男じゃないもの、女

男か女かを決めるのは、社会である。

セックス(性別)が女だから、女は差別されている。セックスを判断するのは、男性器があるかないか。それに従って戸籍が作られて法的にも性別が決まる。女が女になるのは、医師の診断のもとに、出生届を出した時である。性器を基準として、女は女になる。

わたしは自分のことを女だというし、そして、女性差別に反対する。女である以上、フェミニストであることはやめられない。不公正を正したいと願ったので、わたしは、半ば自動的にフェミニストになった。不正に疑問を持てば、それは、社会の予定調和への反逆である。それは選ぶことができない。やめることもできない。わたしにとって、生きるとは、疑問を持つということだから。

セックスを理由に、差別を受けているのだから、セックスが違う人を、同じ女性差別を受けている人という風には認められない。

というのも、押し付けられた定義だとしても、その定義と戦うためには、その定義をあいまいにしてしまえば、戦う根拠を失ってしまうからだ。

セックスには、実用的な意味もある。女性がかかりやすい病気や、女性にしかない内臓があるから、病院に行った時には、性別は重要だ。薬による影響も違う。

だから、トランスジェンダーについては、ジェンダーをトランスしているんだって理解をするのが一番いいと思う。ジェンダーの問題。

セックスで分けるときには、女は女だし、男は男だ。

インターセックスもいるから、性別もグラデーションとはいえど、差別込みで社会が出来上がっていて、今も、差別込みで運営されている以上、男と女をくっきりわけるのは仕方ない。今のところ。

差別のある世の中で女性は生きているから、女性が迫害されている事実を認めたうえで、現実に対応するしかない。

たいていのトランスジェンダーの人は、工夫して、苦労して、生活の中で、彼らの存在を気付かせないようにしている。社会が混乱しないように気遣っているトランスジェンダーの人がほとんどだと思う。だから、わたしは、意識しないで暮らせているのだ。わたしには負担がなく、トランスジェンダーの人には負担がある。負担の面で非対称性があることは問題だ。

トランスジェンダーの人は、トイレで苦労しているという。きっと、多目的トイレを使ったり、人を脅かさない形で、トイレを使っているんだろうと思う。わたしは、今まで、トイレで、トランス女性がいたと気が付いたことがない。つまり、それだけ、彼女たちは気を使ってくれているということだ。

トイレの問題で、外出が苦手になった人もいると聞いた。中でも、トランス男性は、本当に厳しいと思う。男子トイレは、男のあかしである、男性器を相互監視しているかのような仕組みだから。

その一方で、女というものの定義が、ぐちゃぐちゃになると、女性差別について戦えない、という問題もある。ジェンダーの問題を、そのままセックスの定義には持ち込ませるべきじゃないと思う。ジェンダーじゃなく、セックスで分けるべき場合がある。

性の自認は可変なのに、可変だとだめだ、とか、また、他人が、オペをしろとか、ホルモン治療をしろ、とか、パス度をあげろというべきじゃないと思う。

それは、暴力だからだ。自分の思っている性と食い違った生活をしていると、それは、死に至るストレスになる。自分の自認してる性と、体が食い違っていると、苦痛があるから、体を変えていく、という工夫は、本人の決断だけですべきだ。なぜなら、オペを含む人工的な体の変化に伴う苦痛は、本人しか負えないからだ。体の一部を切り取って再建すること、ホルモンで体を変えることは大変な苦痛だろう。永続的な苦痛だ。

上で書いたことと矛盾するようだが、女性差別の射程距離は、mtfもftmも含む。女性差別の本質は「男じゃないもの」を排除したことで起きるからだ。完ぺきな男こそが本来の人間であり、そのほかは不完全な男、つまり、「人間未満」だと扱うのが、女性差別の本質だからだ。その判別は、「男」が行う。男が気まぐれに決めた基準で決まるから、女を定義することも容易ではない。

ただ、ややこしいのが、押し付けられた「女(=人間未満という評価)」も、差別の中で、はぐくんできた文化や価値観があるということ。女たちが押し付けられたものを、押し付けられただけじゃなくて、その中から喜びを見出して、育てたものがあるということなんだ。

その文化は、もちろん、差別と融合しているから、差別を助長することもある。だけど、それを手放すことって、アイデンティティを捨てることでも同義である。

女として生まれ、女として育てられ、その過程で喜びとともに育んできた世界がある。もちろん、悲しみとともに手放したり、機会を損失したこともある。それは、女の形を持っていたから経験したことだ。

その経験や苦しみ、歴史は、たぶん、トランスジェンダーの人とは、重ならないんだと思う。もちろん、重ならなくても、想像して、元から女性として生まれ育った人の痛みを想像して思いやる人だって多いんだと思う。けど、「女が嫌なら女をやめて男になればいい」と言ったmtfもいたし、高専に通えたmtfは、高専を受験すらできない女性がいたり、教育機会を損失した女性がいたりすることが想像できなかったりした、のをツイッターで見てしまった。それが印象に残って、ほかの静かなトランスジェンダーが目に入らなくなっているので、やっぱり共闘するのは難しいのかなと思った。

性別は可変、性自認も可変。だから、「女性差別されるのがいやなら、女性をやめればいい」という人もいる。女らしい行動をやめる、女らしい見た目をやめればいい、とか、逆に、ミソジニー女性として生きて行って長いものに巻かれたら楽だ、みたいなニュアンスのことを言われたことがある。トランスジェンダーの人が言った、とかじゃなくて、男も女もそういう風に言う人がいるってこと。

性別について、他人が何か言うってことは、それは、遠藤周作の「沈黙」で隠れキリシタンや宣教師に「信仰をやめろ」っていうのと同じだと思う。生活や、人生や、アイデンティティだから、捨てたら死ぬのと同じくらい苦しい。

隠れキリシタン同士で、育てた信頼や文化や生活様式みたいなものがあって、それって捨てられない。幕府じゃなく、逆に、正しいキリスト教を知っている宣教師に「それは間違ったキリスト教だ」と言われても、もう変えられない。お前の信仰は、他人に迷惑をかける、人を苦しめるからやめろ、って言われても変えられないのと同じで、お前が女だから、フェミニストだから、トランスジェンダーだから、それをやめればいいと言われても変えられない。

わたしは、ツイッターでいろいろな人の意見を読んで、「セックスを基準に考えるべき場面」「ジェンダーを基準に考える場面」「個人を尊重する場面」とそれぞれ分けるべきなんだと思った。

セックスで、男と女とをわけないといけない場面はある。それは、今も現在進行形で女性差別があるから。女性差別が全くなかったら、社会的な場面で、男と女とを分けなくてもよくなるか、個人レベルでパーソナルスペースを常に確保する世の中になれば、男や女かを医療以外の場面で考えなくてよくなるかもしれない。でも、今はそうじゃない。生物学的に女か男かを分けることは難しいけど、医療の場面で必要に応じて女だから(男だから)かかりやすい病気がある以上、分けないといけない。

女という定義を探っていくうちに、女というものの輪郭は解けていってしまう。でも、「女」という言葉は必要だ。

社会が、「これは男じゃない」と言って、男の集団から排除していったとき、排除された側が、自分たちを表す言葉を持たなければ戦えない。また、男じゃないと排除された側の集団に、「男」がそれを混乱させるために、入り込んで、「女」をうやむやにすることも許してはならない。

「女みたいなやつ」「男じゃない」「こいつは男だ」という表現を、随時使って、「男じゃないもの」を見分けることを、男の集団は常にしている。

ジェンダーロールの再生産は、避けないといけない。

しかし、その一方で、「女の文化」が女を癒し、自信を育て、自分たちの人生を彩り形成したことも事実だ。手仕事、ファッション、化粧、家事、装飾、華道、茶道、歌、民謡、音楽、子育て。そういったものが、押し付けられたものだとしても、それを通して、女たちは、自分の人生を生き、自信を得て、世界を広げてきた。苦しみながら。

女の文化が、女への差別を助長し、差別者を利するものだとしても、女の文化への敬意なしでは、女性差別に対抗する意味がない。

わたしの戦いは、女が幸せに、自分の求める人生を生きるためのものだ。女が女の形をしているがゆえに、奪われているものを取り戻す戦いだ。

それは、男を脅かし、男に不利益を与える。そうでなくては意味がない。男が不当に得ているものを、正当に取り戻すのだから。

男でない、とみなされた人々が、新たに、自分たちの集団へ名前を付けたとき、それ自体が抵抗になるだろう。押し付けられたものを、自分のものにした時、初めて、本当に生きるということができる。

誰が女なのか、という定義は、まだ、完成していない。誰が女なのか、ということが伸び縮みして、あいまいになる。あいまいになることを避けなくては、戦うことができない。同時に、定義がなされない今も、この瞬間も、闘わなくてはならない。正解はない。もともとが、押し付けられた「男ではないもの」という定義だから。

だから、闘いに、それぞれが一人一人名前を付けるべきなのだ。同じ前提を共有できないわたしたちは、共闘することができない。

だから、わたしたちは、手を取り合うことなく、同じ敵に向かって、戦い続けるべきなのだ。血がにじむ道をたどりながら、その過程で、少しでも平穏で、幸福な、健康で素晴らしい時間を得るために。

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