レールに乗るかどうかは、メリットデメリットで決められない

人生は一度だから、どれを選んだほうがよかったのかを、同時に比較検討することができない。
ああすればよかった、こうすればよかったといくら思っても、あなたも、わたしも一人しかいないので、同じ人間をどのような道で分けるとどのような変化をするのか、比較することができない。
というのは、入院したとき、精神科医に言われた言葉だ。

借金玉さんのブログのこのエントリについて。
わたしは、全面的にこの文章に反対で、そして、なぜ多くの人たちの賛同を得ているのか、さっぱりわからない。

死ぬくらいなら、学校に行かなくていい。そんなのは当たり前だ。
でも、雑すぎる。

メールで死にたいといわれて、何か言ったくらいで、相手が死なないなら、何もみんな困りはしない。

人間は、未来のことについて、正確にメリットとデメリットを、比較する能力はない。
今の時点で、わかっているメリットとデメリットを羅列して、数えて、比較することくらいしかできない。

わたしは、学校でいじめられたこともある。小学生のころ、持ち物を捨てられたり、投げられたりした。
高校の時には、精神疾患や肉体的な疾患が悪化して、二年生と三年生のころ、三分の一しか投稿していなかったような記憶がある。

大人になって学校に行かないデメリットが、子供を教えるようになって見えてきた。
「人間関係を構築する能力が育ちにくい」それに尽きる。
人は複雑だ。複数の人がいるところとなると、非常に複雑になる。
大人になって、一見、人間関係が楽になったように思えたとしても、それは、今までの蓄積があるためだ。
大人になると利害関係がある。騙したり騙されたりする。
女性だったら、食事に行くだけでも、犯罪に巻き込まれる危険がある。そういう危険をかいくぐりぬける能力は、子供のころ培われる。

学校の教育の質が低いと借金玉さんは言う。そうかもしれない。
しかし、一度でも、学校で授業をみんなして受ける、というのは、学習において非常に大きなアドバンテージとなる。
全然わかっていなくても、クラスメイトと一緒に授業を聞いた、という体験があるかないかで、もう一度勉強しなおす際に、それは大きな差となる。実際のところ、どんな単元があるか、どんな順番で教えられたのか、それを知っているのかどうかで、自学に差が出る。

独学のデメリットは、秩序だって知識を並べることができないところにある。好きなところをつまみ食いしても、それはバランスを欠いたものとなる。統合することが難しい。
子供が自分なりに学んだり調べたりした後、それを評価する大人がいるかいないか、それによって、独学の質は大きく異なる。

全くの独学で勉強することは不可能だ。

わたしは、小学生のころから法律書を読んでいたが、大学のころに学んだことと、質は桁外れだった。場当たり的に選んだ本を場当たり的に解釈しても、正確な法律解釈はできるようにならなかった。
大学で、理論を学び、運用を学び、そのうえでどの本を選んで読めばいいのか、読んだ本を使って発表をして、それをレビューされることを繰り返すことで、学習の質を上げることができた。

わたしは、いじめられたとき、まず武力で解決した。

集団で相手が向かってくるとき、幸い教室だったので、武器がたくさんあった。一番弱そうな相手を選ぶか、リーダーを選ぶか、それは好みの問題だが、再起不能になるまで、攻撃した。
机を蹴り、ドミノ倒しにして、退路を塞いで、椅子で殴った。相手は戦意を喪失した。そのあとも、陰湿ないじめは続いた気がするが(観察眼がないので、あまりどれがいじめなのか認識できていなかった)、表立ったいじめはなくなったように思う。
もし、腕力に自信がなかったら、わたしは窓ガラスを割って、注意を引いただろう。学校全体の問題にすることが大切だからだ。

それでも、さらに、いじめがやまなかったら、校長に伝え、改善されなかったら、教育委員会に掛け合い、さらに訴訟を起こしただろう。そして、地元のメディアに連絡をしただろう。もし、自分の子供が同じような目に遭ったら、そういうことを勧める。
もしくは、保健室登校、支援級、支援学校などを利用する。
それでもだめなら、フリースクールを探す。
学校の先生すべてが、一人の生徒を見捨てることは、あまりありえない。ないとはいえない。

わたしは疑問だが、どうして、「戦い方」を教えないんだろう。
いじめは権利の侵害だ。だから、それを取り返すために戦ってもいいのだ。
逃げ方、戦い方、両方を伝えないと、片手落ちじゃないのか。

借金玉さんは、結局のところ、レールに乗っている。中学にも高校にも行き、部活にも入り、友達と支え合って受験勉強をしている。それは、学校で知り合った友達であり、勉強をした場所は学校である。もし、学校の授業が全く役に立たなくても、未成年者が無料でいつでも集まれ、話し合いながら勉強する場を与えられていたのは大きかっただろう。
学校にある備品を利用したこともあっただろう。

学校に行かない、ということは、それらとの接続を絶たれるということだ。
中学生が、いくら考えても、そのデメリットとメリットを比べたとしても、まだ知らないことを考えることはできない。

境遇を甘受したものが、それをいらなかったというのは、無責任だ。

学校に行かない、という選択肢の前に、いくらかの選択肢がある。
学校に行かない、という選択肢の後に、いくらかの選択肢がある。

また、もう一つ言いたいことがあるが、偏差値の低い学校に行ったら、人生の終わりとでも言いたそうな文面があったが、決してそうじゃないと書き加えておく。幸せをどのように定義するのかにもよるが、当然、偏差値の低い高校に入る生徒、大学にいけない人、たくさんいるが、だからといって、幸せから遠ざけられるかというと、まったく違うと強く言いたい。

人生は、多様で、価値観も多様だ。
学校にいけない、いかない、それだけだって、二つには分けられない。たまに行ってみる、環境を改善してもらう、環境を変更する、など、いろいろな対処法がある。
それを示すのが大人の役割だ。

追記
失敗してもいい、フォローするから選んでね、というのが親含む大人の役割だ。
あと、自殺をほのめかされたら誰でも困るんであって、ブログに書くより、相手の親に連絡を取るか、相手と対話するか、最初から反応しないかがいいと思うけどね。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください