幸福の追求とフェミニズム

わたしは、本物のフェミニストかというと、自分ではそうだと思っているし、そういうけれど、他人から見たらどうかと言えば、フェミニストなんかじゃないという人もいるだろうし、このフェミがとののしられることもあるだろうと思っている。

今回の話は、ツイッターの「ラディフェミはいいぞ」さんのツイートを読んで思ったことを書きます。批判的な内容を含みますが、ラディフェミはいいぞさんを批判することだけが主目的ではありません。

フェミニズムと、わたしのような、名もなき生活者が、いかにかかわっていくべきかを考えたいと思います。わたしは、専門にフェミニズムを学んだ人間ではありません。

ラディフェミはいいぞさんが「死ね」と言われて、フェミニズムを一生懸命勉強したというエピソードが印象に残りました。また、家父長制を助長する、補強するすべての行動をするべきじゃない、という主張をしているように読みました。

わたしの立場と言えば、戦後のフェミニズムを含めた左派運動の問題は、自己批判をさせて、実際に殺したという点に尽きると思います。

また、理論を優先させて、その人の幸福追求や、行動を批判し、自己批判させ、総括したことにも問題があると思っています。

過程として幸福の追求を邪魔すること、命の危機に陥らせること、それは「死ね」と人に言うことも含みますが、それらは、正義ではなく、悪です。

それは、人権の否定です。

わたしたちは、時代の子供なので、普通に生活しようとしたら、その時代の規範の枠組みの中で生きるしかなく、それを否定するなら死ぬしかありません。

フェミニズムで言えば、あらゆる場面で女性差別はあるので、何をしても、女性差別的な行動と言えなくもありません。

たとえば、水道から水を飲むという行為一つとっても、水を飲んだだけでも、水道局という家父長制を基にした政府の運営している組織に加担したといえるでしょう。しかし、人は水を飲みます。衣食住を満たすだけでも、人を虐げないことは不可能です。安い服を買えば、搾取されている人を苦しめる行為に加担します。しかし、人は服を着なくてはなりません。そして、安い服を買うしかない場面があります。野菜を買うにしても、その野菜を作る農家や農協で、虐げられている女性が、奴隷のように労働させられている場合はあります。しかし、人は食べなくてなりません。

時代の要請する価値観の枠組みから自由ではいられません。多少、先進的、先進的ではないという違いはあったとしても、どれだけ偉大な人であっても、時代の子という宿命から逃れられません。無理に逃れようとすれば、死にます。

死ねと言われて考え勉強した、というのは、わたしは虐待されて、ショックから適応したように思えます。そうでないとしても、そのエピソードを肯定的に開陳して、同じような行動を求めることは正しいことではありません。

公序良俗に反しない限り、人は幸福を求めるべきです。その「公序良俗」自体も、男性社会が設定したものであり、幸福追求権自体も男性的な枠組みで考えられた正義であることを加味したとしても、これは悪い思想ではありません。

ある思想を理解していない人に死ね、というのは、優生思想を持ち出すまでもなく、「劣った人に対して生死を支配することが可能」という価値観自体が悪いものです。それを合意の下で受け入れた人がいたとしても、そういうエピソードを肯定的に表し、それに続くように誘うことは悪いことです。

差別問題に抵抗するすべてが、人権という概念を前提としている以上これは言うまでもないことです。

わたしの場合をいえば、男性パートナーがいます。男性パートナーがいること自体、家父長制の助長と言われても仕方がないことです。しかし、日本で生きるとき、パートナーの有無は、あらゆる場面で影響します。女性は賃金面で差別されているので、1人では生きにくいです。低賃金で働きながら、一人で暮らし、抵抗運動をすることと、一人で暮らすことをあきらめ(もしくは、積極的にパートナーを求め)、人と暮らすことを選択しながら抵抗運動をすることを比べるとします。それは、前提の低賃金が悪いわけですから、後者がより悪いと、批判されうることは肯定できますが、それ以上ではありません。資本主義に加担している以上、前者も批判され得ます。

わたしの場合は、家父長制を助長することは避けたいと思い、男性パートナーがいても、籍を入れていません。しかし、子が産まれました。わたしが死んだとき、パートナーは子の手術の同意書を書くことができません。なので、わたしは、思想を曲げるかもしれません。しかし、このことは、人の命を考えるうえで、必要なことです。思想か死かを選ぶとき、しかもそれが他者の命であればなおさら、わたしは生や生活を選択します。

フェミニズムの勉強が足りない、というとき、それは、生活者としての女性を脅かします。

たとえばある人が、「勉強をできたのはフェミニズムのおかげだから、フェミニズムのために身をささげる」ことは肯定できますが、それを勉強できない、できなかった女性に責めるような言葉の矛先を向けたとき、それは、どういう結果を招くかを考えたいと思います。

勉強をできない現実があり、それを女性自身の努力によって補うことを求めることが発生したとき、それは、女性の現実と思想の衝突を招き、その女性は苦しい思いをします。自分を責めるでしょう。

たとえ話をします。仏陀のように現世と違う思想を持つとき、そこに実行可能な実践方法を提示しなければ、人は死に、思想を実践しながら生きることを不可能にします。ある種の特別な人が実践できる思想では、一部の人が救われ、ほとんどの人が不幸になります。仏陀は、実践可能な出家という方法を用意し、現世で生きる人に間違っているから死ねとは言いませんでした。1人の先導者がいるかどうか、宗教と思想という違いはあるにせよ、彼が実践できる方法を用意したこと、間違っているから死ねと言わない方法は参考になります。


仏陀の影響で、今では、ほとんどの人が、お金よりも大事なものがあるという知識を持っています。お金が一番大事だという価値観を持っている人でも、お金よりも大事なものがあるという知識を持っているでしょう。それは、大きな功績です。もし、お金が何よりも大事な人が、お金を失ったとき、お金よりも大事なものがあるという知識が、その人を死から救ってくれるかもしれません。

今、女性差別はよくないことだという知識をたいていの人が持っています。その女性差別が何に当たるか、というところで、議論が起きている状態です。これは、かなりの前進です。少し前までは、女性と男性と差をつけるのは、全く問題がないことであり、むしろ女性のためになる良いことだと考えている人のほうが多かったのですから。

一部の人がとがった考え方を持ち、それを実践するために動いていて、それが達成されるか否かは、その一部以外の人がどういう考えを持っているかによります。わたしのような日和見フェミニスト、いわゆる「ゆるいフェミニスト」の数が多ければ多いほど、フェミニズム的な価値観が浸透しやすいわけです。

たとえば、わたしは人と話すとき、フェミニズム的な価値観で発言します。それを聞いた時、それに共感する人がいれば、そこで「ゆるい連帯」が起きます。孤独ではなくなります。虐待、不公正が起きたとき、話し合う相手がいて、現実をより生きやすいものにするために助け合うことができます。自分の考え方がおかしいのかと悩んでいる人がいれば、おかしくないと言い合うことができます。それは意味のあることです。そうして、一人二人と輪が広がることは、非情に地味ですし、一見なんの効果もないように思いますが、人の人生は長くて100年ほどです。その一人の100年の時間を、どう使っていくかは大切なことです。

1人の人間が、幸福を追求しつつ、世の中をよりよくし、未来の人のために道を開いていく。幸福と、フェミニズムを両立しようとすること。その過程で、必ずしも「正しくない」ことは、誰しもするでしょう。わたしがパートナーと籍を入れること。スカートを穿くこと。髪を伸ばすこと。

現実とフェミニズムは矛盾しています。現実を生きるわたしたちは、フェミニズムを実践しようとすれば、必ず矛盾します。一つの思想が広がり、浸透するまでに、100年では足りません。100年、フェミニストが生きる間、その人生は矛盾に満ちたものになるのが当然です。思想と現実に乖離がある、だからこそ、運動というものがあるからです。乖離を生きれば矛盾します。

その100年の間、どう生きるのかは、その人にゆだねられています。その人の幸福の在り方は、その人の生まれたときの性質、育ち方、考え方、性質の表現の仕方によって変わるでしょう。その人固有の幸福を求めるために、過程として、または道具として、よりよく生きるために思想があるべきだと思います。

矛盾を批判した結果、人が死んだでは、思想の存在価値がありません。価値ある死というのはありません。正義を求めた結果、人が死ぬことはよくあることです。だから、それを避ける工夫として、今は、正義を人の幸福の追求に求める、「人権」という考え方が前提になっているのだと思います。不公正さをなくすために、人権を無視することは、筋が通っていたとしても、出発点が間違っています。

過程や仮説が間違っていれば、どんなに筋や論理が正しくても、結果は間違います。

何を疑問に持ち、何を求めていくかが、人が生きる上で大切です。

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