わたしは愚かなので、間違える。
アライ、という言葉を知った。
それは、差別される当事者の代弁者だったり、共感する人だったり、エンパワメントする人だったりするようだ。
アライであることが当たり前である世の中であればいいけれど、そうじゃないから、アライという概念は必要悪としてあるのだなと思う。
わたしは、差別者であり、被差別者でもある。どちらの側面もある。
わたしは被差別者だという認識がある時は苛烈だった。
それは、自分の怒りを持て余していたからだった。ブログをはじめて、その怒りが沈静化したときに、自分が差別者だということを知った。
それは両立するのだと。
苛烈であると、目立つし持ち上げられるし、その誘惑は強い。誘惑のために苛烈になってしまうこともある。
怒りを表明することにはもちろん良い意味もよい影響もあるけれど、差別者としての自分は、傷つきやすく、驚きやすいので、優しい言葉で教えられたいと思った。差別者としてのわたしは愚かだから、当事者の言葉がよくわからない。
よくわからないから、そこで考える。もちろん、当事者にやさしく教えてほしいなんて傲慢なことは言えないから、調べたり考えたりするけれど、その間強い気持ちに触れ続けていると、頭がマヒして考えられなくなってしまう。だから、時間が必要だと思う。
間違えながらでもわたしが反差別について考え続けるのは、周縁に追いやられる人々がいて、それはわたし自身の属性もそうだけれど、非当事者が俎上に載せ続けてくれるということには一定の安心感があると思うから。
c71の一日は、精神病当事者のブログとして始まったので、精神を病んでいる人々が今も見てくれていると思う。
自閉症や、発達障害の人たちは、わたしが感じるに、感性がフラットで常識にとらわれないから、物事を素直にみる。
そして、常識を壊していく力があると思っている。
わたしにもそんな力があると信じたいし、自分の愚かさを許容してくれると信じることで、生きやすくなればいいと思う。
間違ったらいけない、正解じゃないといけないと、ひどく恐れていたけれど、間違っても正解じゃなくても、考えたり、進んだり、分析したりすることに意味があるから。意味がなくてもいいと思う。
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