妊娠中に買ってよかったもの

アフィリエイトをたくさん貼ります。


これは、腰痛にもよかったのだけど、おなかが張ってしまったときに、おなかを温めることができてよかった。
何しろずれない。

なにしろ、睡眠ががたがたになるので、これはいやされました。
眠りすぎるか、まったく眠れないかのどれかなので。

これと、千年灸には助けられました。
へそ灸のよいところは、自分で手当てができるところ。つわりを抑えるツボが、胸の間(乳首と乳首を結んだ間の骨のところ)にあるのですが、そこに乗せられる。

なにしろ、肩が凝ります。


足のむくみがつらいときに、ふくらはぎと、足の裏、アトピーがかゆい時に、足の甲などに。


巨大なんだけど、これがあると安定期になっても、うつぶせになれます。
腰も楽だし、足も、乗せられます。
クッションで工夫していると、ずれるんですが、これだったら、簡単に位置を直せるのが魅力です。
これを使うとよく眠れました。

ヘルパーさんにも、介護によさそう、と言ってもらえました。

おなかが重い時に、支えてもらえるので、楽。
確かに蒸れない。群れるのが大嫌いなので、薄手でよかった。
ホールド感が物足りないと思う人もいると思うけど、わたしにはよかったです。

あと、つわりのときには、ガリガリ君が神の食べ物でした。
あとは、かんきつ類、果物をひたすらに食べていた。味覚が変わって、味の濃いものが好きになり、ギトギトしたものを食べてました。
日本料理はぼやっとした味だったりだしの味が気持ち悪くて食べられなかったです。

ヨガスタジオに通おうとも思ったのですが、本で十分でした。
体が軽くなり、楽な気分になりました。
わたしが始めたのは三十二週からで、かなり遅かったのですが、もっと早くすればよかったです。

ベシー占い 占い承ります。


病気になることで、生き延びる

摂食障害 100人100色の『回復』 鈴木眞理×信田さよ子×鶴田桃エ×荻上チキ、NHKハートフォーラムシンポジウム

これを読んで、とても興味深かった。
自分語りをしようと思う。

過食症の方は対人関係に苦手意識があり、自己評価が低い方が多いです。ストレスを溜め、それが上手く発散できない傾向があります。すると嫌な気分になって、無性に何か食べたくなる。この時、脳が喜ぶ甘いもの脂っこいものを食べます。過食の最中だけ嫌なことを考えない解放感があります。

こういう時期があった。
過食症だから、死なないという自覚があった。いつか収まるだろうと、放っておいた。
お金はかかったし、からだも重たくなった。
今思うと、わたしは自己評価が低かった。夜になると不安になり、眠れなかった。だから、食べた。

一人暮らしをし始めてから、過食が始まった。収まったのは、仕事で自信が付き始めたころだった。
その代わり、買い物依存症気味になった。

過食症などの依存症に限らず、病気をしている間は、人生に向き合わなくてもいい。
向き合わないでいいというと語弊があるけれど、病気のことを考えることで、逃避できる。
解決することができない問題を目前としたとき、できることは、少ない。
病気を無意識に選んだんだと今では思っている。
わたしは親に支配されていることがつらかった。
自分の価値観とは違うことを強いられ、戦おうとしても、すべてを読まれているから撃沈した。
逃げる力も奪われていた。わたしが生まれてからずっと知っている相手に、わたしの気をくじくことはたやすい。

本人がなりたくてなった病気ではないこと、頑張った結果なってしまったことを説明します。

そう、なりたくて病気になったわけじゃない。病気でいることは苦しい。人生をエンジョイしている同年代を見ると、嫉妬と、恨みと、どうしようもない焦りが生まれ、親に対する怒りがピークに達する。
その怒りがわたしにとって重要だった。怒りを自分に向けている間は、わたしは治らなかった。親に向けて、逃げ出すことができて、初めて、そのエネルギーが、自分以外に向いた。それをするには、いろいろな人の助けが必要だった。

ストレスから、心身に重大な症状、例えばアレルギー皮膚炎などが出ても、それでも、親は変わらなかった。
だから、どんどん、病気が増えていった。病気をしている間、人生は保留になった。
それが、つらかった。しかし、それが救いでもあった。

病気が治りさえすれば、どんなこともうまくいくと思っていたが、そんなわけはなかった。
でも、病気よりつらいことはなかった。
あれよりつらいことはないから耐えられると考えると、不幸になる、と言われたこともあったし、それ以上につらいことだってある、と言われたけれど、今のところ、そういうことはない。健康であることが一番幸せだ。
だから、不健康になることは徹底的に避けることにしている。すぐに身体的に症状が出るから、サインを読むのはたやすい。
不便だけれども。

意志が弱いのではなく、あまりにも意志の力を信じ、自分をコントロールすることにとらわれてしまうのがアディクションなのです。

また、「アディクション」には心理的鎮痛効果、つまり心の痛みを感じなくしたり和らげたりする効果があるといわれています。アルコールやギャンブル、薬物、買物依存などと同様に、摂食障害の行動にも同じく鎮痛効果があると考えられます。

理不尽なことが、家庭内で、ずっと続くと、コントロールできるのは、自分だけになる。
しかし、それを続けることで、自分の体もコントロールできなくなる。

それが苦しかった。

何かにアディクトしている間は、そのことに集中していられる。アディクションだけでなく、病気の間も、病気の苦しさに集中していられる。心理的な葛藤が、原因だけど、心理的な葛藤を、肉体的な苦痛に置き換えて、シャットアウトできる。

それは確かにメリットなのだ。

親は、わたしに治ってほしい、と言いながら、看護というすることができて、生き生きとしていた。
それでいて、疲れると、わたしに当たり散らすこともできた。
優しくすることも、つらく当たることも、どちらも正当化できた様子だった。
だから、わたしがよくなりかけると、そのタイミングで、悪化するようなことを仕掛けてくるのだった。
それは、母だけでなく、離婚した父も同様だった。

わたしは、強いコントロール下にあった。
病気はそれに対する反応だった。しかし、病気は、コントロールから外れることを望んでいたのに、コントロールを強化した。
なぜなら、一人で暮らすことを妨げる格好の理由となったからだ。
頼むから就職しないでくれ、と言われたことも忘れられない。

生きづらさ」という表現もあまり好きではないんです。たとえば親や家族が喧嘩をしてる。その中で生きる子ども時代ってやっぱり本当に苦しいし、それが自然だと思います。それを「生きづらさ」と言っていいのか疑問なんです。そんな中で人間らしく生きようとしたら、たまたま痩せたり食べたりする行為になってしまった。

わたしの家は、高度に葛藤した場所だった。父は、わたしが小学校低学年の時に、家を出て、愛人と暮らしていた。
父は、一か月に一回、わたしたちに会いに来た。そして、家族のまねごとを強いた。

父がいないことを、わたしは、祖父母にさえ、秘密にしなければいけなかった。
同級生にも秘密だったので、家に友達を招くことができなかった。玄関に男の靴がないことを知られると、家に父がいないことがばれるから、玄関先にも入れるなと言われた。それは、友達を作るうえでも、世間話をするうえでも大きな妨げとなった。いつも、秘密を抱えていることが、とても苦しかった。
父方の祖母は、わたしをいじめた。
わたしたちが、悪いから、父が家を出たのだと考えているようだった。

わたしは、「こじらせている人」「生きづらい人」と言われたことがある。こじらせているのは、わたしの親であって、わたしは正常な反応をしただけだ。
ほかの家庭の在り方を知らなかったから、主治医に、「健全な人間関係を学ぶために」とテレビドラマや、映画を見ることを勧められた。それくらいしか、教材がなかった。「みんな、悩んでいるから、これだけ家族をテーマにした作品があるのだ」と主治医は言った。

わたしは、苦しいのが普通だった。正常だった。でも、両親は、両親が普通であって、わたしが異常だと思っていた。
単に、わたしの文化と、両親の文化が違うだけだったのに、わたしが悪い、と言われたので、わたしは病気になった。

そうした恥の感覚や罪悪感を消すために、「周りの期待に応える良い子」をやってきて、その無理が摂食障害という形で「表れてくれた」と思っています。

わたしは、いい子をしていた。
勉強しか、娯楽がなかったので、勉強をした。それ以外は取り上げられてしまった。

もちろん、遊びに連れていかれたが、それは母の考える「子供のためになること」であった。

「時間がかかっちゃう」って言い方をする人が多いのですが、時間をかけて欲しいと思います。

これは、その通りなのだけど、本当に残酷な事実だ。普通なら、人生を楽しめる時間なのに、病気のため、生まれた家のために、病気なんかのために、人生を使わないといけない。病気が終わってから、空っぽの自分を、満たすために、数十年遅れて人生を始めないといけない。
病気から学べばいいといわれたことがある。
ものすごく、腹が立った。
病気を無駄にしないように、だとか、成長する機会だと思って、と言われたことを思い出すと、怒りで心が燃え滾る。
人生における小さな楽しみ、例えば、道に咲く花に気が付くような感性をすでに持っているのに「そういうことに気が付けるようになればいいね」と言われたこと。その人自身が、気が付いていないのに、「そういう話に感動した」と言われたこと。
わたしは、誰かを感動させるために病気になったわけでもなかったし、ほかの人だってそうだろう。
ただ、やりきれない毎日の中で、なんとか慰めを感じたことだというのに、それも、「消費」されるという悔しさ。
その消費世界が、わたしを病気にしたのだという直感があった。

いい大学に入ってほしい、と言われた。
でも、偏差値の高い大学に入らなくても、自分の道を見つけて、幸せに生きている人なんて、たくさんいた。
その人なりの、幸せが見つかればいいのだ。

摂食障害の仲間たちは、どうするべきか、どうするべきじゃないか、という「べき」の価値観にとらわれているということです。そこからはなれて、今自分が楽になるために「どうしたいか」、「どうしたくないか」を中心にすること。

どうしたいか、どうしたくないか、を取り戻すのには、とても時間がかかった。
最初は、したいことが思いつかなかった。
それに、失敗することが怖かった。
あまりにも、先回りされすぎていたから、自分で選んだことを、失敗とみなされることが多かったから、そのあとの報復や恥辱がつらかったから、もういないのだ、と実感することが難しかった。
高校生の時、自分で選んだ服を、返品してこいと言われた。
何度もそういうことがあった。
わたしは、返品したくなかったし、恥ずかしかった。何時間もかかって、やっと選んだ服だったから、着てみたかった。お店の人に嫌な顔をされるのも嫌だった。
自分の価値観を否定されたと感じていた。
それでいて、お前はダサいと、母にも妹にも言われていた。妹には、母は、ブランドの服を与えていた。

大声を出されたり、赤ちゃん言葉でしか話しかけてもらえなかったり、大人になってからも三歳児向けのおもちゃを買ってこられて、いらない、と言えば、泣かれたり、そういう狂った日々だった。

母も、父も、病を持っていた。
それは、診断されるようなものじゃなかったかもしれない。
けれど、彼らは、それを見ないことに決めていた。
わたしが間違っていると決めつけることで、自分自身から逃げていた。

親でさえ、逃げていた親の病に、わたしが付き合う必要がない、とわかるまでには、長い無駄になるような時間が必要だった。

それは、なくてもいい時間だった。
そこから学ぶことなんて、一つもない。
学ぶべきだ、感謝するべきだという人には、唾を吐きかけながら、これから、自分のことを考えて生きたい。

ポジティブな人は、どんなことからも、学べるというが、わたしは、ポジティブになりたくない。
ポジティブな人に利用されたくない。

病気になることでしか、生き延びられない、無力な時代があった。
今は違うと思いたい。

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バカだから差別する?

わたしは、少し前まで、差別をするのは、バカだからだと思っていた。
知識がなかったり、価値観に柔軟性がなかったり、自分の優位性を自覚する勇気がなかったりするからだと。
もしくは、よく言われるのが、実生活に不満があるから、だから、自分より弱いものをいじめてうっぷんを晴らすような人間が差別をするんだろうから、弱い人間が差別するんだ、ということもよく言われている。
でも、思えば、現首相は権力があるけど、差別者だ。
女たたきをする人間は、貧乏で、女にもてない人間だと思っている人もいるけど、実際には、女も女たたきをするし、金持ちだろうが、教養があろうが、やりちんだろうが、女たたきをする人はする。
ようするに、どんな立場の人間だとしても、どんなにすばらしい人間だとしても、差別をしてしまうってことだ。

逆に、差別をしないようにしたい、と考えている反差別者が、素晴らしい人間だとも限らない。
素晴らしいという概念にも幅がありすぎるけれど。
ずるかったり、貧乏だったり、病気だったり、知識がなかったりもするかもしれない。

わたしは、差別者をバカだと思うことで、その人たちとは違う世界に生きているんだ、と思いたがっていた。
切断処理というやつ。

でも、わたしも差別をすることがある。偏見があったり、見慣れないことは怖かったり、当事者じゃない差別問題には、自分の問題と同じ熱量では立ち向かえないでいたりする。当事者じゃない差別問題というと、語弊がある。
差別というのは構造的なものだから、自分が差別をしていない、と思っていても、加担してしまっていることはある。
例えば沖縄問題。わたしは、沖縄の人を差別しているつもりはない。でも、実際には、沖縄に基地がある。わたしは、そういう世界の一員として暮らしている。だから、やっぱり当事者なんだ。

わたしは、バカだから、ほかの差別に何かアクションを起こしていないのか?
在日外国人について、沖縄問題について、北海道の問題について、部落問題について、学歴や格差社会について、母子家庭について。
わたしは、バカだから、そういう問題に、アクションしていない?
そういうわけじゃない、と思う。

知識がなかったり、行動力に欠けていたりはする。積極的に、罵詈雑言を投げかけたりはしていないつもりだ。でも、黙っている。沈黙している。

興味がない人を責められるだろうか?
わたしだって、興味がない問題がある。同罪だ。
興味がなければ、偏見通りのことを信じて、行動してしまうこともあるだろう。それが正義だと信じて。
そこへの違いは小さい。(小さいとも思うけど大きくもある)

差別問題を解決するために、共感が必要かというと、必要ではない。
人を尊重するために、共感はいらない。共感が前提だと、「自分が許容でき、共感できる相手だけ尊重する」ということになるから、かえって危ない。共感できるできないを誰かが決めるってことだから。他人の尊厳なのに。

差別をなくすためには、どうすればいいのか、なんてわからないけど、とりあえず、差別者をバカだ、と思って、自分から切り離すのは、難しいことだけど、なるべくやめようと思う。
話したくない相手には話さないし、苦手な人にはかかわらない。
それは変わらないけれど、自分の心持、心のありようとして、あいつはバカだから、差別をするんだ、と思うんじゃなくて、「あいつは差別をするんだな」という風に考えをとどめておくようにしたい。

バカだから差別する、差別するのはバカだから、って思っているうちは、わたしは自分と戦えない。

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ケアマネさんとの相性、子供を生むきっかけ

前のケアマネさんとは相性が最悪だった。

わたしが、妊娠を急いだのは、前のケアマネに「早く子供を作ったほうがいい」と言われたから。
それは違うと思ったけれど、言われたことは実行してしまいがちな特性のため、医師にも減薬がひと段落するまで待ってと言われたのに、急いでしまった。
だから、妊娠してから減薬は無理やりだったので相当苦しんだ。

それに、わたしたちの事情を聞かないで、聞いても理解しないで、説明もなく、支援の時間を三分の二にされた。
生活が変わってしまうし、実情に合っていない。
わたしのわがままなのだとしたら、説明がほしい。
現状を把握していないのに導き出した答えは間違っているんじゃないか。

そう思って、ケアマネを変えてもらった。
事業所に電話をしても、とりついでもらえず、かけなおしも来なかったので、不信感が募った。

今でも腹が立つ。

福祉職は、人の人生を変える職業でもあるんだなと思った。

新しいケアマネさんは若いけど、仕事のできる有能な人だから、彼女がすることだったら、どう転んでも信頼できると思った。

医者でもなんでもそうだけど、「この人の言うことだったら、不利益になろうと、もしも死ぬことになろうと、任せよう」という気持ちでわたしは向き合っている。この人に命は任せられないと思ったら、変える。

わたしが健康だと、わたし自身が快適だ。そして世の中にとってもとてもいいことだ。
だから、わたしは支援を受けることを選んでいる。

支援を受けることを特別だと思っている人が多いけれど、学校や保育園、病院、いろいろなところで、みんな税金のお世話になっている。いつでも消防署に連絡できたり、ごみを回収してもらえたり。

障碍者支援はその延長だと思っている。だから、特別なことじゃない。

わたしが普通に生きるために、必要なことが、人とは少し違うだけだ。

わたしは、子供を産む。
遺伝の可能性がある病気を持っている親が、子供を産むことに反対する人がいるのは知っている。
もちろん、そんなものは、優生思想だから、とり合う必要もない。

だけど、わたしは、子供を産みたいけれど、服薬しているから…、とか、障害があるから無理だ、とか、思っている人がもしいるとしたら、でも、本当は生みたいのだという気持ちが少しでもあるとしたら、わたしは、自分自身で、それを達成したい。そういう風に見せることが、ほかの人の役に立つかもしれないから。

かといって、子供を産むのがえらいなんて思っていないけどね。
確かに子供が体の中で動いているのは楽しいし面白いけど、きついこともあるし、ほかの経験ができなくなるわけだから、別に絶対経験したほうがいいとも思わない。男の人はそもそも産めないわけだから。

でも、どうせ、一人で育てるわけじゃなくて、ほかの人や、行政の力を借りるわけなんだから、産みたかったら、産みたいよね。

わたしは、事実婚で、ポリアモリー気味(最近は落ち着いているような気もする)けど、子供を育てるんだぜ、というのをしたい。
子供を産むってこと自体が、親のエゴだとも思っている。
生まれた子供には、ちょっとでも楽しいことや幸せなこと、気持ちのいいことを体験してもらえるように、がんばりたい。

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社会的な構造が、精神病を作る

妊娠がつらくて、カンガルーになりたい。好きな時に出し入れができて、ホルモンバランスも長期には狂わないから、すごくいいと思うんだよね。

今日はケア会議が無事に終わり、変わらず継続になることが決定した。ほっとした。
今のヘルパーさんも、事業所も、ケアマネさんも、とても相性がいいから、しばらく引っ越せないなと思うくらい。
わたしが住んでいるところは、福祉や教育に対して手厚い。だから、人口減はあるものの、非常に緩やかで、子供も、三人以上持っている人も多いし、男性も、子供を抱きながら買い物をしている姿をよく見る。
定時である五時に帰っている人が普通で、残業がひどい会社はとても目立つ。だから、子育てはとてもしやすいみたいだ。
わたしは、妊娠してから、産婦人科に払った金額は、数千円程度で、ほとんど補助で済んでいる。
保育園も、非常に安いので、小学校に上がるまでは、あまりお金がかからない。
共稼ぎが多いので、ゼロ歳児から預けることが普通だから、周りにあれこれ言われることもない。

子供というのは、大人にとっての異文化だ。
そういうものを受け入れて、大事にすること。
そうじゃないと、世界は破滅する。

ところで、この前診察で精神科医と話したのだけど、精神病を精神病とするのは、社会的な要因なんじゃないかという仮説を立てている。

例えば、病気になるきっかけは、だいたい、人生で大きなことがあって、それが良いことでも悪いことでも、大きなストレスを抱えるためだと思う。
もしくは、発達障害のように、ほかの人と、抱えている文化が違う場合、コンフリクトが起きる場合。
うまくいっていないことに限らず、何か起きたことが、精神疾患のきっかけになったり、もともと持っている性質の違いが、大きく問題として浮上してきた場合に「病名」が付くと思う。

最近はやりの、発達障碍者が、普通の世の中に適応するためのノウハウを書いたブログがあるけれど、わたしはそれが具合の悪さや健康に問てよくないものだと思っている。
療育もそうで、センターの中ではうまくいっているように見えても、もっと条件が複雑な外に行ったとき、うまくいかなくなることとか。
それって、結局、昔、聴覚障碍者に、発話を強いたことと同じじゃないかという危惧がある。

例えば、嫁姑の問題は、文化の違う他人が同じ場所で生活するとき、その人の持っている価値観や文化が衝突するために起きるのだと思うのだけど、そのときに、「相手が悪い」「相手を変える」となったり、「自分が悪い」「自分が変わるしかない」となったりしたときに、弱い立場のほう、つまり、お嫁さんが病気になる。
違いは違いとして、別にどちらかに優劣があるわけじゃないのに、「どちらかが悪い」となると「悪い」「間違っている」側が、病気になる。
違うんだ、ってだけなら病気にならないし、そのときに、怒ったり、逃げたりしたら病気にならない。
問題を自分の内面に落とした時に、つまり内面化したときに、病気になる。
問題を病気にすることで処理する。そういう力が働くと病気になる。

発達障害もそうで、世の中のほとんどの人が発達障害だったら、わたしたちは「障害」を持っているとは言えなくなる。
多数派や力のある側と、違ったときに「合わせる」という選択肢を選ぶと、病気になる。
そういう仕組みなんじゃないかと思う。

だから、適応しないといけない、向こう側に擬態しなくてはいけない、という行動や思考を持つと、それは、自分に無理を強いることになるから、最初は、その入り口に到達することはできても、自分とは違うものを演じているわけだから、長続きはしない。
病気になってしまう。
適応するためのノウハウというのは、そういう危険を増やすことになる。

生活をしやすくするための工夫は、単に、自分が過ごしやすくするためのものだから、上記のノウハウと違うと思ってる。

普通の人たちに紛れ込むために頑張るよりも、自分を受け入れてくれる場所だとか、自分の向いていることを探すだとか、そういったことに、労力を使ったほうが、長い目で見たときに、ずっと楽になる。
それは、発達障害や、精神疾患のある人に限らず、一見健康な人でも、同じことだと思う。

それに、発達障害であったり、精神疾患であったりする人の、メインストリームではない人の視点というのは、世の中を変える上でとても有用なものだから、最初からいらないものと考えて、捨てるのはもったいないと思う。

それこそ、病気であることの知見だとか、異なった視点って、世の中を豊かにする素晴らしいものだと思ってる。
それが、本人の自己肯定感を上げることにつながると思うし、自己肯定感が上がると、免疫もよくなるから、体も楽になるよねというのがわたしの立場だ。

障害を治そうとすると、マイナスをゼロに近づけるだけで、一生が終わってしまう。
それって、つまらないことだし、たいへんだし、なによりもつらい。治らないんだから。
治ればいいけど。
治らないから。

それよりは、楽に生きられるための工夫を積み重ねるとか、自分なりの居場所を作るだとか、そういったことに注力したほうがいいと思ってる。
そういうことが、結果的に、じわじわ世の中を生きやすくするんじゃないかな。世の中を変えるほうが、いくらか可能性がある。
治らないものを治そうとするのは、むだだ。

体や精神の持つ文化が違うのだから、お互いの理解と、すり合わせは大事だけど、どちらかが一方的に適応することを考えすぎるのはよくない。

それって、死ぬってことと同じように思う。

極端から極端に走るのはよくない。
変われる部分と変われない部分があるのだから、その範囲で、お互い融通し合うのが良いと思う。
完ぺきな人間なんていないんだから。お互い欠点があるんだから。

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産む前のつらさ

体がだいぶしんどくなってきた。
おなかが日に日に、一日ごとに大きくなっていて、驚く。
膝に負担がかかり、ふくらはぎがつる。
むくみがひどい。
腰も痛い。
おなかが重たい。
膀胱や胃が押されて、痛い。
体重管理が難しい。
イライラしてしまう。わけもなく泣いてしまう。

親に、自分の子供を会わせないといけないかどうか、一瞬考えた。
でも、それから一晩落ち込んで眠れなくなってしまった。
たくさんされた、ひどいことを思い出した。
今、中学生や高校生を教えていると、明らかに子供で、幼い。
あの、幼い人たちに、ひどいことをすることは思いつかない。
でも、わたしはされた。

おなかにいる子供は、明らかにわたしと違う生き物だ。すでに意思のようなものがあり、わたしの思う通りにはならない。
他人だとつくづく思う。
だから、死なないように、育つことを手伝いたい。
育てる、ということは、できないと思う。子供が、勝手に、自分の力で育てるように、わたしがサポートするのだと思う。

わたしは、勉強以外の娯楽を禁じられていたので、勉強に面白さを見出した。
何かするときは必ず母親が同伴だった。
いつも、お母さんがかわいそうだった。
かわいそうだと思わされていたのだ、と気が付いて、ああ、人生をそのせいで、ずっと盗まれていたのだと気づいてからは、怒りが止まない。
盗むための手段として、泣いたり、怒ったり、脅したり、ありとあらゆることをされた。
彼女の人生に対する欲求不満を、わたしにぶつけられた。
父は、愛人を作り、出て行った。大人になればわかると吐き捨てられたが、いまだに理解できない。
面会交流を強いられたが、断ったら、養育費を払わなくなるのだと思って、応じていた。そのストレスで、病気になった。

母はわたしにしがみつき、父はわたしを捨てた。
都合のいい時に、暇つぶしのようにかまっては、飽き、自慢できるように、育てられた。
わたしが何かを成し遂げたときに「喜ぶな」と言われた。
それでいて、親はわたしのことを自慢し、「いい親御さんですね、育て方がいいから」と言われてはにたにたしていた。
わたしの努力なのに。盗まれた。感情を。

わたしは、生きる手ごたえを失い、感覚がなくなり、幻聴と幻覚を見て、自分から乖離した。
そのために、さまざまな事件に遭って、何度も死にかけた。

逃げればよかった、と言われた。愛人から後妻になった人からも言われた。
でも、わたしは、逃げられなかった。
逃げられないように、感情や判断力や、情報をコントロールされていたし、体調が悪くなるように仕向けられていたからだ。
今思うと、具合が悪くなったりけがをするようにさせられて、そして、罵倒され、看病されるというパターンがあった。
救急車で運ばれると、胸ぐらをつかまれ、罵倒されたことがあった。
病院には、連れていかれなくなった。
お年玉で病院に行った。
祖父の介護を休みを使って手伝わされたが、母はしていなかった。
そして「老いて死ぬことを勉強させてもらってよかったね」と言われた。
わたしの経験のために、祖父は老いて死んだわけではあるまい。
それは、愛犬が死ぬときにも言われた。
母や、そのほかや、とにかく誰かのケアをさせられた。それをさせるために、「かわいそうだ」という感情を刺激された。
就職することも、「やめなさい」と言われた。
「あなたにはできない」と言われた。
父にも、「お前には、自動車は運転できない」ということを言われた。

以前、離婚したとき、堕胎をするかどうか、悩んでいた。
それを父に相談したら堕胎を勧められた。
フォローはできないと言われた。
結果的に、自分の判断で堕胎をしたが、常に、そのような目に遭ったことの「責任」を理解しろ、と言われた。
でも、思えば、父も離婚をしただけじゃなくて、婚姻中に愛人や子供を作り、わたしの母の悪口を方々で言っていた。
その人に、ただ、離婚するだけで、ああいわれることには、今では納得がいかない。
その時には、母には「ご勝手に」とだけ言われて、電話を切られた。
それ以来、連絡していない。
母は、何か相談すると、わたしを突き放し、傷つけ、動けなくなってから、それでも、わたしがすがって、手助けを頼む、というパターンを常にしてきた。
だから、あれも、その一環だったのだろう。

わたしは、本当に、どうして、親が、ああいう風にわたしに接したのか、理解できない。

わたしの体内にいる小さな人間に対して、コントロールしたいとか、傷つけることをしたいとか、思わない。
でも、彼らは、わたしにひどいことばかりをしたり言ったりした。

父方の祖母が、わたしに最後にかけた言葉は「あんたは非情な子だね、非情ってわかる?冷たい、ってことだよ」だったし、継母がわたしに最後に言った言葉は「あなたに会うと動悸がするから、家に来ないでください」だった。
でも、彼らはそれがひどい言葉だとは思っていない。

わたしは、これから子供を産む。
わたしは、彼らに一生子供を会わせない。
彼らは必要がない。

それでも、わたしは、思い出す。
そのたびに、その時に戻ったように、苦しい。
もう、終わったことだとは思えない。
わたしの中で続いている。

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わかるとできるの間には深い溝がある

大人になると、わかればできると思っている。
でも、本当はそうじゃない。わかっていても、できないことがある。

子供の間、勉強をさせようとすると、「わかっているができない」状態にあることに気が付く。
それは、その子供が怠けているからではない。

わかるにもたくさんのステップがある。自転車に乗ることや、泳ぐことを考えてもらえばいい。
見れば、何をしているか、わかる。
しかし、筋肉をどのようなバランスで動かすのか、感覚をどのように使うのかは、見ていてもわからない。
やってみて、その感覚やバランスをどうやって制御するのか、練習することで身に着けていく。

それと同じことが、勉強にもある。
理屈を教えれば、できるんじゃないかと思ってしまう。
でも、実際には、できない。

例えば数学の連立方程式を求めなさい、という問題に関しては、
変数が二つある方程式である。
変数が二つあるときには、式が二つ必要だ。
方程式とは、一つの変数に、ある数を入れると、もう一つの数が自動的に出てくるシステムのことである。
変数が二つある方程式とは関数のことだ。
二つの関数をプロットすると、重ね合わされる点がわかる。
その点を数式上で求めることが、連立方程式の解を求めるという意味である。
だから、変数が二つある方程式から方程式を引く。一つの変数の係数を統一すれば、引くことができる。
方程式を丸ごと引くのだから、引く方の方程式には、すべての項にマイナスをかける。

というのが、やり方の説明になるが、それを読むことと、理解することと、できることには、大きな深い河が流れていることが分かってもらえると思う。

そのためには、反復練習をして、熟達することが必要になる。

生徒に勉強をなぜするのか、よく聞かれる。
勉強は、してみないと、なぜするのか、わからない。
勉強をすることで、視野が広がる。でも、視野を広げる経験がないと、なぜ、視野を広げるのがいいことかがわからない。

(勉強を単なるいい職業に就くための手段だと考えている人にはこの説明は必要がない。でも、仕事に就くことだけを考えていたら、もし、思ったような職業に就けなかったとき、勉強それ自体が無駄になってしまう)

そういうときには、同世代の子供たちと一緒にいることで、勉強する動機が生まれる。
学校のようなものは昔からあった。それは、知恵なんだと思う。
もちろん、それが合わない子供もいる。
でも、たいていの子供にとって、ほかの子供と一緒に勉強をすることが、刺激になり、モチベーションになるのは確かだ。
「わかる」をお互いに助け合い、「できる」まで、お互いを励みにすることがなければ、なかなか、何かを習得するのは難しい。

わかっているが、できない場合、何がそれを邪魔しているのかを考える。
わかり方が足りないのだ、と思うと、説明の繰り返しになってしまう。
そうではなくて、「できる」を妨げているのは何か、を観察することが大切だ。
目が見えにくいせいで、説明が聞けていない。
集中を妨げる何かがある。
字を書くのが難しいので、操作にかけるリソースがあまりない。
気持ちが不安定で、勉強どころではない。
そういう、環境を調節することで、勉強ができるようになることがある。
子供は自力では、環境を調節する権限がない。
眼鏡を勝手に買うことはできないし、文字が書きにくいことをカヴァーする知恵は自然には浮かばない。
字を書くことが難しいにも、手に問題がある場合と、認識に問題がある場合と、切り分けないといけない。
そういうことをサポートすることで、わかるをできるに近づけることができる。
しかし、その間には、スモールステップを用意して、少しずつできるようにする根気が必要だ。

わたしが、子供に独学が無理だというのは、これが理由だ。

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妊娠30週

妊娠して、30週になった。
よく、こんな増え方してるな、と不思議になる。
今生きている60億人は、こういう手順で生まれて生きているのだ。
不思議だ。

今は活発に胎児が動いているのがわかる。とても、かわいい。
起きたり寝たりしているのが分かる。
もう少ししたら、あまり動かなくなるらしい。残念。
今は、五感が発達したところだから、手を当てられたり、光を感じたりできるらしい。外から声も届くらしい。

結局、つわりはよくならず、ずっと気持ちが悪く、吐いていた。このままだと、妊娠が終わるまでずっとそうなんだろうな。

六帖さんは、風邪をひいても、ハードに働いている。
読書やピアノ、ランニングをする時間が無くなってかわいそうだ。
わたしは、ほとんど寝たきりだ。
座っているのも、だいぶ厳しくなってきた。
毎晩楽しみだった、ゲームもあまりできてない。でも、六帖さんが一日家にいてくれるおかげで、話し相手には困っていない。
助かる。

ベシー占い 占い承ります。


なぜ勉強するかは、勉強してみてやっとわかる

勉強をしなくてもいい理由はたくさん見つかる。
勉強が苦手で、立派な人はたくさんいる。
中卒で、働いている人もたくさんいる。
読み書きそろばんができていたら、ほかは必要ない。

保護者が学校に行ってほしい、勉強以外の理由は、
親自身が教えるよりも楽
子供を預かってもらえる
集団生活を覚えてくれる
世の中の流れに逆らわないでもらうと楽

ということが多いと思う。

読書も、どうして読書したほうがいいのか、ということを説明するのは難しい。
読んでみないと、読書の良さはわからない、読んだらその人なりにわかる、としかいいようがない。

昔から、学校のような制度で、子供を学ばせることは多かった。
子供は、読み書きや計算を学び、それによって、よりいい仕事に就けた。
今では、高卒になっても、いい仕事に就ける、というよりは、必須条件みたいになっている。
高校で習うような、生物や化学、数学が実生活で役に立つとは言えない。
もちろん、実生活に当てはめて、楽しむことはできるけれど。

物理法則は実生活の様々な場面で観測することができるし、化学の知識があれば、いろいろなものの素材を理解することができる。

でも、それが役に立つということなのかというと、別にそれが本質ではない。

学校で、今の普通科のカリキュラムではなくて、たとえば、登山に関する知識や技術を三年間みっちり教え込む過程があったとしたら、今より全員が履修するのは難しいだろうなと思う。脱落する人が多いだろう。
何を言いたいかというと、学校の勉強というのは、比較的、誰にでもできるものを選んでいるということだ。
お金持ちの家庭の子供のほうが、成績が良い、というのは、つまり、学力とは、お金や時間の余裕によって生まれるということだ。
それは、その子供本人の資質というよりも、環境によって、成績が変動するということを示唆している。
逆に言えば、お金などの余裕があれば、成績を上げることは、可能だということ。誰にでも、成績を上げるチャンスがあるということ。
だから、国というものは、その差を小さくするべく、子供の教育にお金をかけるのだ。

カリキュラムは不変ではない。生物に関しては、二十年前の教科書と内容が全く違う。
ちゃんと、科学の進歩に合わせて変わっている。だからといって、それ以前に勉強した人たちの努力が無駄になるかというとそうではない。それ以前に勉強した人たちは、そのころ学んだ知識を使って、新しい知識にアップデートすることができる。そういう能力を「勉強」によって培ったはずだ。

中学生が、五教科をまんべんなく学ぶことを、むだだと思う人もいるだろうけれど、その時に向いていることが、長い人生の間ずっと向いているとは限らない。だから、方向転換したいときに、最低限の知識を身につけさせておくことが、ゆくゆく、その人の自由や幸福につながる。
子供のころ、ケーキ屋さんになりたいと思っていても、大人になったら、看護士になりたいと思うことは大いにある。
そういう時、中学生から一切数学や理科をやっていなかったら、相当受験が厳しくなる。

中学生を教えているとわかるけれど、中学生は子供だ。
身の回りのことがようやくできるようになったくらい。自分の意思を伝えたり、自分なりに将来のことを考えられるようになったり、世の中のことを、おずおずと知ろうとしたりする。
身近にいたら、過剰に「これもできるだろう」と言えなくなる。

学校教育は効率が悪い、質が悪い、という人がいるのは知っている。たぶん、反復練習や、レベルの違う子供をいっぺんに教えることについて、言っている人が多いと思う。
でも、たいていの子供に、反復練習は必要だ。漢字や、英単語ということだけじゃなくて、例えば数学についても、計算の仕方を教えるためには、やり方を言っただけでは、できるようにならない。本人が「わかっている。もう、計算練習は必要ない」と言っていても、答え合わせをしたら間違っていることも多い。そして、それは「やり方を教える」ことじゃなくて、反復練習で解決する場合もある。

学校が、すべてにおいて優れているとは思わない。机に全員が向かい、同じ方向を向き、同じ年齢で固められていて、長時間座っていることは、異様だと思う。学校という制度が、軍隊から来ているので、なおさら違和感がある。嫌だ、とも思う。

でも、その一方、勉強をしようとしたとき、たいていの人が、本を手に入れて、それを読んだり、机に向かって、ノートを作ったり、というような「勉強の作法」を知っているというのは、やっぱり教育の賜物だ。

不登校になったら終わりなんて、そんなことを言いたいわけじゃない。だけど、学校というものや、その制度は、とても強固だ。
不登校になったとき「家庭の余裕のようなもの」、金銭面に限ったことじゃなくて、保護者の心の余裕や信念みたいなものが、教育に差をつける。

学校というものは、世の中に強固に埋め込まれている。
だから、もし、不登校になるとしたら、本人や、保護者が、「行かない」ということを決めるプロセスがとても大切になる。
保護者は、教育の機会を与える義務を果たさないといけない。
そして、子供と保護者には、力の差がある。

勉強をする前に、それが何の役に立つのか、わからない。なくても、生きていける。困らない。
でも、勉強をしてみないと、なぜ勉強をするのか、答えは見つからない。
就職に有利になるため、というのは置いておいて。
知識があれば、例えば、騙されたときに気が付きやすくなる、とかもあるけど。
生きてみないと、なぜ生きるのかもわからないよね。
理不尽だけど。

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子供は大人と対等ではない、それは尊重と両立する、という話

大人が子供を対等に扱う、という態度が、一般に受けがいいようだけど、その風潮は危ういと思う。

中高生を見ていると、やっぱり、彼らはとても弱い。
判断力がない、責任能力がない。

頭の柔軟性は、十五歳がピークだと思っている。だから、彼らのほうが、頭の回転は、わたしなどより、ずっと早い。
でも、大人には、蓄えられた経験と、知識がある。
こうしたら、こうなる、という予測の蓄積がある。
彼らにはそれがない。
そして、彼らは大人を立派で、その意見は傾聴するべきものだと、信じている。

大人が何の気なしに、適当に言ったことでも、真剣にとらえていることだってある。

「責任を取る」という言葉には、いろいろな意味を持たせることができる。
「自分の人生の責任は自分にしか取れない」という言葉の裏側にあるのは「どんなにつらいことがあっても、自分の人生や体を変わってもらうことができない」という意味だろう。

でも、それを定義にしたら、話がおかしくなる。

責任を取る、というのは、例えば、けがをさせてしまったら、相手が治るまでや、その間の損失や感情的な問題について、お金を払うということをする。現実的に、相手の代わりに自分の体を差し出すことができないからだ。

もともと、絶対にできないことだけを「責任を取る」ということにしてしまうと、責任という言葉が存在する意味がなくなってしまうから、わたしはそういう態度を取らない。

子供に対して、責任を負うのは、保護者だ。
だから、保護者は、子供にああだこうだ言えるんだと思う。
医者や、教師が、子供に対して、病気の治療をできたり、進路のアドバイスができるのは、職業にかかわる責任を負っているからだ。
保護者の友人が、その子供に、アドバイスができるのは、保護者と、その友人と、子供の間に、信頼関係があって、それを担保にして「あまり、ひどいことは言わないだろう」ということがあるからだ。

見知らぬ大人に、子供に人生の選択など深いレベルで関わってほしくない、と多くの保護者が思うのは、その結果起きることが怖いからだ。
見知らぬ大人は、いくらでも無責任になれる。
責任を取ります、と言おうが、責任は自分で撮ってもらうけどアドバイスはする、と言おうが、どちらにしても、同じことで、保護者が後始末をすることには変わりがない。

見知らぬ大人が、何をするか、何を言うか、予想がつかない。
だから、保護者は、子供を、そうした人か引き離そうとする。

保護者と子供の間には、力関係がある。
極端な話をすれば、赤ちゃんと保護者を対等だとしてしまうと、赤ちゃんは死ぬ。
赤ちゃんは保護しないといけない。意思は尊重しても。

力関係が生じる間は、対等ではありえない。
保護する側、保護される側というのは、対等ではない。
イベントとして、大人扱いして、子供を喜ばせる日があってもいい。きっといい思い出になるだろう。
でも、それを普段からしてはダメだ。

保護者が、子供が危険なことをしているとき「やめなさい!危ない!」という。
それも、保護だ。
もし、「やめなさい!危ない!」と言わなかったら、子供は傷ついたり、もしくは、子供は常に気を張って、自分が危険なことをしているかどうか、判断しながら過ごさないといけない。そうしたことが続けば、緊張するから、安心した子供時代を奪ってしまう。
これをしてはいけない、これをしなさい、というのは、不自由なようだけど、子供からそれを奪ってしまうと、子供は、不安になってしまう。

危ないからやめなさい、というのは、守られている、ということだ。
あなたの好きにしなさい、ただし、責任はすべて取りなさい、なぜなら、あなたの人生だから、と子供相手にいうのは、守らない、ということだ。

それは、尊重に似ているけれど、尊重とは違う。
違うものだから、両立する。

(話は変わりますが、コメントをいくつか返信しました。遅くなってごめんなさい)

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