反発を招くのを承知で書くけれど、そこまで悲惨じゃなかったけど本人にとってつらかった出来事を後生大事に抱えている人たちは、それにしがみついて、現実のたいへんなことから逃避しているように見える。
わたしは客観的にみて、比較的ひどい人生を送ってきたと思うけれど、そのために、いろいろなことを切り捨てられた。
俯瞰して見られるようになったので、もういらないや、と思ってからは忘れないでいるにしても、どうでもいい。
でも、どうでもよくないと、ずっと、抱えているのって、お酒で現在のつらさをごまかすのと同じで、過去のつらさで、今のつらさを見ないでごまかしているように見える。
わたしがつらかったから、ほかの人のつらさはたいしたことないとマッチョなことを言いたいわけじゃないんだけど。結果としてマッチョになるかもしれないんだけど。
すごく小さなころに「おまえがいなければ」と言われたことをたとえばずっと抱えていたとして、わたしだったら、じゃあ、そんな親、捨てちゃえば?と思う。
それをしないで、悲しい、心の傷、って言ってるのは、結構楽しいんじゃないかと思う。
わたしにも心の傷はないわけじゃなくて、PTSDの結果、できなくなったことは多々ある。
でもそれはそれとして、結構幸せに生きている。できる範囲でね。
目安として十年くらい悲しんだら、あきらめて、手放してもいいんじゃないかと思う。
わたしは、傲慢だから、以前は、わかりにくい苦しみについて、理解がなかった。今は結構あると思ってる。
でも、それにしても、親から受けた悲しさを、ずっと抱えているままなのは、もったいないと思ってる。
もったいないというか今を生きていない、というか。
うまくいえないけどさ。
こうしてほしかった、と思うのは、思うけど、でもないわけだから、あきらめたらいいじゃん。ってどうしてもやっぱり思う。
わたしはひどい目に遭ったから入院もできて、父親の屑さも目の当たりにできて、もうどうでもいいやと思えたから、ラッキーだった。
自慢みたいだね?
どうしても、過去の小さなこと(それはわたしから見ての話だけど)を後生大事に抱えていつまでも苦しがっているのは趣味みたいに見える。
それで、いいならいいんだけど、趣味だと割り切らないで、悲しがっている人はあまり好きじゃない。
みんな、さっさとあきらめればいいのに。できる範囲のことをすればいいのに。と思う。
過去の悲しいことをずっと考えているのは、やっぱりアディクションの一種なんじゃないかな。ちょっと気持ちいいし。悲しいこと考えているのって。
でも、そうして、過去に生きている間に時間は進むし、時間が進んだことに気が付いた時、それも、誰かのせいだってしていたら、まあ、誰かのせいかもしれないんだけど、結局人生の時間を減らして、後悔するのは自分なんだから、不都合な人間関係を捨てて、物理的な距離置けばいいのに、と老婆心ながら思ったりする。
(悲しみの必要なプロセスだとフォローしてるかたに指摘してもらいました。
わたしもそのプロセスは踏んでます。
プロセスの時間も長くてその時間がなければと悔しく思う。でもいつか終わらせなくてはならないとも思う)
「過去の悲しかった出来事に拘泥するのは依存の一種」への1件のフィードバック