この記事は下記の読書会に向けて、準備として、書かれたものだ。
feminism mattersスカイプ読書会のお知らせ
この読書会に参加した。結果として、わたしとしては、ストレスで耳が遠くなってしまって目覚めた。
もちろん、ほかの参加者の方には有意義な会だったと思う。
ただ、わたしにとっては、しんどかった。
特権性や周縁性について語る、ということは、アンビバレンツな性質を持っている。
それは、このような問題を語りうる、という時点で、特権性があるということに他ならない。
情報にアクセスできるという意味で。
また、その反面、このような問題について考えなくてはいけない立場、というのは、それ自体が周縁だということを示してもいる。
読書会のテーマには、「特権性と周縁性」がキーワードになると思って準備していた。
わたしの特権性は、
「大学で学問をしているがゆえに、アクセスできる情報や、処理、そして、発言力がある」ということ。
「ある程度経済的に恵まれていること」
「子供のころからフェミニズムに触れていたこと、自分なりに戦ってきたこと」
「オープンにしていられるということ」「シスジェンダーであり、ヘテロセクシャルであること」
「日本人であること」
があると思っている。
反対に、周縁性では、
「障碍者であること」「障害や、被害を受けた経験から、人の多いところに出られないがゆえに、デモに参加することが難しいこと。そのためいわゆる数に数えられないこと」「東京中心主義ではないこと。これは、あらゆる運動が抱えている問題でもある」
「もちろん、女性であるということ」「性暴力や被害を受けていること」
が、あげられる。
わたしは今、一日長くて五時間程度しか起きていられないから、活動内容は非常に限られる。
何かしようとしても、体が動かない。
それは、個人的な問題であり、社会的な問題でもある。
このような人間でも、参加できる何か、というものが、あるかどうか。
インターセクション、というのは、様々なアイデンティティがある中で、どうするのか、ということを話すべきだと考えていた。
そのため、自己紹介でもそうしたし、最近の運動体が抱える問題について、どうしても、特権性の高い人たちが主導するがゆえに、少数派の中の少数派の意見がかき消えてしまうということを話したかった。
数になれ、というのが、シールズに代表されるデモの主張だったし、そして、わたしはそれに相容れない。
もちろん、シールズが掲げたことは、目標として、大切なことだと思っている。しかし、大義のために小異を捨てろ、というのはどうしても首肯できないのだ。
わたしは、わたしだからである。そして、大義のために小異を捨てろということの積み重ねが差別につながるからである。
少数派はずっと順番待ちをしている。
そして、大義は、特権側がずっと持ち続け、大義を選び続ける。
結果、少数派にチャンスは回ってこない。永遠に。
小異を捨てた結果、特権側には、少数派が小異を捨てたことさえ、目には見えなくなるからだ。
小異が無価値になる。
人にはそれぞれの経験があり、考えがあり、蓄積されたものによって、出力される考えが異なる。それを一致させることは難しい。
それを共感で埋めようとする人もいるが、わたしはそれに反対だ。
なぜなら、共感される人だけを救い、そうじゃない人は放っておく、という結果になりがちだからだ。
どうしようもない人を、どうしようもないまま、守る、という態度が、反差別において必須である。
それが権利というものの性質だからだ。
また、わたしのように、一般的に共感と言われる機能が、脳にない人間もいる。わたし自身は、わたしなりの共感があると思っている。でも、たぶん、わたしから見る、ほかの人の共感と言われるものの多くは「差異をうやむやにして、平和裏に物事を推移させるための、対話をなくすためのもの」であって、それは、特権性の高い人の声をより大きく保つ機能があると思っている。
わたしには、それはない。
ない、というか、理解はできるし、実行もできるが、それをどうしても、気持ち悪く思う。
今回の読書会の目的は、特権性について、自覚することも、おそらく大切なことだったと思うが、共感しながら話す、という態度が目立ったために、結果的に、特権性を温存してしまう、ということになったと思う。
そもそも、こうした、差別問題にかかわるときに、共感することで相手を認める、という態度が取れる時点で、それはかなり特権的なのだ。認めることができる立場、という点で。
また、共感を求められる性別役割分担に乗らざるを得ない、という点でも、やはり問題だった。相反するようだが、女性だから、共感性を高く求められる、というのも、フェミニズムが戦うべき課題の一つである。
共感することで、場を流すことは、特権でもあり、被差別の結果でもあるのだ。
心地よい空間を作ることと、フェミニズムは、相容れない。
しかし、人が集団になったとき、人は、心地よい場所を求める。
わたしにとって、心地よい場所とは、「いつでも反論でき、議論でき、場の空気を読まなくて済むところ」である。
もちろん、そうでもない場合もあって、「自分の話を受け入れてもらい、自分の話を聞いてもらい、肯定し合う場所」ということもある。
後者は、いくらか、問題をはらんでいる。
それは、同調圧力として機能しがちである。また、内部の批判を機能させにくい。
同調圧力の結果を、無意識に甘受できる人というのは、その集団の中で、特権的である。
その、同調圧力によって、いうことを選ぶ人、というのは、すでに周縁に追いやられている。
特権と周縁について話し合う場でも、このような矛盾が起きてしまう。
それについて話し合う場であっても、特権と周縁が生じてしまうのだ。
また、周縁側が、批判した場合、特権側は、謝ることと訂正することしかできることがない。
しかし、謝ったところで、取り返しのつかないダメージは残る。
そこに、発言し、行動する難しさがある。
確かに完ぺきなフェミニズムというものも、運動というものも、ない。
だからといって、完ぺきじゃなくてもいいんだ、批判されたときに直して、発展していけばいいんだ、という結論は、単なるエクスキューズに終わってしまう。
指摘する側、踏まれている側には、すでに大きなダメージがあるのだ。
それを礎にすることを前提にし、発展するフェミニズムというのは、わたしは、首肯できない。
わたしは、人に、ダメージを与えたこともある。ダメージを与えられたこともある。
それは、人の健康や命を害するタイプのものだ。だからこそ、慎重にならないといけない。戦うことと、戦いによって相手にダメージを与えることと、また、自分が無意識にした差別によって、人にダメージを与えることと、それぞれは区別されるべきだ。
声なき声を聴くとき、そこには共感はいらない。声を聴く、というときに、すでに立場が固定されている。
それ自体が、特権と周縁を固定しているものだ。
だから、わたしたちは、ただ、そこに存在することだけができる。それだけが、固定化を阻むものだと、わたしは、今のところ考えている。
学問としてのフェミニズムが難しいのは、学問が男社会の産物であること、そして、その立場が、上記の立場を固定化すること、そのために、少数派の力をそぐことが問題だ。
だから、少数派の声を取り上げたり、分析するときには、非常な慎重さが必要になる。
pixivのBLが立命館の論文で取り上げられたときに、問題になるのは、少数派の表現というものの性質が、分析する立場と分析される立場とに、固定化されることだ。
わたしたちは、本当の意味では、言動に責任が取れない。
人のダメージを代わることもできない。
そのうえで、行動すること、発言することを、選択する。