七年ぶりに、以前入院していた病院を受診した。
わたしは、精神科でたくさんのことを学んだ。
これから書くことは、わたしにとってつらいことでもあるけれど、読む人によっては、やっぱりつらいことかもしれない。
わたしは、性的な加害を受け、その結果性的逸脱をし、その性的逸脱のために、性的な加害をまた受けるという繰り返しをしていた。性的加害を受けた人は、そうした連鎖から逃れにくいということも知っていた。
性的逸脱はいつでもマイナスなイメージとともに語られるが、いいこともたくさんあった。もちろん、悪いこともたくさんあった。わたしが受けたダメージを生き延びるために必要なことだったのは間違いない。なければ一番よかったけれど、起きたことは起きたのだ。わたしがどれだけなかったことにしようと、起きたことは起きた。
性的逸脱の悪いことは、搾取されもてあそばれ自分がどんどん傷ついていくことだった。
七年ぶりに懐かしい先生に会って、一番に心配されていたのは「性的逸脱はどうですか」ということだった。
「今は収まっています」と言ったら
「性的逸脱からすんなり抜けられるのは珍しいね」と言われた。
すんなりではなかったので、その説明をした。
生き延びるための依存
自傷や、摂食障害は、心の苦しみを病気として表現することで、どうにか生きようとする前向きな作業である。自傷や摂食障害、各種依存の中でも、比較的安全なものと、危険なものとがある。
ただ、その過程で、身体へのダメージが大きいので、いずれなくしていきたいものだ。
例えば、過食は、拒食よりも、やや安全である。吐きさえしなければ。わたしは過食症気味だったけれど、過食を通して、苦しみをマヒさせ、生き延びることができた。太ったけど。
それと同じように、性的逸脱は、それ自体で死ぬことはないが、関わった相手によっては、死んでしまう場合もある。
性的逸脱は、病気、妊娠、犯罪の可能性があるので、危険と言えば危険だ。他者とのかかわりを求める点では、社会的な依存だと思う。自分の体を放棄して、手放す行為でもあるけれど、自分の体を取り戻す作業でもある。わたしにとっては冒険、世界を広げるというポジティブな意味もあった。
先生は、「自分を責めることもないし、試行錯誤すること自体は悪いことじゃない」というようなことを七年前に言った。「あなたが性的な加害を受けたことにあなたに責任はない。正常な反応だ」とも言っていた。
正常だから異常になる
一見、考え方がおかしいようにみえたり、病的としか見えない行動も、非常事態には、正常であるが故に起きるということをわたしは病気を通して学んだ。異常なことが起きたとき、正常だから病気になるということも。
性的逸脱の終わるきっかけ
性的逸脱が収まるきっかけになったことは、二つある。
一つは、契約をするように、一つ一つ、したいこと、したくないことを打合せし、そして、その約束を一つも破らなかった相手がいたことだ。
「まあ、普通なのかもしれないですけど」とわたしは先生に言った。
「それは普通じゃないね、そうした状況で約束を守る人って珍しいからね」
それで、わたしは、しがらみもないのに、約束を守る人がいたことで、男性の中には信じてもいい人もいるのかもしれないと思った、と言った。
そして、その後、今の連れ合いが家にやってきた。わたしは、その時、別の恋人がいた。それも連れ合いに説明してあった。そして、別の恋人とデートに行くときも、帰るときにも、連れ合いは、普通の態度で出迎えて、わたしの愚痴を聞くということをしたのが、よかった。
その恋人と別れて、次の男ができたとき、連れ合いは動揺したけれど、わたしに怒りをぶつけることをしなかった。
「それでなんとなく納得して、それから収まってます」
と、わたしは先生に伝えた。
「すんなり収まったわけじゃなかったんだね」と先生は言った。
性的逸脱のもたらしたもの
わたしにとって、性的逸脱には、二つの意味があった。
被害状況の再現
被害状況を再現することで、その被害を生き抜いた自分を確認すること。自分は、悪夢をコントロールできると、何度となく試すことで、自分は大丈夫なのだと確かめていた。
最初、どうしてつらくてきつい、死にたくなるような状況を自ら作って、それを壊れたレコードのように繰り返すのか、不思議だった。でも、それは、たぶん、同じ状況にいると、それが「慣れている」状態なので、安心するという面と、もう一つ、それをなんとか乗り切れる自分を確認することで安心していた、という面があった。
わたしは、性行為が自分にどういう影響をもたらし、男が何を求めているか、どういう価値観を持っているのか、調べたかったのかもしれない。
支配から逃れるため
もう一つは、支配から逃れるためだった。
わたしは、親子関係に、子供の立場から問題を抱えており、そこから離れるために、性的逸脱を利用した面があった。性的な事柄は、親離れそのものだった。
悪夢と体のコントロールが可能か確かめた
また、加害から始まったものだとしても、性行為を通して、自分の体のコントロールを取り戻す意味もあった。結局、性的逸脱を通して、自分の体のコントロールを取り戻すことはできなかった。どれだけ繰り返しても、自分の体の感覚は、失われたままだった。ただ、そういう試みを、自分からしようとしていたことは、よかった。わたしが自分の人生を自分のものにしようとあがいていた過程だと自分だけは思えているからだ。
支配を支配し返せるかどうかの試み
わたしにとって、長い間、性行為は、支配されることだった。それを自ら望むように装うことで、わたしは、支配を支配し返すという幻想を持った。自分が、支配されることをコントロールできる。自ら望んだことにしたら、その支配は、もう支配ではないのだと思いたかったんだろう。こういう風に書くには、ためらいがある。わたしは、コントロールできると信じていたから、それを否定するのは、過去の自分がかわいそうな気がしてならない。それでも書くのは、それが間違っていたと結論できるからだ。
自分は客体ではない、主体的に、それを望むのだというポーズは、ポーズでしかなかったとしても、わたしを生き延びさせるに十分な夢だった。自分が主体的に望んでいるのだと信じることで、連続した悪夢を生きられたのだから、わたしは自分を裁かない。
悪夢を再現することで、それでも生きていた、とほっとする。恐怖からの緊張、そして緊張が解けて緩むことを繰り返す。恐怖と緊張から解放されたとき、それを喜びなのだと錯覚した。マイナスがゼロになることを脳が報酬だと勘違いし、依存に至るというメカニズムを知ったときには、思わず微笑みそうになった。
わたしは、悪夢それ自体を楽しんでいると思い込みたがっていた。
抑圧と身体症状
決まって頭が痛くなり、全身が痛くなった。目が見えづらくなったり、視界が狭くなったり、色がわかりにくくなった。まっすぐに歩けなくなって、よく壁をはじめとするいろいろなものにぶつかっていた。一人になると、解放された感じがした。それでいて、不安だった。消えてしまいたいのに、消えてしまうのが怖いというような不安で、恐怖の間はそれを忘れていられるのだった。
緊張と解放の繰り返しから来る安堵を、性行為の効果だと思っていたけれど、それは単なる依存の仕組みだった。抑圧され、緊張し、それがなくなるという繰り返し。
新たな道へ
わたしが性的逸脱から抜けられたのだとしたら、理由は二つ。
一つは、暴力により失われた世界への信頼を、約束を守った人と、わたしを愛し、かつ、わたしの自由を阻害しない人に出会ったこと。それは当たり前すぎるほど当たり前のことだけれど、きわめてレアな出会いだった。
二つ目は、ほかの依存に、スライドしたこと。これは前向きではない。ハッピーエンドでもない。ただ、破滅的ではない対象に依存するようになったから、命や体の危険は減った。
今度は、心理療法士と対話して具体的な問題を解決する。薬を増やして、気分の波をなだらかにする。
年齢とともに、穏やかな日々を獲得しつつあるけれど、わたしが生きているのは危険な旅だ。誰にも繰り返してほしくない。そのうえで、繰り返さざるを得ない人を誰も傷つけてほしくない。加害がなければ、暴力がなければ、こんな経緯は存在しなかったはずだから。
最初に、暴力があった。暴力がなければ、わたしの性的逸脱も、それによる様々な不愉快なこと、侮辱、危機もなかった。
性暴力を振るった男は、「満たされない」と言っていた。せつない、苦しい、愛されない、愛してくれと言っていた。女への甘えだ。
わたしは、愛と暴力をめぐる冒険を繰り返して、やっと自分を生きるためのスタートに立った。損なわれた時間と、奪われたあらゆる機会の損失を許さず、忘れず、憎んだまま、いびつな魂を抱えて、歪んだまま、それでもいいのだと繰り返す。
わたしは、依存する先を変えながら、新たな依存を繰り返す。あらゆる依存をすることで、苦しみをマヒさせながら、依存を抱擁する。わたしを生かしてくれる、依存を抱擁する。それは、わたしの生を抱擁することでもある。
刃のような愛を懐に忍ばして、これからも生きていく。
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