わたしは、少し前まで、差別をするのは、バカだからだと思っていた。
知識がなかったり、価値観に柔軟性がなかったり、自分の優位性を自覚する勇気がなかったりするからだと。
もしくは、よく言われるのが、実生活に不満があるから、だから、自分より弱いものをいじめてうっぷんを晴らすような人間が差別をするんだろうから、弱い人間が差別するんだ、ということもよく言われている。
でも、思えば、現首相は権力があるけど、差別者だ。
女たたきをする人間は、貧乏で、女にもてない人間だと思っている人もいるけど、実際には、女も女たたきをするし、金持ちだろうが、教養があろうが、やりちんだろうが、女たたきをする人はする。
ようするに、どんな立場の人間だとしても、どんなにすばらしい人間だとしても、差別をしてしまうってことだ。
逆に、差別をしないようにしたい、と考えている反差別者が、素晴らしい人間だとも限らない。
素晴らしいという概念にも幅がありすぎるけれど。
ずるかったり、貧乏だったり、病気だったり、知識がなかったりもするかもしれない。
わたしは、差別者をバカだと思うことで、その人たちとは違う世界に生きているんだ、と思いたがっていた。
切断処理というやつ。
でも、わたしも差別をすることがある。偏見があったり、見慣れないことは怖かったり、当事者じゃない差別問題には、自分の問題と同じ熱量では立ち向かえないでいたりする。当事者じゃない差別問題というと、語弊がある。
差別というのは構造的なものだから、自分が差別をしていない、と思っていても、加担してしまっていることはある。
例えば沖縄問題。わたしは、沖縄の人を差別しているつもりはない。でも、実際には、沖縄に基地がある。わたしは、そういう世界の一員として暮らしている。だから、やっぱり当事者なんだ。
わたしは、バカだから、ほかの差別に何かアクションを起こしていないのか?
在日外国人について、沖縄問題について、北海道の問題について、部落問題について、学歴や格差社会について、母子家庭について。
わたしは、バカだから、そういう問題に、アクションしていない?
そういうわけじゃない、と思う。
知識がなかったり、行動力に欠けていたりはする。積極的に、罵詈雑言を投げかけたりはしていないつもりだ。でも、黙っている。沈黙している。
興味がない人を責められるだろうか?
わたしだって、興味がない問題がある。同罪だ。
興味がなければ、偏見通りのことを信じて、行動してしまうこともあるだろう。それが正義だと信じて。
そこへの違いは小さい。(小さいとも思うけど大きくもある)
差別問題を解決するために、共感が必要かというと、必要ではない。
人を尊重するために、共感はいらない。共感が前提だと、「自分が許容でき、共感できる相手だけ尊重する」ということになるから、かえって危ない。共感できるできないを誰かが決めるってことだから。他人の尊厳なのに。
差別をなくすためには、どうすればいいのか、なんてわからないけど、とりあえず、差別者をバカだ、と思って、自分から切り離すのは、難しいことだけど、なるべくやめようと思う。
話したくない相手には話さないし、苦手な人にはかかわらない。
それは変わらないけれど、自分の心持、心のありようとして、あいつはバカだから、差別をするんだ、と思うんじゃなくて、「あいつは差別をするんだな」という風に考えをとどめておくようにしたい。
バカだから差別する、差別するのはバカだから、って思っているうちは、わたしは自分と戦えない。
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