男で、「男とは何か」で悩んでいる人はいるけど、「自分が男かどうか」で悩んでいる人あまり見ない。考えてないんだと思う。
その点、わたしは自分の性別を女と呼ぶのがどんどん難しくなってきた。
それは、ペニス付きの女を認めろと迫られているからである。
ペニス付きの女を認めるということは、女という言葉から表面をはぎ取って、生贄という本質をむき出しにする行為である。男は、女の境界を壊すことで、生贄をより生贄らしく扱うことができる。生贄から最後のプライドをはぎ取って、自分たちがより扱いやすくする。
学問的な、情緒的な正しさという砂糖衣をかぶせて。
また、それは、男が「こいつは女だ」と言及することで、自分の男らしさを確認しやすくする。男の定義もあやふやにぼやけているから、彼らが男でい続けるためには、「こいつは女だ」と示している必要がある。常に。
ペニス付きの女も女性だと認めろとは誰も言っていないというかもしれない。でも、トランス女性は女性です、ということは、トランスジェンダーが、トランスセクシャルやGID以外の概念を含むのだから、ペニス付きの女性を認めろということと等しい。
「事情があってオペができないトランス女性のことも考えてください、彼らにも更衣室やトイレや公衆浴場を安全に使う権利があるんですよ」というのは現実的にはペニス付きの女を認めて受け入れて怖がったり警戒したりせずに、なおかつ、何か起きたときの被害はどうしようもないから被害者が何とかして病院に行くなりカウンセリング受けるなりして誰にも言わずに何とかしてくださいね、加害を受けたと知ってショックを受ける人もいるんですよ、みたいな話なのである。
わたしの頭の中で話が混線して一体化するとこういう話になる。異論は認める。
そんなの、もう、人間じゃなくて、生贄じゃんと思ったんでした。性別が女とかいうから、人間だと勘違いをする。地位としての性別は、生贄だ。
男も、たまには女になってみたい、欲望されたいと思うから、ときどき女装をする。女の記号を身に着ければ、女らしくなって、女として欲望されると思っている。欲望されるのは、きっとものすごく気持ちがいいんだと、妄想で、嫉妬して、女を憎む人たちがいる。
男のまま、女の姿を模して、女になることで、欲望し、欲望されるに何かになれると思うから、女の定義を変えようとする。女にもペニスがあります、という宣言は、自分が、男のまま、女にもなりたいという欲望の表現だ。
それなら、もう、実態に即して、「女」というものはなかったということにしてほしい。彼らが言うような、二項対立があるから駄目なので、二項対立をなくす、そうすると差別がなくなるというような、あんぽんたんな議論から降りたい。彼らというのは、学問的な言語空間を作り、自らその王になった人たちのことだ。
そして、わたしは、女というものはもともといなくて、それは、男に存在する虚飾にまみれた妄想であるのだとわかった。彼らは、女のイメージを自由自在に操る。その意に沿わないものを女と認めない。
その妄想の生贄になる人たちがいる。生贄たちは暴力行為を行わない。男は暴力でしか変わらない。女はどういうわけか男に対して暴力を振るわない。結果として、女の地位は、生贄のままだ。
わたしたちを「女」と呼ぶことで、「男」の地位にいる人たちは、「女」に暴力を振ることで「男らしさ」を強める。
暴力的加害を起こすのは、二十代から四十代の男たちだ。つまり、勃起能力のある男たち。
わたしは、かつて女と呼ばれていた、今はその名もぼやけて、自分の性別が分からなくなった人たちの解放運動をしたい。その人たちは、ペニスがないゆえに、衣食住のすべての世話をし、学ぶことを許されず、労働を正当に評価されず、仕事に就けず、育児だけでなく介護を無償でやらされ、オナニーの道具としてもてあそばれるのだ。そして、食事ができているのだからお前たちは幸せだろう。住むところまであるんだからイージーモードだと言われる。
二項対立は否定されていいものだと思うが、その一方で二項対立が学問的に否定されたかと言って、この体に紐づけられた意味と染みついた経験は残る。
二項対立は否定されたので明日からアップデートして、いろいろ忘れて仕切り直してくださいと言われても無駄だ。だいたい、わたしが自分を女だと思っていなくても、「あいつら」は、女だと思ってるんだから。それは、わたしが自分で規定してきた自分の体に紐づけた言葉の意味を奪われても、わたしにからだが残っているからだ。わたしたちは、からだを使って生きているから、からだに意味を持たせる他者がいる限り、その意味からは逃れられない仕組みだ。
それが女である。
Twitterでの議論が重なっていくうちに、女という言葉を使うとどんどんあやふやになるうち、「ちんこあり湯」「ちんこなし湯」と言い換えればいいんじゃないかという説も出てきた。
わたしが少し調べただけでも、ペニスがあるだけで、性犯罪だけでなく、暴力を伴った犯罪の危険は跳ね上がる。跳ね上がるというと十分じゃないな。暴力的な加害は、9割以上が男が起こす。
この犯罪傾向が示す事実と、社会が男によって支配されていることと無関係ではない。
あなたはヒグマだらけの折に閉じ込められて「どのヒグマがあなたを食べるかわかりませんが、平等に接してください」と言われてその通りにできるだろうか。
信頼関係を築いたヒグマとだけ仲良くするが、いつ裏切られるかもわからず、裏切られたときに非難されるのが自分だという世界で、自己防衛的にならずに暮らせるだろうか。
ペニスに暴力の意味付けをするのは男である。
男が加害の主体だから当たり前だ。被害を受けるというのは客体だということだ。客体である女に意味をつけることは許されていない。男は、女性に去勢された男という意味をつける。去勢された男は、生粋の男に対して、暴力を振るわない。反抗もしない。
男が、「男でなくなった」と嘆くのは、勃起能力が失われたときだ。そのとき、彼らはアイデンティティクライシスに陥り、自分を見つめなおすことを放棄して、バイアグラを飲み、虚無を紛らわす。
実際、性犯罪を起こすのは20代から四十代がほとんどらしいので、要するに勃起するやつらが加害する。勃起しなくなると男であっても、加害しなくなる。あきらめるんだろう。加害の舞台から退場する。
アメリカの性犯罪の割合を調べた この記事
を参考にして計算したところ、殺人についてはまだ検証していないが、性犯罪については、mtf(gidだと仮定して)は女性よりも犯罪傾向が高いが、生粋の男性よりは性犯罪を起こす割合がかなり低い、という結果が出た。女装の男の犯罪率は、生粋の男に比較的近い。
女性が、「ペニスつきの男」を恐れるのには理由があるのだ。
だから、冒頭にも書いたように「ちんこの湯」「ちんこなしの湯」というのは、理にかなっている。それがフェミニズムにとって後退だと言われようが何だろうが、わたしたちにはセーフスペースが必要なのだ。それが必要ではない、甘えだと考える人には、説明してもわからないだろう。その人にとっては、意識しなくても、常に世の中がセーフスペースだから。
男は、自分自身の性の定義で悩んだことはないのだろうか。勃起機能を失って、男じゃなくなったと嘆く以外に。
わたしはとても悩んでいる。女とはペニスがついていないほう、という風に考えてきたけど、射精でき、女をはらませることのできる「女」の存在を認めろと迫られているからだ。
なぜ、男たちは、自分が男だと確信を持っていられるのだろうか。
ペニスがついていても、女として自分が認識される。ペニス付きの女がいるということは、ペニスがついていても、女か男か確信が持てなくなるはずだ。男たちは、そうした世界は怖くないんだろうか。ペニス付きの女は、例外だと思っているから?
怖くないのだとしたら、それはただ、「考えていない」からである。彼らは当たり前に男だ。今までもそうだったし、これからもそうだ。そう感じているから、彼らは思考しない。その一方で、男の定義が空虚なので、自分の性別をはっきりさせる行為の一環として、自分と異質なものをはじき出して、女の領域に加える。
彼らが男になる、と言ったとき、それは「性行為をした」というときである。勃起と男であることを結び付けている。だから、男であることにも悩まないし、女がペニスの欠如に悩んでいると滑稽な妄想から離れない。もし、性行為をしたことがなければ、自分が男になれないのは女のせいだと恨む。一貫している。
女が、男の否定であることをやめるとき、男は自分を定義できるのか。ペニス付きの人間を男だと呼べるのか。
今、ペニス付きの人間を女だと言わせるのだから、ペニスがついているのだから男だとは言えなくなっている。
ペニスつきの人間が、男とは限らないという問いを、自分に突きつけることができないなら、わたしが突きつけよう。
「ペニス付きの人間をあなたは女と認めろと、女に迫ってきたのだから、あなたもまた、ペニスがついているからと言って男とは限らない」と。
女の記号と脱コルセット
以前、脱コルセットについて、否定的に書いたことがあった。ミソジニーの仕組みという記事だ。
わたしは変化にはまず懐疑的になる。受け入れるのに時間がかかる。ただ、否定的とはいえ脱コルセットについて、書いたのは、なんとなく大事なことらしいと思ったからだ。引っかかる部分があった。
わたしは、自分が、脱コルセット実践者よりもはるかに年上だということを意識していなかったから、自分の言動が、彼女たちに抑圧に働くと思っていなかった。謝罪したい。
わたしが彼女たちの抑圧に気が付かなかった理由
世代の差が、彼女たちが言う装飾についての感覚の理解を難しくした。
わたしが子供のとき、大人の女性で化粧をしている人は少なかった。服装にこだわっている人も少なかった。子供もおさがりやジャージなどを適当に着ていた。高校生になっても、みんなスニーカー、ジーンズ、Tシャツを着ていて、秋服と春服の区別もしておらず、中途半端な時期にはカーディガンを羽織って済ませていた。高校生くらいの時だったか、ヤマンバメイクが流行ったが、それはテレビで見るくらいだった。脱毛もしている人は周りにいなかったし、就職活動の時に、本格的にメイクをしたのが最初だった。抑圧の方向は「華美にならないようにすること」に向いていた。自分の美醜にこだわるのは、良くないことと言われていた。
あさま山荘事件で、女性らしく振舞ったから殺された人がいたのはトラウマになったし、生まれてから冷戦や、イラク・イラン戦争、ポルポトの虐殺などの報道で知る限りは、女性が丸刈りにされ、女らしくしても殺されず、おしゃれができるのは平和のあかしだと感じた。
だから、わたしは、今の若い人たちが、美醜についてどれだけ抑圧されているのか察知できていなかった。自由におしゃれできて素晴らしいとばかり思っていた。おしゃれをしても安全で大丈夫なのだと錯覚していた。彼女たちは、中学生、高校生くらいからヒールのある靴を履いて、化粧をして、髪をつやつやにして整える。脱毛も一般的らしい。もちろん、あさま山荘的なトラウマもないようだ。装飾をすることで、大丈夫ではなくなっているなんて知らなかった。自分たちの健康を害していることも知らなかった。それはわたしの怠慢だった。
脱コルセットが開放的に感じられる気持ちから遠かった。
自分が女らしかったかどうか
わたしは今まで自分の体毛をそったことが四十回くらいしかなく、化粧も週一回で、しごとも化粧しないで行く。
それで、彼女たちが切実に脱コルセットを求めていることが分からなかった。
とはいえ、それは、わたしが女の記号で自縄自縛になっていない理由にもならなかった。たぶんわたしは女らしい。
やってみないで否定するのはよくないと考えて、どうやれば脱コルセットになるのか、教えを乞うて、自分でもやってみた。髪も切った。
それで、わかった。
脱コルセットをしても、女であることは変わらない
わたしが女だということは、どうしても変わらないことだった。
わたしがどれだけ女性の記号を外そうとしても、生まれてこの方、女性として扱われた記憶は、心身に染み込んでいて、どうにも外せないということ。また、わたしはどこまでいっても女に見えるだろうということ。わたしは女に見えるだろう。そして、女として扱われるだろう。
日本において、女として扱われるということは、生贄として扱われるのと同義だ。わたしが脱コルセットをしても、それはかわらない。ただ、自分を自分で差別するのをやめることができる。
自分の中のミソジニーが言動を裁いて自分を傷つける
わたしは、自分に自信がないのは、自分の中にあるミソジニーが、女性である自分を攻撃しているせいだとわかってきていた。そして、自分から女の記号を身に着けることは、そのミソジニーを強化もしていた。自信がないからいろいろなものを買って、自分を補強するのだが、ベースの自信がないので、買ったところで何も変わらなかった、だから自分はバカなのだと、また自信を喪失する。バカだからいらないものを買うんだと思った。自分で買ったものを、確かに愛しているのだけれど。かわいらしい品々をこんなに愛している。
女の文化を尊重することと、脱コルセットは両立する。それは、他人に対して、侵略的にふるまわないということでもある。自分の決めたことを、自分で実行していて、誰かに認めてもらおうと思わなければ、そもそも話す必要もない。誰かを否定することもない。不当な扱いをされない限りは、誰かに、「こういう風に扱ってほしい」ということもない。
そして、男はそうしたことで悩まない。
男はあくまでも人間でいられる
彼らは、生贄ではなく人間なので、美しくなくても生きられる。優しくなくても生きられる。悩まなくても生きられる。自分が、男足りえるのかと悩んでも、男とは、いったい何によって規定されているのかでは悩まない。
女らしさはわたしを切り刻んでいく。どれだけ捨てようとしても影のように足元から消えない。女らしくあるということは、一段低くあるということだ。優しく、丁寧で、親切。思いやり。それは、自分の欲求をひとまず置いておくことだ。
男は、まず、自分を満たしてから、他人に優しくする。残り物は食べない。残り物や冷めた料理が好きだとかたくさん食べなくても平気だと思われない。
何度、男に「自分を優先してから、他人の世話をすればいい」と賢しらに言われただろう。それで済まされる性と、済まされない性。
それで最初に戻る。
男が男でいるためには、確認するための犠牲がいる
男は、教える。わたしに。お前が女だと。そして、お前が女だから、自分は男なのだ。そういう風に確認している。わたしを犠牲にすることで、彼らは考えず悩まずいられる。
盗撮の話をすれば、「そういうのがあるらしいね」と言われる。説明すれば、彼にもそういう言葉が残酷かわかるし、その残酷さに苦しみもするけれど、彼には言わなければわからない。それは、男だから。
彼だって、性的に怖い思いをした経験はあるけれど、彼には女の、つまりわたしの恐怖はわからない。他人だから。
女にはわかる。わたしの恐怖がわかる。男にはわからない。わたしの恐怖がわからない。恐怖が分からないのだから予防の重要性も気にしない。
その差がどうして生まれるのか。男は考えない。恐怖について考えないから、だからわからない。だから、恐怖を偏見と差別という言葉で塗り替えることができる。
見知らぬ彼をなぜわたしたちは男だと思うのだろうか
彼が男だと誰もが判断する。ペニスがあっても、なくても。
わたしのことを誰もが女だと判断する。わたしにペニスがあっても、なくても。
自分自身で、自分の性を、わたしが決めることができたとしても、わたしを「性別:生贄」として扱う周囲を変えることはできない。
生贄にされた者同士が集まる場所で、ようやく息をつける。安心して、とは決して言えない。でも、ずいぶん楽に息がつける。それは生きていくために絶対に必要なことだ。
だけど、これからはそうもいかないと、男たちは言うのだ。女も言う。性別は社会的構築物なので、その意味を壊していけば、差別は消えるという。
そして、わたしはこう言われた気になる。あなたの社会が十分に壊れていないから、あなたは差別するのだと。
そうではない、とわたしは思う。思うので、言う。
わたしが自分を規定する
男だって、男がなんなのかわかっていない。わかっていないけれど、男が女を規定する、その「規定する行動」をもって、自分を男とみなしている。女という生贄がいなければ、規定する相手もいないのだから、男は男でいられない。それが社会的構築物だろう。自分たちの行動のルーティンとそのルーティンを通した自己確認の循環を壊す気もなく、一方的に、わたしの社会を壊すのは、暴力に過ぎない。
男だから、安心して、境界を壊していけるのだ。その暴力が自分に向かないから、なにも不安にはならない。男は、自分に向いた暴力でしか変わらない。
ペニス付きの女はいない。
わたしが、生まれついてからずっと味わってきた、生贄としての毒を味わったことのない人にはわからない、いろいろな気持ちがある。何も言わずに済ませたい気持ちと、言わずにはおれない気持ちがある。
わたしの性別は、生贄だ。わたしはそれを意識しないようにしながら、なおかつ、それを飲み下して生きていた。わたしから女という呼び名をはぎ取った後にも、わたしの体が残る。わたしはそうして生きてきたし、これからも生きていくだろう。死なないように。
わたしの、女に生まれたが故の痛みは、わたしにしかわからないことだから、わたしはそれを愛している。苦しみながら、それがわたしだと思っている。痛みと、苦しみを慈しんでいる。それがわたしだと思っている。
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