病気の受容のプロセスを尊重しながら関わること

批判は、その人に対しての否定じゃないんだけど、混同する人もいるんですね。

それはそうと、生徒さんを教えていると、これはちょっと「困難を抱えているかもしれないな」と思うことがあります。
でも、自分から、そうなの?とか、病気なんじゃないの?とは聞きません。
(場合によっては困っていることある?ということは聞けるときがあるかもしれません。まれにです)

もちろん、親御さんのほうから伝えてくださることもあります。
また、情報共有のために「あの生徒さんはこういう困難を抱えているようだから、こういう対応をしよう」と相談し合うこともあります。

何度も言うようですが、精神疾患、二次障害が致死的という意見について、反対なのは、いくつか理由があります。
精神疾患に関する誤解を解くために、医療関係者や当事者がずっと働きかけてきました。

二次障害で主だったものを、私が知っている限り、羅列すると、うつ病、双極性障害、統合失調症、パニック障害、不安障害、適応障害などがあると思います。(統合失調症以外、全部診断されたことがあります。うつ病は誤診だったようです)
でも、それは必ずしも死ぬ病気ではありません。
放置していたら、確かに、死の危険が高い病です。
でも、たとえば、二次障害については、二次障害、というのだから、医者にすでに掛かっている場合が多いのでしょう。
二次障害が致死的だ、と言っているのは、医者じゃない人だったので、それを鵜呑みにしたくはありません。
医者にも、あなたの障害や病気は致死的だといわれたこともないし、医学書でも、読んだことがありません。
(だからといって、読んでない本に記述がないとまでは言いません。ただ、わたしは知らない)

二次障害になったら終わりだ、と人に思わせることはあまり良いとは思えません。
二次障害をスティグマ化したり、人を必要以上に恐怖に陥れると思うからです。

また、二次障害は避けられる、という誤解も生むと思います。
避けやすい環境を作ることは可能だと思います。避けるように心がけることも。

でも、精神疾患になった人のほとんどが、なりたくてなったわけではないでしょう。
だから、このことに関しては、慎重にならなくてはいけません。
避けられる、という話が広がると、避けずに精神疾患になった人は「心がけが悪い」「自己責任」ということになると思います。
それは、歴史がすでに証明しています。

二次障害を避けられるのならば、もちろん、避けたい。避けるべきというのはもっともです。
でも、知識があっても、なるときにはなります。
精神科の医療従事者だって、精神疾患を患うことはありますものね。

精神科の医療従事者が精神疾患になりにくいという話もきいたことがありません。知識があっても、避けられない、ということだと思います。

話を戻しますが、例えば、わたしが、親御さんに、あなたの子供は精神疾患になりかかっていますよ、ということが、是かというと、否です。

それは、わたしのような素人がしてはいけない範疇のことです。
診断と、その通知は、本人や、それを支えることになる家族にとって、受容しやすい形でなくてはなりません。
医者によっては、診断名を言わない場合もあるでしょう。

それを他人が邪魔をしてはいけないと思います。
他人が、何の資格もなく、「あなたは○○の病気だ」といったとき、それは、差別になる場合や、レッテル張りになる場合があります。
医者に言われても受け入れることが難しい人に、事前に他人から、何か言われていたら、ただでさえ難しい受容は、より、難しくなるでしょう。
それは、結果的に、子供のためにならないと思っています。

何度も書きますが、生徒さんが、なにかの病気っぽいと思うことはあります。でも、それを伝えないのは、親御さんも本人も、なんとなくおかしいと思っているが、それをまだ認められないでいるか、すでに知っているが、人に知られたくないために、隠している場合がほとんどだからです。
その気持ちは尊重しなくてはならないからです。

契約において、わたしができること、時間、場所は、はっきりしています。そのうえで信頼関係を築きます。
だから、親御さんは、わたしに、大切な子供を預けてくださるわけです。
何か問題が生じたら、契約を破棄したら、わたしとのつきあいは終わりになります。
それが、担保になるため、わたしはがんばることができるし、生徒さんも、わたしに安心して、頼ることができます。
歯止めが利かないと、とても、たいへんなことになります。

子供が、病気になった場合、支えていくのは家族です。
その家族が、最初に受け入れることができるか否かは、最初に伝える人の技量が大きくかかわります。
そこを、例えばわたしのような人間が侵してはならないのです。
また、病気だと診断された後、その子供が、どのように過ごすのか、また、学校に行くのか行かないかを相談するのは、本人、家族、医者、学校関係者などがコアメンバーとなり、決めることです。わたしの考えですが、外野は口出しをすることは、求められた場合を除いてはしないほうがいいでしょう。

子供と密に接していると、子供が依存して来ようとする一瞬があります。
そうしたとき、わたしは非常に緊張します。
対応を誤ると、その後の関わりや、子供の安定に影響するからです。
もしも、共依存になってしまったら?自己を投影してしまうようになれば?
相手の人生を乗っ取ることにもなりかねません。
子供とかかわるというのは、ある意味危険なことです。
子供は、自分の領域があいまいだからです。
だから、大人が、距離をコントロールしなくてはいけません。

突然無距離になったり、距離を離したり、ということをすると、子供は混乱します。
だから、自分が維持できる距離を模索しながら、慎重に付き合わなくてはなりません。
依存させてしまったら、信頼関係は風前の灯火です。
信頼関係を維持するためには、距離を保つことが必須です。

それも、親御さんとの信頼関係があることが前提です。
都度、相談、連絡、報告をします。
こちらも、時間と場を区切って、決められた範囲でかかわること、プライベートを第一にすることを怠ると、一瞬で崩壊します。
ルール作りは大切です。

以前、生徒が、「半年間、学校に行かない」と言ってきたことがありました。学校の先生も了承し、配慮してくれたそうでした。
その半年間、週に三回から四回、一日四時間から六時間、つきっきりで勉強を教えました。
半年したら、宣言通り、学校に戻りました。
学校に戻ったら、連絡も減りました。
その間、わたしも、生徒も、親御さんも、それぞれ負担はかなり大きかったです。

わたしの場合、まず、契約があって、お金も払われたから、やり遂げることができた、相手も安心して頼れた、という側面があります。
契約が歯止めになったのです。
でも、契約を介していない場合、同じことをするのは、とても危険です。

診断と受容のプロセスは、尊重されるべきことです。

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