苦痛をポジティブに受け入れないでいい

苦痛をポジティブに受け入れないと未熟かのように言う人がいる。
そうした人は、他人の苦痛を受け入れる度量がない。
苦しんでいる人を見たくないから、見ないようにするために、苦しんでいる人にさらなる負担を押し付ける人だ。

だから、そんな人の戯言を聞く必要はない。

たまたま、苦痛から勝手に自分自身で何買えることがあったとしても、やろうと思ってすることじゃない。

苦痛に耐えるだけで、たいていは精いっぱいだ。
それが分からない人が、自分の見たくないことを見たくないといっているだけだ。
真に受けなくていい。

苦痛は苦痛だ。
社会的なずれや、身体的なずれ、考えることと実際のずれが、苦痛の中心になるかと思う。

そこから何か学ばなくていい。

たまたま学ぶことができれば、運が良い。

苦しいことは経験しないほうがいいけれど、苦しみは勝手にやってくる。

それを受け入れられなくて未熟じゃない。損もしていない。

ポジティブにとらえないと損をすると何度もいろいろな人に言われた。
でも、どう考えても、ポジティブに受け入れられないことのほうが多い。

だから、ポジティブという言葉は胡散臭いと思っている。

人を追い詰める。

人を追い詰める言葉はシャットアウトしていい。苦痛だけで、それに耐えているだけで、尊いのだから。

苦痛がない人は運が良い人だ。
運が良い人はなかなかいない。誰でも何かしら苦痛を背負っている。
背負っているけれどそれをないことにしたい人がポジティブに受け入れるという言葉を使う。

でも、病気で何年も無駄にすることの意味を考えても、その間経験できたかもしれないことは、頭をよぎる。
そういう絶望に向き合うことだけが、生きる中でできることだ。

絶望と向き合ないで済むならそうしたほうがいい。
でも、それを人に押し付けるのは愚の骨頂だ。

わたしは障害特性から、社会からずれ、身体的な病から、社会からずれている。

でも、社会という大きな制度からずれても、生きていくすべはある。

ずれというのは、主張だ。
生きている、それだけで一つの主張だ。世界に多様性があることを示せる機会だ。

社会は多様性を飲み込むにはまだ未熟なようだ。
世界がわたしに追い付いていないのだと理解している。

苦痛を抱えている人に、優しくするのは、自分にやさしくするのと同じだ。
いつか、誰でも病気になるのだから。様々な困難から逃れることはできないから。老いるとはそういうことだから。

苦痛と折り合いをつけるスキルは、人の役に立つ。
それをポジティブに受け入れると言い換えることもできなくはないけれど、苦痛を苦痛のまま、誰かに投げかけることは悪いことじゃない。
それを個人に対してしてしまうと、相手が折れてしまうことが多いけれど、不特定多数に、海にボトルを投げるように、分け与えることには意味がある。
受け取るべき人が受け取るから。勝手に。意図せず。

苦痛を背負った人はとても多い。だから、助け合うことができる。
ポジティブに受け入れてしまえば、助け合うこともできない。そうすると、経験が個人の中でとどまってしまう。

苦痛は、消えない。
消すことは不可能だ。
それを受け入れるだけでも、大仕事だ。
生きているだけで、受け入れているも同然だ。
わたしは、苦痛から学ぶなんてまっぴらだと思っている。

苦痛は苦痛だ。それ以上の意味はない。
人を生きにくくする。生きにくくなったそのときから、何か考えることができる人は一握りだ。耐えることだけで、精一杯で当たり前だ。
わたしだってそうだ。

幸運な、そして、未熟な人に合わせて、自分の苦痛をないかのようにふるまう必要は何もない。
未熟な人は放っておけばいい。その人もいつか困るのだから。ポジティブに受け入れるなんて戯言がどれだけばからしいか、わかるときが来るか、来ないかはわからないけれど、そういう言説が、結局本人の首を絞める。

だから、苦痛を背負っている人は、ありのままでいてほしい。
苦痛を背負って、みっともなく、生き抜いてほしい。
わたしは、ずれたまま、生きていく。
生きていることに意味なんてとても見いだせない。
でも、わたしは死を選ばなかった。そこに理由はなく、ただ、タイミングがあっただけ。

人は人。
理解できる人とできない人がいる。
自分の目に見えるものを信じるしかない。信じるという言葉はあいまいだけれど、世界を見る目は信じる力から生まれる。
世界を認識するのは自分だ。自分が認識した世界が、よかれ悪かれすべてだ。

世界を広げれるために、ひとりよがりではいられない。
ひとりよがりでいたら、世界はいつまでも狭いままで、世間という名の内面化された、実在しない概念が、自分をさばき続ける。
苦痛を背負っているだけで大変なのだから、自分をさばいて、負荷を増やすことは、現に慎まなくてはならない。

生きることが尊いのかなんて、わたしにはわからない。

でも、生きていなければ、苦痛も幸せもない。
可能性がない。

ポジティブにとらえなくても、可能性はやってくる。可能性は現実になる。現実が変わっていく。そのときを、自分なりにあがきながら、待つことだけが、唯一できることだ。

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