難しくないフェミニズム

難しい言葉を知らないと、アクセスできない思想がある。

難しい言葉たちから、女は排除されてきたから、学問としてのフェミニズムにも、女たちはアクセスできない。女性差別と闘うための武器を手に入れることもできない。難しい言葉は、概念をやり取りするための通貨だけれど、女は難しい言葉という通貨を与えられていない。

女性差別は、制度設計されて、運用されている。政治で言えば、立法府からも行政からも女性は排除されている。そして、予算も、女性の利益を反映されずに建てられる。だから、日本に生きている限り、女性差別という大きな枠から逃れることができない。

女性差別を現実にするために、例えば、法律は整備されている。女性差別的な思考をみんなが共有しているので、女性差別込みでの制度設計を運用することもできる。運用によって、女性差別的な思考をさらに強めることもするし、運用の成果によって、また、制度設計に女性差別を持ち込むようにフィードバックもされている。

政治でも、法律でも、経済でも、すべての場面で女性差別は組み込まれているから、あらゆる場面で女性差別を感じるのが本当は正常だ。

でも、わたしたちは飼いならされていて、マヒしているから、女性差別に気付くことができない。

それらに対抗したいと、難しい本を読んで、たとえばフェミニズムの理論を学びたいと思っていても、それらは散らばっていて、とても手が伸ばせない。意見がそれぞれ違うから、かえって混乱してしまうことだってある。本を読むにも、手掛かりがなければ、どれがフェミニズムの本なのかわからないし、用語がわからなければ、論旨をつかむこともできない。努力では埋められないハンデがあるのだ。

難しい言葉は、まるで通貨のように、概念をやりとりするのにとっても便利な存在だ。

とても複雑で込み入った概念を、たった一言でぴたりと表して、相手もそれを飲み込んでくれる。

でも、その通貨を持たない人には、その通貨で買えるはずのものが手に入らない。その通貨、わたしもほしい、と思っても、元手がなければ、市場に参加することもできない。元手がないから通貨を稼げない。最初から、市場から除外されていて、参加資格がない。

学問や教育の世界から、女性は除外されていたから、上位層の女性は、学問という通貨と考えるための元手をなんとか手にすることができたけれど、そうじゃない女性は、徒手空拳もまま。それなのに、「本を読めばいい」と言われる。無理なのに。わたし自身、「難しい言葉の飛び交う世界」に入っていけなければ、女性差別と闘えないと信じ込まされてきた。
だけど、それは、思い込まされてきただけだ。難しい言葉という通貨を持たなくても、女性差別を感じて、それに反対することはできる。

男の世界は、うわべは、理論武装された世界で、女の言葉は、感情的だと言われてきたから、だから、女は同じ言葉を獲得するために四苦八苦してきた。それが、女性差別と闘う道だと信じた人たちは、勉強をして、学問の世界に入った。

そして、いざ、男の土壌で勝負しようとしたら、男の価値観に同化するしかなくなってしまった。男の世界は、表面上公平な規則で運用されているように見えても、実際は、そうじゃない。同じような見た目で、同じような声で、同じようなふるまいをしない人間については、そのルールは適用されなかった。

だったら、スタートが間違っていたのだ。

女性差別を訴えるために、男のいるステージに行くことは必須ではなかった。

男を、女のいる場所に来させないといけなかった。

わたしたちの見ること、感じることを、見て、感じさせないといけなかった。

でも、彼らは来なかった。説明しても理解したがらなかった。

なぜなら、女性差別によって、彼らは利益を得ていたから。なぜなら、いくら説明されても、知らない、わからない、わかるように説明しないほうが悪いと言いさえすれば、彼らはわからないままでいられる。差別をわからないままでいられたら、支配を続けられる。

お前が何を言っているのか、わからない、被害妄想だと言いさえすれば、彼らはその利益を守れて、差別をないと言い張れた。だから、彼らは無知を武器にして、さらに女性を虐待した。

彼らは、どれだけ自分たちが得をしていたか、はっきり知っていて、それでいて、それを「わからない」ことにしていた。そうしたら、罪悪感を持たずに、自信満々でいられたから、自分たちの持つ女性への害意を理解しないでいることも、差別のうちだったのだ。女性差別をしたら、いい思いができる。女性を洗脳して、虐待されることが当たり前なのだと思い込ませていたら、女を支配するのにこんなに楽なことはないのだ。

難しい言葉という通貨を持たないから引け目に思う必要はない。それは、男たちが意図したことだったので、わたしたちが難しい言葉から疎外されていたのは当然だった。わたしたちに、難しい言葉という通貨を持たせなければ、わたしたちは反乱を起こせないだろうと、彼らは、意識の上に登らせることもしないくらい、当たり前にそうしてきた。

「女には教育はいらない」「女の子だから、そこまで頑張らなくても」「手に職就けるのが一番大切」と良かれと思って、女が生き延びるためのアドバイスとして、そういわれてきた。

難しい言葉という通貨を持っていないことを恥じる理由は何もない。難しい言葉を知っていることで恥じる理由もない。

女を、持つもの持たざるものと分断したのは、女ではない。恥ずべきなのは、分断して、ある者には与え、ある者には与えないでいた側だ。

わたしたちは、体や心で、苦しいと思うそれが女性差別の結果だ。

睡眠時間が取れなくてしんどい、眠りたい、疲れた、苦しい、痛くても女なら耐えられると言われること、女だから痛み止めはいらないだろうと言われること、それはどうしてなのか、という問いが、すべての始まりだ。問いがなければ、それについて考えることもできない。

わたしは、出産時、帝王切開をしたのに、痛み止めをもらえなかった。

出産をしたんだから当たり前、ほかの人は耐えているんだからというのが理由だった。

出産をするのは女性だけだ。出産をしたんだから痛い思いをして当たり前と言われるのは、男性は知らないでいられる。男性は産まないからだ。出産をするのは全員女性だから、出産時の痛み止めはいらない、というのは、女性だけに向けられた加害だ。

女性は、痛くても当たり前だから、痛み止めをもらえない。女性ならば、痛みに鈍感だから、痛み止めはいらない、なんて、動物よりも劣った扱いだ。わたしの「痛い」という言葉は、受け止められない。それは、人間として扱われていないということだ。

出産の痛みは、男なら耐えられなくて死ぬ、というなら、女だって耐えられない。男と女で痛みの感じ方が違う、と、黒人は鞭打っても鈍感だから平気だが、白人ならば死んでしまう、というのと、まったく同じだ。つまり今でも、奴隷制は、この日本で行われているのだ。”女は痛みに鈍い””痛みに鈍い女”として生きるというのは、衣食住を与えられていたら、満足していろと言われて、それ以上の幸せを求めること自体を禁じられているのは、日本で、女性として生きることは、奴隷として生きるのと同じなのだ。人間扱いされていないのだから。

医療において、女性だけにある臓器の治療の進歩が遅いのは、医学の担い手のほとんどが、男だから、関心を持たないことに起因する。

そして、医学の担い手は、有意に、男を選別した結果、男ばかりになっている。男が男の医師を選び、女を排除する。そして、治療からも女は排除される。

日常にあるすべての事象で、当たり前だと思っていることがあれば、常識を当たり前にしているのが誰で、誰にとってそれが利益になることなのか、問うこと、それがすべての始まりなんだと思う。

学問としてのフェミニズムは、入り組んで難しい。どの立場から見れば正しいか、正しくないか、間違っているかは、万華鏡のように入れ替わってしまう。

わたしたちは一人一人異なった立場と境遇にいるから、何が正しいのかは、その境遇によって見え方が違う。きらきらと幻惑されて、差別ではないのだと思いたくなってしまう。自分は差別されるような人間じゃない、大切にされた人間だと思いたいから、差別なんてないと言いたくなってしまう。それは本当に泣きたくなるような、幻想で、夢だから、美しくて、手を伸ばしたくなるような嘘だから、自分も騙されたくなる。「自分は恵まれていて、うまくいっていて、何の不満もない。不満を持っている人は、自業自得で、不幸なんだろう」と思えば、優越感を持て、人よりもましだと思える。だから、自分は差別されてないと信じたくなる。それはよくわかる。

男に合わせることで、適応するのが「賢い」と教えられてきて、実際に、それでうまくいっていればなおさらそうだろう。それを間違っていると言われるのは、人生をまるごと否定されたのと同じに感じるだろう。
だけど、それは、自分をマヒさせているだけだ。

生きていれば、苦しいこと、悲しいこと、悔しいこと、みじめなことがあるはずだ。その多くが起きた理由は、女の体や、女として見られる姿を持っていたからだ。人生の初めから、少しずつ圧力をかけられて、生きる気力をそがれたために、選択肢を失い、怖い思いをし、追い込まれてきたのだ。努力が足りてないからだ、と思い込まされてきたのは、まさに、その「見た目」のためだ。見た目が女だからだ。

つまり、苦しみが女性に偏っているのは、「表象」が呼び出した差別なんだってことを、心のどこかにおいてほしい。

誰に言うことはなくても、「これはおかしい」と思うこと、その芽がすべての女の心に芽吹いた時、フェミニズムは、大きな渦になるんじゃないか。

難しい言葉を得ようとしても、排除されてきた女、無力な立場においやられて、それを自業自得と言われてきて、それを飲み込むしかない状況にいた女たちが、難しい言葉なしでも、立ち向かう道が、わたしにはまだ見えないけれど、しかし、心に灯る炎が、女性差別という闇を照らすことを願ってやまない。

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