mtfに関する疑念

女はほんとにイージーモードなの?

mtfについてのことを書きます。。

というのは、ツイッターで、フェミニストとトランス女性が争っているので、だから、わたしがトランス女性たちに抱いている不信の理由をまず書きます。

トランス女性に不信を持った経緯

このブログは女性や、精神疾患で苦しんでいる人向けに書いています。それで、女性の中にトランス女性も含めるなら、ちゃんと知っていかないといけないなーと思って調べたり、考えていました。

そうしたら、「この表現はよくない」「この内容はよくない」みたいに、セクシャルマイノリティの人たちに言われて、「反差別なのに、人を踏んではいけないな。ちゃんと学んで、いい人になろう」と思って直してました。そうしたら、だんだん要求が増えて行って、自分の主張を代わりに言わせる道具にしているのではないか、という疑問と、セクシャルマイノリティのために発言していくと、引き換えに女性に我慢しろ、女性の安全と引き換えになっても女性にもマジョリティとしての特権があるのだから、譲るべきだと思い始めました。

「ただの女」を無視する自分のミソジニーに気付く

で、そこで「ただの女」の言うことは聞かないのに、「セクシャルマイノリティの言うことは聞くって、ミソジニーではないか?」という疑問を呈されて、一年ぐらい考えていたのですが、「そうだな」と納得する瞬間がありました。わたしは、いい人だと思われたくて、一番大事な、女性の権利に対して、鈍くなっていたな、と思いました。

また、自分の中にミソジニーがあり、それが、自分を攻撃しているので、自己嫌悪に陥り、それを解決するために、セクシャルマイノリティの権利を代わりに主張することで、代償行為をしていたなと思いました。また、ミソジニーのために、女性の訴えを軽く見る部分が、わたしにもあったなと。

この発見は非常に衝撃的でした。

トランス女性の言動の違和感

ほかにも、「高専に通っていたトランス女性」がマサキチトセさんがパーソナリティを務めるツイキャスに出た際、コメントに「女だからあなたたちにフランス語を教えても理解できないから意味がない」と授業をボイコットされた、という経験を話している方がいたのですが、そのとき、そのトランス女性は「自分も高専で、英語をあまり教われなかった」というエピソードを披露したのです。女性差別の文脈のコメントだったので、それを伝えるコメントをそのときにも書いたし、ツイキャス後、マサキチトセ氏に、DMで「あれは女性差別だ」と伝えました。でも、彼は「複合差別のこともあるし、不均衡さを考慮しなければならない」と言って、パーソナリティとしての責任を認識しないまま、我々は物別れしました。複合差別と言えば、わたし自身も障害を持っていますし、ほかの人もそうなので、「普段複合的差別について、執筆したり講演している人も、現実に自分がしているのだと指摘されてもそれを認識すらできないものだな」と思いました。同様に、トランス女性にもがっかりしました。「女性の教育格差というものを実感したことはなくても、一応女として生きているなら、それを知る努力は必要じゃないか。高専の男女比を経験して、それでも気が付かないのは、男として扱われ育った経験が大きいのでは?」という疑念が生まれました。

女性蔑視が元凶なのではないか

わたしは、自分が女の体を持っているだけで、犯罪に遭い、教育機会や、就労機会を失いました。今でも一人で外出するのは怖いので、ほとんど一人では出かけません。男性とすれ違うだけで冷や汗が出て震えるからです。

それは、構造的な問題があるせいで、起きた被害だとわたしは理解しています。

女性蔑視が発端で暴力が生まれるという意味で、女性蔑視を「非男蔑視」と理解すれば、トランス女性も同じような苦しみを持っているはずだから、お互い理解し合えればいいと思っていました。

しかし、女湯にちんぽがついていても入ってやる、犯してやると言ったmtfや、女性差別が嫌なら、トランスして男になれ、と言ったmtfがいたので、わたしたち女は、トランス女性からも攻撃対象なのか、と思いました。その人たちが一部でしかない、ということは何度も考えました。でも、わたしが「シス女性が身体違和のない人、何とかなっている人、という意味ならそうではない」ということや、疑問を呈しているツイートに「わかってない」というような(これよりもっと攻撃的な)引用リツイートばかりが付いたのは確かです。

トランス女性への差別は「非男蔑視」から来ているものだと思っています。でも、その前提を共有できるかというと、現状難しいなと思っています。

シス特権リストは仮想の女に基づいていた

「シス特権リスト」というのを見て、それがミソジニーにあふれていたので、トランス女性たちが、「女」というものを「完ぺきな女」を想定しているのなら、それは、存在しないし、その「完ぺきな女」というモデル自体が差別的な発想で、個人の経験を無視していると言わざるを得ません。

例えば女性の生理、出産に対しても特権だと書かれていました。女性であっても、身体的な苦痛や、身体的な違和感は、一生続きますし、体の問題は、どうしようもないことです。それは、トランス女性の人も一緒だと思っていました。生理や出産をあげつらうやり方は、ミソジニー男性の定番です。だから、「男性的な発想だ、女性観が男と変わらない」と思いました。でも、そうじゃなくて、少なくとも「優位性がある」と言われていたわけです。

トランス女性の苦しみと女性の苦しみがイコールだとは言いませんが、重なっている部分もあります。でも、その重なっている部分さえ、共感しあうことなく、共感されることもなく、安全に対する疑念でさえ、トランスフォビアと言われて口をふさがれているのが現状です。

トランス女性として生きたことはないので、わたしはその苦しみが分かりませんが、トランス女性だって、「シス女性」として生きたわけじゃないので、その苦しみをわかるはずもないのに、イージーモードだ、純女さんだと言われるとやはり腹が立ちます。

シスの既得特権があるとしたら、それは、女性のみならず、男性へもその射程範囲に入るはずですが、どうも、要求が女性に対してばかりに偏っている傾向があると感じます。もし、女にだけ我慢させれば解決すると無意識に考えていたら、それは、男性の発想ですし、女性蔑視です。

男として社会的位置づけられてきた経験が影響しているのではないか

トランス女性が、本当に女性当事者として自覚をもって、女としての経験を積み上げるか、女の問題について考えてきたならば、女として女の苦しみを分かち合えるはずなのに、女を攻撃する人ばかりに見えます。自分自身でも、自分が男の体を持つから苦しみが生じた、という出発した前提から考えているのに、そこをうやむやにしています。自認だけで、女性を名乗れるはずだと主張する人がいます。

個人的には、パス度を求めるのは、既存のジェンダーロールをなぞることにもなるし、それ相応の負担を求めることになるから、絶対にしろとは言えません。ただ、パス度が低ければ、その低さに従って、女性の領域から除外されるのはやむを得ないという立場です。それは、女性の安全を守るために必須だからです。

「女とは、身体的な特徴から分ける」という定義を揺るがして、「女を自認していれば女になる」ということを主張される人もいます。でも、そうしたら、女の体を持っているがゆえに起きた差別や暴力に対して抵抗する言葉を奪われます。だから、わたしは、それを絶対に認めないという立場で、その主張を批判します。

シス女性という言葉も、「性的自認」と「体の性」が一致しているくらいならなんとか飲み込めますが、「違和感がない」「何とかなっている」と言われたら、「違和感は物心ついてからあるし、今も、体の変化に耐えきれないで、心を病んでいる」と答えるしかなく、それならば、シス女性という幻想でひとくくりにされることを拒絶するしかありません。

世界を変えるか、自分を変えるか

わたしの経験の話をしますが、精神疾患では、世界を変えるか、自分を変えるか、で治療方針が変わります。たいていは、世界(自分の半径五メートルの環境から社会制度を含む)を変えつつ、自分も変えて折り合いをつける、ということをしています。

トランス行為は、疾患ではないと聞いています。が、それでも、世界を変えるか、自分を変えるかの選択で、やむを得ず、自分を変えて生き延びた人だと思っています。

だから、社会制度や性的役割分担を変えたがっている女性とは、折り合わないのだと思います。

わたしは絶対に「身体的に女性であるがゆえに起きている差別や暴力」に反対することから、逃れられず、逃れるつもりもないのです。

何かを主張すれば、嫌われることは避けられません。いい人でもいられません。いい人でいるというのは、ある種の毒です。

わたしは、それよりも、誰かにとって、嫌な人であることを受け入れて、そして、女性をエンパワーメントすること、女性が自由に生きられる未来のために書きます。だから、嫌われることを覚悟しています。

最終的にわたしは、自分を変えて適応するのではなく、世界を変えることを目指します。女性や子供の未来の苦しみを減らすために。

c71の著書

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