恋人や、セックスパートナーや、パートナーは、パーソナルスペースに入ることを許された人である。
もちろん、入って良いときもあるし、だめなときもある。
その違いは相手の意思だ。
それを尊重できない人は一生涯パーソナルスペースに入ることを許されないか、無理やり入るかのどちらかである。後者は暴力である。
男性にも女性にも性欲のある人とない人がいる。
男性でもなく女性でもない人にも性欲がある人とない人がいる。
性欲のあるなしは、相手によって、出てきたり、引っ込んだりする。
その見極めはどうするのか、というと、対話である。
対話して、許可をとって、相手の望みを叶えるのだ。
自分の望みは伝えるところまで。
ここで問題なのは相手の望みを無視することである。
自分の望みを隠蔽することである。
そこには対話がない。
したがってパーソナルスペースにお互い入ることができない。
無理をしたら暴力になる。
昔わたしは、脅迫されてセックスした。
心の傷になった。
周りには付き合っていると思われて関係は継続し、誰にも助けを求められなった。
その後、性欲を肯定的にとらえられるようになった。
ゆきずりの男とセックスした。
対話と同意があったので、心の傷にならなかった。
彼はわたしの欲望を尊重してくれた。
わたしもできる限り尊重した。
二度と会わなかったけれど。
楽しかった。
良い人間もいるのだと思った。
わたしの回復の過程は貞淑じゃない。
でも生き延びるために、他人を信用するために必要だった。
綺麗に生きられれば、それが良いのかもしれない。
でも、今わたしは自分のしてきた工夫や対話の努力を愛してる。
女に性欲があることを認めるのが難しいなんてしらなかった。
だから、男たちはわたしをもののようにあつかったのか、と今日知った。
もののように、扱うことで、癒されること。
免罪されるなにか。
性を悪いものとして思う人が女をものとして扱うことでようやく性の主体になれること。
簒奪。
女をもの扱いして、主体になる、それは女の意思や主体を簒奪して、自分だけが癒される行為だ。
人と人のからだの暖かさは簒奪から遠いものであってほしい。
簒奪から遠いエントリをリンクして和らげたい気持ち。
女の恋人の性欲や主体を認識してから言葉がわかるようになった方の話