幸福の追求とフェミニズム

わたしは、本物のフェミニストかというと、自分ではそうだと思っているし、そういうけれど、他人から見たらどうかと言えば、フェミニストなんかじゃないという人もいるだろうし、このフェミがとののしられることもあるだろうと思っている。

今回の話は、ツイッターの「ラディフェミはいいぞ」さんのツイートを読んで思ったことを書きます。批判的な内容を含みますが、ラディフェミはいいぞさんを批判することだけが主目的ではありません。

フェミニズムと、わたしのような、名もなき生活者が、いかにかかわっていくべきかを考えたいと思います。わたしは、専門にフェミニズムを学んだ人間ではありません。

ラディフェミはいいぞさんが「死ね」と言われて、フェミニズムを一生懸命勉強したというエピソードが印象に残りました。また、家父長制を助長する、補強するすべての行動をするべきじゃない、という主張をしているように読みました。

わたしの立場と言えば、戦後のフェミニズムを含めた左派運動の問題は、自己批判をさせて、実際に殺したという点に尽きると思います。

また、理論を優先させて、その人の幸福追求や、行動を批判し、自己批判させ、総括したことにも問題があると思っています。

過程として幸福の追求を邪魔すること、命の危機に陥らせること、それは「死ね」と人に言うことも含みますが、それらは、正義ではなく、悪です。

それは、人権の否定です。

わたしたちは、時代の子供なので、普通に生活しようとしたら、その時代の規範の枠組みの中で生きるしかなく、それを否定するなら死ぬしかありません。

フェミニズムで言えば、あらゆる場面で女性差別はあるので、何をしても、女性差別的な行動と言えなくもありません。

たとえば、水道から水を飲むという行為一つとっても、水を飲んだだけでも、水道局という家父長制を基にした政府の運営している組織に加担したといえるでしょう。しかし、人は水を飲みます。衣食住を満たすだけでも、人を虐げないことは不可能です。安い服を買えば、搾取されている人を苦しめる行為に加担します。しかし、人は服を着なくてはなりません。そして、安い服を買うしかない場面があります。野菜を買うにしても、その野菜を作る農家や農協で、虐げられている女性が、奴隷のように労働させられている場合はあります。しかし、人は食べなくてなりません。

時代の要請する価値観の枠組みから自由ではいられません。多少、先進的、先進的ではないという違いはあったとしても、どれだけ偉大な人であっても、時代の子という宿命から逃れられません。無理に逃れようとすれば、死にます。

死ねと言われて考え勉強した、というのは、わたしは虐待されて、ショックから適応したように思えます。そうでないとしても、そのエピソードを肯定的に開陳して、同じような行動を求めることは正しいことではありません。

公序良俗に反しない限り、人は幸福を求めるべきです。その「公序良俗」自体も、男性社会が設定したものであり、幸福追求権自体も男性的な枠組みで考えられた正義であることを加味したとしても、これは悪い思想ではありません。

ある思想を理解していない人に死ね、というのは、優生思想を持ち出すまでもなく、「劣った人に対して生死を支配することが可能」という価値観自体が悪いものです。それを合意の下で受け入れた人がいたとしても、そういうエピソードを肯定的に表し、それに続くように誘うことは悪いことです。

差別問題に抵抗するすべてが、人権という概念を前提としている以上これは言うまでもないことです。

わたしの場合をいえば、男性パートナーがいます。男性パートナーがいること自体、家父長制の助長と言われても仕方がないことです。しかし、日本で生きるとき、パートナーの有無は、あらゆる場面で影響します。女性は賃金面で差別されているので、1人では生きにくいです。低賃金で働きながら、一人で暮らし、抵抗運動をすることと、一人で暮らすことをあきらめ(もしくは、積極的にパートナーを求め)、人と暮らすことを選択しながら抵抗運動をすることを比べるとします。それは、前提の低賃金が悪いわけですから、後者がより悪いと、批判されうることは肯定できますが、それ以上ではありません。資本主義に加担している以上、前者も批判され得ます。

わたしの場合は、家父長制を助長することは避けたいと思い、男性パートナーがいても、籍を入れていません。しかし、子が産まれました。わたしが死んだとき、パートナーは子の手術の同意書を書くことができません。なので、わたしは、思想を曲げるかもしれません。しかし、このことは、人の命を考えるうえで、必要なことです。思想か死かを選ぶとき、しかもそれが他者の命であればなおさら、わたしは生や生活を選択します。

フェミニズムの勉強が足りない、というとき、それは、生活者としての女性を脅かします。

たとえばある人が、「勉強をできたのはフェミニズムのおかげだから、フェミニズムのために身をささげる」ことは肯定できますが、それを勉強できない、できなかった女性に責めるような言葉の矛先を向けたとき、それは、どういう結果を招くかを考えたいと思います。

勉強をできない現実があり、それを女性自身の努力によって補うことを求めることが発生したとき、それは、女性の現実と思想の衝突を招き、その女性は苦しい思いをします。自分を責めるでしょう。

たとえ話をします。仏陀のように現世と違う思想を持つとき、そこに実行可能な実践方法を提示しなければ、人は死に、思想を実践しながら生きることを不可能にします。ある種の特別な人が実践できる思想では、一部の人が救われ、ほとんどの人が不幸になります。仏陀は、実践可能な出家という方法を用意し、現世で生きる人に間違っているから死ねとは言いませんでした。1人の先導者がいるかどうか、宗教と思想という違いはあるにせよ、彼が実践できる方法を用意したこと、間違っているから死ねと言わない方法は参考になります。


仏陀の影響で、今では、ほとんどの人が、お金よりも大事なものがあるという知識を持っています。お金が一番大事だという価値観を持っている人でも、お金よりも大事なものがあるという知識を持っているでしょう。それは、大きな功績です。もし、お金が何よりも大事な人が、お金を失ったとき、お金よりも大事なものがあるという知識が、その人を死から救ってくれるかもしれません。

今、女性差別はよくないことだという知識をたいていの人が持っています。その女性差別が何に当たるか、というところで、議論が起きている状態です。これは、かなりの前進です。少し前までは、女性と男性と差をつけるのは、全く問題がないことであり、むしろ女性のためになる良いことだと考えている人のほうが多かったのですから。

一部の人がとがった考え方を持ち、それを実践するために動いていて、それが達成されるか否かは、その一部以外の人がどういう考えを持っているかによります。わたしのような日和見フェミニスト、いわゆる「ゆるいフェミニスト」の数が多ければ多いほど、フェミニズム的な価値観が浸透しやすいわけです。

たとえば、わたしは人と話すとき、フェミニズム的な価値観で発言します。それを聞いた時、それに共感する人がいれば、そこで「ゆるい連帯」が起きます。孤独ではなくなります。虐待、不公正が起きたとき、話し合う相手がいて、現実をより生きやすいものにするために助け合うことができます。自分の考え方がおかしいのかと悩んでいる人がいれば、おかしくないと言い合うことができます。それは意味のあることです。そうして、一人二人と輪が広がることは、非情に地味ですし、一見なんの効果もないように思いますが、人の人生は長くて100年ほどです。その一人の100年の時間を、どう使っていくかは大切なことです。

1人の人間が、幸福を追求しつつ、世の中をよりよくし、未来の人のために道を開いていく。幸福と、フェミニズムを両立しようとすること。その過程で、必ずしも「正しくない」ことは、誰しもするでしょう。わたしがパートナーと籍を入れること。スカートを穿くこと。髪を伸ばすこと。

現実とフェミニズムは矛盾しています。現実を生きるわたしたちは、フェミニズムを実践しようとすれば、必ず矛盾します。一つの思想が広がり、浸透するまでに、100年では足りません。100年、フェミニストが生きる間、その人生は矛盾に満ちたものになるのが当然です。思想と現実に乖離がある、だからこそ、運動というものがあるからです。乖離を生きれば矛盾します。

その100年の間、どう生きるのかは、その人にゆだねられています。その人の幸福の在り方は、その人の生まれたときの性質、育ち方、考え方、性質の表現の仕方によって変わるでしょう。その人固有の幸福を求めるために、過程として、または道具として、よりよく生きるために思想があるべきだと思います。

矛盾を批判した結果、人が死んだでは、思想の存在価値がありません。価値ある死というのはありません。正義を求めた結果、人が死ぬことはよくあることです。だから、それを避ける工夫として、今は、正義を人の幸福の追求に求める、「人権」という考え方が前提になっているのだと思います。不公正さをなくすために、人権を無視することは、筋が通っていたとしても、出発点が間違っています。

過程や仮説が間違っていれば、どんなに筋や論理が正しくても、結果は間違います。

何を疑問に持ち、何を求めていくかが、人が生きる上で大切です。


魔女と呪いとスピリチュアル

女性への抑圧や差別を、「女性への呪い」という言い方をする場面がある。

わたしは、女性への呪いという言葉を使わない。それは、差別であり、抑圧であることがほとんどなので、わたしは、「差別」「抑圧」という。

女性に行われているのは、ぼんやりとした悪意の発露ではなく、はっきりとした明確な悪意と害意の発露だと思っているからだ。

そもそも、「呪い」の罪は、女に背負わされてきた。魔女狩りで女性を拷問し虐殺した。それは、魔女と言われた人々が、つまり女性が、医療や、出産、そのほか「まじない」をしてきたからだ。

命にかかわる仕事をしていただけで、疑われただけで、女は殺された。

女は命を産む。そのこと自体が、男から、憎悪の対象とされた。だから、女は不浄なものだから、表には出さない、魔女は殺す。女は汚れていると男たちは規定した。

まじないを悪いものだとしたのは男の論理だ。だから、その価値観に従って、「女への呪い」という言葉を使うのは、間違っていると思う。

「それは女性への呪いだから」という言い回しを不適切だとは思わない。わかりやすく、言いやすいから使う人も多い。

だけど、使いやすさそのものが曲者だ。「差別」「害」「加害」「抑圧」を柔らかく「呪い」ということで、男性に対して、いやな気持にさせないための配慮が行き届きすぎていると思う。

男は、「まじない」をしない性だときっと自認しているから、呪いをかける主体だなんて思わないだろう。だから、女性への呪い、といったとき、呪いをかけている主体はぼやけてしまう。ぼやけて自分のこととして受け取る男はきっといない。

今でも、「魔女的」な女性たちはいて、子宮信仰をする人、スピリチュアルにはまる人、ワクチンに疑念を持つ人たちは、医師を中心に、バカにされている。

医師たちは、ホモソーシャル的な価値観を内面化しているから、それは、男たちの攻撃と言って差し支えないだろう。

わたしの感じている現代の「魔女的なもの」は、身体や、感情、感覚を尊重し、自分を癒すことだと思う。率直に言って、受け付けない種類のスピリチュアルもあるが、わたしは、女性たちの動きを尊重したい。

女性たちの体や心に対する不安は、長い間公的にないがしろにされてきた。ないがしろというよりも、「ないもの」として扱われてきた。

わたし自身、医師に、「考えすぎ」「日頃の行いが悪い」「言われたとおりにしないから駄目なんだ」「そんなこと言われても困る」と逆上されたことが何度もある。だから、今は、元気なときに医者を探して、自己防衛しているくらいだ。

反ワクチンについては、根底に、医療不信、そして孤独があると思う。

母親は、孤立して、責任を全部背負わされる。その時にできた仲間が、反ワクチンだったら、孤独と医療不信が癒されるのだろうかと感じている。

子に、ワクチンを打ったとき、副作用で高熱が出て、親子ともに苦しい思いをした。申し訳ないとさえ思った。それでもわたしはワクチンを打つけれど、副作用ぐらいでと言われたら、心を引き裂かれるよう感じるだろう。

わたしが、スピリチュアルに強くかかわったのは、いろいろな理由があって、一言には言えないが、それを通して、人生の苦しみを分かち合いたいという思いだった。人生の苦しみには様々なバリエーションがある。経済的な困難、伴侶との行き違い、無理解、身体的な苦痛、母と娘とのわだかまり。そうしたものを、話せる場が、一番すぐにつながるのはスピリチュアルなのだった。

スピリチュアルで嫌な思いをしたこともある。研修と称して、200万円のローンを組まされそうになって、危うく逃げたこと、マルチへの勧誘、ヨガ教室で、皮膚の疾患と心の問題を結びつけたうえで、それを解決してあげると言われたときに感じた無遠慮な視線。金づるとしてしか見られていないと思って、ヨガは好きなのに辞めざるを得なかったこと。

医者は、病は見ても、人を見ない、という人が多く、例えばわたしは皮膚の疾患と、精神疾患が結びついていて、切っても離せないものなのに、皮膚しか見ないで精神面は無視するという医師にはずいぶん傷つけられた。ストレスで皮膚状態が悪化するなんて誰もが経験することだろうに。

それで、中国で漢方の考え方を学びに行った医師のもとに行った。気功も教える人で、カリスマ的な医師だった。わたしは、死んでしまいたいよう症状があって、追い詰められていたので、この人が誤診をして、その結果どうなろうとも納得できるような、尊敬する意思を求めていた。わたしには医師の腕の良しあしが分からないから、何があっても信頼できるということが最も大事だった。たとえ誤診の結果死んでも、それでいい、ありがとうと言える医者に診てほしかった。それには、その医師の人柄が最最優先、最重要だった。

女性の病気は「不定愁訴」「自律神経」「精神的な問題」とされて、病気だと診断されないものが多い。本当は、しっかり研究したら、原因も特定できるものも多そうだが、医師は、男性が多いので、女性の体を自分事とは思えず、研究が進まないのだと思う。

不定愁訴、自律神経失調、精神的な問題、と言われた人々は、苦しみを抑える薬さえもらえないことも多く、体調を崩した結果、経済的にも、人間関係的にも、孤立してしまう。そうしたとき、スピリチュアルは、心の支えになるのだ。

それは、バカにされるようなことではない。女性たちは、自分たちのコミュニティを作ろうとしても、いろいろな方法で邪魔されてきた。

スピリチュアルなこと、魔女的な行為は、女性が生きるために、必要なことだった。心身の不調に向き合ってくれる人、それについて話し合える場、共感する相手、そういったものは、魔女的なものと真逆な、資本主義的な世界では、放逐されてきた。資本主義社会では、女性は、安い賃金で働くだけの存在で、自分たちが主体的にふるまえるルールではなかった。スピリチュアルの世界では、精神や心の状態を重んじる。それは、アンチ資本主義と言える。資本主義的な社会で、不合理で、非科学的で、体に害を与えることは往々にして起きている。例えば、違法に働かせる企業で、精神的に追い詰めるようなことや、健康と時間を搾取するということはよくある。それだって、十分理解不能なのに、スピリチュアルの世界で、外から見て理解不能なまじないや、高額な金銭を納めるセミナーがあると聞けば、非情な非難を向ける。そこには、非対称性がある。

スピリチュアルのセミナーに高額なお金を納めることよりも、ブラック企業が、労働基準法という労働者を守るための法律を無視して、労働者の健康や尊厳を損なうことのほうがずっと悪だと思う。だけど、ブラック企業には、擁護すらつく場合がある。

それなのに、社会的非難の量の非対称性があるのは、スピリチュアルの世界が、女性的な世界、つまり魔女に属する世界であることと無縁ではないだろう。

「まじない」というのは、「悪」ではない。「まじない」のひとつに「いたいのいたいのとんでいけ」というものがある。それは、本当に痛みを取り去る。そういう経験をした人は多いだろう。懐かしく、幸せな記憶として持っている人は多いだろう。それもスピリチュアルなのだ。スピリチュアルに、そのような気持ちを持っている人はいるのだ。暖かく、懐かしく、優しいものとして。

スピリチュアルの世界も、まじないも、偽りではない。

だから、呪いのなかには、のろいだけじゃなく、まじないがあることも踏まえると、女性差別を、女性への呪いと言い換えることは、わたしはしないでおこうと思う。

スピリチュアルを悪いものだとする考えと、女性蔑視がつながっているのに、男性が主体的に差別を行っていること、その主体性を覆い隠す言葉として、「女性への呪い」が機能していると思うからだ。


難しくないフェミニズム

難しい言葉を知らないと、アクセスできない思想がある。

難しい言葉たちから、女は排除されてきたから、学問としてのフェミニズムにも、女たちはアクセスできない。女性差別と闘うための武器を手に入れることもできない。難しい言葉は、概念をやり取りするための通貨だけれど、女は難しい言葉という通貨を与えられていない。

女性差別は、制度設計されて、運用されている。政治で言えば、立法府からも行政からも女性は排除されている。そして、予算も、女性の利益を反映されずに建てられる。だから、日本に生きている限り、女性差別という大きな枠から逃れることができない。

女性差別を現実にするために、例えば、法律は整備されている。女性差別的な思考をみんなが共有しているので、女性差別込みでの制度設計を運用することもできる。運用によって、女性差別的な思考をさらに強めることもするし、運用の成果によって、また、制度設計に女性差別を持ち込むようにフィードバックもされている。

政治でも、法律でも、経済でも、すべての場面で女性差別は組み込まれているから、あらゆる場面で女性差別を感じるのが本当は正常だ。

でも、わたしたちは飼いならされていて、マヒしているから、女性差別に気付くことができない。

それらに対抗したいと、難しい本を読んで、たとえばフェミニズムの理論を学びたいと思っていても、それらは散らばっていて、とても手が伸ばせない。意見がそれぞれ違うから、かえって混乱してしまうことだってある。本を読むにも、手掛かりがなければ、どれがフェミニズムの本なのかわからないし、用語がわからなければ、論旨をつかむこともできない。努力では埋められないハンデがあるのだ。

難しい言葉は、まるで通貨のように、概念をやりとりするのにとっても便利な存在だ。

とても複雑で込み入った概念を、たった一言でぴたりと表して、相手もそれを飲み込んでくれる。

でも、その通貨を持たない人には、その通貨で買えるはずのものが手に入らない。その通貨、わたしもほしい、と思っても、元手がなければ、市場に参加することもできない。元手がないから通貨を稼げない。最初から、市場から除外されていて、参加資格がない。

学問や教育の世界から、女性は除外されていたから、上位層の女性は、学問という通貨と考えるための元手をなんとか手にすることができたけれど、そうじゃない女性は、徒手空拳もまま。それなのに、「本を読めばいい」と言われる。無理なのに。わたし自身、「難しい言葉の飛び交う世界」に入っていけなければ、女性差別と闘えないと信じ込まされてきた。
だけど、それは、思い込まされてきただけだ。難しい言葉という通貨を持たなくても、女性差別を感じて、それに反対することはできる。

男の世界は、うわべは、理論武装された世界で、女の言葉は、感情的だと言われてきたから、だから、女は同じ言葉を獲得するために四苦八苦してきた。それが、女性差別と闘う道だと信じた人たちは、勉強をして、学問の世界に入った。

そして、いざ、男の土壌で勝負しようとしたら、男の価値観に同化するしかなくなってしまった。男の世界は、表面上公平な規則で運用されているように見えても、実際は、そうじゃない。同じような見た目で、同じような声で、同じようなふるまいをしない人間については、そのルールは適用されなかった。

だったら、スタートが間違っていたのだ。

女性差別を訴えるために、男のいるステージに行くことは必須ではなかった。

男を、女のいる場所に来させないといけなかった。

わたしたちの見ること、感じることを、見て、感じさせないといけなかった。

でも、彼らは来なかった。説明しても理解したがらなかった。

なぜなら、女性差別によって、彼らは利益を得ていたから。なぜなら、いくら説明されても、知らない、わからない、わかるように説明しないほうが悪いと言いさえすれば、彼らはわからないままでいられる。差別をわからないままでいられたら、支配を続けられる。

お前が何を言っているのか、わからない、被害妄想だと言いさえすれば、彼らはその利益を守れて、差別をないと言い張れた。だから、彼らは無知を武器にして、さらに女性を虐待した。

彼らは、どれだけ自分たちが得をしていたか、はっきり知っていて、それでいて、それを「わからない」ことにしていた。そうしたら、罪悪感を持たずに、自信満々でいられたから、自分たちの持つ女性への害意を理解しないでいることも、差別のうちだったのだ。女性差別をしたら、いい思いができる。女性を洗脳して、虐待されることが当たり前なのだと思い込ませていたら、女を支配するのにこんなに楽なことはないのだ。

難しい言葉という通貨を持たないから引け目に思う必要はない。それは、男たちが意図したことだったので、わたしたちが難しい言葉から疎外されていたのは当然だった。わたしたちに、難しい言葉という通貨を持たせなければ、わたしたちは反乱を起こせないだろうと、彼らは、意識の上に登らせることもしないくらい、当たり前にそうしてきた。

「女には教育はいらない」「女の子だから、そこまで頑張らなくても」「手に職就けるのが一番大切」と良かれと思って、女が生き延びるためのアドバイスとして、そういわれてきた。

難しい言葉という通貨を持っていないことを恥じる理由は何もない。難しい言葉を知っていることで恥じる理由もない。

女を、持つもの持たざるものと分断したのは、女ではない。恥ずべきなのは、分断して、ある者には与え、ある者には与えないでいた側だ。

わたしたちは、体や心で、苦しいと思うそれが女性差別の結果だ。

睡眠時間が取れなくてしんどい、眠りたい、疲れた、苦しい、痛くても女なら耐えられると言われること、女だから痛み止めはいらないだろうと言われること、それはどうしてなのか、という問いが、すべての始まりだ。問いがなければ、それについて考えることもできない。

わたしは、出産時、帝王切開をしたのに、痛み止めをもらえなかった。

出産をしたんだから当たり前、ほかの人は耐えているんだからというのが理由だった。

出産をするのは女性だけだ。出産をしたんだから痛い思いをして当たり前と言われるのは、男性は知らないでいられる。男性は産まないからだ。出産をするのは全員女性だから、出産時の痛み止めはいらない、というのは、女性だけに向けられた加害だ。

女性は、痛くても当たり前だから、痛み止めをもらえない。女性ならば、痛みに鈍感だから、痛み止めはいらない、なんて、動物よりも劣った扱いだ。わたしの「痛い」という言葉は、受け止められない。それは、人間として扱われていないということだ。

出産の痛みは、男なら耐えられなくて死ぬ、というなら、女だって耐えられない。男と女で痛みの感じ方が違う、と、黒人は鞭打っても鈍感だから平気だが、白人ならば死んでしまう、というのと、まったく同じだ。つまり今でも、奴隷制は、この日本で行われているのだ。”女は痛みに鈍い””痛みに鈍い女”として生きるというのは、衣食住を与えられていたら、満足していろと言われて、それ以上の幸せを求めること自体を禁じられているのは、日本で、女性として生きることは、奴隷として生きるのと同じなのだ。人間扱いされていないのだから。

医療において、女性だけにある臓器の治療の進歩が遅いのは、医学の担い手のほとんどが、男だから、関心を持たないことに起因する。

そして、医学の担い手は、有意に、男を選別した結果、男ばかりになっている。男が男の医師を選び、女を排除する。そして、治療からも女は排除される。

日常にあるすべての事象で、当たり前だと思っていることがあれば、常識を当たり前にしているのが誰で、誰にとってそれが利益になることなのか、問うこと、それがすべての始まりなんだと思う。

学問としてのフェミニズムは、入り組んで難しい。どの立場から見れば正しいか、正しくないか、間違っているかは、万華鏡のように入れ替わってしまう。

わたしたちは一人一人異なった立場と境遇にいるから、何が正しいのかは、その境遇によって見え方が違う。きらきらと幻惑されて、差別ではないのだと思いたくなってしまう。自分は差別されるような人間じゃない、大切にされた人間だと思いたいから、差別なんてないと言いたくなってしまう。それは本当に泣きたくなるような、幻想で、夢だから、美しくて、手を伸ばしたくなるような嘘だから、自分も騙されたくなる。「自分は恵まれていて、うまくいっていて、何の不満もない。不満を持っている人は、自業自得で、不幸なんだろう」と思えば、優越感を持て、人よりもましだと思える。だから、自分は差別されてないと信じたくなる。それはよくわかる。

男に合わせることで、適応するのが「賢い」と教えられてきて、実際に、それでうまくいっていればなおさらそうだろう。それを間違っていると言われるのは、人生をまるごと否定されたのと同じに感じるだろう。
だけど、それは、自分をマヒさせているだけだ。

生きていれば、苦しいこと、悲しいこと、悔しいこと、みじめなことがあるはずだ。その多くが起きた理由は、女の体や、女として見られる姿を持っていたからだ。人生の初めから、少しずつ圧力をかけられて、生きる気力をそがれたために、選択肢を失い、怖い思いをし、追い込まれてきたのだ。努力が足りてないからだ、と思い込まされてきたのは、まさに、その「見た目」のためだ。見た目が女だからだ。

つまり、苦しみが女性に偏っているのは、「表象」が呼び出した差別なんだってことを、心のどこかにおいてほしい。

誰に言うことはなくても、「これはおかしい」と思うこと、その芽がすべての女の心に芽吹いた時、フェミニズムは、大きな渦になるんじゃないか。

難しい言葉を得ようとしても、排除されてきた女、無力な立場においやられて、それを自業自得と言われてきて、それを飲み込むしかない状況にいた女たちが、難しい言葉なしでも、立ち向かう道が、わたしにはまだ見えないけれど、しかし、心に灯る炎が、女性差別という闇を照らすことを願ってやまない。


考える人と考えない人

「わからない」といっていつも考えている人は、自分の中の「わからない領域」についてフォーカスが向いている。

「わからないことがない」「わかっている」人は、「わからないこと」に注意が向かないので、わからない領域があること自体を認識できない。

わからないことがあると理解できていると、それについて考えたり調べたりするので、わからないことが減っていく。

けれどわからないことがわかるようになると、新たな問いが見つかるので、考える人は、常に「わからないことがある」と思っている。

わからないことがない、と思っている人は自信にあふれ、ものごとを断定するので人気が出る。断定されると、聞いている側は、安心する。考えることから解放されるからだ。

断定する人は、自信を持ち、人望もあるので、どんどん偉くなっていく。自分は優れていて、えらいのだ、という認識を強める。自分が正しいと信じ切る。そうじゃない可能性は最初に捨てているので、それを揺るがされる状況には陥らない。

考える人は自信がないので、そうした人に付け込まれる。考えない人は謝らない。なぜなら、彼らは自分のことを正しいと思っている。それに謝ったら負けなのだ。謝らなかったら勝ったのも同じ。うそをつき続けていたら、周りもそれを現実とみなしてくれる。うそをついているうちに自分もそれを本当のことだと思ってしまう。妄想を現実に合わせるんじゃなく、現実を妄想に合わせる。

疑問がわくのは賢いからだ。みんなが見逃している事柄から、矛盾や不明点を探し出すのは、賢いからだ。だけど、わからないことがある人のことを愚かだと思う人は多いので、疑問を持つ人はぼこぼこにされてしまう。疑問を持たないことで、力を得ているから、疑問は、力を脅かす存在なのだ。

問いが正しければ、正しい答えを見つけ出せるが、問い自体が間違っていたら、その答えも間違ったものとなる。

考えない人はとても強い。考える人は不安定で弱い。だけど、一歩同質性の外に出れば、考えない人は、そのルールが通用しないので、とても弱くなる。それを避けるために、彼らは、考える人を外に出すこともしない。

(Twitterで見たツイートに影響を受けた記事です)


本を読まないフェミニストもまた尊い

以前わたしは、フェミニストならば本を読むべきとツイッターで発言した。

今は、撤回する。わたしは、本を読むべきと言わなければよかった。

わたし自身は、読書をする環境や資質に恵まれ、図書館の使い方も熟知しており、大学では、読書にほとんどの時間、四年間を費やした。

わたしが精神疾患を発症したのは、16歳のころだと思われるが、そのときに、集中力や体力の多くを失ったものの、本を読む力はまだ残されていた。

わたしが精神疾患を発症した理由は、社会の女性蔑視によるものだと理解したとき、わたしは本に感謝した。

わたしにとって、読書とは、今ここにいない知性との対話の時間であった。わたしはひどく寂しかったから、いつでも誰かの考えを知ることができる読書は、ほとんど人との関わりと同義であった。人と会話するような気持で、すがるように読書をした。

今、わたしは、読書をする体力が本当にない。時間もない。一日二冊読んでいたことが信じられない。一か月に二冊読むのがやっとだ。

それでも読むことができるのは、子供時代から、本を読むという技術を身に着けていたからだ。本を読むという作業は、字を追い、意味をとり、文と文の間で意味をつなぎ合わせる根気のいる作業だという言葉を知って、わたしはとんでもない勘違いをしていたと悟った。

わたしが、本を読むべきだ、と言ったことで、プレッシャーを感じている人を想像した。ぞっとした。本を読まなければフェミニストになれない、フェミニズムを語れないなんて、そんな馬鹿な話はないのに、わたしはそんな馬鹿なことを言ったのだ。罪に震える思いだった。敷居を高くすることは悪だ。

アカデミックのフェミニズムが本当のフェミニズムだと信じていた。わたしはアカデミックに学んだことがなかったから、それを負い目に感じていた。

それでも、わたしは、フェミニストの目で、大学の授業からも、男女の待遇の偏りを知った。刑法において、性暴力の扱い方は女性に不利で戦うことができないように思えた。民法でも、自分の子供が子供だと主張すること、育てる困難、産むか産まないかの自由から始まって、女性が自分の健康と財産を守ることが、法律によって不可能になっていることに気付いた。

わたしは、ジェンダーの専門の学者にあこがれを持った。彼らは、真実を知っているのだ。わたしは知らないのだ。そう思った。

わたしは、フェミニズムよりもウーマンリブのほうが好きだった。女が、貧しい女が、学ぶことができなかった女が、戦っていたから。

わたしは、大学を出たから、恵まれていて、それが誇らしく、そして、恥ずかしかった。

本は高価で、図書館に行く時間があるかどうか、読む時間があるかどうか、邪魔されないかどうか、そもそも何を読めばいいのかわからない、という問題がある。

今、わたしは、どの本を勧めればいいのか、わからない。大学生の頃に読んでいた本しか勧めることができない。そして、ほとんどの題名は忘れてしまっている。今、これから読むべき本もわからない。調べる時間もない。

そんなわたしが、フェミニストならば本を読むべきと言ったのだ。どれだけ恥ずかしいことを言ったのだろう。今はとても後悔している。

本を読めば、様々な疑問が氷解する。考えに行き詰っていた箇所が流れる。新たな視点を得る。自分の周りにいない人間の考えの蓄積に触れることができる。とても有用だ。

逆に、学者のフェミニストにも、種類があり、対立があるので、正解があるわけでもないから、混乱する面もある。読みながら、それらを取捨選択し、精査する必要がある。本を読むのは一冊読めば終わるわけじゃないのだ。

読書は、あってよかったというものであって、どうしても必要なことじゃないのだ。

必要なのは、女性差別について、おかしいと感じる心だ。おかしいと感じ、それを表現する自由を渇望する魂をもっとも尊ぶべきではなかったか。

わたしはそれを失っていた。わたし自身のコンプレックス故。わたしが学者ではないから。わたしのフェミニズムは間違っているといつも思っていたから。

わたしは、言いたい。一人一人に、その人の戦いがある。それがフェミニズムだと。ウーマンリブのように、形而上ではなく、形而下、つまり現実で戦うことが尊いのだと。


女性差別を語るときクソコメントがやってくる

フェミニズムや女性差別について語ると、何も読めない人がやってきてクソコメがくるのを可視化してみた。

これは、2015年のはてなブックマークです。http://b.hatena.ne.jp/entry/c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

元記事は、http://c71.hatenablog.com/entry/2015/06/14/024749

今と全く変わらない。

データがない、非論理的などと言いたい放題。フォローすると、一部は、ちゃんと読んで意味が分かっている人もいる。でも、それはやはり少数派である。下の画像の人工無能みたいなコメントを飛ばす人間は多い。

データというのは、問題が可視化してはじめて「データを取って検証しますか」ということになるので、問題提起がはじめにある。問題提起がなければ、調べることもできない。何について調べるのか、それが問題なのだ。

今、女性差別について考える人が多いので、いかに女性が差別されているのか実証するデータがネット上で簡単に見つけられるほど増えた。それは、女性差別について考え、発見し、発言してきた人の成果でもある。

情報の非対称があるんだから、については、「情報の非対称」という言葉は強者から弱者について使うべき言葉じゃないから、意味不明である。

データがない、非論理的と言っているが、実際に、医学部では、入試の不正がずいぶん以前から行われていたのは明らかになった。

また、わたしが自分のブログでいちいちデータを提示しなくても、調べれば済むことである。わたしがなぜ労力を費やさなくてはならないのだろうか。データの提示をしていることもあるが、それは完全にサービスであり、善意である。そして、データを示しても、彼らはそれを読む素養がないので無意味なのだ。データやらソースやらよこせよこせという彼らは、データもソースも意味を取れないのだ。

しかし、実際のところ、こういう無意味で愚かなコメントであっても、心にずしりと重くなる。どんなに意味がないとわかっていても、罵倒というのは、人を疲弊させるのである。

わたしも委縮して書くのをやめたり、書き方をマイルドにしたりもする。

想定している読者は、アンチフェミニストではなく、フェミニズムに触れたことがないが、今後、この思想が役に立つかもしれない人に向けてなので、彼らが読んでわかろうとわかるまいとどうでもいい。以前は、彼らについても啓もうしようと頑張っていたが、あまりにも言葉が通じないのであきらめた。

例えば、TM2501は、経験談すらないと言っているが、経験談を書いたところで「個人の経験に過ぎない」という人間が現れるのでやはり無駄なのだ。また、一つのエントリで、データや、ソースを交えながら、論を進めるのは難しい。ほかのエントリでやっている。やっていても、それは違う方向の罵倒を受ける。

データやソースというのは、誰かが疑問をもって、問題があると認識したときにようやく調査が始まるものだ。自動的に存在しているわけでもないのに、彼らは、データソースと言いたてる。彼らには、先行して考え調査する人間に対して敬意がないのだ。敬意がない人間のために、どうして時間を費やさなくてはならないのだろうか。時間というのは命である。命を減らす義理はない。

彼らは、無知を武器にしていて、どんなに説明しても、無知のままである。

宇野ゆうかさんをはじめ、様々な人が言っているが、「どんなに説明してもわからない」というのは、ハラスメントであり、攻撃であり、権力の誇示なのだ。わたしがどれだけ説明を積み上げても、理解というゴールは、質問者がどんどん遠ざけてしまうので、絶対に彼らは無知から動かない。無知をもって疲弊させることが彼らの攻撃なのだ。わからなければなかったことになる。それが彼らの勝利である。

そうした、不誠実な人間に対して、どうして誠実にふるまう必要があるのだろう?全くない。

フェミニストをしていると、「この差別についても考えろ」とよく言われる。

例えば、わたしは障碍者差別についても書いたことがあるが、例えば、「男性差別や男性の解放のことも考えろ」とは言われたことがない。女性差別について考えると、あらゆる不公正や差別についてもアクションしろと迫られる。

ミヒャエルエンデの「鏡の中の鏡」で、ある試験を受ける青年が、いろいろな頼みごとを受けていった結果、不合格になるという物語がある。

彼は、「幸福でい続ける」という試験を受けていた。いい人であろうとして、様々な頼みごとをきいているうちに、背負わされるものが増えて、飛ぶことができなくなり、落第して、落伍者の町から永遠に出られなくなる。

フェミニストが、女性差別以外について、コストを割くというのは、鏡の中の鏡の試験と同じ轍を踏むことだと思っている。飛べるようになるためには、このようなくだらないコメントを超えていかなくてはならない。

それでも、目にすれば心が重くなる。そういう環境の中で、女性たちは声をあげているということを知ってほしい。何かしろというわけじゃなく、ただ、差別をするなと思う。わたしもほかの差別をしないように心がける。でも、それだけにする。お互いにそうしよう。罵倒に負けるななんてとても言えない。勝ち続けているはずの彼らはこんなにもみっともない。

それにわたしはいつも負けている。それでいいのだ。負けていて何が悪いのだろう。最初から、負けている。それが差別を受けているということなのだから。


三大悪男はいない

歴史を教えているとき、三大悪女について話していました。

そのときに「三大悪男はいない。それは、歴史を書いたのが男だから」という話をしました。

男視点の歴史では、自分の信じる女と違う行動をとるものを”女”と分けます。それを悪女と呼びます。

フェミニストをアホフェミと呼ぶのと同じことです。自分に都合の悪い行動をとるものは、普通の者ではないと区別する必要があるのです。

曹操のことを”悪男”と呼ぶ人はいません。
武則天はたしかに恐ろしいですが、自分の係累を殺して、敵対者を皆殺しにした男は数えきれないほどいます。

悪女に対する言葉として、”悪漢”をTwitterで提案されましたが、悪女が、貴族王族政治家から始まって、上から下まで使われる言葉なのに対して、悪漢は、野卑な男についてしか使われません。身分が低かったり、貧しかったり、教育のない男にしか使われないイメージですがどうでしょう。腕力以外のパワーに乏しいイメージです。曹操って”悪漢”ではないですよね?極悪非道で頭がいいから人気があるのだと思います。

歴史上極悪非道な男はたくさんいましたが、それを一言で表す言葉は、いまだありません。日本語は、特に男をののしるための言葉に乏しいのです。女性をののしる言葉はたくさんあります。そこが、言葉の非対称でもあり、歴史の非対称でもあります。女偏の漢字は、悪い感情を表すものが多く、男偏の漢字はそもそも存在しません。それは、女というものがイレギュラーであるため、特別に言葉を作っておこうという考えの総意ではないでしょうか。実際には、人間の半分は女なのですが。

このことが示唆しているのは、言葉や歴史の見方が男視点に偏っていることです。

 

 


自然の中のちんぽ

痴漢は”自然化”されて、人間の仕業だということが隠されています。

「仕方がない」と諦めるように促す行為が、痴漢を自然化して、人間の仕業だということを隠す行為なのです。

「あいつらは人間じゃない」という非難の言葉も同じです。人間だから、責任があるはずなのに、人間じゃない、となったら、責任も問えません。社会の成員でもないのなら、痴漢をはじめとする性暴力を社会の問題として考えることができなくなります。あいつらは人間じゃないという言葉は、「自分とは関係がないこと」といって、周囲の、社会としての責任放棄を正当化する言葉なのです。

本来ならば、断固として許さないという姿勢をあらわにする必要があります。

どこか、仕方がないこと、しょうがないこと、と社会全体が考えているから、性暴力者は「仕方がないこと」「よくあること」「たまたま自分だけが罰せられたこと」と考えるのです。

 

だから、自然としてのちんぽということについて考えてみたいと思います。

 

二項対立という考え方が昔ありました。

例えば、男と女をわける。論理的と感情を分ける。人工と自然を分ける。

この順番には意味があって、男は”論理的で人工的”、女は”感情的で自然に近い”。

前者は優れていて後者は劣っている。女には子宮があるから、子宮でモノを考える。女が怒れば子宮のせい(ヒステリー)だと病名までつく。女が精神病になると、「彼女は自分にペニスがないことを気に病んでいるからだ」と高名な医者が言う。これって、わたしの子供のころ大真面目に信じられていました。

今でも信じている人は多いようで、わたしのブログに「感情的」「気持ちだけで主張している」というコメントはよくつきます。感情的に、自分の気持ちを語ることの何が悪いのかさっぱりわからないのですが、彼らは、感情をあらわにすることはとにかく悪いことだと思っているようです。感情について「冷静に」語ることもできますし、激高しながら論理的に感情について説明することもできます。

感情的、という言葉を目にすると「我を忘れて支離滅裂なことを言う人」ということが連想的に思いつく人は、それ自体が「論理的」とは言い難いのですが、そこまで深く考えることをしないのでしょう。

小学生の時「女は自分にペニスがないことを気に病んで子供時代を送る」という文章を読んだ時、まだペニスを見たことがなく、ペニスという言葉も調べなければ知らなかったので、そのばかばかしさに呆れかえったものでした。こんなバカなことを論理的に語るなんて。最初にゴールを決めてから論理を組み立てても、正しい答えに行きつくわけがない。

それ以来、論理性に疑義的な気持ちが生まれました。道筋が正しいことは答えを保証しない。問いの正しさが、すべてなのだと。

よく、痴漢に対して「痴漢をどうにかするしかないのだから対策するしかない」という人がいます。

実際、子を持って驚いたことですが、今どきの子供は、スカートを素足ではいている子はほとんどいません。スカートの下には、必ずスパッツかズボン、タイツを履いています。変態の恐ろしさが周知され、子供の服装が変化したのです。

わたしは思うのです。

どうして、変態をなんとかしようとしないのだろうか、と。

「変態をどうすることもできない」と多くの人は言います。

それって、昔、誘拐を神隠しと言っていたのと何が違うのだろう?

どうにもできないことを、「神」「自然」の力の仕業だと覆い隠すことは、昔の生きる知恵だったとは思いますが、今、必要なことだろうか?

「ちんぽの加害は自然なことだから、どうすることもできない」ということでしょうか。「性欲は本能だから」とよく聞きますね。「性欲がなくなったら人間は亡びる。それでいいのか」と。

滅びればいいと思います。また、性加害の結果、人間が増えたとしても、それを育てるのは誰なんだろうか?人間は、生物の中でも最も保育のための年月がかかる生物なのに、射精して受精したら殖えると考える人は、果たして人間としての資格があるのだろうか。そして、ちんぽに独自の意思があり、コントロールできないという人は、自分の知性を放棄して、悔しくないのだろうかと思います。

本来、自分の欲をコントロールできない人は、社会の中で暮らせません。誰もがルールに則って暮らしているはずです。しかし、あらゆる場面で、男性の性欲に関しては、制御できなくても仕方がないというメタメッセージが発せられています。

わたしが子供のころ、道を歩いているだけで、変態が「いくら?」と声をかけてきました。体をいくらで売るのか?と聞いているわけです。そのころ、援助交際がセンセーショナルに報じられており、大人たちは、子供が自分から体を進んで売ると信じていたのです。「売る人間がいるから買うのだ」と大人たちは子供に責任を取らせようとしていました。わたしは、体を売るために道を歩いていません。でも、「売る人間がいるから、買う人間がいる。それは経済学的に正しいのだ」と大人は言っていました。売っていないのに。買うつもりでいる。報道を信じている。妄想と現実の差が分からなくなっている大人の男がそこかしこにいました。

 

大人に訴えましたが、一顧だにされませんでした。「魅力的だと思われたのでしょう。思われるうちが花だよ」と言われました。彼らも妄想と現実の差がつけられていなかったのです。

スカートを素足ではくと、変態に目を付けられるかもしれないから、下になにか穿いておこう、男性が向かいから歩いてきたら、すれ違いざまに何かされるかもしれないから身構えておこう、そう防衛するためには、

いつも変態のことが脳に張り付いたようになります。

「自衛をしろ」という人がいますが、自衛をするためにはあらゆる瞬間に「変態ならこうするだろうか」ということを考え、変態の行動を調べる必要があります。そうすると、脳に非常な負荷がかかります。性暴力に遭ったことのある人なら、常に加害された経験のことを思い出す状態です。それは、その負担がなければできたかもしれないあらゆる機会を失わせます。

(防衛のためにしていることを「加害者の視点を身に着けた被害者」と揶揄する人までいてめまいがしました)

 

最初に戻りますが、「男は理性的or論理的」なのに、ちんぽについては、それは適応外なのです。人工の代名詞であるはずなのに、男は、股間にぶら下がっているたった一つの臓器だけは、彼の自然を象徴させます。股間のものを息子と呼ぶ人もいます。自分とは違う人格を持っているのだ、という人もいます。

 

彼らは、ちんぽを自分とは別のものとみなし、ちんぽに関する自由を一生懸命求めます。それは、彼らが自分自身の中で自然を感じられる唯一の場所がちんぽだからなのでしょう。ちんぽは、ちんぽ自身の”自然”と、”女性という自然”とつながれるたった一つの臓器だから。

男が論理的で感情的ではない、という理屈と、性加害を行うほとんどの人間が男であるという現実は、本来成り立ちません。性加害の動機は、支配欲と加害欲だからです。しかし、それを両立させるためには、男は、自分とちんぽを切り離さなくてはなりません。そうしなくては、矛盾するからです。

社会は、男性によって牛耳られています。そして、女性は、それを維持するために、常に「劣ったもの」として欲されています。「優れている」はずの男が、「劣っている」はずの女を求めるのは一見矛盾のように思えます。

しかし、それは、現実には劣っているか、優れているかで二分し対立させることができないものを、無理やり対立されているから起きる矛盾です。

放火魔を誰もが憎めます。しかし、性加害者は見えなくさせられます。放火された人に「放火されたなんて知られると恥ずかしいから届けるのはやめたほうがいい」という人はいませんが、性加害された被害者に黙っておいたほうがいいという人はたくさんいます。被害者がいなかったのだから、加害もなかったのだというわけです。

被害を表ざたにする人に対してはこういいます。「隙があったのだ」と。

これはちんぽを”自然化”する行為です。また、ちんぽの持ち主の”人格”や”判断力”を無化する行為です。男が女を襲うのは自然なことだから、あきらめたほうがいい。自衛するしかないと。

被害に遭った女は”だから女は感情的でダメなんだ”(歴史的にも性虐待を訴えた女性の症状はヒステリーと呼ばれ、収容の理由になりました)、”証拠がない”とののしられます。隙を見せて誘ったのだろうと言われます。隙を見せることと誘うことは、まったくつながりがないのですが。

普段、女性は口をふさがれています。そして、「女は自分から言葉にすることができないのだから男が察してあげるのがやさしさ」という風につながって、女の隙はOKのしるし、と性加害視点の男独自の考えにつながっていきます。女を黙らせることと、性加害の正当化は、つながっているのです。だから、性加害視点の男は、女を黙らせるのに必死なのです。

逆に言えば、女を黙らせようとする男は、加害者に利することをしています。それは、加害者と同じ立場です。

 

女は”自然”で”劣っている”。

男は、”人工的”で”理性的”である。

しかし、男のちんぽは、理性では制御できない。性加害は”自然な”ことだ。

ここにはねじれがあります。女性に性加害をする男は、報酬として自らを差し出さない女を恨んでいるので、その恨みを晴らす手段として性加害を行います。

そして、社会は、そのことを”自然”といって許すのです。


男にはちんぽがある

男にはちんぽがある。

ありていにいえば、ちんぽがあるから、男は支配階級であり、そのため全能感に浸る。それを揺るがすものは許さないばかりか、揺るがすものを傷つけ支配しなおすことで、さらなる全能感に浸るのである。

男が男であると最初に認められるのは、誕生の時点である。そのとき、取り上げた医師によって、赤ん坊は男になる。彼が男であると認識されたのは、股の間になる一つの臓器によってである。その臓器は、長じるにつれ、社会的なシンボルに成長する。

男であるがゆえに優遇される。男であることを保証するのはちんぽである。彼らにとって、ちんぽがあるかどうかは、仲間として認められるかどうか、とても重要なことなのだ。

だから、男は、いつでも「俺にはちんぽがある」ということを誇示したい。

彼らが社会的に優遇されているたった一つの根拠が、「ちんぽ」にあることを彼らはよく知っている。

彼らは、本当のところ、女性がどんなに悲惨な人生を歩んでいるのかどこかで知っている。だから、絶対に、女と思われないようにふるまう。それがたとえ、ネットの世界であっても。

彼らが女としてふるまう時もある。いわゆるネカマは、彼らがちんぽを誇示していることと矛盾しているように思える。しかし、それは、彼が男である現実の人格と、直結しない場であるときに限られる。体と人格が同一の場で、彼がもし「女のよう」だとみなされると、彼はそのコミュニティで最下層になる。

 

 

彼らは、ちんぽによって「全能感」「支配階級」を感じているので、それがもろいことも知っている。

それを補強するために、性暴力や、常に公共の場に提示されるポルノを必要とする。

彼らは、女を憎みながら、彼が支配階級に居続けるためのいけにえとして、女を必要としている。彼にもしモノにした女がいなければ、彼は不完全な男としてみなされる。彼はそのとき女を憎む。そうした状況に陥るのは、「モノにならない、拒絶する女が悪い」と思い込む。彼らは支配階級に属したいので、支配階級に反抗することは思いもよらないのだ。

男が男であるためには、ちんぽがあるだけでは不十分である。ちんぽを入れる容器としての女が必要なのだ。

男は、女を劣ったものとして規定してきた。それは、学問の世界であっても、思想の世界であっても、家庭生活であっても、経済世界であっても、どこであってもだ。

それは隅々にしみわたっている。

性犯罪は、女を蔑視し、憎むことで発生している。彼らは自分の力が通用するのか確かめるために、女の体を使い捨てる。女に人格があって、それが傷つくことで、どれだけ苦しむのか、考えもしないのは、彼らにとって、人間とは男のみを示すからである。

 


家の中の性差別・暴力

「妊娠出産のために仕事をやめ、知り合いが一人もいない場所に引っ越し。家事をしてほしいと夫に頼んだら、自分と同じだけ稼げるのかと言われた。捨ててきたのは、自分の世界のすべてだった。その痛みを愛する人にもわかってもらえない苦しみ」というのは、定期的にツイッターでよく見る。

家の中での差別構造について、ここで書いたが、「女性の賃金は安い。だから、仕事を辞めさせる。そして、家事をさせ、逃げられない状況で、夫が妻にモラハラをする」というループが生じる。

女の賃金が安いのは、「夫が外で稼ぐのだから女性は補助的な賃金で構わない」という社会通念、社会的慣習のためだ。

しかし昔から、単身者の女性はたくさんいた。単身の女性であっても、リストラの時に「彼には家庭があるから」といって、首を切られてきた。

彼女にも生活があったのに、彼女の生活は、「どうでもいいもの」として、扱われてきた。

裁判の時に、社会通念、社会的慣習は、法律の次に重い根拠となる。

社会的通念のために、生活が苦しいのに、社会的通念にそれを正当化される状況だ。

秩序を乱すことを嫌う人が多いが、秩序が人を苦しめているとき、その秩序は壊すべきだ。それを公民権運動という。フェミニズムは、公民権運動の一つなのだ。

「賃金が安いから、家事労働を長時間しろ」と夫が言い、「家庭労働を長時間するのだから、賃金を安くする」と社会が言う。

その中で、女性は一人で生きることが難しかった。社会運動をするにしても、社会運動でさえ、補助的な役割を強いられ、また、運動体でも性暴力に遭った。声をあげようとしても「社会運動をつぶす気か」と恫喝される。

社会運動からも排除され、社会のメインにもなれないできたのが女である。

経済的に圧迫されると、「モノを言うこと」すら、難しい。

家庭内の「誰に食わせてもらっているのだ」に象徴されるモラルハラスメントは、社会における女性差別を利用している。利用して、それを強化している。

前述した「モラハラ」は、女性蔑視を基にした、女性差別の再生産なのだ。

女性が一人で生きることが難しい状況、女性が子供を産みたいと願えば、結婚し、仕事をあきらめざるを得ない状況を利用することで、1人の人間を苛め抜くことができる。それは、男の万能感を満たす。

「女をモノにする」という言葉は「女を物にする」という意味だと、最近思い知った。物にすることで、男は「個」を承認されたと思う。何に承認されたかはわからないまま、彼らは承認欲求を満たし、満足する。彼らは深く考えない。

彼らは彼らの内なる社会に「男は女をモノにすることで一人前になる」という基準を持っている。一人の人間を自分の一存で生死を握れる。それを常に確認する行為が、「モラルハラスメント」として現れる。

そして彼らはどんどん狂暴になっていく。

自分を満たすためには、前よりももっとひどいことをしても、女が自分についてくるということを確認するしかないからだ。だから、すべてのハラスメントは激化する。

男が男であることを示すたった一つの根拠は、股の間にぶら下がっている一つの臓器である。医学的にも社会的にも、股の間にぶら下がっている臓器があるかどうかで、彼が男性かそうじゃないかを判断する。男性器というのは社会的なシンボルなのだ。

その臓器が彼らの力の源である。彼らが「男である」ただそれだけのことで、支配する側になる。だから、彼らは股の間のものを使いたがる。努力に応じて、女をモノにして使うことができなければ、彼らは女を恨みにくしむ。彼らは、女を報酬として受け取ることを権利だと思っている。

だから、彼らは女にどんなこともできる。

 

参考

あのね〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

女っていうのはね!!!!!

男のためのステータスとか!!!!!

賞品とかじゃね〜〜〜〜〜んだわ!!!!

努力に応じて与えられるべき報酬として女を見るのはええかげんにせぇ!!!!!

こちとら人格があるんじゃ!!!!!

どんだけその股座の棒と玉に支配されとんねん!!!!!!