人のことを馬鹿だなって思ってしまう時

働くLGBTのホンネに行ってきた後から、わたしが、人のことを馬鹿だな、と思う時について考えていた。

「話が通じなくて」「いやなことをたくさん言われて」「もう話すのをやめたいとき」に相手を馬鹿だなと思うことが多いみたいだった。
自分から切り離すためにしている。自分の中に嫌な言葉を入れないようにしたいときに、この人はバカだからしょうがないとあきらめたいときに。

でも、それなら、相手を価値判断しないで、ただ「もう、話したくない相手だから、終わり」という風にするだけでいいんじゃないかな。
相手の考えが今、そうであっても、ずっとそうだとは限らないのだから、今のタイミングでは、合わなかった。
かといって、これからも、話し合ったり、相手を変えようとしたり、しなくていいんだから。

わたしにも「バカの壁」というようなものはあって、「これは理解できないし、そもそもしたくない」という「受け入れがたいもの」というのはある。
それは、自分の心を守るためであることが多い。

わたしも、マジョリティの立場の場合があるから、知らないうちに、差別的な行動をとっているときがあるだろう。
そうしたら、もしも、相手が怒って、わたしにとって、嫌な言葉をぶつけてくるときもあるだろう。
そういうとき、わたしは、どんなふうになるかな。

前、セックスワーカーについて知りたかったとき、いろいろ間違えながら、考えさせてもらった。
自分はセックスワークをしたことがない、そして、セックスワークをしたいと思わない、また、しなくてもいい立場であるから、人に嫌な思いをさせたり、差別的なふるまいをしたこともあっただろうと思う。

そういうとき、教えてもらったことはありがたかった。
教えてくれる人の負担のことも思った。

何かを知りたいとき、間違えながら、道を作るしかない時があって、最初から「正解」を分かればいいんだけど、「そもそも正解なんてない」「当事者だって全部知らない」ような時、やっぱり、わたしは「加害者」で、でも、相手のやさしさに甘えながら、考えさせてもらった。

このことに限らず、例えば、知りたいと思う前は、多分、存在に気づかないでいたこともあるだろうし、今だって、見えない存在にしている人たちがいるんだと思う。
見えなくてもいるのに。

全部知ることはできなかったり、そうしようとしたら、心が壊れてしまいそうになったりするだろうから、なるべく、気を付けながら生きるしかないんだろうな、と思う。

わたしは、攻撃的な場合がある。それを恥じたり、反省したりしない。
わたしが攻撃的になるのは、自分が危険にさらされていると思ったときや、戦いたいと思った時だから、それはいいことだと思っている。

それとは別に、自分の優位性を保ちたいからといって、人の話を聞くときに、相手を打ち負かそうとしながら聞いたり、人の話を聞きたいといいながら、揚げ足取りを取ろうとする人もいる。わたしは、そういう風になりたくない。

自分の心の動きをちゃんとみて、雑じゃないように、自分を短い言葉でごまかさないようにしたい。

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