雨のように人災は降る

おとといの親からのメールの一件で、睡眠サイクルも、体調も、精神状態も狂ってしまった。

雨が降るように人災はやってくる。

ずぶぬれになるか、傘を持てるのかは運しだい。
雨が降っていても、出かけないといけない日があるように、人災があっても、生きていないといけない。

天気予報があるから、雨は、傘を持って出かけられる。
でも、人災には、予報なんてないものね。前兆もない。

わたしが、あのメール一本で、どれだけ、生活に困るか、なんの想像力もなく、そして、実際に起きたわたしの今困った状態をなんとかする力のない人をこれからは絶対に避けないといけない。

人災予報はないから。

今日初めて、自分のしていることが、言語性チックだと知って、社会とかかわるための、チューニングなんだろうなと知った。

社会とわたしとはずれがあるから、自分側でチューニングしないといけない。
ストレスのかかり方が高い。だから、そういう「普通」の人と違うやり方がいる。

言語性チックはうるさいだけで、人を傷つけもしないし、自分も傷つけない。だから、存分にしたほうがいいんだと思う。

人災は、障害のあるなしにかかわりなく、ただ、やってくる。

人災を起こした張本人は、責任をとれない。でも、人災を起こす。

困ったものだと思う。コントロールできないことが起きると、わたしはパニックになり、変調をきたす。
困りごとを全部ひとりで解決しないといけなかったころよりも、状況はよいけれど、変調自体の苦しみは自分で引き受けなくてはいけない。
つまり、今のわたしはずぶぬれになり、その結果風邪をひきそう。

理解できないなら、放っておくという簡単なことさえできない人がいるのは仕方がない。
人と人とは違うから。

そう納得はしているけれど、雨にはよい面がある。人災にはない。教訓もない。自分でひねり出してみようとも思えない。

今は耐えて、時間が過ぎるのを待つだけだ。

でも、本当に最近は睡眠サイクルがうまくいき始めたばかりだったから、本当にがっかりする。

人災を起こす人は自分をかわいそうがって、被害者ぶる。
つらいこともあるのだろうけれど、わたしにぶつけた時点で加害者だ。

そういっても、わたしが悪いといわれるのが分かるから、何も言えないけれど。理解する気のない人に何か言っても仕方がない。本人は、理解したいと思っていたみたいなことを言っていたけど、自分の都合の範囲での理解なんて、わたしはしてもらっても、利益がない。
そういうのは自己満足だと思う。

自己満足の雨が降る。
わたしはずぶぬれになる。

雨に濡れてずぶぬれになるのは楽しい場合があるけれど、人に何かされても、気分良くなることって本当に少ないよ。

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