女には何が女かわからないが男にはわかる

もはや、女には「女」とは何を指すのかわからなくなった。

自分が意識せず生れ落ちてからずっと女と名指されて、だから自分を女だと思っていたが、ついに、お前たちは女の定義をわかっていないと言われるのである。

そして、女とは何ぞと問えば、「女にもペニスはついています」と返ってくる。

ペニスがついていなかったから、受けてきた、あらゆる差別や暴力も、今や女が自意識過剰にジェンダーを抱え込んで、女が女らしくしているから暴力を受けるのだと言わんばかりだ。

女は女をやめることはできない。トランス男性は、語られることすらまれである。そして、彼らが男子トイレに入りたいということはない。それは、彼らが、男子トイレに入った後、自分の生まれつきの体が、男たちの暴力を誘ったのだと言われるからである。

この非対称さよ!

わたしは、ルワンダ大虐殺を起こし、水晶の夜を起こし、南京大虐殺を起こしたそうだし、トランス女性の死を冒とくしたばかりか、トランス女性を殺し、あまつさえ彼女の、そう「彼女の死」を卑怯と嘲笑ったそうである。

そうである、と伝聞なのは、それはわたしがしたことではないからだ。

昨日から、投げつけられたあまたの暴力的な言葉が耳から聞こえて脳に張り付いて、ほらお前が死ねばいいのだとささやいていた。そういう声が頭に鳴り響いていた。お前が死ねさえすれば、丸く収まり誰も争わず傷つかず平和な世界が訪れるお前が死なないで生きているから、だから、トランス女性は死ぬ、と。

わたしがしたのは注意喚起だけだ、読む人が読めばわかるのだからわたしの書き方が間違っていたのではない。ちゃんと読めていた人もいる。

自殺を、生きた人が持ち上げてその死がもたらした意味を利用していけば、次の自殺者が出る、希死念慮という、病を持っている人はそれから離れなければ、死後に労わられるとい優しい夢を求めて死んでしまうのをわたしは注意した。

それは、報道で守られるべきラインとして、揚げられていることだから、わたしは普通のことを言ったのだ。後追いしないように、させないように、死を使って、何かの主張を通すべきではないんだと。そうだ、主張を通そうとするのは、いつだって今生きている人間なのだ。死んだ人間には何も言うことができないのだから。

だから、わたしは注意をした。自殺をするなと。自殺を呼ぶような言動をするなと。

自分自身のために。

わたしが自分を殺さないために。

わたしは、全身が痛み、動けなくなった。涙が出て、頭痛がして、吐き気がして、食べられなくなった。久しぶりにあったヘルパーさんには、やつれたと心配された。ヘルパーさんが来てもわたしは起き上がれなかった。めまいがして、ふらふらして、トイレに行くのがやっとだった。布団はぐっしょりとして冷えてしまったので、湯たんぽを抱いて、なんとか生き延びようと、絶対に死ぬものかと思いながら、家族に「目を話したらわたしは死ぬかもしれない」と伝えた。

それはわたしが死なないための工夫である。死神がわたしを引っ張って、今にも連れていきそうだった。それは、甘い夢だった。わたしが死ねば、みんなが残念がって……、ああ悪いことをしたな、と思ってくれるだろうと。

でも、わたしはこうも思った「わたしの死は、茶化されて、嗤われて、おもちゃにされ、そして、三日で忘れられるだろう」とも。

そして、それをツイッターに書きもした。そうしたら、何が起きたかというと、それを茶化し嗤われたのだ。

わたしが、「死にたい」と思って、「でも三日で忘れられるのはばかばかしいから死を思いとどまろう」と思って書いたことは、トランス女性の死を冒とくしたものとして、わたしに対する攻撃を許すものとして、おもちゃにされてもてあそばれた。わたしがトランス女性を差別したのだと。だから、こいつには何を言ってもいいという、そういう許可証、証明書のように扱われた。

わたしが、今ある生にしがみつく努力でさえ、自分たちの主張を通すための道具として扱われた。

彼らは人(わたし)が死ぬのはどうでもいいんだろう。

わたしはそう思った、だけど、そう書けば、逆のように読み取られて「こいつは、人の死が、どうでもいいと書いた」と読むだろうと思った。彼らは、わたしが死んだら、一分はお通夜のようになって、そして、そのあと、その死はでたらめだ、フェイクだと言って、わたしの死を、不謹慎だと言って笑うだろう。

それがよくわかったので、わたしは死にはしないけれど。トランス女性は女性ですと言った人たちのどれだけが、トランス女性かつ貧しく、社会的、身体的、精神的に弱い人をどれだけ気遣っただろう?

わたしの頭の中にはずっとあった、トランス女性や、そう、とくに、トランス男性のことが。

わたしたちは、ちゃんと、考えているだろうか?性別の定義が変わった世の中がどうなるのか。

わたしは、自分の女性性を拒否した時代がある。でも、男にはわたしが女だとちゃんとわかって、そして、わたしに暴行を加えた。

今、女たちは、自分の身体が、もたらす性別が、その性別を保証しないと言われて、じゃあ、自分の性別が何か必死で探している。

しかし、男にはたやすくわかるのである。誰が女で誰が男なのか。

それは、男が、決定する性別だからである。

女は、自分の性別を決定する力さえ、もはや奪われた。女とは、なにかを問うことさえ、差別的言動なのだと、そういわれるのだ。

女は、もう、女とは何かを問うことさえ許されず、男から与えられた「女」を粛々と受け入れることのみを、要求されており、そうでなければネットリンチの対象になる。

ついに、女は、押し付けられた性別を、自分の性別だと名乗ることさえ奪われた。

女が、自分の性別が、すでに頼りないものだと知って悩み苦しんでいる間にも、男たちは、「お前は女だ」「あなたは女だ」「しかし、これは正しい女ではない」と言って、与えたり奪ったりして、性別の定義を、もてあそんでいる。これがミソジニーでなくて、なんなのだろう。

わたしは、しばらくの間、性別を定義しているものを探した。哲学書や、社会学、そういったものを探して、しかし、女は、男の否定としての定義でしか、定義を与えられていなかった。

そうだ!そうなのだ。男は女を、女という言葉は、入れ物に過ぎない。定義なんてそもそもしていない。する必要がないのだ。自分たちと、違うものを、全部女という入れ物に押し込んでいるだけなのだ。

だから、女が女という呼称を、自発的に名乗ることを、男は許さない。

男が、女と呼ぶこと、それだけしか認めない。

女は、女を女と呼ぶことを許されていない。女には、「誰を女と呼んでいいのか」を許されてもいないし、悩むことも許されていない。

ああ!誰が許すとか許さないとか、最初に決めたんだろう。そうなのだ、その誰、を問うことも禁じられている。あえて言えば、見えない場所に引っ込んでいる男たちが、女が誰を女と呼んでいいかも、女という言葉も奪い去るのだ。

「誰がお前に、女を規定することを許した?」

だから、生得的女性、生まれつきの女性、女体持ち、そういう言葉を、すべて、差別だと口封じされる。これらは、女自らの名乗りや区別だから、それらは、そう、区別をするのは男の役割だから、男たちは、絶対に、女に、自分たちを区別することを許さない。女が誰を女とするか、それを探ることを許さない。

わたしに降り注ぐ、圧倒的な量の罵詈雑言、これは、精神疾患を持つ、希死念慮を持つ、性暴力サバイバーにはとうてい耐えられる量ではなかった。これらの人たち、男尊左翼たちの行為は、ネットモブというのだと知った。わたしは、他人を、基本的には罵らない。ネットモブ行為を、自分で認識する限りは(こういう但し書きも、誠実に書くが故に書いてきたが、これも茶化される対象である、不誠実ととられる)してこなかったけれど、彼ら彼女らは、ためらいもなくする。よく読むこともなく。

わたしが良く書けていないからかもしれないが、読めている人もいるのである、であるならば、読めていない人たちは、意味を理解しようとして読むのではなく、攻撃するための種を探そうとして読んでいるのだろう。それは、とてもむなしい。

女には、もう、女が何かわからない。女が、女の体を持っていたから、受けてきたあらゆる痛みは、もはや、女の被害妄想に還元され、解体され、わたしたちは、語るべき言葉としての、抵抗としての、「女」ということばをうばわれた。

ペニスを持つ女もいます、これの意味するところは、女が、ペニスを持たないがゆえに、受けてきた差別暴力を、無効化するのだ。もう、ペニスがないから受けてきた差別を語ることができなくなった。

こうかくと、「こいつはどうしてペニスにこんなにこだわるのだろう?」と言われることも予期できる。「女はどうして女湯と女子トイレにこだわるの?」と言われたように。

わたしは、ペニスなんてどうでもいい。だが、わたしは、ペニスがないから、女にされたのだ。これははっきりしている。最初に、生まれる前に、ペニスが見えなかった。だから、女という分類になった。ペニスがないことを気付いた男には、わたしにある穴が見え、そして、彼らはわたしを傷つける。彼らにとってペニスはどうでもよくない。わたしにはどうでもいい。だからこそ、暴力が生じる。

しかし、もう、わたしは、女という言葉を奪われてしまった。

女とは、ペニスがある場合もあり、ない場合もある。生まれつき男かもしれないし、けれど、生まれつきの女はいない、だから、女が「誰が女」を決めることは許されない。これが女嫌いでなくて何だろう?女に「女」という言葉を使わせないこと自体が。

女には、誰が女か、もう、わからない。これが現実だ。

しかし、今でさえ、男には、誰が女かわかるのである。誰が決めるのか。それは男である。決めることを許されないのか。はっきりしている。

それが彼らの力である。

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女には何が女かわからないが男にはわかる」への3件のフィードバック

  1. ペニスのついてる女性もいる。と言われてしまうと、何を見て性別を判断すれば良いのか、どう自衛をすれば良いか分からなくなる。女湯も女子トイレも私はもう利用しないと思います。自分を守る為に仕方ないです。

    1. ですね。
      誰が女か、自分が決められないというのはつらいです。
      自分が自分を女だって決めたらだめってことですもんね。ペニスがある女性もいますってのは、つまり。
      もう、わたしの性別は女性じゃなくて生贄なんじゃないかと思います。
      わたしも、女子トイレにも、女湯にも行かなくなりました。行けたらいいんですけどね。しかたがない。

  2. 先日はコメレスありがとうございました。

    大変お辛いかと思いますが、c71さんの味方は存在しています。
    また爽やかな朝を迎えることができますよう、祈っております。

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