ずっと悲しんでいていいんですよ、と言われたら満足なんか

ずっと悲しんでいたらいいですよ、悲しかったですねえ、それを大事にしていてくださいね、なんていえば、満足する人がいるのは知っている。でも、わたしはそういうことを売らない。

わたしは、身近な人に頭蓋骨割られたり、子供を引き離されたり、刺されたり、骨や歯を折られたりしてた人としばらく暮らしていたことがあった。

なんぼ悲しいことがあるにしても、これより苦しくて悲しいことそんなにないやろ、というような集団だった。

でも、悲しかろうが、苦しかろうが、生活していないと食ってけないから、仕方がない。

誰も助けてくれないからね。周りのことは助けてくれても。

人にはそれぞれ悲しいことがあるだろうとも。プロセスや期間は様々だろうとも。悲しみに上下はないだろうとも。

いつまでも思い出すこともあるだろうとも。

でも、わたしは、心と体と頭がついているんだから、ちゃんと生きて、暴れて、失敗して、今困っていることを解決して、自分が生きている、って感じで生きるのがいい感じだと思う。

不幸はありふれていて、見えないところにボロボロになった人たちがいっぱいいる。

でも、それにちゃんと向き合って生きていたら、生きていることに忙しくなるんだよ。

体が動かなくて寝込んだ十年がわたしにもあったし、わたし以外にもそういうひとたくさんいてはる。

動かないもんは動かないんだから仕方がなかろうもん。腕や胃袋やのどやぼろぼろにしながら、自分の体傷つけながら、生き延びている子ら、たくさん見たもん。

でもそういう子らに、ずっと悲しんでいていいんだよ、というか、それとも、生き延びながら、腕やらなんやら傷つけながら死なないように生きていくすべ教えるのかは全く違う。

ずうっと昔に遭った悲しい出来事を、ずっと生活の中心におけるのは、贅沢や。だって、それを上回る出来事が今ない、ということの証左でもあるからや。幸せっていうことじゃ。

ずっと悲しくていいんですよ、って、その場では癒されて、認められても、それを鵜呑みにして、悲しいまま死ぬまで悲しがってて、そんで、死ぬ前に「ああ、楽しく生きたかったなあ」って思っても、誰も責任とってくれまへんのや。悲しい出来事がすべての元凶か?

そうね。悲しい出来事なかったほうがよかったよな。それはそう思うわ。でも、あるんじゃ。

生きてるんだもん。

ひどいことをしたり悲しくなるようなことを言ったりする人が悪い、ちゅうなら、恨んで憎んで、自分のせいじゃない、あいつのせいじゃ、って思ってたらよかろうもん。

幸せになることはほんとに難しくて、失敗ばかりじゃ。

でもそうしたときに、「悲しいのは当たり前だから人それぞれの期間やプロセスがあるんだから、心配せずに悲しんでいたら、いいんですよ」と言われて満足するなら、それは悲しいのが好きだし趣味だし、それが自分の幸せだ、って自分で認めて選択してくれや。わたしを巻き込むな。

わたしは違うねんから。そういうの、サービス外やで。売りもんにしとらんもん。売ってないもんをほしいといわれて断るしかなかろうが。

悲しいことには依存できる。依存してたら、ほかのこと見なくていい。すべての依存はほかのこと見なくていい、風に作用すると思ってる。

だから、依存から逃れるのは、難しいんだ。依存でごまかされていたいろいろなことと、向き合って、つまんない、地獄みたいな、人生見ないといけないもん。依存している間は、それが問題で、人生の中心問題だから、依存をなくすように戦い始めたら、空っぽになる。

空っぽから始めないといけない。依存を治療することは可能でも、依存がなくなった後の空っぽを何とかする魔法はないんで。

合理的な行動や選択じゃないことを取り続けていたり、なにかの思い込みをしてしまうのは過去に問題があるからかもしれん。

じゃあ、その問題を分析して、解決したらよかろうもん。なんで、しないかというと、我々はみんな、弱いからや。

そんでも、いつまでも弱く、悲しくいて、幸せか?

わたしはそんなん、幸せじゃない。

だから、どんだけ、ひどいことがあっても、悲しくても、しゃーないや、って思うようになるまで待つことをしたり、分析したり、あきらめたり、なんやかんやする。どんなに悲しい、恐ろしいことがあっても、自分の心からは逃げられないんだから。

わたしは、悲しみや苦しみを軽んじているわけじゃない。そんなん、忘れて、さっさと次にいけ、いつまでもやってるな、なんて、一言も言ってない。

言ってないが、勝手に読み取る人もいる。そういう人はそういう風に生きてったらいい。

わたしは、書いてないことまで責任とれやしない。

悲しくたってさ、苦しくたってさ、身を切るような苦しみがあったってさ、生きてたら、ああ、悲しくて苦しいな、また、朝が来てしまった、もう死にたい、と思い続けてもさ、でも、息して水飲んで、飯食ったら、生きてしまうもん。

体が生きたがってるんだから、まあ、生きるしかないんだ。

それがわたしのあきらめである。

わたしは欲張りだから、生きるしかないんだったら、心と体と頭でもがいて、自分の幸せ作りたい。誰にも奪われないで済むのは自分の心だけや。洗脳されたかて、逃げられないとしても、最後にはそれが残ると思ってる。

自分を信じてないのは誰なんや。

大事な物を捨てられ壊され、全部失った。そういう人は悲しいまま死ぬか、というと、そうじゃない。生きる人もいる。わたしもそっち側でありたい。

全員がそうあれというつもりはない。

できない人はできない。できる人はできる。できない人でも助けを借りたらできるかもしれない。それも手腕だ。

ずっと、悲しんでいたらいんですよ、と言われたら本当に満足なんか、ほんとにそんな人いるんか、と思うけど、いるねんな。

でも、わたしはそうじゃない。そうじゃないんだから、仕方がない。あきらめろ。

わたしは、あきらめて、次考える。いっぱい失敗する。成功なんて、十回やったうちの一回あるかないか、もっと少ないかもしれん。

でも、ずっと前向いていたいもんな。

わたしは、そうしたい。わたしの考えが気に食わないならそれでいい。

わたしは怒って、暴れて、悲しがって、苦しがって、寝込んで、吐いて、熱出して、歩けなくなって、そういう人生を歩んでいたけど、希望は捨ててない。

だって、それがわたしだから。生まれてからずっとそうや。そうじゃないもん、求める人はほかにあたってくれ。

わたしは神様じゃない。みっともない、人間じゃ。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください