中の水が揺れるように」現状が動いた時だけです。愚痴を聞いている間は、コップは揺れません。

母は、言いたくて愚痴を言っているのですから、変えられるわけがないのです。

 

母や、差別者と話していると、こちらは疲れます。でも、あちらは疲れません。あちらは「言葉の遊び」だと思っていることが、こちらには差し迫った現実です。でも、加害者はハッピーなので、現実を知りたくはないのです。知りたくないから知らないのです。ここをわたしはずっと勘違いしていました。知りたいけど能力がないからできないのだと変換していたのですが、素直に受け取れば、できるけどしたくないから知らないでいたいだけなのです。

 

Twitterで見た言葉ですが「人殺しでも犯罪はよくないと言える」のです。だから、差別者や親が、いくら「差別はよくない」「抑圧はよくない」と言っていても、言葉だけだということを覚えておきたいと思います。差別はよくないと言っている分にはいい人だと自分のことを思えますし、まったく疲れません。でも、現実的に行動を改めるのは嫌なので、そういした言動不一致が取れます。

そこで「なかったことにする力」が発動するのです。こちらとしてはなすすべもありません。

引用

p196 女性である前に人間である

私たち女性は骨の髄まで女性なのではありません。男性と同じ人間です。人間というベースに子宮や膨らんだ乳房をはじめとした、女という属性がプラスされているのです。

~略~

いっぽうで男性は、男というより人間だと思っています。

~略~

たとえば女性から、「あなたも性犯罪者と同じ男性ですよね」と質問されたとき、彼らはどういう反応をするでしょう。「ええ? そうですね。同じ男ではありますね」と。冷静に応じる男性は、相当に考え抜いている人です。

多くはその質問をされたことに驚き、「あいつら、人間じゃないですから!」と、声高に性犯罪者の男たちをまず「人間」の分類から外そうとします。人間ではない性犯罪者対人間である自分、という構図にもっていこうとするのです。

男性はどうして、性犯罪者と同じ属性だということを認めることができないのか、常々不思議に思っていました。

そもそも、男性がジェンダー(男らしさ)を意識するのはそういう特殊な時だけで、ふだんはman-humanという壮大な図式の上に乗っかっていて、めったにジェンダーやセクシャリティについて考えなくていいという、とってもハッピーなひとたちなのです。これはとっても不平等なことじゃないでしょうか。

そして、ここに答えが書いてあったので、わたしはショックを受けました。

なぜ、あれほど、自分が男であり、性犯罪者と同じ男という属性を持つことをかたくなに否定するのかというと、彼らは普段自分を男だとわざわざ考えていないので、特殊な時に、性犯罪者という刺激的な言葉を聞いて、「自分は男だ、そして、男という属性は汚されてはならない」と反射的に刺激に対応しているのが分かったからです。あれは特殊な男で自分はそうじゃないと、分けたいのです。

たぶんですけど、「女にも犯罪者はいる」と言われたとき、女性の反応は「ふーん、そうだね、女にもいろいろいるから」って感じでショックは受けないと思うのです。

だから、「男性に性犯罪者がいるよね」と言われたとき「男性差別だ!」「同じように言われたらそっちも傷つくだろう!」と言ってくる人たちが不思議でなりませんでした。

「ハッピー」だから考えないし、考えないからハッピーなので、女性に「考えないほうがいいよ」と言えるわけです。自分が考えてないでハッピーだから。

因果が逆なのに、「女性は考えることでわざわざ不幸になっている」「自分は考えないからハッピーだ」と無意識に思っているのです。

女性が「考えざるを得ない状況」に日常的に

p198

女性は夜道を歩くとき、満員電車に乗るときなど、さまざまなシーンで女であることを意識させられます。それは強制されると言っていいでしょう。絶えず、被害を受けるかもしれないという防衛体制を崩せません。

というわけです。でも、それを男性たちは「理解したくない」から、「どうして女は自意識過剰なんだ」「男を犯罪者扱いするのは男性差別だ」といってくるのです。だから、わたしたちは「どうして理解できないんだろう?」と頭を悩ます必要はありません!理解したくないんだから、何を言っても無駄なんです。

フェミニズムについて、よく誤解されがちですが、敬愛する女性学の研究者が主張しているように「弱者の思想」だと私は考えています。弱者は弱者であることことで尊重される、弱者であるがままに生き延びることができる社会を目指す考えなのです。

と書いてあることに全面的に賛成です。

力の差があるのに、ないかのように扱う、現実を見なかったことにする、「娘と母」「女性と男性」の間にある、厳然とした力の差をなかったことにして、「気にするから存在するんだ」と言ってくる人たちが大勢います。

「気にするほうが差別者」と、言葉を投げられたことともあります。

p199

フェミニズムに触れ、母親も自分と同じ女性であること(共通のジェンダー)を見つめる必要があります。

わたしは、子育てをする中で、悩みます。同じことをするんじゃないかと。具体的に自分がどう育てられたか思い出します。

だからそれを一歩進めて、具体的に母親の謎を解き明かすことで、わたしは、母と自分を分けたいと思います。


犯罪の八割は男性が起こし、性犯罪の99.7%は男性が起こす

犯罪の八割は男性が起こす(起訴)。

略取誘拐、人身売買、強制わいせつ、強姦の被害者は、女性がほとんどだ。

暴行、傷害、誘拐、強制わいせつ、強姦などは、九割が男性だ。

だから、女性は男性を恐れる。そして、憎むのにも根拠がある。

女性は、おびえながら暮らしている。被害にもあっている。それで、男性が言葉での攻撃も恐ろしいというのは無知から来ているのか、現実を見たくないのか。

男性は、男性であるだけで性犯罪被害者になりにくい。

犯罪者の九割が男性なのに、女性が、どうして、男性を恐れないでいられるだろうか。

女性が起こす犯罪は、窃盗か万引きが多い。それは、もちろん犯罪だが、女性が恐れるのは、物理的な攻撃である。物理的な攻撃を行うのが男性だと感じていて、そして、数字からも裏付けられる。

女性が男性を警戒するのは当たり前だ。

見た目でわかる特徴があって、それを避けるしかないのだから。

また、強姦、強制わいせつ、人身売買の被害者が、65歳以上の女性まで存在することも注目すべきだろう。

 

男子の受刑者が19744人に対して、女子の受刑者は2122人しかいない。おおよそ9:1の割合。

 

 

女子の犯罪で九割を超えているのは、英二殺しだけだ。それも年に十件。

これは、未婚の母(多くは子供)が妊娠して、支援もなく、殺すに至ったものが多いだろうし、男親の不在、社会の支援のなさから招いた、社会的な問題が背景にある。女がせざるを得ないように追い込まれていること、子育てを女がするものだと思わされていることが原因だろう。

 

http://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/boryoku/houkoku/pdf/hbo07s-10.pdf

強姦 被害者の数

総数  1,289男 - 女1,289
強制わいせつ

総数7,027  男161  女6,866

 

上記から、性犯罪の被害者のほとんどが女性だとわかる。

被疑者の性別(平成 22 年中の検挙人員)
※ 警察庁「平成 22 年の犯罪」を基に作成したもの。

強姦 総数803男 802 女1
強制わいせつ 総数2,189 男2,180女 9

9/(803+2189)=0.003008

これをパーセントに直すと、0.3パーセントが女性の起こした性犯罪になる。

ということは、性犯罪の九割九分は、というか、99。7%は男性が起こしていると言える。そして、その被害にあうのは、年齢問わず、「女」。年をとっても、性犯罪から無縁ではいられない。

犯罪白書に書いてあるが、性犯罪については、暗数がとても多い。ほかの国で「性犯罪」となることが、日本では犯罪ではない。また、警察に訴えることができない、レイプ検査キッドがない、警察の対応が悪い、捜査されない、などの問題が多々あることをお忘れなきよう。

ただ、強姦に関しては、定義が「性器に性器を挿入すること」であるので、「異物を体に挿入する」ことに変えるべきだ。男性差別を訴える人は、まず、ここを言えば、男性の性犯罪被害者を救える。ただし、女性に言うんじゃなくて、公権力に言うように。そして、その公権力のほとんどが男性たちが占めていることも忘れないように。

男性も、「自分を苦しめているのは男性だ」ということにはよ気づいてくれ。

司法も警察も検察も男が占めているし、犯罪者もほぼ男性だ。

冤罪も犯罪も男性が起こしている。

Twitterのリプライでわかったが、データを突きつけても「男性差別を訴える人々」というのは、データを「見ない」。見えないんじゃなくて観たくないから見ない訓練を積んでいるようだ。

上記のデータをリプライで送ったら「嬰児殺しは女がすると言われたらどんな気持ち?」と返ってきた。そりゃー「見たくないものは見ない、どんなに明らかなデータでも見ないのかすげえキモイ。ああ、やばいキモイ」って思うよね。こんなに明らかなのに、それには返事しないで話そらすんだから気持ち悪いよ。対話が成り立たないというか、なんだろう。ちょっとこの話の通じなさは怖い。恐怖。


自閉症的生活【考えない練習】感想

考えない練習 著者・小池龍之介

 

【読後具合が悪くなったので勧めません。単に実家が強くてうまくいっただけなきがする】

この本を思ったのは、「自閉スペクトラム症みたいな考え方だな」ということ。

管理できるだけのものをもつ、計画を立てて行動する、決まったパターンの生活をする。人と群れたりつるんだりしないで、一人でいることを苦にせず、じぶんのしたいことをして、思っていないことを言わない。顔色を窺わない。感覚が鋭い。自分の感覚を大切にする。オンとオフをはっきりさせる。使わないモデムの電源は落とす。テレビはノイズになる。

これって、とっても自閉スペクトラム症的。伴侶は、足音を立てずに動く。ほとんど伴侶は実践している。

わたしは、コレクションをしがちなので、自閉スペクトラム症の人が全員これを実践できているということを言いたいんじゃなく、この考え方は、自閉スペクトラム症の持ち味を生かせるなと思った。

賛成できない部分もあって、子供に対する声掛けのところなんて、机上の空論だなと感じた。

でも、何かに気を取られて、上の空でいると、その上の空の分人生がなくなってしまう、というのは、最近実感していること。

過去の怒りに燃えている間は、今現在をきちんと実感しながら生きることができないし、何かを欲しがっている間は、食べているものの味もしない。

わたしは、頭の中のノイズに悩まされているので、どうしたらノイズを減らせるかというのは参考になった。脳が刺激を求めてしまうから、自分から苦痛をむさぼって、そしてそれが解消された状態を「楽」だと思い込んで、繰り返してしまうというところは、自分がそうしているという実感があるのでよくわかる。

何かを欲しいと思うことも、渇望することも、苦しい。こういう自分になりたいと思えば苦しい。それを開放すると楽な気がする。でも、手に入れてうれしいのは一瞬だから、また、ほしいものを探してしまう。

ただ、ちょっとわからなかったのは、怒っているということをどう扱うのかということ。

闘わないと、ずっといじめられる人にとってどう受け取ればいいんだろう?

たしかに、怒りの言葉を発しているうちに、どんどん自分が言葉に引きずられて興奮してしまうことはある。

でも、どうしてもつらい出来事や理不尽な出来事があるとき、怒るのは自然だ。そして、それは言わないと伝わらない。

相手が、それを聞いてどう思うかどうするかは、相手の問題だけど、怒りや、差別などをどう扱えばいいのか。

自分の中だけで解決すると、世の中は変化しない。それって、差別される人にとっては甘んじること、同化することに他ならないから。

折り合いをつけるためには、一度、怒りを感じて、それを今感じているんだなと認識して、それを表現したら、あとは受け取り相手に任せるという態度が必要なのかなと思った。

興奮してしまったり、刺激が強いものは避けたりするというのはいい考えだと思った。ネットは不愉快なものをわざわざ見るのに適したものだ。

そして、わたしは、結構そういうことをしてしまう。とくに、刺激がほしいようなとき。自傷みたいだなと前から思っていた。それは、脳が、刺激を欲しがっているからだ。その刺激は何だって良いのだ。

テレビのお笑いについて「相手を貶める」「自分を貶める」「混乱させる」の三つだと書いてあったのは、その通りだなと思った。お笑いを見ていると、自分の中の「当たり前」が破壊されるようで苦痛だ。

 

 

近頃、おいしいものを食べても、上の空だと、食べた感じがないから、ちゃんと集中して食べることが大事だなと思っていた。

テーマとして「集中してぼんやりすること」を主治医に宿題として出されていた。人は、集中してぼんやりすることが大事なのだ。

スマホを見ると、刺激が強い情報が多いので、自分がここにいないみたいな感じで、苦痛をマヒさせて、時間をスキップすることができる。でも、それだと、体がここにいるのに、心が体のある場所からなくなるから、自分の人生がすり減ってしまう。

だから、時間を短くする、手を動かしたり体を動かして、心と体が同じ場所にいることを心がけようと思った。


柔らかくぐにゃぐにゃした「女性差別」

読者に「もうあなたはへこへこしないでくれ」「自信をもって女性差別を教えてやるという態度でいてくれ」「なぜなら、相手はあなたに敬意を持っていない。そして、あなたが書くものを読む若い人が堂々とした態度を学ぶから」

と言ったので、ああ、そうか、じゃあ、わたしはそうしようと思った。

長い間、二十年近く、女性差別について書いているのに、なぜ、わたしは今だに教えを乞う態度でいるのだろうかと考えたら、それは、わたしが「女性」は「教えを乞う態度でいるべき」というコードを内面化していたからだった。

改めて考えてみると、わたしは、子供たちを教えているのだから、もう、わたしは学ぶよりも教える立場として書くべきなのだ。

指摘の通り、わたしが女性差別を訴えるとき、ほかの差別を訴える人が、便乗してきて、わたしの勢いをそぐことがよくある。

ある女性とある男性がもめたとき、女性にだけ「注意」される、というのはよく見た光景ではないか。

ある男性が女性差別をし、女性が取り乱しながら指摘をすると、その取り乱した内容に第三者からの「注意」がされ、女性は謝り、改めますと言い、その間に男性はいなくなる。そんなことがずっと繰り返されてきた。

女性と男性がいたとき、同じ分量の指摘がいかないこと、それは二回目の女性差別が行われている。そもそも、差別をしたのは男性なのに「あなたの訴えはわかるけれど、でも、あなたはさらにほかの属性を踏んでいる」と言いながら、男性に対しては何も言わないのは、男性を「許している」し、女性差別に加担している。

複合差別を訴える人が、まさに、「複合的な問題に悩む女性」からの指摘に対して「でも、複合的差別もあるのだから、男性特権が特別なものではない」と言い返したのは印象的だった。今、まさに、あなたに男性が女性差別をしていることを話しているのに、どうして、「男性特権が特別なものではない」と言えるのか。男性特権は特権のひとつで特別なものじゃない、と言えるのなら、それは、男性特権だ。いくら、柔らかい言葉で穏やかに話したとしても、「複合的問題」を抱えた相手に「複合的差別」を利用して、女性差別を無化したことは消えない。ある女性が、複合的差別を抱えたまさにその人物であっても、男性なら「複合的差別」について、レクチャーできると思っている。その男性が複合的差別を受けていなくても。

 

シンプルに「今女性差別をしている」と言っても、「あなたは複合的差別を知っているか」と話をそらされてしまう。

いや、今わたしは複合的差別を抱えているとあなたに言ったし、そして、あなたが、「今差別をした」という話をしたのに。それに、あなたは「複合的差別を理解しない人がいるのはなんででしょうね」と言ったじゃないか。今あなたがこちらの複合的差別を理解していないでしょう。こちらの事情も属性も話したから、知っているのに。

といっても、相手は理解しないで「こんなにも丁寧な態度をとったのに」とほかの人に呼び掛ける。「今俺はこんなにも責められている」と。

 

それがまかり通ってしまうことが、女性差別である。

女性差別を訴えた相手に、それをなかったことにされること。周囲にも、それよりも大事な差別について考えろと言われること。

 

わたしは、これから、指摘について謝らない。それでは不満だとしたら、今は取り乱しているので一か月後にお願いしますそして相手にも同じ分量の指摘をしてくれ、と言ってみようではないか。それは小さな一歩だけれど。

 

障碍者差別を訴えるときに「一部の差別的な健常者が行う障碍者差別」と言わない。でも、女性差別を訴えるときに「一部の男性が行う女性差別」「すべての男性という意味じゃなく、男性の枠組みが」という言い方をどれだけ繰り返してきただろう。

わたしは、それに飽き飽きしていたのに、攻撃されることが嫌で、ずっとそれを言わなかった。

男性の「被差別者」がその枕詞を使わずに済んでいるのならば、それは男性特権なのだ。

男性は容姿をたたかれない、経歴をたたかれない、だから、実名と顔を出して経歴を宣伝しながら、差別を訴えることができる。そして、なんだったら、「差別」について書いて、仕事を得たり、賞賛を得たりすることもできる。それは男性特権だ。

女性差別は、社会的な文化、社会的に必要なものなので、それをやめろというとき、社会構造が崩れることを恐れられるので、決して褒められることはないし、それどころか、目障りなので、どうにかして、口をふさごうとされる。目障りじゃなければ、差別を訴える意味もないということだ。

わたしは、理系理系、というが、それは理系が素晴らしいという意味ではなくて、理工学部の女性の大学の進学率が、数パーセントだから言っている。医学部、法学部の進学率も低い。そもそも、大学への進学率は女性のほうが低い。半分半分になったら、わたしはもう何も言わない。

女性の多い高校では、理数系のコースがない場合がある。進学校にしか、物理化学の授業がないが、進学校に入れる女性が少ないので、理系の科目を受けることができる女性が少ない。そして、その中で、「物理」「数学ⅡB以上」を受ける女性がどれだけいろいろなことを言われるか、そして、気持ちをそがれるか。物理を履修できる女性は、推測すると、人口の数パーセントだろう。それは、実際、理工学部の女性たちが数パーセントだということとも合致する。受験できる科目数が多ければ多いほど受験は有利だから、物理を勉強した人は、センター試験で物理を取る。物理は一番範囲が狭く、簡単な科目だから。簡単なのは、受ける人が少ないから。受ける人数が少ないのは、そこから女性が排除されているから。

理工学部のキャンパスが真っ黒な男たちで埋め尽くされ、その学生たちがこの世には女性などいないという錯覚のもとでその価値観を育てていく。

理系の学部に進むことがゴールではない、なにしろ、理系の「職業」は「男性」に占められているから、その職業に就けることはないかもしれない。そのときに、どれだけ悔しいか、わたし自身も経験したことだから、わかる。

でも、それは単なるチケットなのだ。別に日本で生かす必要はない。わたしは、ずいぶんと日本をあきらめているので、グローバリズムが、「世界的出稼ぎ」の言い換えだとしても、女性が亡命することに反対するものではない。

 

女性たちは、柔らかく、可能性から、排除される。「自発的にあきらめる」という過程を経たうえで。その「過程」では「まあ、計算が遅いのは女の子だから仕方がないよね」「女の子は機械が苦手だよね」「勉強よりも大事なことがあるよね」「こんなこともできないのか、女だからな」と言われて、ああそうか、とあきらめる。たとえ、苦手だとしても、適切な支援を受ければ乗り越えられることなのに、その機会を「女の子だから」与えられないで、自分はバカだと思い込んで、あきらめる女の子がいかに多いことか。

 

どんなに優秀な女性の学生がいても、その子自体があきらめていたり、学校にカリキュラムがなかったりするせいで、チャレンジを呼びかけることすらできない。

頑張ればできる、あなたならできる、と言いたくても、その学校に、そもそもカリキュラムがなくて、可能性が最初から立たれているときの何ともいえない喪失感。むなしい。

そうやって日本は回ってきたのだ、と言われれば、はい、そうですか、と言えても、「だから、これからもそうするのだ」と言われたら、それは「変えることのできる文化だ」という。

誰もかれもが少子化少子化といい、少子化をなんとかするには「女性から賃金を奪えばいい」と政府自体が思っている。そして、それは、当然「普通の人」も思っている。それを感じる。そうした社会で育った女たちは、どうやって生きようとするのか。その一方で、「勤労人口」も増やしたいから、女性には賃金の安い、なんなら無償の仕事についてもらおうと、企んでいる。

少子化は悪いことで、それは女が産まないからで、だから、女が少子化の責任を負えばいいとみんなが思っているから、常に女を罰してその責任を取らせようとしている。その空気に抗うために、わたしはもう謝らない。

障碍者差別を訴えるときに、民族差別や学歴差別や、貧富の差、障害の種類や重度さで、どうのこうのといわれることも今までなかったし、ほかの差別を訴える人たちが、「今、あなたは障碍者差別を訴えるために、Y差別に苦しんでいる人を踏んでいる」と言われたことはない。

女性差別なら言われる。

その差をわたしに納得させることができ、わたしに対する敬意を払ったうえで、わたしが訴える差別に対して同じくらい指摘し、また、わたしが落ち着いて対処できる期間を待ってくれる相手になら、その指摘を受け入れて、改めることはするだろう。でも、基本的にはわたしが今まで払ってきた敬意を踏みにじられるばかりだったので、それを忘れないようにする。

柔らかくがんじがらめにされ窒息させられるような女性差別について、男性たちは、わたしに教えてほしいというべきなのだ。教えてやると言わんばかりに、手にほかの差別をもって押し掛けるのではなくて。


マサキチトセ氏の差別的放送後の抗議の記録《エロくない性の話》批判

やりとりの、わたしが送った部分を公開します。

批判は批判が存在すること自体で、意味があると思うので、謝罪を目的としません。

しかし、マサキチトセ氏がどんな言葉を何回使っているか、検索して数えたところ、

申し訳 1
ご理解 2
すみません 0
ごめんなさい 0(出先でごめんなさい1)
謝罪 0

ということになりました。申し訳ないというのは、「コニーさんに絶望感を与えたのですね。申し訳ないです」という文脈で使われました。

ご理解くださいという言葉に問題があるのは、自分が害を加えた属性の相手にさらに負担を強いるからです。

今回の件の問題は、「反差別・セクシャルマイノリティについて書く・講演会をするライター」が主催したツイキャス番組でゲストが「女性差別にあたる言動」をとり、主催者がそれを放置した点にあります。

彼には、「ゲイがアウティングされたら自殺するかもしれないこと」を心配する能力があります。しかし、女性差別的言動が、「反差別的な立ち位置の番組」で行われた結果、「女性が自殺するかもしれない」という可能性を想像することはできませんでした。これは、能力的なものではなく、彼自身の「価値観」に依存するものです。はっきりいえば、女性の権利や健康に関心がなく、自分のコミュニティにのみ、関心があるからそういう態度になるはずです。

(きっとそうではないというでしょう。しかし、実際、わたしは健康を害しましたし、自殺を考えました。そういう疾患を持っているからです。そして、それを伝えました。けれど、彼は「指摘に感謝」という言葉遣いを選びました。)

「指摘に感謝」するとブログやツイキャスのページ、ツイッターに書かれていました。

まず、この発言自体に問題があります。

  • わたしの苦痛は感謝されるようなものなのか。
  • わたし(たち)の苦痛は、シス男性を賢くしてアップデートするための踏み台ではない。

ことが問題としてあげられます。

(自分の番組をよくするための材料としか考えておらず、こちら側の感覚的な理解がない。どれだけわたしが言葉を費やしたか下記で見てください。最初の日のDMを受けて、なお、彼は「感謝」という言葉を使っています。そして、ご理解くださいという一方、「絶望を感を感じさせてしまったのですね……。申し訳ないです」のみの謝罪は一回にとどまる。負担をさらに与えてもかまわないと思っている、そもそもそのことに気が付きもしない。ようは自分のことしか考えていない)

また、最後の貼ったリプライの応酬は、かなり良いように見えます。

(反省する、努力する、反映する、謝罪する、大変申し訳ない気持ちと書いてある)

しかし、今、自分の番組で起きている女性差別への批判の話なのに、なぜかマサキチトセ氏は、「トランス女性」「民族差別」「経済格差」の話が混入をさせている。その話はしていない。話をそらされている。

同じ差別だからではなく、今現在進行形で起きている差別を、わたしが、差別の実行者である彼に対して、「女性差別の話に関して抗議している」のに「経済格差や民族差別と同じように」と言われてしまう。おかしいと思います。

彼はいったいどこへ行った?自らを透明化してしまった。彼は、透明人間だ!

また、DMでは見られなかった言葉が、どうして、リプライでは見られるのかということを考えると、絶対に「そんなことはない」と言われるかもしれないけれど、受け手としては「見えるところと見えないところでは態度が違うのだな」と思います。

使う言葉が、場面によって違う、というのが、差別の表れの一つだからだ。

わたしが、このような扱い(わたしは不当だと思う)を受けるのは、わたしのどの属性に依存するのだろうか。

わたしは、この件では、女性差別について、抗議している。その点で、このような態度の違いを使い分けられると「女性」という属性に対して向けられた差別だと考える。

改めて言うが、今回のことは、「やか氏」の差別的な意識がきっかけだったかもしれないが、「マサキチトセ氏」自身の差別意識が問題だと言える。

「トランス女性だから」という理由によってのみ経験の差異があるのだと考えることは(それがゼロではない、あるいは大いに関係しているとしても)危ないような気がします。

性別はとても大きな要素で、男女差別の影響はほぼすべての人/が受けていますが、他の不正義(経済格差、民族差別、etc.)によって私たちが受けている影響も計り知れません。

だとしても、わたしなら、このことを違う言い方で表現します。

「経験の差異があるとしたらお互い学ぶことで克服できる」というように。

また、やか氏の差別的言動と、それを看過することで女性を抑圧する形の差別を行った主体であるマサキチトセ氏が「トランス女性に経験の差異があるからと考えることは危うい」と、この時に言うのは間違っています。はっきりと。

それは、わたしに対して、また、女性に対して抑圧として働きます。

なぜならば、彼には権威があるからです。

彼は、華々しい経歴と、セクシャルマイノリティについての文章を商業ベースで掲載されています。それは、彼の言動に、「説得力」を与えます。

わたしは、まさにこのような言動によって、抗議をためらいました。そして、抗議の最中にそれを「再び」されたのです。

私自身シス男性として生活しており、ミソジニーやトランスフォビアから全く自由でない立場で言うのは何様という感じですが、願わくば、シス女性とトランス女性が女性同士として(民族や障害、階層などの他の軸と同様に)意見し合えるような状況が望ましいと思います

これは、自分の行った差別と抑圧を、他人事にする一言です。

「何様」ということになるから、発言を控えるという態度が、自らの行った差別に対して許されるのかと言えば、許されません。

願わくば、ということこそ「何様」ということになります。

これは、「シス男性」が頭上から「トランス女性」と「シス女性」の争いを眺めているから出ている言葉です。

そういう構造を自分で作りだしておきながら、「自分はシス男性だからとやかく言えない」というのは、カマトトとしか言いようがありません。

意見し合える環境を、今、まさに、作り上げることができないばかりか「抑圧を実行した」反省の口の根も乾かぬうちに、「願えてしまう」ことは非常になんというか私の語彙では表せないけれど醜い言動です。

トランスフォビアやミソジニーから自由にならないから、だめなんじゃなくて、「差別的な言動を発信した」実行者なんですよ。そして、三時間、それについて一切反省しておらず、他人事のまま、六日までいたる。

差別的な言動を三時間たっぷり流して聞かせた人間が「願わくば」という。

わたしは、それが許せません。

ブログなどの追記を見ましたが、彼が本質的な問題を理解しているとは思えません。

彼が、差別的な言動を公に流した実行者なんです。それを選択したんです。そして、継続し、番組が終わるまで、止めず、今もなお、高みから見物しているような物言いをしています。

以下、資料として、わたしのDMに書いた文章を公開します。

マサキチトセ氏が書いた文章はここには載せていないので問題はないはずです。

まさきさーん こんばんはー ラジオありがとーございました

ちょっと自分でもきもちがまとまらないので、リプライじゃなくてDしますね

わたしのなかに、トランス女性にたいしてフォビアがあるのかについては、きちんと考えなくてはと思うのですが

教育格差についてです

ラジオいつもたのしみにきいています いつも刺激になりますで、教育格差のくだりなんだけど、むねがぐっさりしました

 自分の気持ちをありのままにいうことをゆるしてほしいのだけど

 今もなお、女の子だからあきらめないといけない進学があったり、理系の科目にかんする興味を巧妙に折られる現実や

 ストーカーや変質者にあって、安全に学校生活をおくれず、慰めたりします
私自身、女性だからと理系メーカーを全滅した上、同期に「女性が志望しないから理系メーカーには女性がいない」といわれて、声がでなかったことがあります
塾で、理系は男性教師に教えてほしいと言う親もたくさんいます

 理系科目より古文ばかり振られます

というのをぱっと思い出して

同じ家庭でも男の子は浪人して県外を受けられても

 女の子はダメとか往々にあり、それを慰めながら授業します
 でもそれもましなくらいで、そもそも同じ兄弟でもかける額が違います

 女の子は理系にいくなら看護か薬学部です

塾にいっても、そこでそれ以外を勧められません

ゲストの人に同じ認識をもってもらうのは難しいのは承知ですが

 いまなお、教育格差にまつわる話は、女性には生々しいものです

女性として学生時代をおくらないとみえにくいのでしょうか。

ということをおもいました

構造がちがうんですよね。


マサキチトセ氏本人への批判《エロくない性の話》への批判続き

実は、批判のブログを書く前に、DMで二回にわたって対話をした。

今では、DMを選んだことを公開している。信頼していたから、DMにしたけれど、DMのやり取りに問題があった。わたしは、公開した状況でやり取りするべきだったと後悔している。しかし、わたしは、あのとき、まだ、彼を信頼していた。だから、気を使って、DMで事前に会話をしたり、確認をしたりしたかった。

しかし、それは裏目に出た。

たとえば、彼は、ご理解くださいと繰り返した。

これは問題だ。差別を受けた側がなぜ理解を求められるのか。そこに、力の非対称性がある。

あの番組で起きたことは、「差別」だ。フランス語を習おうとして女性の心得を学ばされたことは「差別ではない」と示し続けたことが、差別である。

「マサキチトセの」と冠がかかっていて、企画者も、司会者も、ゲストの人選をしたのも、マサキチトセ氏なのだから、全責任はマサキチトセにある。

わたしがどのように何を理解しようと、「差別を中断することなく番組を続行することを決めた」のは、マサキチトセ氏である以上、番組内で差別が起きたはマサキチトセ氏の責任ということになる。

わたしがいかに「ご理解」しても、現実に、あの番組が差別を垂れ流したことは変わらない。

「なにもしなかったわけじゃない」と言いたければ言うのは自由だけど、はっきりいって、わたしは単に話題を変えたようにしか理解できなかった。

「差別をやめろ」とゲストに言うか、それでもやめなかったら、ゲストを外して番組を続けるか、一度番組を閉じるという選択肢もあった。

だが、彼はそのいずれもしなかった。無作為の責任がある。

また、傷ついた側に「ご理解」を求めるのは、結局「傷ついた側」に責任を求めることと同義だ。わたしの理解が足りないから、わたしが差別と感じているみたいだからだ。

DMでは、中立的な言葉遣いをしていたけれど、彼は中立ではない。番組の主催者なのだから。(もし、マサキ氏が訂正を求められるのならば、わたしはDMを全部公開してもかまわない)彼は、友人だから話をコントロールしたわけじゃないとおっしゃったが、彼はむしろ、話をコントロールするべきだった。

また、わたしがブログを書くことを「ありがたい」と言った。これにはいろんな意見があるだろう。一瞬、わたしは寛容だからそう言ってくれるのだと思った。

しかし、その後、考えが変わった。わたしが矢面に立って、どうして、考察するのかを考えれば、「ありがたい」というのは間違っている。ありがたい、という言い方を批判しているのではない。彼の心構えの問題だ。彼は、「ありがたい」という言い方の前後に様々な留保をつけた。だから、ありがたい、という言葉を抜き出すには問題があるかもしれない。だが、その留保のつけ方にこそ、問題を感じる。

本来なら、彼自身が書くべきことだ。彼がシス男性だから、トランス女性について、批判しにくいというのは言い訳にならない。自分だけの意見だとバイアスがかかってしまうというのも言い訳にならない。

属性抜きに「差別を行った」ら、その言動そのものについて、批判することはできる。もし、できないのだったら、批判できない相手をゲストに呼んだことが問題だ。

 

延べ、視聴者が250人いた中で、それはおかしいと声をあげたのは、わたしと、もう一人の実体験を語った人だけだ。それもいびつな状況だ。

それを是正できる立場にいたのは、マサキチトセ氏しかいない。彼は、自分の責任を透明化している。

彼が、番組の内容に責任を持つ立場でなかったら、だれも責任を取らない。そんな状況で、差別について語るべきではない。

差別が番組で垂れ流されて、それを止められないのなら、それは、危険な番組だ。

LGBTについての差別と、女性についての差別。

どちらも差別なのだから、女性についての差別も、「差別をやめろ」というだけでよかった、それを怠ったのだから、きわめて遺憾であるとしかいいようがない。


読んでくださる方へ

わたしは生きています。昨日はリスパダールを飲んでも死にたいという気持ちや衝動が消えず、心配をおかけしました。

ありがとうございます。気にかけてくださって。

 

Twitterやコメント、メールで、「何の役に立てなくてごめんなさい」と言われることが最近あります。

そんなことない、って言いたくて書きます。

ブログ、読むのにも、それぞれの生活や人生があって、その、一部を使って、読んでくださっていることに、本当に感謝しています。

アクセス数を見ることができますが、それは数字じゃなくてその背後に一人一人がいること、伝わっています。

正直に言って、はてなブログで書いていた時には、有名な人に読んでもらったり、言及されたり、いろいろな人に引用されたりすることが、単純にうれしいと思っていました。

読んでもらうと、アクセス数が増えて、それが自分の力だと思いました。

でも、波が引くように人がいなくなってから、それでも残ってくださった人がいて、わたしは、感動しました。

ほんとに、死のうかと思うこともよくありますが、それでも踏みとどまれているのは、支えてくれている人がいるからです。それは、家族、友人、今この文章を読んでくださる人です。わたしのことを嫌いで読んでいる人も当然いらっしゃるとは思いますが、それでも、時間を割いてくださることに感謝します。

 

もともと、不正義について描いていたことが多いブログでしたが、アクセス数が単に数字じゃないと気づいて、さらに、不正義や疑問を書いていくことにしたのは、みなさんのおかげです。

 

わたしは、たまたま文章が得意で、書くことができます。得意というと語弊があるかな?傲慢かな?とも思うのですが、自分の思っていることを伝える技術を持っているくらいに思ってくださればいいです。

 

一方で、わたしにはソーシャルスキルが欠けていたり、ほかにも、年齢の割に、獲得していない能力がいくつかあります。

コメントや、ツイッターで声をかけてくださる人や、メールをくださる人に、そういう面で助けられています。

いわば、わたしは、みなさんの助けを借りて、文章を書いています。

読む人がいなければ、文章の意味がないです。いや、自分では読むし、記憶の整理にはなるんですけどね。

わたしは、わたしの考えたことを書きます。わたしにはその力があって、だから、その力を正しく使いたいと思います。

鋭い刃物を振り回しているだけじゃなくて、その刃物に、方向性を与えてくれるのは、読んでくださる人です。

アドバイス、励まし、いたわり、共感、そういうものがなければ、今まで続けることができなかったでしょう。

わたし一人で書いていると考えていたのは、傲慢でした。

わたしは、歴史上の人や、本を書いてくれる人や、話してくれる人、交流する人、読んでくれる人、そういう人の力を借りて、文章を書けているのだなと今は思います。

影響力がある人が偉い、すごい、という気持ちが全く消え去ったとは言えませんが、そうじゃなくて、わたしは、わたしの信じることをこれからも続けていきます。

間違っていた時には自己保身はせずに、反省や、謝罪を、できる人間でありたいと願います。

読んでくださっている人で、何もできていない、と心を痛めている方がいたら、そんなことはない、わたしは、あなたのおかげで生きていられるし、書いていられると伝えたくて書きました。

読んでくださってありがとう。

わたしは、卑怯な人間にならない。そして、これからもブログを続けます。


【女性の教育格差】マサキチトセ《エロくない性の話》への批判

このラジオが発端になって、非常に混乱している、精神的に危機的な状況でもある。自殺衝動は高く、抑うつ状態で、うまく手足を動かすことができず、音に反応して、動揺し、頭の中で叫ぶ声に耐えられない。持っている中で、一番強い薬を飲んで、何とか飛び降りたり、切りつけないようにしている。夜は眠れない。悪夢を見る。

マサキ氏自体への批判はこちら
DMでやりとりをしたが、あり得ない。
リプライなら証拠にすることができたのにと後悔している。

このラジオの問題は大きく分けて、

「フランス語を履修したのに女性の心得を教えられた」という実体験に対して、それを差別だと認識せず、その認識を最後まで改めなかったやか氏。(この実体験を書いた方は、「エイプリルフールのゲイカップルのアウティングネタの何が悪いのかとっさにわからなかったので、学びたいと思って参加した」旨書いていた方です。だから、なおさらつらいと思いました。)

「シス女性のトランスフォビアがなくなれば、フェミニズムでも女性同士共闘できるはず」「女性にはミソジニーがあるため、男性という特権階級から女性に降りたトランス女性を許せないのだろう」というトマト氏の発言。

もちろん、その場を作ったマサキ氏に責任は帰属する。

わたしは、Twitterに書く前、このブログを書く前にマサキ氏とやり取りをした。

その際に「友人だから、差別を止めにくいという無意識の判断が働いた可能性がある」ということをおっしゃって、わたしは

「わたしは友人ではないから、差別を放置されていてもかまわない存在なのだ」という風に受け取った。

(そのあと、意図的な行為ではないが、絶対にそうではないと言い切れないからそういう風に言ったとのこと)

マサキ氏は、「友人だから批判しにくかったという可能性を捨てきれないけれど自分としては、不十分とはいえ、教育の差別について突っ込みを入れた」という趣旨のことを言っていた。

それは理解している。ただ、本人も言うように、決定的に不十分なのだ。

わたしは、トランス女性の「男性ジェンダーロール的ふるまい」「男性特権についての構造を理解していない」ということが大きな問題であると告発するものである。

もちろん、女性差別は、女性も男性も、セクシャルマイノリティも行う。

トランス女性は少数派の中の少数派だから批判が向きやすい。だから、批判をしないほうがいいのではないかという葛藤もあった。

わたしは、自分の感情を把握するのに数日かかる。その間にも体調は悪化し、日常生活を送れなくなる。差別というのはそういうものだ。

あのラジオを聴いていた人たちは、複合的差別を受けている人が多かっただろう。そして、自分が差別者として人を抑圧したくないから、トランス女性の声を聴いて学びたいという思いで参加していた人も多かっただろう。

しかし、わたしは、裏切られたと感じた。

わたしは理解したいと思っていたが、彼女たちは、それを怠っているように見えた。

わたしは、その人が「女性だ」と名乗れば、女性だと認識する。

見た目がどうであっても、身体がどうであっても、関係なく、女性だと名乗られたら、女性だと理解する。そして、女性として扱う。

しかし、シス女性同士がそうであるように、経験の差異はあり、その差異による認識の違いはある。

シス女性は、また、女性として扱われて育った人たち、トランス男性も含めて、わたしたちが共有していることを、トランス女性たちは、「男性として扱われて育っていたので」共有できていない。それは、知ろうと思えば知ることができることである。実際、フェミニズムについて親和的な男性たちは、教育格差について、理解している人もいるのだから。

「育ち」による、「価値観」の影響は誰も逃れることができない。けれど、それは学ぶことによって修正できる。しかし、やか氏はそれを怠った。

  • 男性特権について

わたしの考える男性のジェンダーロールの一つに「人の話を理解しない」「人の話を聞かない」というものがある。人の話を無視することを許されるのが、男性特権の一つである。やか氏は、男性特権を、身体的な強さとして語っていた。それは不勉強だ。不勉強自体は罪ではないが、男性性を感じ取られて、忌避される原因になるだろう。

やか氏は「ホモソーシャルにいて、排斥されると暴力を受けるが、女性はそうではない」ということを言っていた。

これは端的に間違っている。社会全体がホモソーシャルの文化下にいるため、男性は、男性らしさを誇示するために「弱者」を殴る。

その弱者は誰でもいい。男性が男性だけを殴るわけじゃない。

男性は、女性を殴り、子供を殴り、障害者を殴り、老人を殴る。わたし自身、中学生時代には、男子生徒が、男らしさや強さをアピールするために、毎日殴られていた。理由はない。そこにわたしがいて、殴りやすかったからだ。そして、彼らはホモソーシャル内の地位を維持していた。

ホモソーシャルの維持には、女性が不可欠だ。その認識がやか氏にはなかった。

やか氏は、「個別に見ることが大切」だということを別の話題で言っていたが、個別で見ることで、構造的な問題を「なかったことにしてしまう」作用について、もっと考えてほしい。

 

 

  • 教育格差について

わたしの仕事は、女の子相手に、勉強を教える仕事だ。必然的に、その親御さんは教育熱心で、貧困ではない。そういう相手の仕事をしている。

ある女の子は、目が悪くて、黒板の文字が見えず、三年間、授業の内容が分からなかった。そして、バカだと言われ続けて、自分でもバカだと言っていた。

その保護者が眼鏡を買わなかった理由は「女の子だから眼鏡はみっともない」という理由だ。

それで、彼女は自尊心をはぎ取られ、教育機会を逃した。

教科書を全部燃やされた子もいる。

「女の子なのに片づけないならいらない」という理由だ。

学校で毎日男子に殴られている子もいる。

教師や、男子生徒に、服に手を入れられている子もいる。

盗撮された子もいる。行く先々をつけまわされ、自転車のステッカーで居場所を把握され、いろんな場所をつけられた。

計算が早ければ「お前がそんなに早いはずがない、どうせ間違っている」と言われ、成績優秀ならば、「男子に譲れ」と言われる。

計算が苦手だとすると「女だからな、女はしょうがない」と言われる。

女らしくないから数学をしないように仕向けられる。バカにされる。殴られる。笑われる。目立つなと言われる。支援すれば乗り越えられるものを乗り越えることができないようにする。そして「やっぱり女だね」と言われ、肯定される。

進学率が問題なのではない。進学を、勉強を、理系の学問を、「自発的に」あきらめさせる「過程」が残酷なのだ。

長い時間をかけて、女性から選択肢を奪う。そして、自分から選択肢がないからと、選ぶことをあきらめる。

お兄ちゃんは浪人して県外の大学を受けていいのに、妹は、高卒か短大。県内が当然。理系に進みたくても薬学部か、看護しか許されない。

理系に進む、といえば、あらゆる説得を受ける。それを跳ね返して、物理や化学を履修するのは、精神的な支援が必要だが、ほとんどはない。

そして、「女の子は文系だよね」という既成事実が作られて、「女の子は文系」という偏見は再生産される。

同じ程度に優秀な子を比べたら、女性のつきやすい仕事の中で、看護師は給料が高いと言っても、男性が就ける職業よりもずっと安い。

進路を選ぶときにも「女の子だから」手に職をつけてやめても復帰できる資格をと求められる。

もしくは「女らしい学校」にいって「女らしい」職業に就くことを求められ、その前提で、勉強をする。

 

 

わたしの知っている女たちは、子供時代、お風呂場で声を立てずに泣いたと言っていた。泣いたことを知られないように。

家から出るなと言われる。仕事に就くなら家から通える範囲で、介護を手伝いながらと言われる。それが今なお女性の現実だ。

(プライバシーを守るために、いろいろな場合を混ぜています)

  • トランス女性におびえる女性は存在する

トランス女性におびえる女性は悪だろうか。正直なところ、わたしは、トマト氏の「共闘」について、雑だと感じた。

シス女性同士でも、価値観が違い、立場が違うので、共闘できず、連帯できず、それを求めながら実現できない現実にのたうち回っている。

女性たちがトランス女性を怖がる理由は、トランスフォビアだけが理由ではない。

たとえば、やか氏は上記の女性の教育格差について実感がない。

高専で世界史の授業なのに、中国史を学ばされたということと、フランス語を履修しているのに教えられなかったということを同じだと思っていた。

女性は、高専に入ることが難しい。

まず、受験させてもらえない。受験したいと言ったら「男ばかりだぞ」「お前に物理ができるのか、数学や化学や物理ばかりだぞ」と言われる。

高専に入ると、恵まれた就職や、高度な教育、安価な授業料という恩恵を受けられる。でも、現実に、女性は、その選択肢をふさがれている。

高専には入れた、ということだけで、「理系の勉強をすることを邪魔されていない」「願書を学校が用意した」ということがわかる。それは、女性たちが喉から手が出るほどほしがっているものだ。しかし、それを彼女は知らない。

知らないで済むというのは特権である。わたしは、ラジオで「構造が違う」とコメントしたが、彼女はそれを理解しなかった。わたしの話を聞こうとしなかった。そういう風に見えた。それは、「男性的な行動」だ。話をなかったことにする態度は、男性的だ。それが男性特権だ。高専には入れたことも、差別の構造を理解しないで済むことも、それで泣いたことがないのも、特権だ。

 

また、トランス女性は、女性規範を内面化するあまり、女性に対して、攻撃的な言動をする場面を見る。まるで、男性に認められたいがためのように。男性に女性だとお墨付きをもらいたいかのように。それは、ホモソーシャルの再現のように映る。それで、わたしは、トランス女性について、難しい気持ちになる。

もし、世の中に、女性規範がなければ、彼女たちが内面化することはないだろう。だから、究極的には、トランス女性が、攻撃的なくらい、「名誉男性」と化すのは、世の中のせいだ。トランス女性のゴールが、「女性になる」ことならば、それは納得できる。納得できるが、わたしの批判の対象になる。

 

やか氏の「高専の話を通して差別がないことになった」流れの後のトマト氏の「トランスフォビア」「女性はミソジニーだから、男性であるのに女性に降りたトランス女性を憎む」という内容のコメント(別の文脈だし正確な引用ではないので、実際のラジオのコメント欄を見てください)で、わたしは本当にがっくりした。

わたしの指摘は、トランスフォビアによるものではない。わたしは、共闘できないと思った。なぜなら、彼女たちは、女性として扱われる困難の歴史を知ろうとしなかったから。そして、教育格差の話を、いったんはとりあげたのに、それをそのままにして「シス女性のトランスフォビアがなければ共闘できる」という風に言ったから。とりあげておいて、やっぱりやめることができるのは、それが彼女たちにとって、切実な問題ではないからだ。

わたしにとっては切実だ。そこの差異がどうやっても存在するのに、トマト氏は連帯できる、と言った。わたしは、できない、と言いたい。

責任の所在が、シス女性にのみ帰せられるのはフェアだろうか。シス女性は、トランス女性に、男性として扱われて育った、その価値観の残滓を感じ取る。トランス女性にはその価値観の残滓を少なくとも見つめてほしい。わたしたちは同じ世界に住むが、別の経験をし、別の目で見てきたから。

それをトランスフォビアと名付けるのは、正確ではない。シス女性の恐れの内容を精査せず、トランスフォビアで片づけられたら、批判も徒労だ。批判が、トランスフォビアに回収されるのだとしたら、こんな苦しいことはない。わたしは共闘も連帯もしない。できない。

 

ホモソーシャルの被害者は、主に女性だ。

男性ではない。男性として扱われていた、もしくは、ふるまっていたころの話をするのならば、ホモソーシャルの犠牲になった女性たちの話も聞くべきだ。少なくともわたしは彼女の話を聞いたのだから。

その構造を理解してもらえないならば共闘はない。

共闘できると、言えるトマト氏に、わたしは、言いようのない、断絶を感じた。

トランス女性は、女性であるのだろう。だけど、持っている価値観がわたしとは違う。わたしは違いを理解したいと思った。わたしは、トランス女性に対して、抑圧する立場の、マジョリティだから、知りたいと思った。自分が侵しているかもしれない過ちを正したいと思った。

でも、トランス女性たちは、その育った過程で言えば、男性として扱われてきたのだから、シス女性に対しての「抑圧者」である。その一部が漏れ出てきたラジオだった。

  • 責任の所在

責任の所在は、もちろん、マサキチトセ氏にある。

彼が始めたことだからだ。彼は、あのラジオをコントロールする責任がある。

TwitterのDMに書かれたことが、わたしは今でも信じられない。

執筆をして、講演会をするような人が、一見正しくて、でも、わたしにはどうしてなのか、言語化できないけれど、わたしから力を奪うような言動をとったこと、また、とり続けていることが、どうしても理解できない。

 

ゲストが、差別的な、不正義を行ったら、時間を割いて、それは間違っているとしっかりと、説明してほしい。少なくとも、聞いている側の人間が、孤立しないようにすることはできたはずだ。あのラジオでは、差別を垂れ流されて、そして、放置され、孤立して、学びたいと思った気持ちを踏みにじられた。差別をやめろと言ってほしかった。やめさせることも納得させることも長い時間をかけなければできないのかもしれないが、やめろと言ってほしかった。あのラジオを聴く人たちは複合的差別を受けている人が多かっただろうから。

「このような気持ちになっているのは自分だけなのかもしれないが、同じような気持ちになっている人のために、声をあげなくては」とわたしは思った。それは、本来はリスナーの仕事ではないと思う。でも、わたしは連帯のために、残り続けて、今もこうして書いている。これが連帯だ。トマト氏のいう連帯とは何かわたしには全く理解できない。トマト氏が、シス女性と連帯できると思うならば、一緒に、「それは差別だ」というべきじゃなかったのか。

やか氏が長々と高専の話をしたのは、差別の肯定だった。差別なんてないというメッセージだった。フランス語は植民地と関係があるから、しかたがない、ドイツ語なら違ったかもしれないというのは詭弁だ。それもフランス語を教えてもらえないというのは仕方がないという差別の肯定だ。それならば、英語はどうなのか?

連帯できるとトマト氏が言うならば、やか氏に「差別の肯定をやめろ」というべきだった。そうでないのに、連帯できる、「シス女性がトランスフォビアをやめれば」という条件付きの連帯が実現できるとは思えない。

彼女はあの場で何をしたのか?連帯できると感じさせるようなことをしたのか?

できることはあった。「差別の肯定をやめろ」というべきだ。連帯できるというならば。連帯できない現状の理由を女性のトランスフォビアだというのなら。

 

わたしは今後、あのラジオを聴くだろうか?

また、自殺衝動の高まりと、抑うつの波、自己否定、この世にいないほうがいいという覆いかぶさる影、わたしなんていないほうがいい、いなければこんなつらい思いはしなかった、わたしは醜い愚かな生き物で、差別的な言動一つ止めることができないという無力感で苦しむのかと思う。

  • 女性は貧困である

教育格差は、貧困に直結する。進学するなという言葉以外にも、女性は、勉強の時間を削られたり、少しでもつまずいたら、女だからできないのだと言われて、支援を受けることもできず、勉強でのつまずきや、「自分にはできない」というどうしようもない感覚を克服することができないまま、自分から選択肢をなくす。そして、選んだ人生の結果を自己責任だと言われる。そう仕向けられてきても、誰も助けてはくれない。

貧困も自己責任だと言われる。教育格差は、生存に直結する。

わたしは、大学に行くことができた。学校推薦で受けた企業二つに「なんで、あなた女性なの?」と言われた。「女性にできる仕事はない」とはっきり言われた。

「出産するでしょ?」「結婚するでしょ?」「家族構成は?片親なの?」「家から通えないんじゃねえ」「うちの職場は男性エンジニアしかいないから」いろいろある。

給与の高い仕事に就いた同期に「理系メーカーは女性が志望しないから女性が少ないんだよね」と言われた。

わたしは、貧しかった時、一つのキャベツを一か月かけて食べ、病気で自炊が難しいけれどカロリーをとるために、食パンにオリーブオイルをかけて食べて、髪を自分で切っていた。

教育格差や、男性に給与の高い職業が独占されていること、それで、生きることが難しいこと、そもそも、子供時代の「社会的虐待」によって、女性たちの精神が、どうしようもなく傷つけられて、十分な教育を受けるために戦う気力も奪われている現実を知ってほしい。貧困に陥っても相談先がない人もたくさんいる。それは、相談先を知る機会を奪われていたこと、相談するための気力を、「育つ過程」で奪われてきたからでもある。

 

女性が、数学や物理、化学をあきらめないとしたら、それだけでも戦った結果なのだ。

周囲の無理解や嘲笑に負けなかった精神力が、誰にも評価されず「女性が理系に就かないから駄目なのだ」という言葉をあちこちで聞くとき、大人になっても、子供のころの傷をえぐられる。

 

わたしは、今でも「数学を教わるなら男性の先生がいい」と言われる。「男性の先生」に数学の授業を振られて、古典ばかりがまわってくる。

そして、給与は減る。生活が貧しくなる。

 

子供の時、男として育てられたのか、女として育てられたのか、それによる価値観の形成を清算しない限り、共闘はない。

同じ女性同士ですら難しいことを簡単に言えることも、わたしには苦しい。

差別をなくしたいと願って聞いたラジオから流れた差別的な言葉が、最後まで流れ続けたから、わたしはとても苦しい。

 

追記 4・7 午前三時

下記のことを書くのはわたしにとって苦痛だ。なぜなら、わたしはマサキ氏を尊敬しているし、講演会にも行った。執筆を頼まれるような、そんな聡明な人が、どうしてなのか。わたしは、わたしの勘違いだ、認識違いだと言われることも恐れているから、とても書きにくい。

ただ、あの場を用意した彼の存在と責任を透明化するわけにはいかない。

わたしには、彼が、自己保身的に見える。そして、最初、教育格差の深刻さを知らなかったから、不十分な対応に終始してしまったとしても、その後のやりとりでわたしに言った「理解してほしい」という内容が、「全く何もしなかったわけではない」と要約ができる内容のことを念押ししたことが、本当に重要なことなのか、理解できない。わたしは、彼が言っていることについて「理解した」けれど、どうして、それを言ったのかは「理解していない」。マサキチトセのエロくない性の話批判続き

マサキチトセ氏の差別的放送後の抗議の記録《エロくない性の話》批判

DMなど彼の語り方についての批判は上記記事


ハンター×ハンターは家族の欠如の物語

物語は、主人公の持つ価値観が示され、それが「邪魔される」という葛藤を解消すて終結を迎えるという構造を持つ。

 

ゴンは父を求め、キルアは支配する家族からの逃走を求めた。

彼らはその役割を終えたので、退場した。

作中でもっとも人望があると描かれているのは、レオリオである。

彼は人望でハンター協会の会長になる。彼は最も安定した人間である。

安定した人格であるレオリオは、家族のことを語らない。

語る必要がないからだ。それは、彼の家庭が健全であることを示している。

レオリオには葛藤がないので、物語にあまり関わらない。物語は葛藤を必要とする。

クロロをはじめとする蜘蛛たちは、一切の血縁を持たない。そして、「わたしたち」と同じ倫理観を持たない。仲間以外を人間として認識しないので、心を痛めずに殺すことができる。

しかし、彼らは。強固な絆で結ばれた仲間がおり、おそらくクロロは孤独でいた時期がない。

呪いにかけられて初めて彼は孤独になる。

一方、クラピカは、一族の中で大切に育てられたようだ。しかし、彼には血縁が一切いなくなる。彼は、彼の一族の遺体の一部を取り戻す、という物語を生きている。

ハンター×ハンターは、古典的な物語構造を丁寧に維持し続けている。

主人公が葛藤し、それを解消する構造を崩さない。葛藤が解消されたら、物語から退場する。

kクロロとクラピカは徹底的に対照的な存在として描かれる。

クロロの能力が人のものを盗む、拡張的な性質を持つものであるのに対して、クラピカは、「蜘蛛を罰する」ことにしか使えない限定的な性質を持つ。自己を罰する。ある能力を使えば、寿命がなくなるというのは象徴的だ。彼は、自分を罰しながら、人を罰しようとしている。

クラピカを除く一族を殺されるという悲劇がある。彼はそれを取り戻そうとする。生きた一族を取り戻すことは不可能なので、それは悲壮である。

その上。その前に彼は死ぬかもしれない。ただ、その復讐の過程によって、一族に代わる仲間が生まれる可能性が示唆されている。

クロロが、家族はいないが仲間に恵まれていた存在であれば、クラピカは家族はいたが仲間を奪われた存在だった。

クラピカはクロロから仲間を奪う。クロロはクラピカから奪われた仲間を取り戻すことができない。一度失われた存在は二度と戻らないからだ。

死ぬと二度と会えない、ということが一回だけ覆った。それがアリ編だが、その軌跡は二度と起きないだろう。

 


転職するかもしれない

職場で女性差別があったので、いやけがさした。
別に悪い人じゃないんだろうけど、女性差別をしたことを認めないだろう。
わたしは、さんざん、実力不足を疑ったが、そうじゃなくて、「女だから」ということに絞られた。
差別の嫌なところは、自分の実力不足だから不当な扱いを受けているのじゃないか、不当な扱いだと思っているのはわたしだけで、じつは正当な評価難はないかと思うところだ。

だから、wpfとxamlを覚えて、サンプルを公開して、在宅の仕事を探そうと思う。
サイトで見たら、ワールドプレスのコーディングもかなり高い値段で案件があった。
ワールドプレスのコーディングもやってみよう。

嫌な職場を改善するよりも、一人でやっていったほうが楽だ。
改善するために戦うには時間がない。

腹が立つし、もうやる気がなくなった。
別の努力をしたほうがいい。

昨日から無料配布中なのでよかったら読んでみてください。そして、気が向いたらレビューを書いてくれると嬉しいです。

どっちもアソシエイトリンクだから、買い物してくれると小銭が入ってうれしい。