ミソジニーの仕組み

完璧な○○は差別

近頃、「女」というのはどう定義されているかずっと考えていたのだけど、「純女」という言葉をみて、「純女」って何だろうなと思った。

生まれてこの方ずっと女、ってことだと思うのだけど。

完璧な日本人、完璧なドイツ人、完璧な男、というのを考えてみると、それらは、すべて完璧じゃないものを排除している言葉だなと気づいた。帝国主義的っぽい。

自分たちが「完璧な○○の集団だよな」と確認し合って団結し合うためには、「あいつらとは違う」と、いかに違うか言い合って、「違うあいつら」との扱いを変えるのが一番いい。

これが完璧な〇〇が差別だという理由だ。

男社会(ホモソーシャル)の仕組み

男の社会というものは、「あいつは女みたいなやつだ」「あいつは男の中の男だ」「本物の男だ」と言いながら、常に確認し合っている。わたしには、すごくいちゃついているように見える。

でも、彼らは、自分たちがお互いに欲望していないってことにしたい。男に欲望されたら、自分が「女」ってことになってしまうからだ。彼らは、求める者(主体)が男で、求められる者(客体)が女だと思っている。

もし、男から求められて、貫かれてしまったら、「お前は男の中の男だ」と言い合える男社会の一員でなくなるから、主体でいることに必死だ。客体として扱われれることを防ぐために、アリバイとして「女」ってものが必要だ。女を所有することで、自分は男の社会を脅かさないし、男からの欲望も必要ないということが示せる。だから、男社会は「女」を発明したのだと思う。

男社会にいながら、女が「女」を主体的に定義することは不可能だ

わたしは、二週間くらいずっと考えているけれど、「女」というものがなんなのかはっきり定義できない。not男としての、男の否定としての女しか思いつかない。生まれたとき、性器の形状でどちらかに割り振られて、そういう風に扱われたから、今「女」になったという感じ。

主体的に「女」だとはとても言えなくて、「しかたがない」といって、現状追認しているうちにどんどん女になっていった。

今、脱コルセットが、若い世代のフェミニストで話題になっているけど、もう、年を取りすぎていてとってもじゃないけど、無理。理屈上は、正しいと思わないといけないな、と思うけれど、いろいろな経験が彼女らにうなずくことを邪魔する。

若かったらできたと思う。若いころモヒカンにしたことがあった。でも、女の形をして生きていたら、どんな姿でも女として認識され、どのような暴力も防げない。そういう経験をして、無力を学習してしまった。そういう染みついた汚れみたいなものが、若い人たちの新しい運動を応援できなくして、思考や行動が硬直化していくのが自分でもわかる。

女の記号を身にまとうこと

布一枚でも身にまとっていたら、それが社会に対してどんなスタンスをとっているか、表明することになる。服装というのは社会的なメッセージだ。

女らしく女の姿でいることが、社会からの要請の追認なのか、それとも自分は男ではない、男とは違うのだと示すアクションなのか、考えてもわからない。ただ、男のような恰好をすると、わたしが、社会から受けた要請を追認した結果育んできた「自分らしさ」みたいなものが傷ついてしまう。それで反発するんだと思っている。

それに今は、手芸も好きだし、家事も好きな部分がある。蓄積された技術に誇りも持っている。装飾品も好きだ。手仕事に対するリスペクトもある。なにより、肩を寄せ合って育ててきた女たちの世界を今更抜け出せない。これはわたしそのものだから。わたしが育ててきた女の文化は、わたし自身でもあるから。

女の記号を身に着けることで、男は性別を超える

女を示す記号はたくさんあって、それを身に着ければ、男でも「女」としてふるまえる。第三の性として、性別を越境できるのは男ばかりなのは、記号化した性別のしるしが、「女」にしかないからだ。男が性別を超えることができるのも、男の特権だ。

完璧な女かどうか決めるのは、女じゃなくて、男社会だから、どんなに若く美しく女の記号を兼ね備えた女でも「あいつはあり」「あいつはなし」「劣化した」「女としてあれはないでしょ」と言われる。自分で完璧な女だと思い込もうと努力しても、一歩外に出て、一つ判断されたら完璧ではなくなる。

自分を完璧な女とは思えない理由

自虐的に言えば、社会で想定された「女」というのは、「完璧な男」から排除され、否定された集団だから、自分たちで「これが女なのだ」と示せない。もともと、受動的に、「これは男じゃない」と言われた者たちを吸収した器のようなものだ。

女たちが、常に自信がなく、自己肯定感のなさに苦しみ、そのために、他人に付け入られて、利用されて、ぼろぼろになってきたのは、ミソジニーのせいだ。

女たちが自信を持てないのは、まず、お前は完璧じゃないと言われ続けたからだ。そして、自分は完璧ではないと判断する視線が、何をするよりも前に、事前に自分の内側に向いて、自らを傷つけてしまう。わたしは、心穏やかに鏡を見ることができない。自分に自信をもって、鏡を見られないのは、自分にミソジニーがあるからだ。それは、わたしが自分から進んで選んだことではない。度重なる攻撃によって、自信を持つことをあきらめたのだ。

自尊心や、自己肯定感、自信は、心のバリアーのようなものだから、それをあらかじめ奪われていたら、攻撃を防げないのは当たり前だ。

それによって、自己肯定や自尊心が失われたことで、他者の支配を容易にする。攻撃するものは、ミソジニー、つまり女嫌いをためらう理由がないから、いくらでも攻撃してくる。女はどんどん弱っていく。攻撃と、それによって始まった自分いじめ。そして、ミソジニーの輪が完成する。

主体性は獲得できるのか

日本において、そもそも主体性を獲得できるのか、疑問がある。

西洋では、タブーを破らないことで、良い人間を目指すことができるが、日本にはタブーがない。日本では、良いことをすれば良い人間だと評価されるけれど、それは、都合の良い人間と紙一重だ。「良いこと」が誰にとって良いことなのか、基準が変わるので、良い人だと思われたいから行動したことで、流されて、結果的に不正義を行うことだってある。実際、わたしが道を誤ったと後悔するのは、良い人だと思われたがっていた時ばかりだ。

女たちが、主体性に生きることを奪われているのは、決定権のなさや不合理な取り扱いから言って明らかだと思うけれど、男たちが、主体的に生きているのかというと、それもまた違うだろう。「風呂飯寝る」だけ言いながら、習慣で会社の往復をしている人間が主体的に自分が選択しながら生きているという実感を得ているとは思いにくい(もちろん彼がそうできる環境を整えている人間も主体的に生きてはいない)。民主党が悪いといまだに言っている男たちも、流されているだけに見える(政権が代わってからの年月のほうが長い)。

あいまいに、なんとなく、なんか、と言いながら右往左往しているのがわたしである。わたしは、主体的に選んでいると自信を持って言えることがない。

環境的に、それを選ぶしかないな、それがベストかなと思って選びながら袋小路に入り込んだ気分だ。生涯を共にする相手を選んだ時でさえ、恋愛だというのに、「しかたがない」とずっと言っていたし、今も言っている。本当に、しょうがない、どうしようもない。好きか嫌いかで言えば好きで楽しいけれど、それとは別にそう思う。結果として、主体的に選んだみたいに見えるだけだ。テトリスみたいに落ちてくる出来事に合わせて自分を嵌め込んでいったんだ。

ミソジニーとどう向き合うか

わたしは、はっきり言っておくけれど、自分の中にミソジニーがあるなんて、自虐的すぎて、自罰的すぎて、到底受け入れられなかった。しぶしぶ、そうとしか思えないから、しかたなく、そういうものだなとなんとか飲み込んだだけだ。

わたしは、

「わたしにはミソジニーがありますよ、だから、自分を茶化したり、ちょうどいいとかいったり、自信が持てなかったり、これくらい当たり前でたいしたことないなんて言うんですよ」と気付いた時ショックだった。

女性が往々にして自罰的なのは、ミソジニーが攻撃しているからだと、男性のミソジニーを批判しているわたしが言うか?と思った。

でも、社会が、あらゆるところに女性差別を前提にして構築されている以上、女性の中にもミソジニー(女嫌い)はあり、自分の女らしさに気付いたとき(それは化粧をするために鏡を見たときや、ガラスに映る姿をチェックしたとき、お茶を入れるとき)、表に出てきて、自分を攻撃するのだ。

わたしたちは、そうした毒みたいな違和を飲み下しながら生きてきた。これからもそうしていけばいい。男のミソジニーを否定して、なるべく楽しく生きていこう。

本当にわたしは、ミソジニーに対して戦うのも、戦えというのも、ミソジニーを自分に向けるのをやめて、自信を持とうと女性に呼びかけるのも、うんざりしている。

うんざりしているけれども、それでも言わなければならない。

「ミソジニーは社会の礎に刻まれており、それゆえ、被差別者の中にも、それはある」と。

でもこうも言いたい。

「だからなんだっていうんだ?」と。

参考文献


c71の著書

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