女性差別を語るときクソコメントがやってくる

フェミニズムや女性差別について語ると、何も読めない人がやってきてクソコメがくるのを可視化してみた。

これは、2015年のはてなブックマークです。http://b.hatena.ne.jp/entry/c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

元記事は、http://c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

今と全く変わらない。

データがない、非論理的などと言いたい放題。フォローすると、一部は、ちゃんと読んで意味が分かっている人もいる。でも、それはやはり少数派である。下の画像の人工無能みたいなコメントを飛ばす人間は多い。

データというのは、問題が可視化してはじめて「データを取って検証しますか」ということになるので、問題提起がはじめにある。問題提起がなければ、調べることもできない。何について調べるのか、それが問題なのだ。

今、女性差別について考える人が多いので、いかに女性が差別されているのか実証するデータがネット上で簡単に見つけられるほど増えた。それは、女性差別について考え、発見し、発言してきた人の成果でもある。

情報の非対称があるんだから、については、「情報の非対称」という言葉は強者から弱者について使うべき言葉じゃないから、意味不明である。

データがない、非論理的と言っているが、実際に、医学部では、入試の不正がずいぶん以前から行われていたのは明らかになった。

また、わたしが自分のブログでいちいちデータを提示しなくても、調べれば済むことである。わたしがなぜ労力を費やさなくてはならないのだろうか。データの提示をしていることもあるが、それは完全にサービスであり、善意である。そして、データを示しても、彼らはそれを読む素養がないので無意味なのだ。データやらソースやらよこせよこせという彼らは、データもソースも意味を取れないのだ。

しかし、実際のところ、こういう無意味で愚かなコメントであっても、心にずしりと重くなる。どんなに意味がないとわかっていても、罵倒というのは、人を疲弊させるのである。

わたしも委縮して書くのをやめたり、書き方をマイルドにしたりもする。

想定している読者は、アンチフェミニストではなく、フェミニズムに触れたことがないが、今後、この思想が役に立つかもしれない人に向けてなので、彼らが読んでわかろうとわかるまいとどうでもいい。以前は、彼らについても啓もうしようと頑張っていたが、あまりにも言葉が通じないのであきらめた。

例えば、TM2501は、経験談すらないと言っているが、経験談を書いたところで「個人の経験に過ぎない」という人間が現れるのでやはり無駄なのだ。また、一つのエントリで、データや、ソースを交えながら、論を進めるのは難しい。ほかのエントリでやっている。やっていても、それは違う方向の罵倒を受ける。

データやソースというのは、誰かが疑問をもって、問題があると認識したときにようやく調査が始まるものだ。自動的に存在しているわけでもないのに、彼らは、データソースと言いたてる。彼らには、先行して考え調査する人間に対して敬意がないのだ。敬意がない人間のために、どうして時間を費やさなくてはならないのだろうか。時間というのは命である。命を減らす義理はない。

彼らは、無知を武器にしていて、どんなに説明しても、無知のままである。

宇野ゆうかさんをはじめ、様々な人が言っているが、「どんなに説明してもわからない」というのは、ハラスメントであり、攻撃であり、権力の誇示なのだ。わたしがどれだけ説明を積み上げても、理解というゴールは、質問者がどんどん遠ざけてしまうので、絶対に彼らは無知から動かない。無知をもって疲弊させることが彼らの攻撃なのだ。わからなければなかったことになる。それが彼らの勝利である。

そうした、不誠実な人間に対して、どうして誠実にふるまう必要があるのだろう?全くない。

フェミニストをしていると、「この差別についても考えろ」とよく言われる。

例えば、わたしは障碍者差別についても書いたことがあるが、例えば、「男性差別や男性の解放のことも考えろ」とは言われたことがない。女性差別について考えると、あらゆる不公正や差別についてもアクションしろと迫られる。

ミヒャエルエンデの「鏡の中の鏡」で、ある試験を受ける青年が、いろいろな頼みごとを受けていった結果、不合格になるという物語がある。

彼は、「幸福でい続ける」という試験を受けていた。いい人であろうとして、様々な頼みごとをきいているうちに、背負わされるものが増えて、飛ぶことができなくなり、落第して、落伍者の町から永遠に出られなくなる。

フェミニストが、女性差別以外について、コストを割くというのは、鏡の中の鏡の試験と同じ轍を踏むことだと思っている。飛べるようになるためには、このようなくだらないコメントを超えていかなくてはならない。

それでも、目にすれば心が重くなる。そういう環境の中で、女性たちは声をあげているということを知ってほしい。何かしろというわけじゃなく、ただ、差別をするなと思う。わたしもほかの差別をしないように心がける。でも、それだけにする。お互いにそうしよう。罵倒に負けるななんてとても言えない。勝ち続けているはずの彼らはこんなにもみっともない。

それにわたしはいつも負けている。それでいいのだ。負けていて何が悪いのだろう。最初から、負けている。それが差別を受けているということなのだから。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください