生き延びるための工夫がもういらなくなったのに、亡霊がわたしを傷つけるの。
その工夫自体が。
ずっと親の言うことを聞いて生きてきた人は自分と他人の境界線が曖昧すぎるのである。人の言うことを聞くのが当たり前で、それがどのくらい自分に負担がかかるのか感覚としてわからないので、限界まで誰かに自分を捧げてしまうのである。
— 文脈 (@iminoyamai) 2015, 8月 14
わたしを押さえつけていたものが、わたしの被害を分析させないように、わたしを鈍くして来た。
だから、わたしはぼんやりすることが苦手なままだ。
怒られたり、なにをされたりするかわからないから、「怒られにくい何か」をして時間をやり過ごしていた。
本を読むことだったり勉強をすることだったりして、わたしは緊張しながら生きていた。
わたしがわたしだということに気づくと、世話する側は困った。世話をするのが楽しいのだから。それも暇つぶしだったのだろう。
わたしは対人関係での正解がわからないから、オブジェクトや痛みに集中する。それが執着と呼ばれたりもするのだ。
安心を自分なりに求めると「執着」と言われたりもする。
わたしを押さえつけて来た人はたぶんおかあさんで、おかあさんは暇だったからわたしを傷つけた。
わたしが考えたことを言うと怒るのはそういうわけだったのだろう。
家は安心するところじゃなかったから、勉強や読書、アトピーを引っ掻くこと、抜髪で時間を稼いでいた。
いつも苦痛があった。
何もしないができない。怖い。ぼんやりすることが怖い。正解じゃなかったら怒鳴られるから。
今でも誰もいない家なのに、じっとしていることを怒られるような気がする。
わたしはすごく疲れやすくて、疲れたら眠れば良いのに、ぎりぎりまで起きていないと危険な気がして、過食したり自傷したりしてしまう。