四年前、力が足りず、生徒さんを志望校に受からせてあげられなかった。
わたしにとって、それはうまくいかない話だった。
でも、その生徒さんは今でもわたしを頼ってくれている。
わたしの懺悔は、わたしの中で成仏した。わたしが懺悔したら、その子の今の人生が、「失敗の延長」ということになるのだ。
だから、わたしは、その子に謝ってはいけない。
わたしは、手助けができる職業なだけだ。
人生を変わることもできない。人生を変えることもできない。
ただ、手助けをしたいと願いながらそばにいさせてもらうだけだ。
わたしを選んだのは、彼女だ。
彼女の選択を、尊重するということは、彼女が失敗しただとか、わたしが失敗しただとか、言葉にしてはいけないということ。
その子の人生はその子のものだから、その子の結果はそのこのものとして、語られなければならない。
わたしの失敗の話にしてしまえば、わたしはその子から志望校だけでなく、人生まで奪うことになった。
その子が入った高校の部活は、全国レベルで、その子は部長になった。
部長になってから人間的な成長は目覚ましかった。ああ、この子は、人生を選び取れる力があったのだ、わたしは、自分をなにか、えらいものだと錯覚していたのだと思った。
部長になったその生徒は、後輩たちを全国に連れて行った。重圧や重いけがの連続で、苦しみもがきながら、輝かしい場所に行った。
彼女には明確な夢がある。四年越しに、その夢を兼ねる手伝いができる。
人生は、長い道のりだということが、わたしにすらわかった。
彼女が、今も過去に囚われて悔やんでいたら、今度のチャンスも失っていただろう。
けれど、彼女は前を向いている。
結果的によかったね、ということは簡単だけれど、わたしはそれをしたくない。
彼女はずっと努力して、そして、努力が実らないことも受け入れながら、あきらめなかった。
彼女自身の生きる力で、つかみ取ったチャンスだ。
わたしはずっとそばにいて、それを見ていた。
結果的によくしたのは彼女自身の実力だ。
努力がいつも実とは限らないと、彼女はすでに知っている。
知っていながら、彼女はあきらめなかった。
高校で思うような志望校に入れなくても、次のチャンスが来る。次のチャンスをつかめなくても、またその次のチャンスが来る。
その間の時間も、無駄にするかどうかは、その人の問題であって、悔やみながら過ごすこともできる。そして、また、その場でできる最高の何かもある。
それを選ぶのは、自分自身だ。
誰かのせいじゃない。
自分のせいでもない。
めぐりあわせと、ひたむきさで、自分の人生をつかみ取ることは、そのとき、今、この場でできる精一杯のことの連続で、可能になるのだ。
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