生きていることに何の意味があるのか、考え続けていた。
雨宮まみさんが亡くなって、ショックを受けていた。
考え方は違えど、誠実な人だと、本を読んで思っていた。
わたしは、殺されかけたことがある。パートナーの六帖さんも、文字通り、死ぬ寸前まで元家族に追い詰められていた。
わたしは、回復の途中で何度死を願ったかわからない。
死は、苦痛から解放してくれるのだと感じていた。
真っ暗な中に光がさすように、「死ぬこと」が光に思えたのだ。
わたしは、回復しなかった。回復しないけれど、薬によって、リズムを調整することができた。
過眠をして、一日二十時間近く眠る日もあれば、今日のようにずっと目が覚めてしまう日もある。
それは変わらないけれど、波が穏やかになったことで、生きることが楽になった。
これは、回復とは言えない。
けれど、痛みを紛らわせることによって、生きることを続けられるようになった。
六帖さんは稀有な存在だ。
生きているもの、命を全肯定する。
わたしも全肯定される。
わたしと六帖さんが出会ったこと、六帖さんが死ななかったことは奇跡に思える。
六帖さんは働きながら、家事を全部する。わたしの不安定な生を支えてくれる。
チックが出ようと、具合が悪かろうと、いつもそばにいて、できることを探してくれている。すべてをわたしにささげてくれている。
返せるものは何もないけれど、わたしが生きているだけで幸せだといってくれる。
わたしが何をして、何をしなくても、どちらでもよいのだといってくれる。
男だから男のひどい面を今まであまり知らなかったはずなのに、わたしのフェミニズム的な話を完全に理解してくれる。
理解者がいるだけで、こんなにも生きることが楽しくなるのかと知らなかった。
出会う前にわたしが死んでいたら、わたしはこんな幸せも知らなかった。
回復することだけを目指していた。
回復はしなかった。
でも、回復しない中にも幸せがあった。
回復すれば幸せになるのだと信じていた。
でも、回復しなかった。
だから、幸せになれないのだと思っていた。
けれど、生きているだけでそれでいいといってくれる人がいるだけで、回復するかどうかは問題じゃないのだとわかった。
回復してから幸せになろうとしていたけれど、回復は遠かったから、幸せも遠いのだと信じていたけれど、それは間違いだった。
病気のままでも、みっともなくても、生きているだけで、幸せになりたいと願った瞬間から、幸せは近づいてきていた。
六帖さんがやってきたとき、わたしは意味もなく彼を受け入れた。理由なんて一つもなかった。
でも、わたしがいなければ、彼は死ぬだろうと思った。それくらいの理由だった。
生きていれば年を取る。ばばあという人もいるだろう。もっと年を取れば、女として価値がなくなると思っている人もいるだろう。
でも、たった一人、生きているだけでそれでいいといってくれる人がいれば、加齢に伴うあれこれ、病気によるあれこれは、受け入れられるのだと知った。
わたしは誠実でありたい。公平でありたい。そう願っている。
そう願ってきた。
そうしていたら、人が集まった。
害をなす人は去り、わたしを尊重する人だけが残った。
別れを手放すことで、新しい出会いがたくさんあった。
わたしが年を重ねたからこそ、わたしが良いといってくれる人がたくさんいる。
わたしの苦闘のあとを、わたしは文章に残す。
そうすることで、誰かがそれを読む。
読んで、役に立てたり、立てなかったりする。それでいい、それがうれしい。
わたしが生きている証は、文章だったり、仕事だったりを通して残る。
それは幸せなことだ。
寝てばかりの時期には、わたしが生きている理由を見失いそうになる。
社会に溶け込みにくい特性を持っているから、居場所なんてないと思っていた。
でも、居場所のほうがわたしを呼んでくれた。
新しい職場は、多様な境遇の人がいる。すべての人が対等だ。できることをする。
そして、契約通りの仕事をする。それ以外のことは求められない。
わたしのユニークさ、それは負の面も正の面も含めて、必要とされている。
わたしが判断することじゃなかった。何が私の良いところで、悪いところなのかは、判断する人によった。
世渡りが下手なことも、相手の状況が読めないことも、正直さや実直さと受け取る人もいる。
受け取り方による。
性被害に遭ったと大人に訴えたとき、プラスに考えないと損だといわれて憤慨した。
これは、間違ったポジティブさだと今でも思う。それは絶対に覆らない。
被害に遭ったことをポジティブにとらえる必要はない。病気だってそうだ。
でも、人格にかかわる部分や技能にかかわる部分、障害特性について、周りが、わたしを判断するにあたって、ポジティブに理解してくれる人と出会えば、いいのだ。
わたしがポジティブに物事を考える必要なんてどこにもない。
つらいことはつらい、そのままでいい。
つらさは意味がない。意味がないと絶望したままでいい。
絶望したわたしのまま受け入れてくれる人がいる。それが人生のポジティブな面だ。
苦しいことを無理に、ポジティブに自分が判断しなくていい。
いい風に考えないと損をする、といった人がいたけれど、それは間違いだ。
つらいことはつらいままでいい。
つらいことを抱えたまま生きるわたしを受け入れる人と出会うことができさえすれば、わたしは変わらなくてもいいし、変わってもいい。
自由を尊重されるというのはそういうことだ。
生きている。生きていればそれでいい。死んでしまえば、楽になる。
楽になるけれど、幸せも苦痛も同じようになくなる。
だから、生きていてよかった。
苦痛なんてないほうがいい。そんなのは当たり前だ。それを変えるつもりはないけれど、解釈を、自分自身がするよりも、周りにゆだねることで、幸せになれるのだと知った。
自己分析なんて意味がない。
わたしを幸せにするのはわたしでもない。
周りが、わたしを幸せにしてくれる。そういう人を選ぶことだけが、わたしにできるすべてだ。
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