わたしは、確かに双極性障害がある。
でも、だからといって、文章を書くペースや、内容について、「双極性の人が書くものだから」と色眼鏡で見られることが気に入らない。
端的に言って差別だ。
双極性は、単に、気分の上下があるだけなので、理屈には影響しない。
「統合失調症の人があることないことを書いていた時と似ている。そういう風に見える」と言われて、わたしは「統合失調ではないです」というのが精いっぱいだった。
今だったら、お前は医者か、と言える。
わたしは、一回に書く時間は十五分くらいなので、いくらペースが速いとしても、一日中書いているわけじゃない。
自分の能力の低さと比べて、一緒にされては困る。
わたしは能力があるから、文章を書くなんて簡単だ。
そいつにとっては難しいことなんだろうし、簡単に欠ける人がいるという想像をすることもできないほど、想像力が貧困なんだろう。
統合失調症だと思ったのも、その人が勝手に思っただけだったから、それも否定すればよかった。
でも、瞬間的に、会っている人に、そこまでは言えなかった。今後の課題としたい。
わたしが荒れるのは、誰かが傷つけに来た時だ。
傷ついた、という部分を見ないで、わたしが「荒れている」ところを見て、「それはやめたほうがいい」というやつはみんな地獄に落ちればいい。
心配だったら、手を貸すとか、話を聞くとか、見て見ぬふりをするとか、いろいろな選択肢がある。
「定型」「一般」の人は思いやりが足りない。そういう風に思ってしまう。
思いやりがある定型の人もいるだろうけれど、「病気」だと決めつけて、わたしの言動を縛ろうとするのは、たいてい定型の人だ。だから、わたしは定型の人に偏見がある。
狂っているという言葉を、精神科にかかっている人に対して使う人が多いけれど、精神科に通っている人は、自分自身で困っていることを自覚し、それを改善しようと頑張っている。
でも、「狂っている」自覚のない人は自分のことを普通だと思っている。そういう人が嫌なことをしてくる。
躁状態なんじゃないの?と言われてもわたしにはどうすることもできない。そういう病気だから。
病気を支えてくれる人が言うならわかる。でも、他人に言われると腹が立つ。口だけ出して、手を出さないのは人間の下の下だ。
躁状態だからなんだというのだ。ちなみに今は、躁状態じゃない。そう状態のときには、病気は違う表現をして、わたしを苦しめる。
今、わたしを苦しめているのは、病気じゃなくて、心のない人間だ。
病気地震で苦しい場合もある。でも、病気なんだね、と言ってくる、思いやりのない人にかかわるほうがずっと苦しい。
双極性だからと言って、わたしの言っていることの内容が変わるわけじゃないのに、あたかも、信頼性が失われている、虚実が混じっているんじゃないかと言ってくる人には読解力が足りない。足りないけれど、「普通」の人は、自分を顧みずに、他人に「おかしいんじゃないの」という。
おかしいのは自分なのに、それを認めたくない人は「狂っている」。
自分がおかしいかどうか、わたしは自問自答している。
自問自答しないで、自分は正しいと言ってくる人は信頼できない。会いたくない。関わりたくない。
わかってくれる人だけで十分だ。
一人の人を切ると、そのエネルギーがほかに向かって、新しい人とである契機になる。
だから、わたしは我慢しないで、どんどん人を切り捨てる。