クィア活動家への批判:女子トイレ・女湯問題について

この問題は、トランス女性、ネイティブ女性の対立というよりも、クィア活動家と、生活者としての女性(トランス、ノントランス問わず)との対立だとわたしは考えている。

社会の約束事

社会は、信頼を前提に成り立っている。それは、暗黙の了解だったり、道徳としてだったり、意識されていないくらい内面化されたものだったりする。

例えば、お金に価値があるのは、お金に価値があるとみんなが信頼しているからだ。これは紙切れであり金属である、それだけのものだとみんなが思えば、お金で何かを買うことはできなくなる。

クィア活動家の発言意図への解釈

わたしの理解するところでは、クィア理論は、その「自明さ」を自明ではないと撹乱するものだ。ある定義があれば、その定義をずらす、信頼によって成り立っているものがあれば、そんなものはないと突きつけるものだ。

だから、少年ブレンダさんが「女湯でグヘへと思っているmtfはいる」「女湯でちんこつきのまま何事もなく談笑した人もいる」というような発言、尾崎日菜子さんの「ちんこまたにはさんで、女湯にちーっす」発言は「撹乱」を目的としているのだとしたら、クィア理論のオーソドックスな実践と言える。

ジェンダーだけでなく、セックスも作られたものだと示していくこと。欲望は権力に作られたものだということ。タブーを作ることで、その欲望が明確になるということ。それらを示すための言葉ではないだろうか。

しかし、当然ながら、このような「撹乱」は社会の約束事を壊すことを目的としている。また、クィア理論では、「何事も自明ではない」「すべてのことは社会的に構築されたフィクションである」ことを示すことを最優先にしているようだ。

生活者は勉強ができない

何が起きるかというと、「約束事を守って生きている」人たちの社会への信頼や、それから得ている安心が破壊される。

論文を書くような人たちは、この「トランス女性が女子トイレ、女湯に入る」問題で、抗議している女性たち(それはネイティブ女性、トランス女性両方)についてとても冷たい。

「勉強が足りていない」「フェミニズムが後退している」という風にいう。「冷静になるまで、黙っていたほうがいい」「今までフェミニズムの何を学んできたんだ」というような呆れに近い態度を示す人が多い。それは、クィア理論を肯定し、支持する立場なら、理解できる。

しかし、いわゆる「普通の人たち」には、クィア理論も、一部のアカデミシャンのこれらの言葉はとても冷たく響く。

まず、普通の人たち、つまり、学生でもなく、論文を書くような立場でもない人たちは、一日の中で勉強に割ける時間や、体力や、お金がないので、勉強をすることができない。

また、勉強したいと思っても、どの本から読めばいいのか、皆目見当がつかない。

ネットでフェミニストを名乗ったり、名乗らなくても女性の権利を求める人たちは、自分たちの境遇についておかしいと思い、声をあげている。

わたしは、それがとても尊い行為だと思っている。

彼女たち、彼らたちは、手探りで、自分が知っている言葉を組み合わせて、窮状を訴え、自分の被害体験を語り、精神的に追い詰められて、時には荒い言葉さえ使いながら、今よりも良い世の中を次世代に贈ろうとしている。

論文を書くような人たちには、繰り返された論争をまた繰り返しているばかりか、議論の蓄積を劣化させているように見えるのかもしれない。けれど、わたしも含めて、学術的な論争を過去にさかのぼって読み返す余力はないのだ。

クィア理論が脅かす、弱い人たちについて

わたしが心配しているのは、弱い人たちのことだ。

知的障碍者、認知症、精神疾患、精神障害者、これらの人たちは、慣習を学ぶことがとても難しい。けれど、パターンを繰り返すことで、なんとか慣習を身に着け、それに従って、最低限度、適応した生活を目指している。

具体的に言えば、上記の集団に属する人が、毎回同じ公衆浴場に小さいころから連れて行ってもらい、とうとう一人で行くことができるようになった人がいるとする。それは彼女や彼の習慣になった。そして、それが限られた生活の中での数少ない楽しみだとする。

しかし、クィア理論は、こうした「安心」に基づく習慣を破壊する。

いつもと違うことが起きた場合、上記の人たちは、ひどい混乱に陥る。精神的にも、生活も、「崩れて」しまうだろう。崩れる、という表現を知らない人には、病状が悪化するというとわかりやすいかもしれない。ショックから、起きれなくなったり、食べられなくなったり、自分の体や心を傷つける行為をしてしまったり、パニックに陥ったりして、毎日の生活が送れなくなる可能性があるのだ。わたしに関していえば、絶対にそうなると予測できる。

自明のものを問い直し、それが当然ではない、と突きつけることで、社会の認識を変えていく、という活動が呼び起こすのは、知や教養へのアクセスを閉ざされた人たちの生活の破壊である。

わたしを含め、普段、入浴しているとき、「男の形をしている人」や、「性的な目で見る人」がいないのは、習慣の前提になっている。それが覆されたとき、起きるのはパニックだ。

「ここには怖い思いをさせる人はいないからね」「男の人がこの場所に来ることはないよ」と長年教えられ、そうしてきた人たちに「恐怖を捨てて理解しろ」というのは無理である。能力的にできない人がいるのだ。理解を拒むとか、かたくなに無知でいたがるとかそういうことではなく、できない人がいる。

そうした人たちを、排除したまま、クィア理論の導くままに社会を構築することは正しくない。日本のような、性犯罪を防ぐことも、裁くことも、不十分な社会においては。

学びから排除されたがゆえに、フェミニズムからも排除される

わたしは、たとえ間違ったとしても、自分で考え、発言することが尊いのだと信じて生きてきた。

でも、勉強不足だ、それがフェミニズムを後退させると、知の最先端の人のセリフがなんと悲しく響くことか。

わたしは、障害のために、本を読む力が出ない時がある。

生活の中で、細切れの時間しかなくて、じっくりと考えることが難しくもある。体力がなくて、起きていることができない。頭にもやがかかったようになって、勉強ができない。感情が不安手になって何もできない時もある。お金がない時には、食料と家賃を払うことで汲々としていた。

でも、こうした状況は特別なものじゃない。

今、生きている人たちは、生活に直結するような勉強しかできない状況である。首都圏以外の女性は特に大学進学率が低い。大学に行けるとしても、資格を取れる、食べることに困らない仕事が確実にある学部を選ぶ人がとても多い。知から排除されているがゆえに、フェミニズムが必要なのに、勉強不足だから語るなと言われる。教育格差は明らかで、知へのアクセスが困難なのに、勉強不足で、ほかの人を差別する前に黙ったほうがいいと言われる。

ネイティブ女性が黙っていれば、丸く収まるのだ。丸く収めないために、わたしは語るのだ。

わたしが二十年前に、フェミニズムを学びたいと思ったとき、わたしはそのときまだフェミニズムという単語を知らなかった。

女性の権利運動、ウーマンリブ、という言葉を教科書で知っていたので、そこから始めた。上野千鶴子という名前は知っていたから、その本を読もうとしたが、単語が難しくて、意味が分からなかった。

そこで、「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」を見つけたときには本当にうれしかった。「フェ」といって、役人と話しあうくだりには共感した。わたしの周りには、フェミニズムを知っている人がいなかった。家に、田嶋陽子さんの本があったのは恵まれていたのだろう。

この本をどう使ったのかというと、参考文献をひたすら探して読んでいったのだ。もちろん、全部を読むことはできなかった。それでも、そこから勉強を広げていくことができた。

それから二十年たち、わたしはあのころから知識をアップデートできていない。だから、あのころからの二十年の議論の蓄積があったとしても、知らない。

けれど、今は二十年前よりも、状況は悪化している。だから、二十年前の知識でも、そう違和感なく、語ることができてしまうのだと思う。

フェミニズムは後退したか

どれだけ理論が進んでいっても、現実は後退しているから、ネットでフェミニズム的な発言をする人たちの、フロントラインが後退して見えるのは当然だ。これらの人たちが心配しているのは、自分のことだけではない。頭に浮かぶ、子供、病気の人、変化に弱い人、障害を持つ人たちの顔のために戦っているのだろう。

それが後退と呼べるだろうか?

二十年前、フェミニズムという言葉を知ることができなかったような人たちが、その言葉を手にすることができる今が、後退したと言えるだろうか。

弱い人を守るためのルール

弱い人たちを守るためには、ルールをある程度単純化して、わかりやすく、伝えやすくしておく必要がある。そして、そのルールは必要なだけ、反復しなくては、身体的に身につかない。

「ここには基本的に女性が来るけれど、心が女性で、身体は男性も来る。けれども、心も体も男性の人が来る場合もあるから、その時には逃げるんだよ」と説明して、理解するのがかなり難しいような弱い人がいる。そうした人は混乱するだろう。今まで教えられたことと違いすぎる上に、考えることが多いから。わたしも、現実にそういうことがあったら、混乱するし、病状が悪化するだろう。

社会の、自明であることを破壊する、定義をずらしていく、ということは、具体的にはこういうことなのだ。

こうした人に「勉強不足だから、トランスフォビアから逃れられないのだ。恐怖を克服するために学ぶべきだ」と言っても、意味がない。能力的にできなかったり、経済的、時間的、体力的にできない人がたくさんいるのだから。

もちろん、トランス女性、トランス男性にも、障害を持つ人、病気の人はいるだろうけれど。

クィア理論と、社会の信頼を自明のものとして、それを前提に行動せざるを得ない人とは、とても相性が悪い。

アカデミシャンの中には、こうしたことを考えていないのではないか、と疑わざるを得ない人がいる。

頑迷で、硬直し、偏見に満ちたように賢い人には見えるだろう「フェミニスト」の中には、こうした困難を抱えて発言している人が多くいると私は思っている。わたし自身もそうだから。

「クィア活動家」と「生活者」の対立

わたしは、女子トイレ、女湯に、トランス女性が入ることについての議論は、「クィア活動家」と「生活者としての女性」の対立だと理解している。

先に述べたように、クィア理論は、自明とされたことを破壊することで、クィアを成り立たせることを目的とした理論(もちろん、わたしが理解したところではという前提だ)なので、自明のなかに含まれる、信頼を基盤とした安心を破壊するものに、困難を抱えた人々が反発するのは当然だと思う。反発するだけでなく、激高し、感情的になるのは、信頼を基盤とした安心を壊されることで、自分や、守るべき弱い人が危険にさらされるからである。

女湯で、無防備になっても、性的にみる人がいない、男性がいない、というのは、建前である。しかし、その建前が、人の最低限の安心を担保している。その建前を実はないのだと示すことで、行き場がなくなるのは困難を抱えている人々である。

トランス女性が、困難を抱えてないとは言わない。だが、クィア活動家は、ネイティブ女性たちの個別の事情よりも、「自明のことを突き崩す」クィア理論を優先しているのだから、わたしはそれに抗うよりほかにはない。

「勉強不足」は脅しに響く

大学にいるような人たちに「勉強が足りていない」「勉強ができていない」と言われるのは、恐怖である。学校教育の中で、勉強ができない人と言われることが怖かった人は多いだろう。

それを思い出すのだ。

そのうえ、勉強が足りていないのだから、深刻な差別を引き起こす前に黙ったほうがいい、と権威のある人に言われるも非常に恐ろしいことである。

しかし、黙ったところで、トイレや公衆浴場、ネイティブ女性のみが入れる施設に対して、それ以外が入れる法案が、他国で性急に成立したのは事実である。日本でそれが起きないとはいえない。

恐怖はコントロールできない

日本で性急に法律ができるわけじゃないから恐怖を引き離してほしい、と言った弁護士がいる。性急に法案ができるかどうかは、コントロールできないことだ。コントロールできないことに恐怖を抱くのは当然だ。恐怖をコントロールしてほしいといわれたところで、コントロールするかどうか、またそれが可能かどうかは、わたしの問題なので、その部分に口を出されることも不愉快だ。

わたし自身は、男性があまりに恐ろしくて、入院した際にも、個室から出られなかったことがある。その時から七年たったけれども、一人で外出することはほとんどない。怖いからだ。怖くないほうが自分にだって都合がいい。でも、それができないから、不便でも、ほぼ家に引きこもっている。そのせいで、就労機会を逃してもいる。わたしは恐怖をコントロールできない。

また、その恐怖には根拠がある。男性から、女性への暴力は多い。暴力からも、その恐怖、後遺症、セカンドレイプから守られもしない。

勉強をたくさんしてきたり。フェミニズムを専門に学んできたり、論文を書くような人たちは、確かに理論に詳しいのだろう。でも、わたしたちにも経験してきたことがあり、困りごとがあり、守るべき人がいる。理論的に、フェミニズムが後退したと言われても、現実に抗するために、後退したと言われることを甘受する。それは現実に対応しているだけだから。

勉強することで、悩んでいたことがすっきりして、見通しが良くなることは、みんなわかっている。わかっていてもできないのだ。

不十分なまま語り、進む

トランス女性たちも、困難を抱えているのだろう。

でも、ネイティブ女性たちも困難を抱えている。

二つの困難が、どちらの犠牲もなく、解決するならどんなにいいだろうか。それに反対する人は少ないだろう。

わたしは、トランス女性の困難を本当の意味で理解することはできない。自分ではないから。そして、自分の困難を、真の意味で理解されることもないとわかっている。それでも、語らなくてはならない。誰も代弁できない。そして、代弁すべきでもないから。

だから、勉強不足だから、人を差別する前に黙ったほうがいい、ということを絶対に拒否する。自分の意思で必要だと思った時以外には。

クィア活動家から示されたことを飲み込むと、ネイティブ女性や知的、精神障害を持つ人、病気の人が犠牲になる。

反知性主義に陥っている、と言われたとしても、わたしは、生活を守りたいのだ。安心して、安全に暮らせること、就労や就学機会の損失をなくすことを求めて、今まで発言してきた。

自分の思うことを語るために生きている。

正解かどうか、賢い人の顔色を窺って、忖度して語るのはまっぴらだ。それはずっとしてきたことだ。それでわたしは生きる活力を失ったのだ。

フェミニストたちは、第一波から、ずっと論争を繰り返し、反目し、論争を繰り返し、同じようなことを繰り返してきた。それは今に始まったことではない。愚かだ、と言われても来た。

生活者が、自分の思うことを表現するのに恥じることはない。いつだって勉強は足りない。十分に勉強してからでは人生が終わってしまう。

障害者にも、またほかの困難を抱えた人々にも、フェミニズムは必要だから、わたしは勉強不足のまま語る。

わたしの知的水準がフェミニズムのアカデミシャンの求める水準に達することはないだろう。

けれど、誰もわたしの代弁はできないから、不十分に、不十分のまま、語らなくてはならない。

わたしが完全になることは決してないから。

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