以前わたしは、フェミニストならば本を読むべきとツイッターで発言した。
今は、撤回する。わたしは、本を読むべきと言わなければよかった。
わたし自身は、読書をする環境や資質に恵まれ、図書館の使い方も熟知しており、大学では、読書にほとんどの時間、四年間を費やした。
わたしが精神疾患を発症したのは、16歳のころだと思われるが、そのときに、集中力や体力の多くを失ったものの、本を読む力はまだ残されていた。
わたしが精神疾患を発症した理由は、社会の女性蔑視によるものだと理解したとき、わたしは本に感謝した。
わたしにとって、読書とは、今ここにいない知性との対話の時間であった。わたしはひどく寂しかったから、いつでも誰かの考えを知ることができる読書は、ほとんど人との関わりと同義であった。人と会話するような気持で、すがるように読書をした。
今、わたしは、読書をする体力が本当にない。時間もない。一日二冊読んでいたことが信じられない。一か月に二冊読むのがやっとだ。
それでも読むことができるのは、子供時代から、本を読むという技術を身に着けていたからだ。本を読むという作業は、字を追い、意味をとり、文と文の間で意味をつなぎ合わせる根気のいる作業だという言葉を知って、わたしはとんでもない勘違いをしていたと悟った。
わたしが、本を読むべきだ、と言ったことで、プレッシャーを感じている人を想像した。ぞっとした。本を読まなければフェミニストになれない、フェミニズムを語れないなんて、そんな馬鹿な話はないのに、わたしはそんな馬鹿なことを言ったのだ。罪に震える思いだった。敷居を高くすることは悪だ。
アカデミックのフェミニズムが本当のフェミニズムだと信じていた。わたしはアカデミックに学んだことがなかったから、それを負い目に感じていた。
それでも、わたしは、フェミニストの目で、大学の授業からも、男女の待遇の偏りを知った。刑法において、性暴力の扱い方は女性に不利で戦うことができないように思えた。民法でも、自分の子供が子供だと主張すること、育てる困難、産むか産まないかの自由から始まって、女性が自分の健康と財産を守ることが、法律によって不可能になっていることに気付いた。
わたしは、ジェンダーの専門の学者にあこがれを持った。彼らは、真実を知っているのだ。わたしは知らないのだ。そう思った。
わたしは、フェミニズムよりもウーマンリブのほうが好きだった。女が、貧しい女が、学ぶことができなかった女が、戦っていたから。
わたしは、大学を出たから、恵まれていて、それが誇らしく、そして、恥ずかしかった。
本は高価で、図書館に行く時間があるかどうか、読む時間があるかどうか、邪魔されないかどうか、そもそも何を読めばいいのかわからない、という問題がある。
今、わたしは、どの本を勧めればいいのか、わからない。大学生の頃に読んでいた本しか勧めることができない。そして、ほとんどの題名は忘れてしまっている。今、これから読むべき本もわからない。調べる時間もない。
そんなわたしが、フェミニストならば本を読むべきと言ったのだ。どれだけ恥ずかしいことを言ったのだろう。今はとても後悔している。
本を読めば、様々な疑問が氷解する。考えに行き詰っていた箇所が流れる。新たな視点を得る。自分の周りにいない人間の考えの蓄積に触れることができる。とても有用だ。
逆に、学者のフェミニストにも、種類があり、対立があるので、正解があるわけでもないから、混乱する面もある。読みながら、それらを取捨選択し、精査する必要がある。本を読むのは一冊読めば終わるわけじゃないのだ。
読書は、あってよかったというものであって、どうしても必要なことじゃないのだ。
必要なのは、女性差別について、おかしいと感じる心だ。おかしいと感じ、それを表現する自由を渇望する魂をもっとも尊ぶべきではなかったか。
わたしはそれを失っていた。わたし自身のコンプレックス故。わたしが学者ではないから。わたしのフェミニズムは間違っているといつも思っていたから。
わたしは、言いたい。一人一人に、その人の戦いがある。それがフェミニズムだと。ウーマンリブのように、形而上ではなく、形而下、つまり現実で戦うことが尊いのだと。
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はじめまして。ツイッターでお見かけして、読みました。
とても真摯な、美しい記事だと思いました。
私は学もなく、田舎者で、おまけにだらしがなかったので、ずっと仕事とたくさんの子の子育てに追われ、気がつくと老眼で、もともとそんなに読まなかった本を今は全く読まなくなりました。
ツイッターなどでフェミニズムを知り、皆さんの意見にハッとし、学んでいます。
難しい言葉はわかりません。本を読んでないからかな、と惨めな気持ちになります。
おかしいと感じ、それを自由に表現することを渇望する魂、
本を読んでなくても、持てますよね。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
お忙しかったのですね。一生懸命生きてきた過程を恥じることはありません。
わたしはあなたを尊敬します。
難しい言葉を読んで、わからないと、悲しくなるのはわかります。
わたしは、以前、、難しい言葉に挑戦することこそ正しいと思っていて、わからないと悲しいという気持ちにふたをしてきました。
でも、やっぱり悲しいのです。
難しい言葉でしか表現できないことがあるのはよくわかっていますが、難しい言葉だけが偉いわけでもないのだなと思うようになりました。
本を読んでなくても、日常でおかしいと思うこと、疑問に持つことが、もっとも尊い行為だと思います。素晴らしいです。