魔女と呪いとスピリチュアル

女性への抑圧や差別を、「女性への呪い」という言い方をする場面がある。

わたしは、女性への呪いという言葉を使わない。それは、差別であり、抑圧であることがほとんどなので、わたしは、「差別」「抑圧」という。

女性に行われているのは、ぼんやりとした悪意の発露ではなく、はっきりとした明確な悪意と害意の発露だと思っているからだ。

そもそも、「呪い」の罪は、女に背負わされてきた。魔女狩りで女性を拷問し虐殺した。それは、魔女と言われた人々が、つまり女性が、医療や、出産、そのほか「まじない」をしてきたからだ。

命にかかわる仕事をしていただけで、疑われただけで、女は殺された。

女は命を産む。そのこと自体が、男から、憎悪の対象とされた。だから、女は不浄なものだから、表には出さない、魔女は殺す。女は汚れていると男たちは規定した。

まじないを悪いものだとしたのは男の論理だ。だから、その価値観に従って、「女への呪い」という言葉を使うのは、間違っていると思う。

「それは女性への呪いだから」という言い回しを不適切だとは思わない。わかりやすく、言いやすいから使う人も多い。

だけど、使いやすさそのものが曲者だ。「差別」「害」「加害」「抑圧」を柔らかく「呪い」ということで、男性に対して、いやな気持にさせないための配慮が行き届きすぎていると思う。

男は、「まじない」をしない性だときっと自認しているから、呪いをかける主体だなんて思わないだろう。だから、女性への呪い、といったとき、呪いをかけている主体はぼやけてしまう。ぼやけて自分のこととして受け取る男はきっといない。

今でも、「魔女的」な女性たちはいて、子宮信仰をする人、スピリチュアルにはまる人、ワクチンに疑念を持つ人たちは、医師を中心に、バカにされている。

医師たちは、ホモソーシャル的な価値観を内面化しているから、それは、男たちの攻撃と言って差し支えないだろう。

わたしの感じている現代の「魔女的なもの」は、身体や、感情、感覚を尊重し、自分を癒すことだと思う。率直に言って、受け付けない種類のスピリチュアルもあるが、わたしは、女性たちの動きを尊重したい。

女性たちの体や心に対する不安は、長い間公的にないがしろにされてきた。ないがしろというよりも、「ないもの」として扱われてきた。

わたし自身、医師に、「考えすぎ」「日頃の行いが悪い」「言われたとおりにしないから駄目なんだ」「そんなこと言われても困る」と逆上されたことが何度もある。だから、今は、元気なときに医者を探して、自己防衛しているくらいだ。

反ワクチンについては、根底に、医療不信、そして孤独があると思う。

母親は、孤立して、責任を全部背負わされる。その時にできた仲間が、反ワクチンだったら、孤独と医療不信が癒されるのだろうかと感じている。

子に、ワクチンを打ったとき、副作用で高熱が出て、親子ともに苦しい思いをした。申し訳ないとさえ思った。それでもわたしはワクチンを打つけれど、副作用ぐらいでと言われたら、心を引き裂かれるよう感じるだろう。

わたしが、スピリチュアルに強くかかわったのは、いろいろな理由があって、一言には言えないが、それを通して、人生の苦しみを分かち合いたいという思いだった。人生の苦しみには様々なバリエーションがある。経済的な困難、伴侶との行き違い、無理解、身体的な苦痛、母と娘とのわだかまり。そうしたものを、話せる場が、一番すぐにつながるのはスピリチュアルなのだった。

スピリチュアルで嫌な思いをしたこともある。研修と称して、200万円のローンを組まされそうになって、危うく逃げたこと、マルチへの勧誘、ヨガ教室で、皮膚の疾患と心の問題を結びつけたうえで、それを解決してあげると言われたときに感じた無遠慮な視線。金づるとしてしか見られていないと思って、ヨガは好きなのに辞めざるを得なかったこと。

医者は、病は見ても、人を見ない、という人が多く、例えばわたしは皮膚の疾患と、精神疾患が結びついていて、切っても離せないものなのに、皮膚しか見ないで精神面は無視するという医師にはずいぶん傷つけられた。ストレスで皮膚状態が悪化するなんて誰もが経験することだろうに。

それで、中国で漢方の考え方を学びに行った医師のもとに行った。気功も教える人で、カリスマ的な医師だった。わたしは、死んでしまいたいよう症状があって、追い詰められていたので、この人が誤診をして、その結果どうなろうとも納得できるような、尊敬する意思を求めていた。わたしには医師の腕の良しあしが分からないから、何があっても信頼できるということが最も大事だった。たとえ誤診の結果死んでも、それでいい、ありがとうと言える医者に診てほしかった。それには、その医師の人柄が最最優先、最重要だった。

女性の病気は「不定愁訴」「自律神経」「精神的な問題」とされて、病気だと診断されないものが多い。本当は、しっかり研究したら、原因も特定できるものも多そうだが、医師は、男性が多いので、女性の体を自分事とは思えず、研究が進まないのだと思う。

不定愁訴、自律神経失調、精神的な問題、と言われた人々は、苦しみを抑える薬さえもらえないことも多く、体調を崩した結果、経済的にも、人間関係的にも、孤立してしまう。そうしたとき、スピリチュアルは、心の支えになるのだ。

それは、バカにされるようなことではない。女性たちは、自分たちのコミュニティを作ろうとしても、いろいろな方法で邪魔されてきた。

スピリチュアルなこと、魔女的な行為は、女性が生きるために、必要なことだった。心身の不調に向き合ってくれる人、それについて話し合える場、共感する相手、そういったものは、魔女的なものと真逆な、資本主義的な世界では、放逐されてきた。資本主義社会では、女性は、安い賃金で働くだけの存在で、自分たちが主体的にふるまえるルールではなかった。スピリチュアルの世界では、精神や心の状態を重んじる。それは、アンチ資本主義と言える。資本主義的な社会で、不合理で、非科学的で、体に害を与えることは往々にして起きている。例えば、違法に働かせる企業で、精神的に追い詰めるようなことや、健康と時間を搾取するということはよくある。それだって、十分理解不能なのに、スピリチュアルの世界で、外から見て理解不能なまじないや、高額な金銭を納めるセミナーがあると聞けば、非情な非難を向ける。そこには、非対称性がある。

スピリチュアルのセミナーに高額なお金を納めることよりも、ブラック企業が、労働基準法という労働者を守るための法律を無視して、労働者の健康や尊厳を損なうことのほうがずっと悪だと思う。だけど、ブラック企業には、擁護すらつく場合がある。

それなのに、社会的非難の量の非対称性があるのは、スピリチュアルの世界が、女性的な世界、つまり魔女に属する世界であることと無縁ではないだろう。

「まじない」というのは、「悪」ではない。「まじない」のひとつに「いたいのいたいのとんでいけ」というものがある。それは、本当に痛みを取り去る。そういう経験をした人は多いだろう。懐かしく、幸せな記憶として持っている人は多いだろう。それもスピリチュアルなのだ。スピリチュアルに、そのような気持ちを持っている人はいるのだ。暖かく、懐かしく、優しいものとして。

スピリチュアルの世界も、まじないも、偽りではない。

だから、呪いのなかには、のろいだけじゃなく、まじないがあることも踏まえると、女性差別を、女性への呪いと言い換えることは、わたしはしないでおこうと思う。

スピリチュアルを悪いものだとする考えと、女性蔑視がつながっているのに、男性が主体的に差別を行っていること、その主体性を覆い隠す言葉として、「女性への呪い」が機能していると思うからだ。

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