昨日のエントリを書いたらいろいろと反響があった。
今、療育を受けている子どもたちにとっての二次障害は、わたしのイメージの二次障害と違っていて、「特性による不調」がそのときどきにでて負担になる、ということをイメージしている人も多かったらしい。
わたしの二次障害のイメージは適応障害とか、精神疾患が多かったので、そこはやっぱり意外だった。そして、今療育を受けられる人がうらやましいと思った。
でも、療育を受けることにも問題があって、守られることが多くて、「できないことをできないままでいい」という風になってしまう一面もあるようだ、ということを知った。援助職の人の思想や、やる気、能力に左右されてしまうのだということを知った。
これは、これで大変だ。
療育を早くから受けられる人をただただうらやましかったけれど、これは問題だと思う。
わたしは結果的に二次障害になってしまったけれど、やりたいことは何でもでき、やりたくないことも一応一通りやって(その結果二次障害になったけれど)、でも今ではある程度バランスも良くなった。
療育を受けること、世の中に合わせること、っていうのは、マジョリティに合わせて自分を矯正する、ということにも通じてしまう。
だから、抵抗もある。
だけど、できることが増える喜び、っていうのもあるのだった。
イメージとしては、普段できるようになったときには、やはり嬉しい。その嬉しいときには、マジョリティに合わせるために無理をして自分を矯正した、という風には思わない。
わたしは物理的に刺激に弱い。だから、疲れやすい。不調も出やすい。これはリスクだ。
人の考えていることを予想しにくい。だから、適応障害になりやすい。これはリスクだ。
だから、リスクマネージメントが必要だ、と思っている。
無理をする、っていうのは、リスクマネージメントができておらず、その数日後の生活のクオリティが落ちてしまうことにつながる。これを二次障害としてイメージする人もいるようだ。
それがひどくなれば、人として生活するのが困難なくらいになる。何年も。数十年も。これを二次障害のイメージとして思っていた。わたしの場合は。
わたしにはたしかにできないことがある。家事ができない。人ごみに入れない。
でも、例えば、家事ができないのは困るけれど、人ごみに入れないことはあまり困らない。
家事ができないままでいることは生活ができない、ということに結びつくけれど、人ごみに入れないことは、他の人と別行動をすれば良いことだから、あまり大切な話じゃなくて、これは無理しなくて良い。
そして、障害を持っているからと言って家事ができない、ってことは困る。
だから、わたしはどうしているか、というとヘルパーさんを呼んでいる。
そして、日々の家事のやり方を教わっている。それと同時に、今できていない家事を補ってもらっている。
わたしは自分ができない、ってことに対して、優先順位をつけている。家事は優先順位が高く、克服しないといけない問題だ。障害があるからと言って完全に免罪されないし、免罪されなかろうとわたしは生活に向き合わないと行けない。
人ごみに入れない、というのは優先順位が低い。人ごみに入らないように生活を設計すれば良いからだ。人ごみに入るスキル、っていうのは、必要がない。スーパーマーケットでの買い物ができる程度には、必要だけど、これは工夫でなんとかなっている。
障害があるから、できなくていい、ってことはあまりないと思っている。
それを習得するのが他の人よりもたいへんだから、といっても、その後、生きていくのは自分で、困るのも自分だから、そこから遠ざけられすぎる、ってのは、やっぱり、自分が困ることだ。不便でもある。できないこと自体がストレスにもなる。
この前、人前で発表する機会があったのだけど、これはわたしは比較的平気だった。おそらく定型発達であろう同僚はつらかった、と言っていた。でも、お互い何とかなった。
すごく、うまいレベルにならなくても、なんとかこなせるレベルになれば良い、ということがまずわかった。そして、定型発達の人がなにもかもできて、楽をしている、というのも妄想だと言うことがわかった。
定型発達の人にももちろんできることとできないことがある。
人生は長いので、ゆっくり発達していけば良い。
今できないことも、ゆっくりと習得していけば良い。
障害があるからと言って、習得できないままでいると、その後の人生の幅を狭めてしまう。
急いで習得しようとすれば壊れてしまうことでも、自分のペースで習得すれば、壊れなくて済むことはたくさんある。
今の診断済みの子どもがうらやましいのは、ペース配分を考慮されていることだ。守られているということだ。
でもそこには弊害があって、障害があるからできないままで良いという考えのサポーターもいるということをツイッターのツイートで読んで驚いた。
できることは多い方が良い。その方が選択肢が広くなる。
わたしは未診断だったから、いらない重篤な二次障害をたくさん持っている。不眠、適応障害、パニック障害、気分障害、鬱、などなどなど。過食もある。
でもなんとか生きている。サポートは受けているけれど、六割くらいは自立している。
それは、なんでもチャレンジして来たからだと思っている。
わたしが運が良かったのは一番目のおかあさんがわたしに求めていたことが「勉強」「部活」だけだったこと。
どちらも、わたしの適性内で対応できることだった。そして、勉強はわたしの視野を広げ、自分で自分を療育する力を育てた。
わたしは未診断のときも、スモールステップで、ゆっくりとでも、自分が習得しないといけないことを習得し続けて来た。工夫をしていた。勉強は、その習得の方法を通して、他のことを習得するための手順を覚えることに役立つ。そして、情報収集能力も育てる。
わたしは結局、勉強で身を立てて、それで生活している。本当に特性にあわせた職場を選んだものだと思う。これがわたしの生きる力だ。チャレンジして良かったと思う。
これが、温室のように守る、という方針の療育を受けすぎていたら、難しかったと思う。
適度にチャレンジさせる、という方針の療育だったら、就業がもっとスムーズにいって、重篤な二次障害にならなかった、とも思う。
どちらも、妄想でしかないけれど、でも、療育を受けなかった今のわたしは、思い返すと、自分を療育し続けて来たんだなあと思う。
忘れてはいけないのは、発達障害ではない人にも、できないことはあり、ダメな部分もたくさんある、ということ。職場にもいる。空気読め、といってくるものの、本人が読めていない例などもたくさんある。だから、発達障害があるからと言って、卑屈になる必要もなく、冷静に考えると、偏りの方向が、ありがちなのか、一割の方に入っているのか、の違いなのだ、と思う。
勉強をすること、考える力を持つことには汎用性が高く、応用性も高い。
わたしは自分が診断されてから、自分を自ら療育し続けて来た。本を読んで調べた。自分で福祉が受けられることも調べて、行政に申請した。
その結果、診断前よりもできることが増えた。生活が充実した。できることが増えた。卑屈にならなくなった。わたしには障害があるから、他の人よりも工夫が必要なんだ、という風に解釈した。絶望はしなかった。わたしは、すでに、二次障害があって、二次障害の方が、わたしに取ってはたいへんだったから。
それで、わたしは今までなぜかできないと悩み苦しんで来たことから、自分を遠ざけず、チャレンジしてきた。結果が最近出て来た。なぜかできなかったことができるようになって来た。自分に対して、厳しくしすぎず、でも、逃げなかった。
その具体的なやり方を調査して実践したのは、普段から勉強が得意だったからだと思う。
本を読んで、自分にとって必要なやり方が何か、ペースはどのくらいか、を調べて来て自分の上限未満で挑戦し続けて来たからだと思う。
仕事さえできれば、あまり人生は困らない。お金があれば生活面は、比較的援助を得やすいからだ。仕事は援助を得られにくい。
仕事には人間関係が含まれる。それがわたしには苦手だった。
だから、人間関係が自分に合っている職場に入った。入る前にそんなことは輪から買ったけれど。
この前、同僚と先輩とで飲み会をしたが、ほとんど、みんな手酌で飲んでいた。自分のことを自分でやりたい人々なのだなと思った。そういう職場だと働きやすい。
わたしは自分の勉強ができる能力を生かして仕事をしている。だから、自分のできることを伸ばして、できないことはついでに伸びる、ということを繰り返せば就労は難しいけれど不可能ではないと思う。
わたしは未診断の時間が長かったし、一度目の職場はあっさりやめてしまったけれど、転職は新卒の就職活動よりも非常に簡単だったから、今の仕事につけた。
そして、新しく努力してスキルを身につけなくても、今までの人生で頑張って来たことがそのまま武器になって、仕事に就けた。
発達障害の人が仕事につくことは難しいらしい。そして、困り感もそれぞれ違う。
だから、一概には言えないし、わたしがうまくいったからと言って、他の人がうまくいくとは限らないけれど、なにか、頑張り続けていたら、うまくはまれば就労できると思う。
わたしが就労できたのは、勉強を頑張り続けていたから。
だから、好きなことを頑張って伸ばして良かった。勉強そのものが就労に役立つなんて思ったこともなかったけれど。
でも勉強は、とても応用範囲が広いから、勉強をすることを通して、いろんなことができるようになるとも思う。
自分で自分を育てる能力は勉強を頑張って来たおかげだし、理解力があって、応用しやすい、のもそのせいだと思っている。
わたしは男の人の声も大きい音もダメだけれど、子ども相手の塾は静かだし男の人と接する機会もほとんどない。人に気を使うのは子どもに対してだけだ。そういう職場もある。正社員にこだわれば難しいけれど。
わたしは今後もチャレンジを続けるし、自分で自分を療育し続ける。
そして、できることを増やしたい。
自分を矯正する、ってことなのかもしれないし、マジョリティに合わせるってことなのかもしれないけれど、それはともかくとして、やってみたいことを封じる必要はないから、人生も長いことだし、のんびりやっていきたい。