服を着る、というのは表明だ。
自分が何者であるかということを示す。
パーソナルデザインで、客観的にみて、一番似合う服の選び方を学んだ。
それは必ずしも、わたしの好みと一致するわけではなかった。
しかし、扉が開いたと感じた。
コンプレックスをむき出しにされたと感じた。
隠したいのなら、自分で選べばよい、そうじゃないから、サービスを受けたのだ、と思い直した。
おしゃれは楽しいものだと長い間思えなかったのは自分に自信がなかったからだ。そんな自分をいい加減やめたかった。
鏡に写った自分は見慣れなかった。
知らないブランドの店をいくつも回っていくうちに、自分にふさわしいと思っていたものはちがったのだと感じ始めた。
布や縫製のよい服は、わたしの体を優しく包む。そういうことを知らなかった。店員は敵じゃなかった。
微笑んで、この服素敵ですね、と会話をすればいろいろなことを話してくれた。
そういうことも知らなかった。
様々な布や様々なパターン、色使い、質感、バランス、組合わせ。
それは冒険で戦いで、生きている感じがした。誰もわたしを見てないとしても、わたしがわたしを見ていた。
コンプレックスの部分だけを取り出してみていたのは、わたしだった。
わたしはコンプレックスから自分を許したくなった。
だから、服を着たい。
自分を好きになる、美しくみえる、今の不格好な自分を労る、服を着たい。
きれいで美しくて居心地のよいもの、色を塗った爪先や、ブレスレット、悲しくて辛いときに慰めてくれるものが、物質でもなんでもいいのだから、服だけを除外するのはやめたい。
自由になるために、学ぶのだから、服だって、やっぱりそうなのだ。
わたしは女の形をして、わたしでもあって、誰に何を思われても、やはりわたしで、どこにも逃げられない。
だから、逃げるのをやめて、堂々と、わたしでありたい。
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