わたしは差別されていることについて考えていたけれど、差別している側だと告げられて、ひどく驚いたし、うろたえた。
なかったことにしたかった。そして、相手が間違っていると思いたかった。
でも、やっぱり、生きていると差別をしてしまうことがあるし差別について考えていなくて済むことが、特権者だということを常々言っていたので、それを受け入れざるを得なかった。
受け入れるまではわからない、わからないっといって、ぐるぐるしていた。
それで、申し訳ないけれど、教えてくれた相手に甘えて、さらにどこがだめなのか教えてもらった。
これは、いつもできることじゃない。相手が特別に親切に時間を割いてくれたからだった。
アライという言葉を教わった。それは、ないほうがいいともいわれる。アライっていうのは協力者や理解者みたいな意味みたいだと理解したのだけど、そんな存在がいなくても当たり前に理解されたほうがいいという理由で、いないほうがいいらしい。
今は、まだ、アライって存在がいてもいいみたいな気がする。だって、全然たどり着かないから。
当事者のもつ正解と、わたしの持つ正解は食い違う。わたしは当事者にならないから、当事者の正解はわからない。
そして、わたしの正解と、当事者の正解が食い違うことは、豊かな証拠なのだとも思う。
そして、正解がわからないからと言って、しょげるのはまだ早すぎるということだ。
自暴自棄にならないで、自分をコントロールすること。
自分の欲を理解して、時には刺激して、人を動かしていくこと。
それが当面の目標だ。
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