フェミニズムは男のものだった

男並みの平等を勝ち取り、男並みの競争に勝ち残り、男並みの力を手に入れた人々が語るフェミニズムは、もうとうに女のものではなかった。男のものだった。フェミニズムは男のもの。

それを勘違いしていた。わたしたちは、素朴に、女性蔑視に立ち向かい、その根拠を本や、「ツイフェミ」同士の助け合いによって学んできた。わたしたちは、時に反目し、激しく争い、憎みあった。でも、自分たちは女性のために戦っていると信じていたのは同じだろう。

けれど、「アカフェミ」は、メディアで「ツイフェミ」を名指しで批判し、フェミニズムの後退だといった。

情けない、信じられない、失望した、それがわたしの気持ち。

わたしは学者を、崇高な目的の下に真実を解き明かそうとしている人たちだと思っていた。けれど、彼らは、村社会で覇権を争う政治にうつつを抜かしている。

グロテスクな存在であるフェミニズム学者を許すアカデミック

「男のフェミニズム学者」ほど、矛盾に満ちた存在はないだろう。女が苦しんでいるところを上から眺めて、下でのたうっている女に、「差別とはこういうものなんですよ」とわざわざ教えてくださる。もし、彼らが、大学を去り、学ばなかったら、そのポストは一つ空いていたはずで、それは、女性のものであるべきだった。

それを恥じとも思わず居座り、生活のためなのか権力のためなのかわからないが、クィアだとかジェンダー学だとか、そういうものをこねくり回して、わたしの生活には何ら関係のないことばかり、聞いたこともない言葉で話す。説明は、「仕事だから」無償ではしないのだろう。そして、「本を読んで勉強すればフェミニズムが分かる」「本を読まないとダメだ」という。

勉強出来たらフェミニズムだって必要ない、苦労もない

本を読むには学力がいる。暇がいる。金が要る。金がないからフェミニズムが必要なのだ。

あほなのか。

金がない、暇がない、健康がない、本を読む土壌が育っていない、近くに本屋がない、図書館にもそろってない、大学の図書館は敷居が高い。専門書を読む訓練をしていない。何を読めばいいのかわからない。探す能力がない。何冊も読めない。一冊読んだとしても、それがどういう立ち位置の本か、調べることもできない。相対化できるまで冊数を読めない。

読めない理由はたくさんある。

それがもとで私たちは、フェミニズムを必要としていた。しかし、彼らは本を読め、勉強しろとたやすく残酷に言って私たちの魂を粉々に打ち砕いた。

ああ、勉強しないからわたしはダメなんだろう。

愚かなんだろう。

愚かだから侮辱されるのだろう。

私たちは、そのように思って、たくさんのことをあきらめていた。そのあきらめこそが、私たちにフェミニズムが必要な理由だったのに。フェミニズムにあこがれて、疲れて、自分を奮い立たせて、何が間違っているかもわからずに、右往左往しながら、どこかに正しいことがあるのだと信じていた。

フェミニズムを必要としている理由を、その理由をもって、わたしたちは、「ツイフェミ」と侮られた。ならばわたしは、彼らをアカフェミと呼ぶ。

アカフェミは、恥を知らない。上から下りものとして授けられるフェミニズムに何の価値があるだろう。ずっと、肉の塊として扱われた歴史から人間になるために戦った歴史が、学者様から与えられたことだろうか。

わたしは、女性差別だという言葉を、使うのはあきらめた。フェミニズムは、男のものだからだ。

私はこう思っていた。女性だから侮られていて、不利益なな取り扱いを受けている、それは差別だ。でも、私はフェミニストではないのだと何度も言われたから、差別だとは言えない。このことを差別だといえることが、私にとって、「フェミニスト」であるための条件だからだ。

だから、その不利益な取扱いと戦う言葉をずっと求めていた。

けれど、私たちは、愚かだということにされたから、アカフェミのありがたい言葉を拝聴しなくてはならない。愚かなものは、試行錯誤しながら自分たちの言葉を探すことが許されていないのだ。

つまり、上からの言葉を下の者として、受け止めなくてはならない、その立場自体が、「不利益な取り扱い」の一部なのだ。私たちは、アカフェミから不利益な取り扱いをされている。お前たちは愚かだと、「勉強しろ」というメッセージを通して伝えられている。

いいや、私たちは愚かではない。私たちは、アカフェミの言葉を受け止める義理はない。彼らには何の権利もない。私たちには私たちの生活があり、自分たちのために語るのだ。

フェミニズムという夢

私たちは愚かではない。健やかに、自分の現状に憤って、息をするために、フェミニズムという夢を見た。その夢が愚かだった。アカフェミは、ありがたいことに、私に夢をもう見せない。

男のフェミニズム学者がいる限り、ジェンダーが性別を決めるというアカデミシャンがいる限り、生活者という言葉を一笑に付した自称学者、そういうものを、私は、信じない。

権威というものが、どんなふうに働くのか、自省する能力もなく「私たちにはそんな権力はないですよ」と言ってのけるトランス差別に対する声明を出した人々。

権力がなければ、あなたがたになびく人がこんなにもはいなかっただろう。トランス女性の範囲が何か知らないまま署名する人々を導くことはできなかっただろう。唯々諾々と従ったのは、権威だからだ。彼らがどこまでトランス女性の範囲が広いのか知っていたのか、私は疑問だ。

学者には人を説得するための肩書が厳然として存在する。おぼこいのか、とぼけているのか、それに気づかないふりがうまい。

男のフェミニズム学者が、恥にのたうち回ることもなく職を辞すこともない、それを受け入れて仲良くできる人々に期待したのが間違いだった。

女性差別がどんなものなのか、弱い立場に追いやられるということ、弱者として作り替えられたその事実を、侮辱を味わっているまさにそのときに、改めて教えることができると信じていた人たちよ。教えることができると信じていること自体も、侮辱なのだけれど。

私がこう書いていることも、アカフェミの人々は、きっと読みはしないだろう。私は、そうじゃない人々に、フェミニズムに一つの光を見出した人々に伝えたいことがある。

私たちは、生活をしている。生活の中に不自由なことや不利益なこと、屈辱、侮辱がたくさんあって、それと戦い、息をするためのものが必要だった。

アカフェミは、ただの一つのフェミニズムに過ぎない。アカフェミたちはずっと反目しあって、足を引っ張りあっていたから、成果が上がっていない。

派閥がある。保守的なフェミニズムの潮流がある。新自由主義的なフェミニズムがある。いろいろなフェミニズムがある。口当たりがよくて毒の入った、女を殺す思想もある。

私たちはツイフェミをやろう。愚かなままで笑われながら、苦い泥水をすすろう。

象牙の塔に住み、高みから「私は平気、かまわない」とのたまう自己中心的な人たちに向けて、中指を立てよう。お前がかまわなくても、私たちには問題だから。

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