障害者の立場からのジョグジャカルタ原則への不安

昨日クィア活動家への批判:女子トイレ・女湯問題について

で書いたことの論旨は、

  • クィア活動家が、露悪的な言動をすることは、クィア理論の実践として理解できるが、その反面、女性の安全感覚を害するので批判する。
  • 介護、育児、看護の対象者は、議論から疎外されており、議論に参加することも、意思確認されることもないが、最もしわ寄せがくる存在である。変化自体が、生存や健康を害する集団が存在する。
  • 勉強をすることができない状況ではあるが、主張することをやめれば、(女性でありなおかつ障害当事者としての)存在自体なかったことになるので、主張を続ける。
  • また、勉強ができない状況の人はたくさんいるが、だからと言って、それらの人が語ることを差別だと言って黙らせることは間違っている。

ということなんですが、勉強することができないことを嘲笑してきたり、恐怖を差別の大義名分にする差別の扇動者と言われたり、本当は勉強ができるのにそれを隠して書いているから不誠実と言われたりしました。それでいて「無知だからわからないだろうけど」とも言われるんですよね。そのほかにも、反知性主義、弱者を憑依して利用しているなどと言われて、苦痛を覚えました。

反発は予想していたのですが、ちょっと予想以上でしたね。

女性差別ゆえに「知」から疎外され、「知」の不足ゆえに語ることを許されない

そもそも、女性は、女性差別の結果、教育から弾かれた存在です。女性たちは、女性差別があるから勉強から遠ざけられているのに、勉強不足のまま語れば、差別の扇動になるからやめろ、フェミニズムは後退したと男性や賢い人々が責めるのです。そうした男性は、とても多いのです。しかし、これは本末転倒です。

障害者であることと、議論への参加の困難さ

弱者の憑依と言われたことについてですが、なぜ、はっきり自分が障碍者だと書かなかったのかというと、いくつかの理由があります。

一番の理由は、自分の事情を語らなければ、議論に加われないのか、ということ自体に、問題があるからです。

また、わたしが、障害者の当事者であることを明記すると、立場を利用している、と言われるのはまだいいほうで、おそらく、精神疾患を理由として、わたしの主張を聴く価値もないと扱われたり、正当性を疑われたり(これらは実際に今までありましたがこれは言うまでもなく差別です)、また、「弱みを見せたのだからそこを攻撃されたいのだろう」と言わんばかりに攻撃されたりするので、昨日のエントリには、わかりやすく書きませんでした。

わたしは、障害者の当事者であることを隠しもしていませんが、それは、わたしの個人的な趣味です。隠したい人のほうが多いです。だから、トランス女性の権利を主張するために攻撃的な態度をとる人たち(男性に多い)には、相手がどんなバックグラウンドを持っているか、考えてみてほしいと思います。自分がどんな事情を持っているのかを語ることさえ、病状の悪化を招くような事情を持っている人がたくさんいます。そうした人たちが、トランス女性すべてが女湯に入れるようにすることを恐れています。

障害者であるということを明らかにして語ると、感情や考えを勝手に推し量られたり、思ってもいないことを代弁されたりする、ということが起きます。自分の意思とは違うことをされるのですが、するほうは親切のつもりなのが厄介です。
被保護下に置くような態度をとられがちですが、不愉快です。

そもそも、精神障碍者は、特に、精神的なダメージが、体の不調に直結するので、議論に加わること自体を避けるのが普通です。攻撃的な人が多い場所で議論することは、とても危険で、希死念慮を誘発もするからです。

危惧していること

わたしがなにを危惧しているのかというと、トランス女性を性自認だけで女性だと戸籍上でも認めることの意味は、女性ができることすべてができる権利なのだということです。言うまでもないし、当然のことをあらためていうおかしさも感じますが。

それは、下記のような形で影響します。

同性介助の原則が崩れるんじゃないかという心配があります。

女性を頼んだのに、女性ではない人が来たら困ります。

でも、女性の定義が壊れていたら、トランス女性は女性です。

一例ですが、わたしの家に、ヘルパーとして、トランス女性が来たとします。倫理的には、普通に働いてもらうのが筋だということは、頭では理解できます。しかし、わたしにはそうできない理由があります。

それは、わたしにパニック障害があるからです。

パニック障害というのは、恐怖や不安をコントロールできない障害です。わたしは大きな物音がしたり、男性が立てる物音、声で具合が悪くなります。頭痛がしたり、過呼吸になったり、腹痛がしたり、現実感がなくなったり、いろいろな症状が出ます。

そこで、わたしは、ヘルパーを頼むときには動作がゆったりとして、話し方がゆっくりした女性を指定しています。

ヘルパーさんには、トイレ掃除を頼むこともありますし、衣類を畳んでもらったり、それこそ下着の整理を一緒にしてもらったりもします。

人には羞恥心があることを認めていただきたいのですが、これを男性にしてもらうのは無理です。

トランス女性が、社会的に女性なのは、理解していますが、わたしの心身の状況が、トランス女性を受け入れるか、それができるかは別の問題です。

トランス女性も、労働者としての側面をもちろん持ちますから、福祉の場面で、介護者として働くこともあるでしょう。そうしたとき、わたしは、どうすればいいのかわかりません。途方に暮れています。

男性の体に対する恐怖

わたしは、男性の体が怖いのです。男性の体には恐怖に関連する記憶があり、男性の体と、パニックは結びついています。SRSしてあったら大丈夫なのか、戸籍上女性だったら大丈夫なのか、自分のことながらわかりません。大丈夫ではなかったとき、それを拒否することはできるのでしょうか。

恐怖を語ること自体が差別の扇動だと言われましたが、それは間違っています。実際に、男性の体が武器として行使されている現実を、わたしたちは生きています。

わたし個人の話を抜きにしても、例えば、排せつの介助は同性介助が望ましいという風になっています。しかし、性自認が女性なら、完全に女性として扱うという状況の時に、現在と同様の意味での、同性介助は難しくなるでしょう。

わたしは、福祉をはじめとした諸問題について楽観しておらず、いったん流れができてしまったら、拒否することはできないだろうと思っています。今でさえ、議論すること自体を激しくとがめられる状況だからです。

福祉を受けるときには、ケアマネ、プランナー、ヘルパー、施設長、家族などが関わりますが、その中の一人でも、偏見はよくないと考えていたり、訴訟リスクを恐れていたりしたら、介護や看護される方の意見は通らないでしょう。それは、経験的にそう思いますし、法的にも、倫理的にも、拒否できる理由はないからです。

恐怖を語ることが憎悪の扇動になるのなら、パニック障害は、この障害自体が、悪であり、憎悪の扇動に当たるのでしょうね。

わたしは、パニック障害以外にも、いくつかの疾患を抱えており、近頃は、一日の長い時間をほぼ寝たきりのように過ごしています。今までは、ときどき行く公衆浴場が楽しみの中のウエイトを占めていましたが、心の整理がつくまで行けません。それも、今までトランス女性たちが味わっていたことなのだ、そして、トランス差別者に入る公衆浴場はないってことかもしれません。

意思の疎通をしながら議論するべき

とはいえ、今のまま、議論が続くと、それこそ、精神疾患を抱えた人や、精神障碍者、幼い人、年老いた人を議論から除いたうえ、これらの人々の意思を反映しないまま、いつのまにか、性別の定義が変わっていくでしょう。そうすることで、社会の在り方は変わりますが、女性蔑視や弱者に対する攻撃は温存されるので、結果的に、上記の集団に属する人々の安全感覚は失われます。実際に危険にさらされることもあるでしょう。

今、ようやっと社会や生活に適応している人たちが、そうした状況下で、心身の健康が悪化し、社会や生活に適応できなくなるのは予測できます。

昨日書いたブログを読んで、障害者の当事者が書いていると考えてみなかった人がいるのなら、それは、障害者が蚊帳の外に置かれている、意識の外に置かれているということの証明でもあります。

障害を持っていても、もちろん、意思はありますし、こうしたいという望みも持っていますし、もちろん人権もあります。人権の中には、安全に暮らすということも含まれているはずです。しかし、それが、一方的に奪われてしまうことを、わたしは危惧しています。

昨日からわたしを攻撃する人は、ほとんど男性、学者でした。トランス女性ですらなかったのです。何が語られて、何が語られていないか。語られていないこと、その空白を考えてみてほしいのです。権威のある者、恐怖を語りえない者たちが支配する言葉の世界で、それが何を示唆しているかというと、彼らにとって、人権というのは、成年の男性のためのものであるんだということです。建前ですら、障害者や、幼児の保護者、性暴力被害者を守るという態度が取れない人がいるとは驚きました。

いい人でありたい、という欲はとても人を振り回します。トランス女性の権利を推進したい人たちは、特にその欲望に弱いように思います。自分をいい人間だと思いたいあまりに、自分が差別者だと判定した人を、攻撃することで、自分が正しいことをしたと思いたい、その欲はわかる部分もありますが、そのむやみな攻撃の力の先が、何を引き起こすのか、考えてほしいと思います。弱い人間も社会の一員です。それらの人たちに、頭が悪いから駄目なんだ、理解しないこと自体が差別なんだと言っても、弱い人々が消えるわけではないことを理解していただきたいと思います。意思を確認しながら進んでいただきたいと思います。

追記:精神疾患を持ったり、性暴力被害者だったりするTの方もいるはずなのに、ともに考え、ともに歩みましょうという話にならないのは、とても悲しいことです。誰も正解をもっていないのだから、一緒に考えることができればいいと思うのに、憎悪が高まることは悲しいことです。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

障害者の立場からのジョグジャカルタ原則への不安」への4件のフィードバック

  1. 精神障害者の一人として、説明の難しい苦しさをこうして記事にしてくださったことに感謝と敬意を表します。ありがとうございます。

    1. こちらこそ、声かけありがとうございます
      学者をはじめとした人にすごくバッシングされてるので、そういう風に言われてたすかります。
      カムアウトはそこそこしんどいので、でもそうでもしないとわからない人もいるし、しても、他の人を攻撃するための新たな材料として利用されることにやりきれなさを感じます。
      躁鬱、ASD 、パニック障害当事者としてどれをとってもうまくいかない問題なので
      他の人のためと思いました。

  2. インターネットは現実世界に生きる人たちのごくごく一部要素でしか無いはずですが、そこに記載された物事だけが全てになってしまうと厳しいですね。
    巧みな言語化だと感じました。

    1. 世の中には、様々な人がいてそれぞれ困難を抱えていて、わたしはそのすべてを記述することはできませんが、わかる範囲で書きました。でも、見えないし、見ない人が多いのは悲しいです。
      だんだん、今朝あたりから、言葉で書くことが難しくなってきて、苦しい気持ちでいるので、でも、この記事はわかりやすかったということでよかったです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください