入院したとき、腕を切り刻んでいる子に出会った。
医者は切るなとは言わなかった。
わたしも、切るのをやめてほしいと思わなかった。
切らないための100の方法を宿題にノートに書く日々を一緒に過ごした。
切るなと言われて切らないなんてできないことをそこにいたみんなが知っていた。
手首を落とすまで切ると不便だからその前にやめられればいいね、という話を笑ってしていた。
わたしは作文の書き方を教えた。
自分の気持ちを書くことを毎日した。
ある日、その紙を持って、彼女は家族と医者で話し合った。
家に帰らず、寮生活をすることに決まった。
それから彼女は切る衝動が減った。切ることは続けても、隠さず、消毒してもらいに、ナースステーションに通った。
わたしは精神不安定で、筋肉注射を打ってもらうことで、一日生きながらえるような日々だった。
いたくていたくてたまらなかった。
依存をして、薬を飲んで、時間を稼いで、問題に向き合うための体力を取り戻すために、休憩していた。
その時間は必要だった。
いつまでも、悲しんでいいと言われたら、きっとわたしたちは死んだ。死にたかったのだから。先が見えなかったから。その先が悲しみばかりだったら、生きている価値もないのだ。
切りながら、生きるすべを学び、生きるようになって、他に興味が向いて、生きる実感を取り戻して、解離から自分の体にたち戻って、その過程を通して、やっと、わたしたちは生きられた。
二度と会わなくても、共通点がなくても同じ日々を過ごした。
わたしたちは認められない存在であっても、わからないと言われても、わかりたくないと言われても、確かに存在している。
助けたくないなら助けなくてもかまわない。
でも、寄り添うということが、わたしたちには必要だった。
わたしたちは一緒にいることで、補いあい、治療しあい、日常に戻った。
自分を切り刻みながら、生きる方法は確かにあるのだ。
切り刻むことを手放す未来も、確かにあった。
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この投稿は素晴らしいですね。
手首を落とすまで切ると不便だから(後略)の一文には泣かされました。
現実的な仲間は素敵です。
筋肉注射は痛いですね。しかも痛いとこを自分でグリグリしないといけないしw
生き続ける具体的な方法が随所に書かれていて、「ありがとうございます」って思いました。
いつもありがとうございます。
具体的に書けたかな?
そう読んでくださってうれしいです。
筋肉注射はいたいですね!
でも楽になるから割りと頼みました!