お母さんの悲しいところ

子が一歳を過ぎた。

つまり、母になって一年ということになる。

今日は具合が悪くて一日寝ていた。思い立つまで精神安定剤を飲むこともできなくて、でも、ようやく飲めたので動けるようになった。鬱状態だと、水を飲んだり、薬を飲んだりすることもおっくうで難しい。

自分に、影響力がなく、無力で、世の中をよくすることもできないことがどうしても悲しいなと思った。

わたしは、何者でもない。

子供を産むだとか、育てるだとか、仕事をするだとか、そんなことのために生まれてきたわけでも、頑張ってきたわけでもないと思った。

何者でもないことがむなしい。社会に対して、わたしは、何にもない。

そんなことと言っても、子供は大切だし、仕事もできて、ありがたい、わたしはぜいたくな悩みを抱えているのかもしれない、などと、注釈をつけることも、本当に飽き飽きしてきた。ほかの人の言葉を借りると、空虚である。

注釈をつけて、かっこがきにして、わたしが悩み苦しんでいるど真ん中を、ぼかして、おもねって、衝突を起こさないように防衛して、相手の気持ちを損なわないようにすることがむなしい。人の気持ちを損なって、攻撃されたら、自分だけじゃなくて子供も傷つけられるかもしれないのが怖いのだ。

Twitterのリプライで、「ライフワークの話かも」という話題が出て、本当にそうだと思った。

伴侶は、今、毎晩勉強をしている。わたしは、それを横目に見ながら、眠ってしまったり、ネットを徘徊して、時間を無駄にしている。疲れているから、ほかのことができないのだ。そして、「時間を無駄にしている」と自分を責めている。

伴侶がこれ以上賢くなったら、わたしを置いていくんじゃないかと怖い。そして、わたしだって、勉強したいのに、と思う。わたしがバカなまま、彼が賢くなったら話も合わなくなるんじゃないだろうか。

時間は同じだけどころか、わたしのほうがあるのだから、頑張ればいいのに、とも思う。努力が足りないんじゃないかと。板挟みになって、苦しい。でも、体も動かないのだ。そうして、頭の中がぐるぐるになる。

子供が寄ってきたら、どんなに疲れていても、苦しくても、一緒に遊んで、世話をする。伴侶が子供の世話をしてくれないわけじゃない。でも……。

こういう「でも……」のあとに続く空白が、わたしをさみしく、悲しくさせる。

わたしは、子供を身ごもるまで、完全に「わたし」でありたいと願っていた。それがうまくいかなくて、苦しんでいた。自分の病気や障害、自分の親との確執で、自分を生きることができずに、難儀していた。

子供が自分の中にいて、自分が自分でなくなった。子供を産んだら、また違う苦しみがある。

その苦しみを、今まで女性の作家たちは、文学に書いてきてくれた。「しずかにわたすこがねのゆびわ」だったりで。

今まで読んできた読書体験を、ひとつひとつ思い出すことはできないのだけど、折に触れて、思い出す。

わたしは、わけあって、自分の本棚をすべて捨てられたことがあって、忘れてしまった本を、物理的に手に取って、思い出すことができない。わたしの本が捨てられた理由を大雑把にまとめると、それはわたしが女だったから、となる。それは、個人的な体験だけど、母になった人たちが、自分の本棚を自分のためだけに持つのは難しいんだろうと思う。

お母さんになった瞬間、いや、恋人を得た瞬間、結婚した瞬間、そういう人生の節目で、それまでの人生を、一度捨てなくてはいけない。別の生き物のように、笑顔で、一緒にいる相手が、幸せであることを実感できるようにするために、笑顔で、幸せを演出しなくてはならない。お母さんというペルソナ、恋人というペルソナ、妻というペルソナをかぶって、生活を回していく最中に、ペルソナなしでの自分を失って、何者でもなかった自分を失ってしまう。何者にもなれなかったと嘆く自由も失ってしまう。社会的に認められる何かになりたかったのに、私生活という領域に閉じ込められて、それを檻のように感じる。その檻は、幸せでなくてはならないのだ。その檻の中の幸せは、女の肩にかかっているのだと、言われ続ける。自分にとっても、自分が選んだ道だから、自分は幸せなのだと信じる。本当に幸せなのも、本当のことでもあるから、わたしは、混乱する。

そうした、アイデンティティの崩壊が、「お母さん」になることで、引き起こされる。いや、女であれば、自分のアイデンティティを保つことは難しい。そもそも、女が自分の人生をまるごと、自分のために、生きるなんて不可能なのかもしれない。

わたしは、昨日、子のための帽子を編んでいた。編み物は、自分の心を慰める。それは女の文化であって、生き延びるための処方でもある。わたしは、女の文化を愛している。それは、抑圧の中で培われた文化だから。

自分を問い直すきっかけがあるのは幸いなことだ。

それはわかりきっているけれど、何者でもなく、自分が何者かもわからず、それを知りたいのに、それができないことが悲しい。知りたいと願うことも笑われることがわかりきっていることがむなしい。

「普通」になりたくて、「特別」にもなりたくて、わたしはその二つの間で引き裂かれながら生きている。自分が自分ではないような気がしている。

男性のアイデンティティクライシスが、定年や失職に伴うとしたら、女性のアイデンティティクライシスは、適齢期や、出産や、閉経などのタイミングで来るんだろう。

わたしは、今、自分を問い直さなくてはならない。お母さんでいることの悲しさを明らかにするのがわたしの仕事だと思う。

お母さんになったわたしは、混乱しっぱなしで、その混乱を明らかにしたい。たぶん、きっと、それが、今できるたった一つのこと。


男じゃないもの、女

男か女かを決めるのは、社会である。

セックス(性別)が女だから、女は差別されている。セックスを判断するのは、男性器があるかないか。それに従って戸籍が作られて法的にも性別が決まる。女が女になるのは、医師の診断のもとに、出生届を出した時である。性器を基準として、女は女になる。

わたしは自分のことを女だというし、そして、女性差別に反対する。女である以上、フェミニストであることはやめられない。不公正を正したいと願ったので、わたしは、半ば自動的にフェミニストになった。不正に疑問を持てば、それは、社会の予定調和への反逆である。それは選ぶことができない。やめることもできない。わたしにとって、生きるとは、疑問を持つということだから。

セックスを理由に、差別を受けているのだから、セックスが違う人を、同じ女性差別を受けている人という風には認められない。

というのも、押し付けられた定義だとしても、その定義と戦うためには、その定義をあいまいにしてしまえば、戦う根拠を失ってしまうからだ。

セックスには、実用的な意味もある。女性がかかりやすい病気や、女性にしかない内臓があるから、病院に行った時には、性別は重要だ。薬による影響も違う。

だから、トランスジェンダーについては、ジェンダーをトランスしているんだって理解をするのが一番いいと思う。ジェンダーの問題。

セックスで分けるときには、女は女だし、男は男だ。

インターセックスもいるから、性別もグラデーションとはいえど、差別込みで社会が出来上がっていて、今も、差別込みで運営されている以上、男と女をくっきりわけるのは仕方ない。今のところ。

差別のある世の中で女性は生きているから、女性が迫害されている事実を認めたうえで、現実に対応するしかない。

たいていのトランスジェンダーの人は、工夫して、苦労して、生活の中で、彼らの存在を気付かせないようにしている。社会が混乱しないように気遣っているトランスジェンダーの人がほとんどだと思う。だから、わたしは、意識しないで暮らせているのだ。わたしには負担がなく、トランスジェンダーの人には負担がある。負担の面で非対称性があることは問題だ。

トランスジェンダーの人は、トイレで苦労しているという。きっと、多目的トイレを使ったり、人を脅かさない形で、トイレを使っているんだろうと思う。わたしは、今まで、トイレで、トランス女性がいたと気が付いたことがない。つまり、それだけ、彼女たちは気を使ってくれているということだ。

トイレの問題で、外出が苦手になった人もいると聞いた。中でも、トランス男性は、本当に厳しいと思う。男子トイレは、男のあかしである、男性器を相互監視しているかのような仕組みだから。

その一方で、女というものの定義が、ぐちゃぐちゃになると、女性差別について戦えない、という問題もある。ジェンダーの問題を、そのままセックスの定義には持ち込ませるべきじゃないと思う。ジェンダーじゃなく、セックスで分けるべき場合がある。

性の自認は可変なのに、可変だとだめだ、とか、また、他人が、オペをしろとか、ホルモン治療をしろ、とか、パス度をあげろというべきじゃないと思う。

それは、暴力だからだ。自分の思っている性と食い違った生活をしていると、それは、死に至るストレスになる。自分の自認してる性と、体が食い違っていると、苦痛があるから、体を変えていく、という工夫は、本人の決断だけですべきだ。なぜなら、オペを含む人工的な体の変化に伴う苦痛は、本人しか負えないからだ。体の一部を切り取って再建すること、ホルモンで体を変えることは大変な苦痛だろう。永続的な苦痛だ。

上で書いたことと矛盾するようだが、女性差別の射程距離は、mtfもftmも含む。女性差別の本質は「男じゃないもの」を排除したことで起きるからだ。完ぺきな男こそが本来の人間であり、そのほかは不完全な男、つまり、「人間未満」だと扱うのが、女性差別の本質だからだ。その判別は、「男」が行う。男が気まぐれに決めた基準で決まるから、女を定義することも容易ではない。

ただ、ややこしいのが、押し付けられた「女(=人間未満という評価)」も、差別の中で、はぐくんできた文化や価値観があるということ。女たちが押し付けられたものを、押し付けられただけじゃなくて、その中から喜びを見出して、育てたものがあるということなんだ。

その文化は、もちろん、差別と融合しているから、差別を助長することもある。だけど、それを手放すことって、アイデンティティを捨てることでも同義である。

女として生まれ、女として育てられ、その過程で喜びとともに育んできた世界がある。もちろん、悲しみとともに手放したり、機会を損失したこともある。それは、女の形を持っていたから経験したことだ。

その経験や苦しみ、歴史は、たぶん、トランスジェンダーの人とは、重ならないんだと思う。もちろん、重ならなくても、想像して、元から女性として生まれ育った人の痛みを想像して思いやる人だって多いんだと思う。けど、「女が嫌なら女をやめて男になればいい」と言ったmtfもいたし、高専に通えたmtfは、高専を受験すらできない女性がいたり、教育機会を損失した女性がいたりすることが想像できなかったりした、のをツイッターで見てしまった。それが印象に残って、ほかの静かなトランスジェンダーが目に入らなくなっているので、やっぱり共闘するのは難しいのかなと思った。

性別は可変、性自認も可変。だから、「女性差別されるのがいやなら、女性をやめればいい」という人もいる。女らしい行動をやめる、女らしい見た目をやめればいい、とか、逆に、ミソジニー女性として生きて行って長いものに巻かれたら楽だ、みたいなニュアンスのことを言われたことがある。トランスジェンダーの人が言った、とかじゃなくて、男も女もそういう風に言う人がいるってこと。

性別について、他人が何か言うってことは、それは、遠藤周作の「沈黙」で隠れキリシタンや宣教師に「信仰をやめろ」っていうのと同じだと思う。生活や、人生や、アイデンティティだから、捨てたら死ぬのと同じくらい苦しい。

隠れキリシタン同士で、育てた信頼や文化や生活様式みたいなものがあって、それって捨てられない。幕府じゃなく、逆に、正しいキリスト教を知っている宣教師に「それは間違ったキリスト教だ」と言われても、もう変えられない。お前の信仰は、他人に迷惑をかける、人を苦しめるからやめろ、って言われても変えられないのと同じで、お前が女だから、フェミニストだから、トランスジェンダーだから、それをやめればいいと言われても変えられない。

わたしは、ツイッターでいろいろな人の意見を読んで、「セックスを基準に考えるべき場面」「ジェンダーを基準に考える場面」「個人を尊重する場面」とそれぞれ分けるべきなんだと思った。

セックスで、男と女とをわけないといけない場面はある。それは、今も現在進行形で女性差別があるから。女性差別が全くなかったら、社会的な場面で、男と女とを分けなくてもよくなるか、個人レベルでパーソナルスペースを常に確保する世の中になれば、男や女かを医療以外の場面で考えなくてよくなるかもしれない。でも、今はそうじゃない。生物学的に女か男かを分けることは難しいけど、医療の場面で必要に応じて女だから(男だから)かかりやすい病気がある以上、分けないといけない。

女という定義を探っていくうちに、女というものの輪郭は解けていってしまう。でも、「女」という言葉は必要だ。

社会が、「これは男じゃない」と言って、男の集団から排除していったとき、排除された側が、自分たちを表す言葉を持たなければ戦えない。また、男じゃないと排除された側の集団に、「男」がそれを混乱させるために、入り込んで、「女」をうやむやにすることも許してはならない。

「女みたいなやつ」「男じゃない」「こいつは男だ」という表現を、随時使って、「男じゃないもの」を見分けることを、男の集団は常にしている。

ジェンダーロールの再生産は、避けないといけない。

しかし、その一方で、「女の文化」が女を癒し、自信を育て、自分たちの人生を彩り形成したことも事実だ。手仕事、ファッション、化粧、家事、装飾、華道、茶道、歌、民謡、音楽、子育て。そういったものが、押し付けられたものだとしても、それを通して、女たちは、自分の人生を生き、自信を得て、世界を広げてきた。苦しみながら。

女の文化が、女への差別を助長し、差別者を利するものだとしても、女の文化への敬意なしでは、女性差別に対抗する意味がない。

わたしの戦いは、女が幸せに、自分の求める人生を生きるためのものだ。女が女の形をしているがゆえに、奪われているものを取り戻す戦いだ。

それは、男を脅かし、男に不利益を与える。そうでなくては意味がない。男が不当に得ているものを、正当に取り戻すのだから。

男でない、とみなされた人々が、新たに、自分たちの集団へ名前を付けたとき、それ自体が抵抗になるだろう。押し付けられたものを、自分のものにした時、初めて、本当に生きるということができる。

誰が女なのか、という定義は、まだ、完成していない。誰が女なのか、ということが伸び縮みして、あいまいになる。あいまいになることを避けなくては、戦うことができない。同時に、定義がなされない今も、この瞬間も、闘わなくてはならない。正解はない。もともとが、押し付けられた「男ではないもの」という定義だから。

だから、闘いに、それぞれが一人一人名前を付けるべきなのだ。同じ前提を共有できないわたしたちは、共闘することができない。

だから、わたしたちは、手を取り合うことなく、同じ敵に向かって、戦い続けるべきなのだ。血がにじむ道をたどりながら、その過程で、少しでも平穏で、幸福な、健康で素晴らしい時間を得るために。


家事と収入

家事やりながら同時に仕事はできない。

仕事しながら家事もできない。

家事をやっているその瞬間はほかのことできない。

そして、家事はしないと生きていけない。

1人暮らしの家事の量は、少ない。洗濯だって量も少ない。人と暮らすと、においも出るし、汚れも増える。子供もいればなおさらだ。

稼ぎにくい性別の人と、稼ぎやすい性別の人がいる。

同じ時間働いていても、もらえる額が違う。経済って、能力があって頑張っている人がたくさんもらえる仕組みじゃない。儲かっている場所にいられる人が設けられる。そして、マイノリティは、儲かっている場所に近づくパスがない。

だから、マイノリティは貧乏だ。

女の人は、非正規で働きながら家事もする。ひどい男の人は、収入の多寡で、家事の多寡も決めるという。収入の七割を稼いでいたら、家事も三割しかしなくていいみたいに。で、その人が三割だと思っている家事は、名前のつかない家事を含めると、実は三割どころか一割に満たないみたいなこともある。

女の人は、それをいちいち言って、機嫌を損ねるのが嫌だから、ほめて称えておだてて、その一割未満でもやってもらうように感情労働をする。そして、ひどい男の人の誤解は解けない。

家事はやればやるほど生活のクオリティが上がる。生活のクオリティが上がれば健康を保ちやすくなり、たくさん働くことも可能になる。

毎日食事を作れば、外で食べるよりも安い。健康も保てる。それが例えば毎日味噌汁一品とご飯だけだとしても、外で食べるよりも栄養もあって、安くて、食べる側も楽だ。

お金に換算しにくいけど、働ける人が働けるのは、家事をしている人がいるから。

家事をしている間の時間を代わってもらえているから。

だから、収入の半分は自分が稼いだとしても、その残りの半分は、家事をしている人が稼いだと考えるのが正しいと思う。わたしはそうする。

家事なんて一緒に暮らしている人がほめてくれないと、結果も見えにくい。そとで働くと、お金という形ですでに結果は見えるし、ほめてくれる人もいるし、報われる場面は多い。だから、損に感じたり、引け目に思って、みじめな気持ちで家事をする場面も出てくる。

(食事に関しては、それでも家計簿つければ比較的結果が出やすいけど)

家事を劣ったことだと考えて、家事に手を出せない男性だっているだろう。

世帯収入は二人の財産だというのは、そういう考え方だ。協力して、ようやく稼げているってこと。

民法で、結婚している二人の財産が、共同財産ていうのは、そういう、二人で稼いだってことと、女性の保護(女性が現実的に男性と同じ額を稼ぐのは難しい、賃金格差も就職格差もあるから)も兼ねている。ちゃんと理由がある。

(家事育児外での労働を全部ひとりでしている人は、頑張っていて、頑張りすぎだから、何とかなってほしいと願っている。願うだけで何もできてないけど)


表現の踏むもの

表現が踏むものは、マイノリティについての知識のなさから。人の痛みが分かる人でも、自分と異なりすぎると、その行為が、マイノリティを痛めると理解できなくなって、マイノリティを踏んでしまう。マイノリティの文化や属性、見え方を軽く扱って、モデルを示し、結果として、マイノリティが生きにくくする。

EDMが好きなので割と聴くのですが、kuraのmadmanみて、これはないなーまずい価値観を反映している表現だと思った。

この表現は、先住民族、白人以外の文化を踏んでいる。茶化していいものだと思っている。こういう「踏んでいいもの」を示す表現は、結果的に社会の価値観を再構成するから、白人以外の弱い属性の人間を生きにくくする。これを笑える人は、こういう民族の装束も、現実に見れば、笑うだろう。

なんてことない音楽のMVだってうっかりしたら人を踏む。創作物と現実の境目ついているとみんな言うけれど、でも、ドラマを観て警察にあこがれて警察になる人もいるし、医者のドラマ観て、医者になる人もいる。意識的に影響されていると認識できない部分が、制御できないので質が悪い。

おしんにあこがれて日本に移住してきたペルシャの人ともこの前話した。おもしろいゲームやったよ、と人に話すことだってゲームの影響で行動が変わったともいえる。

kuraのメロディラインは日本の童謡に似てて、たとえばGradyardとかはとうりゃんせっぽくてかなり好きだし、NAMEKもドラゴンボールリスペクトがあっていいなと思うんだけど、madmanは笑えない感じ。kuraはポルトガル人で、侵略した側なんだけど、先住民族、とくにプードゥー教をイメージさせるキャラで茶化してるので笑えない。

前なら笑えたかもしれないんだけど、今はこっちにも知識が付いたから笑えない。好きだから観るし、好きだからこういうのがあるって知るんだけど、こういうのはダメだと思う。

話は代わって、オタクカルチャーのものを批判すると、かなりひどい反応が付く。これって、ほかのカルチャーを批判するときには出てきても少ない。たぶん、今、このkuraのMV批判したからって、オタク系のなにかを批判したのと同じ勢いの攻撃は来ないだろう。断言できる。

例えば、前、ラップの椿さんのバトルを批判したとき、クソリプはほとんど来なかった。エアリプで「わかってないなー」みたいなラップファンのつぶやきのは見たけど。「だからフェミはダメ」とか「まんさんが何か言ってるw」みたいなのはなかった。こういうのはオタクカルチャー批判するとたいてい来る。

だから、オタクが好きそうなものを批判するのはかなりストレスなことだ。宇野ゆうかさんのツイートに触発されてこれを書くんだけど、女性差別的な問題を抱えている表現について、一番批判するのがしんどいのは、オタク関係。

それでもフェミニストが批判するのは、フェミニストにオタクが多いってこともあるし、今やオタクカルチャーがメインカルチャーと言っていいほど、オタクカルチャーが表に出てきているから、目に触れる機会が多いからでもある。

Twitterでは、フェミニストはいくら叩いてもいい属性だということが決定された風潮も感じる。

世の中、少しずつ良くなっていると信じたいけど、批判するのも疲れる。

わたしは、疲れると長期的にフェミニストをやれなくなると思って、休み休みやるけど、一生懸命やる人はバーンアウトしたり、標的になりやすくなったりする。わたしがブログでなるべく書くのは、ブログという形式自体が、読む人を減らすので、標的になりにくいってことと、あと、いざというとき裁判にしやすいからっていうのもある。

表現をするとき、誰かを踏みにじってしまうことは避けようとしても、避けられずあることはあって、それは、わたしたちが時代の申し子だから、価値観をアップデートできないとすぐそうなる。わたしだって踏んでることを後から反省する。

そもそも、批判があるというのは、それで全部だめということじゃないのに、ゼロか1かの思考しかない人は、全部否定されたみたいになる。そして、批判するのは悪いことだという価値観を持っている人も多いから、批判という悪事をする人間はいくらでも叩いてもいいという発想から批判者をめちゃくちゃ攻撃する。最初に攻撃的な表現をしたのは、誰かも忘れてしまう。

好きだけど、好きだから批判する、ってこともあるし、まじむかつくし気分悪い表現だから批判するということもあるし、でもそれは全否定じゃないこともあるし、批判されたらこういう考えがあると伝えて相互の考え方を深めればいいのに、そうはなってない。

なんかそういうのが悲しいなと思う。

オタクの人は、コミュニケーションになれていない人がたぶん多くて、批判というコミュニケーションの複雑さに耐えられないんじゃないかと思う。

コミュニケーションって相手の言っていることを正確に読み取って、それに対して応答することも含まれているんだけど、なんとなく雰囲気でやり取りできる人はかえってそういうのが苦手な印象がある。

オタク文化には、きれいなものや、面白いものもあるのに、もったいないと思う。正直に言えば、批判者に対するオタクの攻撃は、胸糞悪い。だから、全部のオタクがそうじゃなくても、たくさん嫌なことを発言している人間が一人いると、それに埋もれて、考え方がちゃんとしている人もいるだろうに見つからない。そういうのを含めてもったいない。でも、そんなの誰にもどうすることもできない。

表現が、その時代の社会の価値観を反映しているのは間違いない。その価値観に批判的なのか、意識的なのかが唯一選べること。選べるのに、まずい価値観を無自覚に反映していたら、そりゃ、価値観をアップデート済みの人たちには、批判される。

知るってことは、胸糞悪いことに気がついて、前みたいに楽しめなくなることでもある。わたしがkuraのmadman楽しめないみたいに。でも、そういうことが、ちょっとでもいい世の中を作るために必要で、それは結果的に、弱い人間を生きやすくする。